第六話 十月十九日午後六時 笠井班の日常
ショコラ・デ・トレビアンの件は、いろいろと紆余曲折があったものの鞠子の適切な判断により被害を最小限に食い止めることができた、という評価に落ち着いた。
独断専行を糾弾されてもおかしくはない状況だったが、長野県警本部の非公式な見解がそうだったらしい。
馬垣の怪我も危険な犯罪者を取り押さえようとした勇敢な行為と受け取られ、本人が公務執行妨害を否認している点については奥ゆかしいことと好意的に受け取られた。
従って、優秀な上司と勇敢な同僚の間に挟まれて、
「お前は何をやっていたんだ」
「あれ、君はなんともないの」
という視線に対して、榊はまったく動じる気配を見せず、言い訳や反論を口にすることもなかったが、そのことが余計に彼の心の中にある暴風雨を感じさせた。
普段陽気な男が黙っている時は危ない。
そこで、鞠子は馬垣の復帰祝いという名目で、三人で飲みに出ることにした。
警察署の周りや松本駅前では他の署員と一緒になる危険性があったので、駅前からも少し離れた縄手通りの居酒屋まで移動する。
店に着いたところで鞠子は、
「今日の勘定は私がもつ」
と、まずは宣言した。
馬垣はともかく、榊の分ももつということで、今日の目的が退院祝いだけではないことを暗に示した訳だ。
榊はそれを察したらしく何かを言おうとしたので、鞠子はひとにらみする。榊は言葉を飲み込んで、小さく頭を下げた。
馬垣ははなから気がついていたらしく、黙ってにこにこ笑っている。見舞いにきた同僚達から榊の置かれた状況を把握していたのだろう。
――まったく食えない男だ。まあ、こういう配慮はわざわざ口に出すべきではない。
「じゃあ、課長のお言葉に甘えまして、私は司牡丹からいかせていただきます」
馬垣が言った。警察官は飲み会のような場所では、階級で呼ぶことを避けて一般企業の役職名を使うことになっている。
――と、それよりも今の日本酒は何だ?
「馬垣、お前今頼んだの」
「船中八策です」
高知県の有名な司牡丹の中でも、特に珍しい船中八策である。
そう言えば、この居酒屋は店主の趣味で集めた珍しい酒が置かれているところだった。
馬垣のことだから、榊が気を使うことを見越して、わざと高めのものから選んだに違いない。しかも、わざと最高級のものを外したのだろう。
――やはり、こいつは食えない。
「じゃあ、俺はおとなしくビールでも」
榊が続く。
ビールでは、さすがに気の使い過ぎではないかと鞠子が言おうとしたところで、
「ローリング・ロックでも」
――でも、と言ったな。しかもおとなしく、と。
日本では殆ど目にすることのないアメリカのビールである。鞠子は震撼した。
――まずい、彼らは山男だからとことん飲むときは飲む。
「課長はどうしますか」
馬垣が聞いてきた。
目元が笑っているのが鞠子の気に触る。
「久米仙だ」
馬垣が「なんだ」という顔をしたところで、
「
と、鞠子は畳み掛ける。
酒が進むと、どうしても前回の事件のことが話題として避けられなくなる。
馬垣がそのまま病院送りとなったため、三人だけでこの件を話すのは今日が初めてだった。
見舞いにいった病室ではさすがに深刻な話はしにくかった。それに今日は、榊に一区切りつけさせる目的もある。
「さて」
そう言って鞠子が多少姿勢を改めると、二人も気がついたらしく背筋を伸ばした。
「美術館の顛末を報告書で読んだ。怪盗が裏口から出てきたところを視認して、現行犯逮捕を試みたが取り逃がした。ここまではよいな」
二人が揃って頭を下げた。
「また、部長の話では続きはこうだ。取り逃がした後、美術館に立っているところを通りかかった民間人が見咎めて取り押さえようとしたため、やむなく応戦した馬垣が倒れたところで榊が事情を説明した。民間人が正義感から行ったことであり、馬垣にも不覚があったことから、あくまでも民事のこととして和解した」
「その通りです」
馬垣が済ました顔で言う。
「いやいや、この筋書きはおかしい」
鞠子は馬垣の顔を見据えた。
