(5)


 そこから先のことに関して僕は語るべき言葉を多く持たない。

 語りようのない凄まじい光景を目の当たりにさせられたからだ。


「退避して下さい!」

 その怒声は発せられた瞬間から、佐々木女子の行動は開始された。僕をセダンへと放り込むと急発進で車を現場から走らせた。

 200メートルほどだろうか。彼女の的確すぎる判断は、僕に思考の暇すら与えなかった。気づいたら車は走っていて、気づいたら安全圏へと退避していたのだ。


 僕の目に映ったのは、溶けていく現実の光景。塗り替えられていく現実の風景。おそらく戸部某さんという対象の心象風景だろう。ヴァリアント化した連中は、人間を辞める代わりに現実を超越した力を得られるのだ。


 真っ赤な月と紫色の空。閑静な住宅街は融解し、北欧の森の中に建立されたSF的な荒廃した都市にへと現実は書き換えられた。溶けていくエントリー333から飛び出した3つの輝き。一つは人間を辞めたばかりの戸部某さんだろう。


 そして残りの二つは、姫路綾子と東雲夕張。


 人間を辞めることによって空すら飛べるようになった戸部某さんを追いかけて、彼女たち二人も深い紫の空へと飛翔していった。三者三様にオーラとしか呼びようのない光をまとっており、その姿を確認した瞬間、僕は目に映る全てを理解することを諦めた。

 魔法陣のようなものが中空に描かれ、そこからド派手な光線が飛び交い始めた。その辺りで思考が一周したのだろう。妙に落ち着き始めた僕がいた。下手な映画の数倍も迫力のある戦闘シーンを堪能しようかという余裕さえ生まれていた。

 けれど、不意にそういうファンタジックな世界が途絶え、閑静な住宅街が僕の前へと戻ってきた。目の前には半球状の火星のようなドームが存在している。あの中に僕はいたのだろう。

 半径200メートルほどの巨大な半球。ヴァリアント化によって生み出されたファンタジーの世界。結界のように閉じた世界。現実を超越した力、というものを僕は体感した。それがどういうものであるかを肌身で思い知らされた。


 あの中では未だに超現実的な現象が起こされているのだろう。あの中で二人の少女は、僕らの世界を守るために戦っている最中なのだろう。今の僕はそこから完全に切り離されていた。何もかもが僕の見知った現実へと帰納されたのだ。


「申し訳ありません。当初の予定よりもヴァリアント化のシークエンスが加速しました。現場を監査した後、即座に退避するべきでした。私の失態です」

 とても申し訳なさそうに僕へと佐々木女子は謝罪の言葉を述べてくる。彼女にとって、先ほどの特殊な出来事を僕に体験させたことは、重大なミスであるらしい。こちらとしては何がそこまで問題なのか解らず、どうにも首を傾げるしかない。

「いや、僕としてはそれほど……」

「これから一週間程度でしょうか。個人差はありますが、一週間前後、宮間監査官は悪夢に魘されることが予想されます。自分の中にある現実的な認識――足元のようなものが溶けていく夢を何度も見ることが予想されます。

 今週中に3つのセミナーと、金曜日にカウンセリングを予約しておきますね。そこで必要なアクティビティが処方箋として提示されると思いますので、是非とも週末はそちらでリフレッシュするようお願いします」


 矢継ぎ早にセミナーとカウンセリングの予約を始める彼女。僕は彼女の言葉を理解するまで数秒のラグが生じ、「おいおい、ちょっと待ってくれ」と告げたときには、既に僕のスケジュールにセミナーとカウンセリングが押し込まれた後だった。

「なんだか問題が生じたらしいけど、すまない。僕の理解が追いつかないようだ。どんな問題が生じたんだ?」


 転属早々、あれこれと一度に起こりすぎて、僕ほどの人間でも状況の把握に手間取っている。そもそもレリーフ部隊の情報が、QLA内部においても異なるセクションの人員には何も知らされていないのが悪いのだ。


 事前にマニュアルを渡されていたならば、僕のことだ。テンプレ通りに全てをスマートに熟していたこと間違いないのだが、いかんせんアドリブに弱い人間である。説明もなく進展していく状況の変化に処理能力が限界を迎えていた。


