第五話 劇作家の事情

 信三に「そんなに心配することないって」と励まされながら、重い足取りで美紗は劇場内にある柴尾の部屋に向かった。

 公演の合間の劇場は、バックヤードのあちらこちらに小道具が雑然と積み上げられていて、活気がない。

 天井の蛍光灯が廊下の灰色がかったコンクリートを弱弱しく浮かび上がらせており、それが柴尾の陰気な顔を想像させた。

 才能には敬意を表しているし、その博識にも一目置いている。ただ、性格がオープンな美紗にはなじめない陰が柴尾にはある。

 大手の劇団所属でマスコミへの露出度が高い演出家には、陽気な人もいるが、中小劇団の演出家といえば大抵は胃をおかしくしたことがありそうな人間ばかりだから、柴尾だけが特別奇矯な人間だとは言えない。

 ――しかし、もう少し身近な人間味のあるところを見せてくれれば好きになれそうな気もするんだけどなあ。

 と美紗は思う。


 無愛想に「事務所」とだけ書かれたプレートがかかげられている、白いペンキで塗られたドアの前に立つと、美紗は一度深呼吸をした。

 信三の能天気な「心配ないって」という声が頭の中で再現される。よし、大丈夫。すこし気分が良くなってドアをノックした。

「どうぞ」

 という柴尾の声が聞こえた。いつもならぶっきらぼうな声なのに、今日は微妙にあわてているようなニュアンスがまじっていることに美紗は気づいた。

 商売柄人の声には敏感だが、柴尾の声に逡巡が混じっているところはついぞ聞いたことがない。

「神原です。入ります」

 と言ってドアを開けると、奥のソファで脚本とその資料を広げて座っている柴尾と目が合った。あぶら気のない真っ直ぐな髪を目にかかるほど長く伸ばしているため、視線はなかなか伺い知ることができない。

 ただ、女が嫉妬しそうなほど赤い唇を微妙に震わせているところをみると、緊張しているようだった。

 珍しいこともあるものだ、と美紗は思った。

「ちょっと話があるんだけど、今大丈夫かな」

「はい、今日は別にきまった用事があるわけではないので」

 柴尾の向かいのソファを勧められて、美紗はそこに毒気を抜かれたように座った。

 いつもなら即座に用件を切り出す柴尾が、その細長い指先でボールペンを弄びながら、次の言葉をどうやって切り出そうかと困惑していた。

 こんな彼の姿は見たことがなかったので、美紗は驚いた。と同時に柴尾の無愛想の裏側にあるシャイな一面が垣間見られたようで、とても好ましく思えた。

「あーと、今日は二つお願いしたいことがある」

 ボールペンを取り落としたついでのように柴尾が話し始めた。

「まずは一つ目の話だが・・・」

「はい」

「次の公演では一番重要な役を君にお願いしたいと思っている」

 思いもかけなかった言葉に、美紗はすぐに反応できなかった。あれだけ前の失敗について執拗に蒸し返していた柴尾の口から、そんな言葉が聞けるとは思ってもいなかった。

「でも、私・・・」

「いや、前の失敗の件なら気にしないでくれ。私も言い過ぎたと反省している」

 先回りして柴尾はいつにない早口でしゃべった。

「基本的には君の演技を評価しているものだから、君らしくもない簡単なミスがどうにもこうにも見過ごせなかったので。いや、君には期待しているし、いつも期待以上の成果を出してくれていると思う。思うからこそより以上の期待をしてしまうというか、完璧を求めてしまうというか・・・」

 珍しい。柴尾が動揺している。

 常に理路整然と語る精密機械のような男が、なぜか今日に限って調子はずれな前衛音楽のように、テンポを逸している。

「はあ」

 美紗は気が抜けたような返事しか出来なかった。

「受けてもらえるだろうか」

「もちろんですが・・・いいんですか私で」

「僕は君しかいないと思っている」

 柴尾の青白い顔がみるみる紅潮していった。

 もしかして、いつもの仏頂面は仮面で、繊細な内面を覆い隠すための偽装なのではないか、それが彼特有の現実世界との接し方なのではないか、と美紗は考えた。

「それから、もう一つの話なのだが」

「あ、はい」

「その・・・」

 と言った後、柴尾は硬直した。整った顔立ちの中で唇だけが制御を失ったかのようにぱくぱくと開閉している。美紗は急に柴尾に親近感を感じた。

 精密機械ではない、自分と同じ生身の人間。

 自分の思うことを実現するために、あえて冷静さの仮面をまとわずにはいられなかった人間としての彼を可愛いと思った。

「実は今朝、実家から電話があってね」

 意外なところに話がいったので、また美紗は切り替えができなかった。

「はあ」

「その、母方の親戚でやたらに面倒見がよい人がいてね。面倒見がよいというか不躾だというか、いや悪い人ではないんだが。その、やたらに押し出しが強くて。こうしようと思ったら猪突猛進、実現するまではどんな手段でも講じる、夜討ち朝駆けの人っているじゃないか」

「はあ」

 見えない。何の話だろうか。

「その人から電話があるので話を聞くように、と母に言われた直後に、その親戚から電話があってその後二時間一方的に話された」

 夜型人間の典型と思われる柴尾が、朝二時間も電話で一方的に話されたというのは、ある意味洗脳に近い状況ではないかと思う。それにしても、

「あの、それで何の話だったのですか」

「あ、その、見合いをしろと」

 美紗は一瞬言われたことを理解するのに時間がかかり、その後爆笑した。

「いや、笑い事じゃないんだよ」

 柴尾は憮然としている。

「ごめんなさい。状況はよく分かります。私も両親からよく言われるので」

「そうだろう」

 同意されたことで、一瞬、いつもの冷静な柴尾が表情をのぞかせた。

「それで、そのお話をなぜわざわざ私にするのですか」

「う」

 柴尾がまた壊れた。天井のほうを見上げたので視線が泳いでいるのがわかった。酸欠状態の金魚のように口を開け閉めしている。

 またしても可愛いと思った。女は無防備な男の狼狽をみると、半ば自動的に愛着を感じるらしい。

 美紗は柴尾の狼狽振りを、この男の本質的な純情さと判断した。

「私には心に決めた人がいます、とその親戚には言った」

 これも意外な言葉だった。

 劇団では女優と演出家の恋愛話が今日の天気のように話題になることが多いが、柴尾に関してはとんと縁がない話と思われた。

 むしろ男色説まで飛び出すほどになにもないと思われていた。

「そうしたら、今度は会わせなさいということでひと悶着」

「あらあら」

 こんな話を誰にも出来ずに、思い余って言いやすい私に打ち明けたのだろう、と美紗は思った。自分なら気心も知れているし、普段から喧々諤々やっているから話しやすい。

 彼には一番苦手な方面の話題であろうから、今朝からずっと右往左往していたに違いない。コミカルな柴尾の姿を想像し、美紗は笑いを抑えるのに必死だった。

 その最中に、柴尾は視線を美紗に戻すと、髪を払いあげて真剣な眼差しで言った。

「ということで、私の親戚に会ってもらえまいか」 

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