「なぜ二人が覆面怪盗を取り逃がしたのか、説明がまったくない。署内では怪盗の手下が現れて、馬垣が応戦したものの破れた、馬垣は自分の未熟さへの自戒と、警察官が近接格闘で敗北したことが公になり、警察の威信が失われることを懸念して、自ら民事を申し出ているという噂まで出ている」
ここで彼女は一旦話を切る。
馬垣は相変わらずにこにこしていた。
鞠子は榊のほうに視線を向けて言った。
「私にはまったく納得できない。なぜなら榊はもっと優秀だからだ」
うつむいた榊の肩が微かに揺れる。
「君たち二人が現場にいて犯人を取り逃がすことはない。また、馬垣が倒されるはずがない。仮にそんな馬鹿げたことが万が一にもあったとして、榊が動かないわけがない。事情を説明するのは、まず拳で語り合ってからにするはずだ。榊はやわな人間じゃない。するとどうなる。真相は別なところにあるはずだ」
鞠子は二人を睨んだ。
「話したまえ。私も馬垣の主治医から、普通の格闘ではこのような怪我は負いませんと言われたが、報告していない。いわば呉越同舟だ」
しばし、三人の間に静寂が続いた後で、馬垣は、ふっと溜息をついた。
「申し訳ございませんでした。警部の推測通り、榊は私をかばっています」
そして彼は事の顛末を説明しはじめた。
「署内の噂が事実に一番近いのですが、榊が黙っていたのには理由があります。確かに覆面怪盗を逮捕する寸前に別な人物が現れて、我々の邪魔をしたために逃げられました。ただ、格闘したというのは間違いです。実際は――」
今まで微笑みを絶やさなかった馬垣の顔が曇る。
彼は日本酒のコップを取り上げ、一気に飲み込んでから話を続けた。
「相手にもされませんでした」
馬垣の格闘術の腕前については、鞠子も本人や周囲から聞かされていた。
この自尊心の塊のような男が最も得意とする近接格闘で完敗したということは、相当堪え難いことだろうと鞠子は思う。
――だが、しかし。
「だからと言って、榊がお前を庇う理由はないのでは」
と鞠子は指摘した。
「その通り。ただの格闘であれば榊が黙っている訳がありません。一緒に戦い傷つき、署内では積極的に私の擁護をしたと思います」
「私もそう思う」
「その時、榊が何もしなかったのは、相手が常識を超えて強かったために手の出しようがなかったということもありますが、相手に敵意がなかったためでもあります。また、後日口を閉ざしていたのは、私が合意の上での尋常な勝負だったと主張したためでもありますが、むしろ私の過剰な行為が問題にならないように庇ってくれたのです」
馬垣が榊のほうを見た。榊は頷く。
「私は警察官として許さないほどの力を使ってしまったのです。自分の最大限の技を使いました。場合によっては相手を殺しかねないほどの」
一旦話が途切れる。
「しかし、相手は防御以上のことは一切しませんでした。最初から最後まで受身のまま、私が自滅するのを待っていたのです。私は私の流派に伝わっている殺傷能力が高い技を使いました。それを跳ね返された結果があのざまです。しかも、相手は弾きとばす寸前に、私の力を少しだけ吸収しました」
「ちょっと待て」
榊が慌てて口をはさんだ。
「どこにそんな余裕があったんだよ。お前のあのえげつない攻撃を部分的に吸収するなんて」
「吸収されていなければ、私はこの世にはいないよ」
馬垣が修行僧のように言った。
「だいたいの事情は飲み込めた。榊の慌てようからも、馬垣の話が嘘ではないことが分かった」
「あ、すいません」
榊は顔を真っ赤にして言った。
「いや、謝ることはない。榊のそういう分かりやすさは美徳だ。馬垣も見習いたまえ」
馬垣は最初の表情に戻ってにこにこと聞いていた。
「そうすると我々は、覆面怪盗に加えて、正体不明の格闘家を相手にすることになる」
「あ、言い忘れました。正体不明ではありません」
馬垣が追加した日本酒を飲みながら、さらりと言う。
鞠子と榊は唖然として、声もない。
「いえ、犯人の名前を知っているという意味ではありません。格闘家が使った技について、思い当たるところがあるのです」
「馬垣」
「はい」
「早く」
早くしゃべれ、という言葉を怒りとともに寸断して、鞠子は馬垣に投げつけた。
馬垣は苦笑すると、核心に触れた。
「私の技を受けられるのは、同じ流派の者だけだと思います」
