第七話 劇場経営者の事情
朝宮は話を聞くなり爆笑した。
「いや、大変申し訳ない。しかし、それは途中で気がつくべきだったね」
「はあ」
柴尾から思わぬ告白をされた後、あまりにも意外な展開に即答することも出来ず、「考えておきます」といってほうほうの体で美紗は事務所を出た。
そこに通りかかったのが朝宮で、美紗の様子がおかしいことを察知し、劇場の近くにあって落ち着いて話が出来そうなバーに連れ出してくれた。
本来、極めて私的な事項なので、第三者に話すべきではないのかもしれなかった。
が、朝宮の持つ落ち着いた物腰と信頼感に背中を押されて、混乱の境地にあった美紗はいきさつを話してしまった。
「彼の性格からすると、まあ冗談ではないな。よくある替え玉という意味でもなさそうだし」
親の見合い話に対抗するために、偽装した恋人を引き合わせる、そんな三文芝居はさすがに演出家たる柴尾にはおもいもよらなかっただろうとは、美紗にも分かった。
また、自分の告白の演出には失敗しているとしか思えない柴尾の不器用さが、美紗にはとても好ましいものに思えたのは事実だった。
「どうしたらいいのですか」
「どうもこうもないよ」
朝宮は短く刈りそろえた髪を掻きながら、楽しそうに言った。
「そりゃあ、悪くない気分ならばOKしておいたら」
朝宮にかかるとどんな話でも結論は簡単で、悩む余地すらないように聞こえてくる。
「そんなに簡単じゃありませんよ」
「どうしてかな」
朝宮の目が優しく微笑んでいる。柴尾とは違って経験豊富なこの男のことだから、美紗が何に困惑しているかぐらいは推測しているのだろう。
無理に話を進めずに、美紗が頭を整理できるように誘導するような話し方のおかげで、美紗もずいぶんと落ち着いて考えることができるようになっていた。
「確かに柴尾さんは優秀な演出家ですし、意外に人間くさいところもあると分かって嬉しかったけれど、だからってあまりにも急な告白だったものですから」
「確かにね」
朝宮はボンベイサファイアのロックを一気に飲み干すと、同じものを注文してから、美紗のほうに向き直った。
「柴尾君にも困ったものだ。小学生の時に好きな子には恥ずかしくてつっけんどんな態度しかできなかったくちだな」
「そうですよねー」
「私だったら、まずは落ち着いたところに連れて行って、雰囲気を盛り上げてから話をするところだけれど、彼もそういう演出には疎いらしい」
と言って、また笑う。
美紗はその嫌味のない明るい笑い方に、成熟した大人の男性の懐の大きさを感じた。
「それで、いつ会わなければならないの」
「はあ、来週だそうです」
朝宮は目を見開いて言った。
「それはそれは」
「私、困っちゃいました」
「そうかあ、私も困ったなあ」
「どうして朝宮さんまで困るんですか」
朝宮が注文した新しいグラスが置かれて、話が一瞬途切れた。
美紗はバーテンに愛想良く応対する朝宮を見ながら、ふと、その日焼けした精力的な顔に見入ってしまった。
柴尾とは全く好対照な、別種の魅力にあふれた男。そんなことを普段は実感することがなかったので、ちょっとあわててしまった。
柴尾のことがあったので、今日は過敏に反応しているのだろうかと思う。
「結局のところ」
「は」
急に話が始まったので美紗は自分でも間の抜けた返事をしてしまった。朝宮は穏やかな表情で笑うと、話を続けた。
「その回答は誰からもどこからも強制されるものではなくて、自分の中から素直に出てくるものだと思う。自分が一番自分らしく過ごせそうな場所、猫が家の中で一番気持が良い場所で丸くなるように、自分が心地よいと思えそうな場所だったら、そんなに躊躇うこともなく答えは出るのではないかな」
「やっぱり、そんなに簡単じゃないですよ」
美紗はハーパーの水割りを少し口に含んで、話し続けてからからに乾いていた喉を少ししめらせた。
あるルポライターが「バーボンは日向の味がする」という趣旨のことを言っていたが、なるほど干した枯れ草のような香ばしさが心地よかった。
日向の心地よさ。
ふんわりとした落ち着き。
そのような存在が、確かに今の美紗は欲しかった。
「今日の柴尾さんを見なければ、もちろん即座にお断りしているお話ですけど、思ったより人間味のある人だと分かってしまったものですから」
「すぐに断ることもできなかった、と」
「いえ、その」
自分でも妙に歯切れが悪くなる。実際に、柴尾は優れた才能の持ち主であり、その彼が自分を選択してくれたことに誇らしさを感じなかったといえば嘘になる。
ただ、柴尾と自分が恋愛することはこれまで全く想像の範囲外にあったことなので、すぐにモードが切り替わるほど彼のことを知っているわけではなかった。
「決断できるほど彼の人となりを詳しく理解しているわけではないので」
と、正直に言う。
「まあ、そうだろうがね。でも、恋愛というのは、時として一種の賭け事でもある。幸運の女神には前髪しかないとも言うが」
グラスを傾ける。大人の男性の喉仏というのは格好いい。
「しかし、前髪しかないというのは、美的センスから言ってどんなもんだろうね」
朝宮は美紗の顔を見て、にやりと笑った。そのような嫌味になりかねない仕草も、彼の場合はよく似合っている。
「さて、柴尾くんの誘いを受けるならともかく、断るのであればそれに相応しい理由が必要だろう」
美紗は気がつかなかったが、確かにそうだと思う。しかし、
「断る理由をでっち上げるのは気が引けます」
美紗は生真面目に言った。
「君ならそう言うと思った」
朝宮は穏やかな笑みとともに言う。そしてしばしの沈黙の後で彼はぽつりと呟いた。
「事実であればいいんだな」
「はい?」
「いやね。事実として、他に相手がいるのであれば、悩む必要はないわけだ」
「そそそ、それは確かにそうなりますが、実際問題として、あの、そういう人がいないから、こうして悩んでいる訳ですから」
「まあ、落ち着きたまえ」
「あ、はい」
美紗は赤面したまま、バーボンのグラスを傾ける。
「私が相手ということでどうだろう」
完全に不意をつかれた。
アルコールがおかしなところに入って激しくむせる。
朝宮は、苦笑しながら自分のハンカチを取り出すと、美紗に差し出した。
「そんなに驚かなくても」
いやいや、驚かない訳がなかろうと、美紗は心のなかで突っ込む。
朝宮は今のタイミングを絶対に計算していた。柴尾の可愛らしい不器用さに対して、朝宮は大人の狡猾さを前面に出していた。
しかも悔しいことに、その狡猾さがとても好ましい。
美紗がひとにらみすると、朝宮は眉を大袈裟にあげるゼスチュアをした。そして、そのまま黙って美紗が何か言うのを待っている。穏やかな笑みがとても憎らしかった。
美紗は思った。立て続けに愛の告白を受けたことで、激しく動揺していたが、その一方でひどく醒めていく自分がいた。
柴尾と朝宮が、自分のことを恋愛対象として見ていることは分かったが、それはいつからのことなのだろうか。
柴尾は親戚の追及を避けるための手段として思い付いたことにすぎないかもしれない。
朝宮は柴尾への対抗意識から口にしているのかもしれない。
もちろん、二人ともかなり以前から、美紗のことを愛してくれていた可能性もある。
一時的な感情だけで愛されたくはない。賞味期限ギリギリの女だって、半額見切り品扱いはされたくない。
できれば自分のことをよく見てくれていて、その長所と短所を等しく受け入れてほしいと思う。
(やれやれ、こんなことを考えているから賞味期限切れ扱いされるんだわ)
と自嘲しながら、美紗はグラスを持ち上げた。
しかし、既に中身はない。追加のオーダーをしようとしてバーテンの姿を探していると、店の中を歩く女性の姿が見えた。
すらりとした細身にブラックのジーンズがよく似合っている。自称女優の美紗から見ても、その腰のラインはなかなかお目にかかれないほど見事だった。
しばし目の前の問題を棚上げにして、腰の動きを目で追いかけていた時に――
美紗はやっと気がついた。
今日の出来事の中に、美紗が一番求めていたものの答があったことに。
「朝宮さん」
声が微かに震えてしまう。
「今日は本当に有り難うございました」
「どうしたんだい、改まって」
美紗は朝宮の顔を見つめると、その日一番の笑みを浮かべた。
「朝宮さんに会って話をしていなかったら、私は大事なことに気がつかなかったかもしれません」
彼女は、自分が今までとても愛されていたことに、やっと気がついたのだった。
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