第十話 十月二十日 笠井家の日常

 翌日の朝。

 瞳子は昼前にやっと起きて、体操をした後で一階に降りた。

 客間には二組の布団が、端を綺麗に揃えて重ねられ、隅のほうに寄せられていた。昨日の晩、結局二人は泊まっていったのだ。

 ――それにしてもママから聞いていた通り、馬垣さんと榊さんは見た目がそっくりなのに性格が全く違う。

 馬垣はいつも冷静で落ち着いているものの、何を考えているのかわからない不気味さがある。

 榊は裏表がなくて何を考えているのかすぐ分かるものの、ちょっとだけ軽率なところがあって警察官らしくない。

 二人が一緒にいることで、お互いに足りないところが補われ、優れたところが現れるのだろう。

 ――そういえば。

 榊の顔を思い浮かべながら瞳子は思った。

 ――山根先生と榊さんだったら、とても気が合いそうだな。

 瞳子はリビングに行ってみる。いつもと変わらないはずなのに、馬垣と榊がいないリビングはなんだかとても広かった。

 キッチンには洋がいて、パソコンが開かれていた。秘密活動の最中だったのだろう。

「パパ、おはよう」

「おはよう」

 もう、おはようの時間ではなかったが、洋はそのことに触れなかった。

 今日の朝寝坊は公認ということだ。瞳子は安心して、いつもの定位置に座った。

「馬垣さんと榊さんはいつ帰ったの」

「朝の七時かな。朝ごはんを食べて帰ったよ。もう少しゆっくりしてもらってもよかったのにね」

 大きな身体を屈ませて恐縮する二人の姿を想像して、瞳子は笑ってしまう。

 洋は瞳子の前にご飯と味噌汁を置く。

 今日の味噌汁の具は祖父の豆腐と葱だった。

 さらに、葱味噌わさびと野沢菜漬けの小鉢。

 続いて油揚げを軽く炙ったものが出てくる。

 これは、たまにしか食べられない笠井家の朝ご飯必殺セットだ。

 ――あー、馬垣さんと榊さんがかわいそう。

 そう瞳子は思った。

 これで当分、豆腐と油揚げがまともに食べられなくなる。特に油揚げの表面のカリカリとした食感と、厚揚げ寸前まで詰まった中身のフワフワ感のバランスは絶妙だった。

 恐ろしいことに、洋はさらにおかずを追加した。祖母が作った卯の花だった。

 具材一杯、しかもさりげなく豚の挽き肉が加えてあり、ごはんの友に最高である。

 ――うわあ、パパったらえげつないことを!

 これでは、しばらく朝ご飯のたびに思い出しそうだ。

「まあ、ちょっとした仕返しのようなものかな」

 何の仕返しかは教えてもらえなかったが、洋のとても楽しそうな顔を見ていると瞳子まで何だか笑えてきた。

「そういえば、ガトーショコラが二つ残っているよ」

「えっ、何で」

「馬垣さんと榊さんが気をつかったんじゃないかな」

 ――あ、そういえば思い切り明日の分を心配してしまった。

 行儀の悪いところを見られてしまったと、赤い顔をしながら瞳子は味噌汁を啜る。

 そして、昨日の夜の顛末を思い出した。


 *


「パパ、もう答は出ているんでしょう?」

「うん」

 鞠子の質問に洋は短く答える。

「ふうん、やっぱりね。瞳子、パパはいつから答が分かっていた様子だった?」

 急に話を振られて、瞳子はあわてた。

「あ、えーと、たぶん」

「たぶん?」

「柴尾さんの話をする前のところで、もう分かっていたんだと思う。後の二人の話はずいぶんリラックスして聞いていたようだった」

「そんなに早い段階で」

 鞠子は洋のほうを向いて言った。

「このまま検討を続けてもよいのだけれど、真夜中だし、重要参考人も見つかったので、手早く訊問といきましょう」

「いやいや、そんなに怖い目で見つめなくても、素直に自供します」

「よろしい。ではまず、結論から聞こう。神原が選んだ相手は誰か」

 洋は言った。


「空山さんです」


「論理的な説明は可能か」

「可能です」

「では、なるべく手短に――と、言いたいところだけど、パパの性格上無理な話だと思うので、好きにやってちょうだい」

 洋は苦笑しながら、説明を始めた。

「先程の状況整理は見事でした。あのまま続けていれば必ず結論までたどり着いたはずです。あの中で、榊さんが空山さんを外すことに違和感を持ったようですが、まずはその点から引き継いではっきりさせましょう。瞳子、澄江さんがこの話をする前に何を説明したのかは話したね」

「パリスの審判ね。ちゃんと話したよ」

「有り難う。では、皆さんにはこの話の基本構造がパリスの審判と同じでなければ、フェアではないことに同意して頂けると思います」

 洋は全員の顔を見回す。

 誰も異議を差し挟まなかったので、彼は先を続けた。

「柴尾さんと朝宮さんは神原さんへの愛情を明確に言葉で示した。となれば、三人目の候補者たる空山さんも言葉で神原さんへの愛情を表現していなければ、審判の俎上にすらのれないはずです」

 馬垣がここで口を挟む。

「私もその論理は支持します。しかし、空山さんが神原さんに明確な言葉で、直接、愛情を表明した会話は一切なかったはずです。話した内容を裏読みすることは前提条件を逸脱することになりますし」