「先ほど宮間監査官は現実境界線の融解を体験しました。現実境界線というのは、そうですね。この世界を現実として保たせている枠組みだと思って下さい」

「形而上学的な認識論の話をしているのかな?」

「そのように理解してくださると助かります。私たち人間は集団によって現実を現実だと認識することによって、現実というものを固着化させます。集団として同じ現実を共用化します。それによって現実というものが安定するのですが、そうやって形勢された現実の枠組みを保たせる力を現実境界線と我々は読んでいます」

「初めて聞く言葉だ。たぶん適当に決められた名詞だな。センスがない」

「大災害後の混乱の中で生まれた言葉です。そして、定義は未だに曖昧です。よって私の説明も非常に抽象的にならざるを得ないのですが、ご了承下さい」


 なんだか面倒くさい話になりそうな雰囲気を感じた。ともかく現実境界線=現実を現実たらしめるもの、程度の認識でかまわないだろう。別に博士号を取るわけでもないし。


「僕が……その、現実境界線の融解を経験したことに何の問題があるんだ」

「宮間監査官は先ほど現実の融解を経験しました。これは、共同体として同一的な現実認識を持つことにより安定化している個人が損傷したのと同意義です。つまり今まで普遍的に所属していた現実から追い出されたということです」

「細かな説明は必要ない。要点だけをまとめてくれ」

「……解りました。精神的に過度なストレスを宮間監査官は受けました。このまま放置するとヴァリアント化の恐れがあります。感染するんです、この症状は。個人の中に潜む現実とは異なる世界の存在を体感することにより――」

「解った。つまり僕はヤバいストレスを感じたはずだから、セラピーやカウンセリングが必要だ。そして週末にアクティビティを利用してリフレッシュしろ。こういうことだろ」

「…………まぁ、そういうことなんですが」

 どうにも不服そうな顔を佐々木女子は浮かべていた。僕が彼女の説明を遮ったことに、不満を感じているのは間違いなかった。彼女はあれこれと説明するのが好きなのかもしれない。


 クールでスマートな雰囲気のわりに、思っていることが顔へと出るタイプらしい。ちょっと膨らませた頬が少しチャーミングに思えた。突いたら彼女は怒るだろうか。そういえばバッファローゲームという上品なスキンシップが世の中には存在して……げふんげふん。

 話題の傾向がシリアスになるほど、しょうもないネタに思いを馳せてしまうのは僕だけだろうか。僕は今、スーツ姿の彼女の胸元のラインに視線を向けていた。おっぱいという単語で頭がいっぱいなのだが、まぁ、それはともかくとして。


「現場には僕ら以外にもスタッフがいたはずだ。彼女たちは大丈夫なのか?」

 乳談義を始めるわけにもいかない僕は、シビアな現実の話を口にする。現実という言葉が先程から乱用されており、その言葉自体に現実感がなくなってきたのだが、他に言葉が見当たらない。

 どうやら僕らの言語体系は、この現実という言葉に強く依存しているようだった。特に大災害後の僕らの世界にとって、この言葉は大きな意味を成しているだろう。


「あの場にてレリーフ化の施術を施されていないのは宮間監査官だけです。彼女たち全員が、レリーフ化された特殊な存在です。レリーフには融解された現実、ヴァリアント化のさいに生み出される心象世界に強い耐性があります」

「ストレスに強い、ということかな?」

「いえ。レリーフの持つ現実感は、人間のそれと異なります。なぜならレリーフは人間ではないからです。ヴァリアント化した個体と同様、レリーフの現実は非常に個別化しているんです」

「だから、現実が融解しても影響を受けない」

「そういうことです。レリーフにとって現実とは、個体ごとの脳内にしかないものですから。それを実在の空間に投影する力をコントロールするのが監査官の役割です」


 流されるままに監査官としての業務を経験したのだが、ようやく事態の全容が朧気ながらも把握できた。僕がすべきこと、僕に与えられた新しい職場、そこで交わる人たちの状況。いや、人ではなくなった彼女たちの役割。

 僕がデスクワークに励んでいる間、このような状況が何度も生み出され、何度も世界は彼女たちによって救われ、そして維持され続けてきたことが解った。そのことだけが解れば僕には問題がなかった。

 そのことだけ理解できたなら、後は些細なことでしかない。考える必要もないことだ。知らないところで誰かが犠牲になることによって守られているからこそ今がある。それ以上に知るべき真実なんて、きっと世界のどこにも存在しないだろうから。


 ポットに入れられたコーヒーは空になっていた。佐々木女子はおかわりを進めてきて、僕は礼を述べた後に彼女から再びコーヒーを受け取った。やはり安っぽい味がして、だからこそリアリティが感じられた。

 自分の中であれこれと整理しなければならない疑念が浮かんでいた。紫色の空へと飛翔していく姫路綾子の姿が網膜に強く残されていた。釈然としない蟠りが胸中にて雄弁に語っており、そいつを煩わしく思いながらも否定出来ない自分がいた。


 熱いコーヒーを一気に飲み干し、僕は目頭を抑える。言語化するべきじゃない感情を噛み殺しながら、誤魔化すために佐々木女子の長々とした話を思い返してみた。これは逆効果だったかもしれない。

 即座に違和感に気がついたのだ。レリーフ化の施術を施されていないのは僕だけだと彼女は告げた。僕は運転席の彼女に視線を向ける。だったら、彼女が。僕と共に、あの結界の中から対比してきた彼女が、そこには含まれていないのだ。


「セラピーとカウンセリングはこちらで手配しましたが、問題はないでしょうか?」

 佐々木女子は眼鏡をかけ直しながら僕へと尋ねてきた。あの結界の中で行われていることよりも、僕のスケジュールのほうが彼女にとって重要らしい。そんなクールでスマートな彼女に僕は次のことを尋ねざるを得なかった。


「なぁ、佐々木さん」

「はい。なんでしょうか」

「佐々木さんもレリーフなのか」

 僅かだけれど、背中を撫でられたような反応を彼女は見せた。そして唇を開き、コンマ数秒ほど言葉を探して彷徨ってから、堂々とした口調で僕へと告げた。

「はい。私は第二世代型のレリーフです。今は実戦を離れていますが、後二年ほどレリーフでい続けることが許されています」

「そうか。答えてくれたありがとう」


 佐々木女子は非常に冷静な表情で僕へと視線を向けていた。僕は彼女の顔を、あまり冷静に見ることができなかった。彼女はレリーフのことを個体という言葉で表現していたのだ。彼女自身もそこへと含まれるのに、まるで人事のように個体という言葉を用いたのだ。

 そして微細ながらも彼女の見せる反応を、僕は目の当たりにしている。

 冷静なふりをしているけれど、完全に割り切れていない彼女の存在を目にしている。


 難しい世の中だと思った。

 人が生きていくために、他人ごとのように自分を語らないといけない女性が必要らしい。佐々木女子はクールでスマートだけれど、ドライというわけじゃないようだ。そんな女性に、あれこれと多くのものが背負わされている。


 僕の秘書であるということも、間違いなく負担の一つだろう。

 当事者でありながらも、管理者である僕に対して、フラットな態度で接しなければならないのだ。妙に長い説明をして、冷静さを保とうとしていることが理解できた。彼女が言い澱む理由も理解できた。

 彼女の持つナイーブな部分、その一部が僕と重なっていると実感できたのは、とても大きなことだと思う。前向きであり続けることにしか興味を持たない世の中だから、そうやって弱い部分を共有できるってことは、喜ぶべきことじゃないだろうか。


「なぁ、佐々木さん」と僕は呼びかけた。

「はい。なんでしょうか」

「コーヒーありがとう。美味しかった」

「いえ。これも仕事の一環です」と彼女は淡々とした口調で答えた。


 あれこれと追い立てられるような一日だったが、ようやく一息つくことが許された。

 束の間と呼ばれるような刹那が、僕はとても好きなのだ。目の前にある球体の中は、戦場であるというのに、完全に隔離された僕らの世界は平穏な日常に包まれている。薄皮一枚で保たれた緩やかな時間は、罪悪感よりも心地よさが勝っていた。

 こういうギャップが僕はたぶん好きなのだと思う。

 天国と地獄が、とても近くに感じられるから。


 そして同時に世界の全てが間違っているようにも思える。


 佐々木女子はレリーフ化の技術を死にゆく技術だと口にした。今の僕ならば、その理由を十全に理解することができる。姫路綾子という一つの存在が、その全てを雄弁に物語っているのだ。

 人間は、人間ではない生き物ですら飼いならすことに成功した。生まれた時から人間ではない生物を生み出せるならば、後天的な化物を作り出す必要もない。


 僕は「なぁ、佐々木さん」と彼女に呼びかけた。

 彼女は「はい。なんでしょうか」と応答する。

「世の中ってよくなっているのかね?」

 彼女は躊躇うことなく僕へと告げた。

「そういう前提じゃないと生きていけません」

 最適と呼べる回答だった。

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