*
以下、馬垣が鞠子に語ったことを要約する。
彼が身につけている流派は「微塵流」という。
ささいな、とるにたらないこと(微塵)を最大限に利用することを基本とした古武術である。
出羽三山の修験道から派生した体術を、江戸初期に微塵斎が総合武術として体系化したのが始まりと言われている。
あまりの威力に、為政者側は自らの暗殺に使われることを恐れ、決して表の世界に伝播することを認めなかった。
一方で不都合な輩を排除する手段として、すこぶる有効だ。表に出ることは許されず、裏では便利に利用され、江戸から明治にかけての長い時を微塵流は生き長らえてきた。
その存在は、一緒に戦う可能性のある者、言い換えると微塵流の存在を意識することで勝利の確率が上がる者か、敵対する者にしか明かされない。
流派はすべての技を継承する者が多くても二人、四つに別れた部分のみを継承する者が各々二人の、最大十人で細々と伝えられてきたという。
この、技をひとつだけ伝承される者は「四天王」と呼ばれた。
増長天「場律」は、戦闘前の駆け引きや、相手の動きを見切ることで主導権を握る。
持国天「堅守」は敵の攻撃を受け流し、弾き返しながら身を守る。
広目天「飛走」は素早い動きで相手を撹乱し、矢継ぎ早に攻撃を加える。
多聞天「羅刹」は身近にあるものや何も持たない状態からでも、相手に最大限のダメージを与える。
馬垣の実家は、そのうちの「飛走」を伝える系統だった。
大正までは裏の世界で最恐の技という噂も残っていたが、いまでは誰からも見向きもされず、廃れて久しいとすら言われていた。
ただ、断片的な話が、ときおり表に流れ出すことがある。
明治の頃に英国に渡った四天王が、英国人に場律を伝授したと言われている。
また、第二次世界大戦中にはロシア人に羅刹が伝授されたらしい。
ショコラ・デ・トレビアンの逮捕を阻んだ者が使った技は堅守に間違いない、と馬垣は断言した。
つまり堅守を受け継ぐ持国天か、四つの教えすべてを伝授された正当後継者の帝釈天のいずれか一方が正体ということになる。
*
「うーん」
鞠子は唸った。
「信じられませんか」
「いや、そんなことはない。騙すつもりならば、君のことだからもっとまともな話を用意するはずだ。こんな荒唐無稽な、まかり間違うと中学生男子の妄想としか思えない話を、よくもまあ真面目な顔で説明できるものだと感心した。これまで何も話さなかったのは、一緒に戦うつもりがなかったというよりも、そのような微塵流が必要となる危険な局面に私を引きずり込みたくなかったという意味だと捉えておく。まあ、結局は聞くことになってしまったわけだが」
「では」
「ああ、信じるとも」
鞠子は笑った。
「馬垣は大嘘つきで、榊はばか正直だ。その二人が同じことを同じ顔で言うのだから信じる。実は嘘でした、と言われても信じるから覚悟したまえ」
「はい、実は嘘です」
「馬垣」
「はい」
「これから小一時間ぐらい問い詰めてもかまわないか」
「いや、嘘というのは嘘です」
怒った鞠子を宥めながら酒を勧める馬垣の姿を見ながら、榊は別なことを考えていた。
鞠子の深い信頼には感謝しつつ、同時に鈍い胸の痛みを感じる。
馬垣が鞠子に話さなかったことがある。
怪盗は男が現れた時に、明らかに驚いていた。覆面で表情は見えなかったが、そのぐらいは仕草でも分かる。
手下であればあの反応は不自然であるから、怪盗にとっても想定外のことであったに違いない。
事件現場を知ることができる人物。そして、怪盗、馬垣、榊にとって想定外の人物。その条件にあてはまる人物は限られる。
榊は馬垣からそれを聞かされた時に、この一連の筋書きに進んで協力することにした。
事実が明らかになるまでは、鞠子には絶対に話せない。
また、真偽を確かめるためにはなんでもしよう、と榊は馬垣に言った。これも鞠子を守るためにやることだ。
とりあえず、鞠子には今晩、酔いつぶれてもらう必要がある。
彼らは鞠子の夫、洋が謎の人物ではないかと考えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます