第三話 舞台女優の事情

 世の中には、いろいろなことに自分の人生を賭けている人間がいる。

 中でも、演劇にすべてを捧げている者ほど融通がきかないものはない。気位が高く、自分たちは芸術の神の申し子なのだという意識をもっている。

 松本市を中心に活動している劇団『アリアドネ』も、そんな困った人間たちが集まっている小規模な劇団だった。

 主催者である柴尾敦は、長野県内だけでなく東京の劇団から演出や脚本を依頼されるほど才気を認められた人物である。

 三十六才の演劇人にしては成功しているほうだと見なされていた。

 ただ、自分が主催する劇団では他では到底できないような実験的な舞台が多く、ディープな固定ファンはいるけれども、商業的にはとても成功しているとは言えなかった。

 柴尾本人は他で活躍する機会があるので問題ないものの、この劇団だけで活動している団員は、生活を維持するために他の仕事をしている者がほとんどである。

 次第に他の仕事が本業となって、辞めていく者も珍しくなかった。


 *


 ある夕方。

 神原美紗は、疲れた表情で劇団が稽古場として借りている小劇場の事務所に入ってくると、アルバイト先のコンビニで貰った賞味期限切れの弁当を、机の上に乱暴に置いた。

「どうしたの。ずいぶん疲れているようだけど」

 たまたま事務所で次の公演用の小道具を整理していた、空山信三が聞いた。

「うん。ちょっとバイト先で嫌なことがあったのよ」

「何があったんだい」

「うーん。ねえ、お弁当食べる?」

「あ、いつも有難う」

「賞味期限をちょっと過ぎているけどね」

「大丈夫、全然平気で食べられるよ」

「そう。有難いことを言ってくれるじゃない」

 そう言って美紗は黙り込む。

 信三が静かに見守っていると、急ににっこりと笑って美紗は言った。

「実はこのお弁当を貰った時にね。コンビニの店長さんから言われたのよ」

「何て?」

「人間にも賞味期限があるんだからね、って」

「それはひどいなあ」

「そうよねえ。人間とお弁当を一緒にするなんて失礼しちゃうわ。一緒にいたバイト仲間の子が『店長は女の子を何だと思っているんですかぁぁ、人権侵害ですぅぅ、訴えますぅぅ、断固として戦いますぅぅ』って激怒するは号泣するはで、なだめるのが大変。私が怒る場面なのに、逆に落ち着いちゃった」

「大体、日本人は賞味期限に余裕を取り過ぎるから」

「いやいや、ポイントはそこじゃなくて」

 手元のペットボトルのお茶を見つめて、また美紗は黙り込む。

「でも、言われた時にすごく動揺したのは事実。私だって売れ残りのお弁当扱いされるのは嫌。このまま腐るのは嫌。私って才能ないんじゃないかと不安になる」

「どうしてそんなことを言うのさ。君に才能がなかったら、俺なんかマイナスだよ。もう少しでいい役が貰えそうじゃないか」

 信三は、美紗が高校の演劇部を卒業してアリアドネに参加する前から、この劇団に所属している。

 最初に細々としたことを教えてくれたのが信三で、気があったのかすぐに何でも相談できるような知り合いになった。以来、十年以上の腐れ縁が続いていた。

 その間に変わったものといえば、彼の芸名ぐらいだろう。

 信三は五年前に、急に『ダンスミイ佐々木』という芸名に変えた。

 その奇矯な名前のおかげで損をしているのではないかと美紗は思うのだが、誰から何を言われても信三は一向に名前を変えようとはしない。

「お告げがあった」

 とだけ、答え続けている。

 ではどうしてこの名前なのか、この名前にどんな意味があるのかと聞いても、もごもごと口ごもるだけで要領を得ないので、美紗はもう聞くのをやめていた。

 他にも空山には変わったところがある。

 数年前に美沙は、誰もいない稽古場の片隅で彼が一心不乱にダンスの練習をしているのを、見かけたことがあった。

 あまりに真剣な表情だったので、美沙は話しかけにくくなってそのまま黙ってみていたのだが、そのうちなんだか眩暈がしてきた。

 空山の動きは、美沙の平衡感覚を狂わせるようなおかしなものだった。

 前に行くかと思えば後ろに行く。

 座った姿勢のままで飛び上がる。

 どの動きに視線を集中させたらよいのか分らない。

 気持ちが悪くなってしゃがみこんでしまったところで、その物音に空山が気づいた。

 駆け寄ってくると、

「大丈夫かい」

 と心配そうな表情で、美沙の背中をなでている。

「いまのダンスはなんなの」

 と美沙が聞いてみたところ、かなり慌てた様子で、

「あ、ああ、その。これはまだ練習中の隠し技なので、絶対に誰にも言わないで」

 と懇願された。あまりに真剣にお願いされたので、誰にもそのことは言っていない。

 まあ、それ以外はよく美紗の話を聞きいてくれるので、美紗にとってはとても大切な友達だった。

 どんなに他の人には話しにくいことであっても、信三には話せるという安心感が彼女にはあった。

 本人には言ったことはないが、信三のくしゃくしゃになった癖毛や眠そうな視線、大柄な体格と穏やかな性格は、昔から美紗には精神安定剤のような効果がある。

 落ち込んでいるときなど、何度その効果に頼ったか分からない。

 今日も、稽古場の扉の向こうに信三がいることを密かに願っていた。

「さてと、そろそろ稽古時間のようね」

 そう美紗が言い終わった時、扉の向こうから何人かの話し声が聞こえてきた。

 落ち着いた大人の声が混じっている。劇場の経営者である朝宮晋一郎に違いない。

 案の定、事務所の扉が開くと朝宮の精力的な浅黒い顔が現れた。

 この劇場は、若い頃演劇を志していた彼の道楽のようなもので、経済的合理性は無視されているというのがもっぱらの評判だ。

 他にもレストラン経営など幅広く手がけているので、この程度の道楽ではびくともしないらしい。

「やあ、神原君久しぶりだね。元気かい」

「元気ですよ。朝宮さんはいつも変わりありませんね」

「少し体重が増えたよ」

 そう言いながら笑う姿を見ていると、柴尾と同じ年齢の男とは思えないほどに生気にあふれている。

 柴尾はいつもこの世の不可解さを一身に受けているかのように、不機嫌そうな顔をしている。

 活動時間が深夜を中心にずれこんでいるので、元々青白い肌がいっそう透き通るように見える。

 そんな柴尾の容貌が彼の才能と相まって、一種カリスマじみた人気を集めていることも美紗は知っていた。

 朝宮はそれとはまったく正反対で、人生の享楽をすべて体感しているかのように、エネルギイにあふれている。

 朝太陽が昇ると同時に仕事を始めて、夜は深酒することなく眠ることにしていると、取り巻きの一人から聞いたことがある。

 現実に根ざしている者の強さなのだろうかと、美紗には思えた。

「そうそう、柴尾君が神原さんをさがしていたようだが」

「う、なにかしら。なんか嫌な予感」

 前回の公演で美紗が演技中に一瞬つまったことを、柴尾はずっと非難しつづけている。

 演出家はおおむね粘着質で細かい人間が多いが、柴尾も例に漏れず細部に執着する。

 また同じことを蒸し返されるかと思うと、美紗は気が重くなった。

「俺も聞かれました。なにか普段とは違って活動的な感じがしましたけど」

 柴尾と美紗の確執を知っている信三が、話に加わってきた。

「私にもそんな感じがしたね」

 朝宮は信三のほうを向いて言った。

「ところで空山君。そろそろ名前を変えたらどうかな」

 朝宮はいつものように信三に改名を勧めた。

 朝宮は妙に信三の演劇センスを買っているところがあり、おかしな芸名のために際物扱いされて微妙な役どころしか与えられない信三のことを、もったいないと思っている。

「その名前じゃなければ、もっとまともな役がくると思うんだが」

「はあ、でもお告げですから。気に入っている名前ですし」

 いつも煮え切らない気弱な信三が、この改名の件だけは誰に言われても頑として受け付けないことについて、美紗は不思議でならない。

 他のことで朝宮に話しかけられると、しどろもどろで返事をするのがやっとということが多いにもかかわらず、名前の件だけは「お告げだ」の一点張りで、取り付く島がない。

「まあ、君自身のことだから、あまり私が言っても仕方がないのだがね」

 と言いつつ、朝宮は顔を合わせるたびごとに同じことを繰り返している。

「柴尾君は事務所にいるはずだから、早めに顔を出しておきなさいよ」

「はあい」

 美紗は重い気分で答えた。

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