第四話 十月十九日午後七時 笠井家の日常

 瞳子の目の前で洋が電話をしている。

 相手は弟の隆だ。今年の春に東京の大学に入学して、今は独り暮らしをしていた。

 たまに松本に来ることがあるのだが、その度に洋におかしな相談事をしている。この前は「バイト先が秘密結社だが、どうしたものか」という相談だった。

 隆自身はとても真面目で優しい人物であるにもかかわらず、何故か面倒な事件に巻き込まれやすい。

「彼の体質のようなものだね」

 洋は常々そんなことを言っているが、実際は隆のことをいつも気にかけていた。今日は洋が得意としている白菜カレーの作り方の確認らしい。

 やっと電話が終わったところで、瞳子は洋にパリスの審判について尋ねる。

 洋はすっかり遅くなった晩御飯の支度中で、長ネギを手早く刻みながら言った。

「瞳子はギリシャ神話を読んだことがあるかい」

「えっと、ギリシャ神話のひとつだというお話は何度か読んだけど、ギリシャ神話というまとまった本を読んだことはないと思う」

「まあ、大人でも断片的には知っているけど、まとめて読んだことはないという人が殆どだろうね」

 洋はえのき茸を取り出して根元だけを切り落とし、間に少しだけ残っている屑を取り除いた。

 瞳子は話を続ける。

「澄江さんはパリスの審判について、三人の女神のうち一番美しいのは誰かという審判をパリスがする話だと言っていた」

「一般的にはそのぐらいで理解されているね。でも、実際は複雑な背景がある」

 しかし、さすがに細かい内容までは洋も覚えていなかったため、えのき茸の準備が終わるとリビングの本棚から文庫本を取り出した。

「ではまず発端から話そうかな。一口にギリシャ神話と言ってもさまざまな種類があるので、今回はブルフィンチという人が書いたギリシャ神話をベースにしようか」

 洋はスーパーのお徳用牛肉細切れをフライパンにのせると、右手でお肉を焼きながら左手で本を開いた。

 軽く咳払いする。これは洋が改まって話を始める時の癖だ。

「さて、お話はゼウスが人間ペレウスと精霊テテュスの結婚式に、争いの神エリスをわざと呼ばなかったことから始まる」

 肉の焼ける賑やかな音と、香ばしい香りが部屋中に漂う。

「仲間外れにしたのね。もっとも結婚式にわざわざ争いの神様を呼ぶ人はいないかも」

「まあそうだね」

 肉に火が通ったところで、えのき茸を投入する。

「ただ、呼ばれなかった本人は面白くない。腹を立てたエリスは『いちばん美しい女神様へ』と書いた黄金の林檎を宴の場に投げ入れたんだ」

「えっと、それはたいしたことなさそうな、ずいぶんと地味な嫌がらせだね」

「いやいや、これが実に効果的な嫌がらせだった。この林檎をめぐって、ゼウスの妃である女神ヘラと知恵の女神アテナ、そして愛と美の女神アフロディーテの三人が、自分こそその尊称に相応しいと言って譲らなかった」

「うわあ、また神様らしくない」

「まあ、気位の高さもオリンポスの神々の特徴だからね。らしいといえば、らしい」

 洋は一旦本を置くと、ガスコンロの火を弱めて肉とえのき茸の炒めものに、醤油とみりんをお玉一杯分ずつ入れ、和風だしの素を大さじ一杯入れた。

 また火を強くする。

「さて、ゼウスは、誰がいちばん美しいかという判定を羊飼いであり、ある国の王子であるパリスに委ねることにした」

「えー、丸投げ? なぜ自分でしなかったの」

「そこが彼の狡猾なところだよ。好き好んで恨みを買うことはしたくなかったんだ」

 沸騰する前に火を弱めて、しばらく煮込む。

 その間に卵をといて準備をしておく。

「それは確かにそうだけど、丸投げされたほうは大変。あ、それにしてもなんで王子様が羊飼いなの」

「いいところに気がついたね。パリスの母である王妃ヘカベが彼を身ごもっている時に、自分が松明を生んで、それが町中を燃やし尽くすという夢を見たんだよ。この夢を占ってもらうと、生まれてくる子は国を滅ぼす災いの元になるという不吉な結果となった」

「えー、パリス可哀想! ただの夢なのに。しかも占いって」

「まあ、この予言が後になって問題になるんだけどね。話を進めよう」

 煮詰まって肉とえのき茸に甘辛い味が染み込んだところで、といた卵を回しがけにする。

 火を止めて、蓋をしたら少しだけ放置。

「パリスの父で王であるプリアモスは、この予言をすっかり信じて彼を山に捨ててしまった」

「だらしないパパ」

「ははは、まあ神話だからね。他の部分では、プリアモス王は人望の厚い賢王として描かれているけれども、ここでは情け容赦がなかったわけだ。パリスは牝熊に育てられて成長し、そのまま山の中で羊飼いとして暮らしていた」

「熊に育てられた少年といえば――金太郎はちょっと違うかな。だいたい、そんなこと可能なのかしら」

「無理があるけど、実際に猿に育てられて映画俳優になった日本人もいるらしいから、この辺はまあそのまま聞き流そう」

「はあい」

「それで、美の審判者に選ばれたパリスの前に、三人の女神がそれぞれ装いを凝らして現れた」

 フライパンの蓋を取ると、湯気がほんわりと立ち上がる。

 すかさずネギを投入する。

「驚いたでしょうね。急に女神が三人やってきて誰が一番綺麗か選べ、だもの」

「そうだね。いずれ劣らぬ美女だろうからね。判断に迷うだろう。女神たちもそれは分かっていたようで、姑息な手段に出たわけだ」

 皿によそったら出来上がり。

「ちょっとお行儀が悪いけれど、続きはごはんを食べながらにしよう」

 洋が得意とする『牛肉のえのき茸柳川風煮込み』の他に、スライスしたトマトと、仙台の祖父から送られてきた油揚げと長葱が入った味噌汁が並んだ。

 いずれ劣らぬ味の三美神である。

 瞳子がどれから食べようかと審判していると、洋が話を続けた。

「三人の女神は、美しさだけでは判断できなかろうと、他に贈り物を準備してパリスの気を引こうとした」

「賄賂なの」

「まあ、そんなところだね。まずへラがパリスに、自分を選んでくれたら世界の支配権を与えると約束した」

「権力欲に訴えたんだ」

「さすがに最高神ゼウスの妻だけのことはあるね。続いてアテナは、あらゆる戦いにおける勝利とそれに見合う叡智を約束した」

「名誉欲ね」

「ヘラとアテナは、ある意味同じような約束をしたように見えるね」

「ヘラのほうがより簡単な近道じゃない。最初から支配者になるわけだし」

 瞳子は味噌汁を啜った。

 松本市のはずれにある一見つぶれそうな味噌屋がその店頭でしか売らない味噌は味が濃く、舌の根元のほうからじわりと旨味があがってくる。

「そうだね。なにしろ戦わなくてもいいのだからね。しかし、戦いの場で自分の価値を確かめたい者もいるだろう」

「なんだか男の子の意地のはりあいみたい」

「自分の身の回りのことに置き換えて考えたね」

「あ、うん」

「それができるのがギリシャ神話のよいところだ。さて、最後にアフロディーテの約束だけど」

「はい」

「彼女はもっと身近な約束をしたんだ」

「お金かな」

「権力、名誉ときたからね」

「まあ、順番だとそうだよね。もしかして、何か他のものを約束したの」

 洋は肉と茸と卵と葱の塊を掬うと、それをそのままごはんの上にのせる。

「人間の中で一番美しい女性を彼に与えると約束したんだ」

「あ、それはどうかしら」

「あまり羨ましくなさそうだね」

「他の約束と比べて、随分と規模が小さいし、それに相手の女の子の気持ちは無視かと思うと」

「そうだね」

「それでパリスは誰を選んだの」

「誰だと思う。むしろ瞳子ならどうするかな」

 瞳子はトマトを噛りながら考えた。

 昔ながらの青臭い香りがするトマトは、どこか生命の力強さを感じさせる。

「うーん、私なら世界征服なんて肩がこりそうな話は苦手だから、かわいいお嫁さんがいいかな」

「何だかさっきと言っていることが違うね。まあ、パリスと同じだけど」

「あ、急にパリスが身近に感じられた」

 と言った直後に、瞳子は感じた。

 ――おや、ちょっと違うぞ。

「ただ、私と違ってパリスは寂しかったんだと思う」

「そうだね。親から捨てられた訳だし、愛情を求めていたのかもしれない。アフロディーテの約束は、パリスの心の隙間にうまくはまった」

「なんだかパパの言い方だと、ハッピーエンドにはならなかったみたい」

「あ、ごめん。ここから先が問題なんだけど、先走ってしまったね」

 洋は味噌汁を一口飲んだ。


 彼にはいくつか弱点がある。

 今のように話が先走りしてしまったり、逆に回りくどかったりするので、たまに鞠子から叱られている。

 他に「市販のいなり寿司を食べることができない」という弱点がある。

 生まれてからずっと自家製の肉厚油揚げで作った稲荷寿司を食べ続けた結果、他の稲荷寿司が偽物に感じてしまうらしい。

 味噌汁の具や鍋物の豆腐、冷奴は他のものでも許せるそうだから、訳がわからない。


 さて、話は続く。

「その世界一の美女というのが、スパルタの王妃であったヘレネだったものだから、話がややこしくなる」

「えー、人妻ー」

「約束が変だよね。パリスはアフロディーテの導きにより、スパルタへ行ってヘレネの心を掴んだ。そして夫であるスパルタの王メネラオスが留守の間に、王宮の財宝とともにヘレネを連れて逃げ出したんだ」

「あ、パリス株暴落。財宝まで一緒なんて悪党」

「当然メネラオス王は激怒する。寝取られるわ、宝はとられるわ、だから」

「そうだよねー」

 牛肉の茸柳川風煮込みは、洋のように大胆な食べ方をするのが最も美味しい。

 牛肉の脂と茸の旨みを充分に取り込んだ和風だれが、卵とじとなることでまろやかになる。それがご飯に染み込むのだ

 少々お行儀が悪いとは思いつつ、瞳子も追随する。

「そこで王はギリシャ諸国の王と連合して、ヘレネ奪還のために遠征軍を編成した」

「なんだか情けない連合軍」

「さて、ここで前の予言が問題となる。パリスの父はどこの国王だったかな」

 甘辛い汁の中に卵のまろやかさがこぢんまりと感じられるご飯を、ちょうど掬い上げて口にしようとしていたところだった瞳子は、

「えー、わかんなーい」

 と即答した。

「今、ちゃんと考えたかい」

「へへへ、そんなに深くは」

「まったく。実はパリスはトロイアの王子なんだ。そして有名なトロイの木馬の話へとつながる」

「そうだったの。全然知らなかった」

「トロイア戦争には、アキレス腱で有名なアキレウスとオデュッセウスが参戦している。アキレウスは、ことの発端となった結婚式の花嫁であるテテュスの子供だよ。しかも戦場でパリスの放った毒矢で踵を貫かれて死んでいる」

「それも一連の話なの」

「そうだ。そして結局、最後はギリシャ連合軍が勝利し、トロイアは滅亡するわけだね」

「予言はあたったと」

「そういうことになるね。で、この戦争からオデュッセウスが帰国するまでの話がオデュッセイアになる」

 瞳子と洋はちょうど一杯目のご飯を食べ終わったので、二杯目をよそった。

「それにしても、ずいぶん迷惑な話。神様から急に美の審判者にされて、世界一の美女を与えると約束され、それが人妻だったために前の夫から攻撃されて滅亡するんだもん」

「それだけ、女性の美を評価するときには気をつけろという教訓かな」

 瞳子は二杯目のご飯をゆっくりと味わいながら食べる。

 長葱もいい感じにしんなりしてきた。

「ところでパリスとヘレネは戦争の後、どうなったの」

「パリスは戦争中に死んでいる。ヘレネは実は影でギリシャ連合軍を助けて、戦争が有利に進むようにしていた。戦争後はメネラオスと和解して幸せに暮らしたそうだよ」

「わー。パリスは何だったのかしら。本当に愛されていたわけではないのでしょう。親に捨てられたり、妻に最終的には裏切られたりで」

「パリス本人もオイノネという妖精と結婚しておきながら、世界一の美女を与えられると言われて裏切っているからね。自業自得かな」

 瞳子は、しばし今の話を整理するために黙った。

 洋はこんな時、必ず静かに見守ってくれる。

「サトちゃんママが、パリスの審判にちなんだ問題を出してくれたの」

「ふうん」

「それが結構難問で、私もサトちゃんもサトちゃんパパも答がわからなかった。結局、宿題になっちゃって、今度の月曜日までに解答を見つけ出すことになっているの」

「あれ、それでは私が聞くのはルール違反かな」

「あ、それは構わないとサトちゃんママは言ってた」

 瞳子は顔の前でぶんぶんと両手を振る。

 瞳子には、むしろ澄江が洋に挑戦したがっているように見えた。

「小学生でも答が理解できるような話だと」

「どんな話かな」

「えっと、それじゃあサトちゃんママから聞いた通りに話すけど、いいかな」

 洋の癖と同じく軽く咳払いをし、もったいぶって瞳子は話を始めた。

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