「おっしゃる通りです。澄江さんはずいぶんと手の込んだ話をしましたね。榊さんが不信に思った通り、状況証拠はあちこちにばらまかれている。空山さんと神原さんだけ、最初から最後まで名前になっているし、神原さんの心理描写にも空山さんの影が見え隠れしている。それでいて彼は会話の中で自分の気持ちをはっきり伝えていません」

「パパ、それではやはりパパが最初に立ち上げた、パリスの審判という条件に矛盾してないかしら」

 鞠子の抗議に洋は苦笑する。そしてゆっくりとこう言った。

「ママ、矛盾はしていないんだよ。空山さんは五年前からはっきりと神原さんが大好きだと公言しているんだ」

 瞳子は驚いた。

 ――五年前? 私の話の中にそんな説明は……

「あっ」

「あっ」

「あっ」

 鞠子と馬垣と榊がほぼ同時に声をあげた。洋はにっこりと笑うと、核心をついた。

「彼の芸名です」

 榊は慌ててレポート用紙に彼の芸名を書いた。


『ダンスミイ佐々木』


「これだけではまだ証拠不十分なのですが、最後の神原さんの様子がヒントになります」

「最後というと、あの朝宮とのバーでの出来事ね。えーと、たしかジーンズの女性の腰を見つめているという」

「それです。おそらく彼女はジーンズの腰あたりにある、ジーンズメーカーのロゴに気がついたに違いありません」

「ロゴ?」

「そう、そこにはこう書かれていたはずです」

 洋は榊からペンを受け取ると、レポート用紙に、


『EDWIN』


 と書き、そのままさらに続けて隣に、


『DENIM』


 と書いた。全員が二つの文字を凝視する。

「アナグラムですよ。Mを逆さにしてWにしていますが、ジーンズの素材であるデニムのアナグラムが、ジーンズメーカーのエドウィンになる」

 アナグラムなら私もサトちゃんとやったことがある。確かに小学生でも理解はできるだろう。榊さんが慌ててひらがなを書き始めた。


『だんすみいささき』


 それを並び替える。出来た文章は――


『みささんだいすき』


 洋以外の全員が脱力してソファにだらしなく寄りかかった。

 鞠子がその時の全員の思いを代弁する。

「…ああ、なんという回りくどいことを。こいつは自意識過剰な中学生か」

「空山さんとしては、その名前で晴れて役者として一本立ちできたところで、実はかくかくしかじかで、と言うつもりだったと思いますよ。周囲から何と言われても、五年間ずっと守り続けたことから、彼の気持ちが変わらなかったことがわかります」

「パパ」

「はい」

「何だかそこだけ、論理的じゃない気がする」

 そう鞠子に言われた途端、驚いたことにいつも冷静な洋は熟れきったリンゴのように赤くなってしまった。


 *


 榊と馬垣は、朝の松本市内を警察署に向かって歩いていた。

 昨日、鞠子の家で枕を並べた時、馬垣は何かを考えているようだったので、そのままにして榊は先に寝てしまった。

 今朝、起きてみると馬垣は晴れやかな顔をしている。整理がついたのだろう。

 その話をするために榊はあえてタクシーを使わず、病み上がりに申し訳ないが少し歩かないか、と馬垣を誘った。昨日の酒は既に醒めていた。

「馬垣」

「はい」

「結局どうだったんだ」

「ああ」

 馬垣は、山男が誰でも無意識にやることなのだが、北アルプスの槍ヶ岳方面を向きながら大きく背伸びをした。

「やられました。こちらの計画がすっかりばれていましたね」

「えっ? いつの間にそんな話を洋さんとしたんだ?」

「してないですよ。ただ、ガトーショコラのことを考えれば明らかです」

「ガトーショコラ?」

 そういえば、何で夜中に人数分のケーキがすんなり出てきたんだろう。

「あれは昨日の晩に、我々がなんとかして笠井警部の自宅に乗り込もうとするだろうと先を読んで、最初から準備がしてあったことを示しています。しかも、口実を探して居座ることまでお見通しだ」

「えっ、何で」

「でなければわざわざケーキを準備しませんよ」

「それはそうだ」

 夜中にやって来てすぐに帰る客に、ケーキは準備しない。つまりは(どうぞごゆっくり)という意味だ。

「じゃあ、何もわからずじまいかよ」

「いえ」

 馬垣が楽しそうな顔で言った。

「洋さんが謎の人物であることは間違いないです。すべて理解した上で私たちを受け入れて、さらに私の疑問を解消させたんです。ただ、少々怒らせてしまったようですね。笠井警部を巻き込むなという警告までされた」

「何でそうなる?」

「朝御飯ですよ。あれは警部が前後不覚になるまで酒を飲ませたことに対する罰です」

「どうして罰なんだ? 旨かったじゃないか」

「だからですよ」

「えっ?」

「私たちは自力では、あれよりも美味しい朝食は作れないし、どこかで食べることもできませんよ。しばらくは朝になるごとに思い出して、目の前の現実に打ちのめされることになるはずです」

「確かに」

 榊は急におとなしくなる。警察の独身寮の食事を思い浮かべたのだ。

「ともかく、全体的に私たちは洋さんの掌から出られなかった。あれは微塵流では、場律の技だと思う」

「ということは」

「そう」

 馬垣は言う。

「彼は微塵流の正当継承者、帝釈天です」

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