パパは覆面作家 第二章 パリスの審判

阿井上夫

第一話 十月十九日 瞳子の日常

 覆面怪盗の事件から一ヶ月が経過した。

 長野県松本市は紅葉のシーズンとなり、北アルプスと中央アルプスの山肌では色とりどりの木々が美しさを競いあっている。白馬岳方面に至っては既に冬に近い。

 信州の朝の冷気は次第に起きる気力を奪ってゆく。日に日に布団から出ることが苦行になる。

 なるほど、信州人が我慢強くなるはずだ。

 笠井瞳子かさいとうこは朝の日課である祖父の体操を丁寧に繰返しながら、頭の片隅では別なことを考えていた。

 瞳子の生活は事件の前後で何も変わっていないように見える。

 しかし、父親である笠井洋かさいひろしの隠された一面を知ったことで、瞳子は「それまで当然と思っていた世界の裏に自分が知らない面がある」可能性に気がついた。

 いや、もっと素直に言えば「自分の知らないところで何か良くないことが起きているかもしれない」という不安を消せなくなってしまった。

 前回の事件では洋が浮気しているのではないかという疑いから、瞳子はなかなか抜け出せなかった。

 結果としてそれは単なる疑惑でしかなかったけれど、その経験から両親の関係が決して理想的なものではない、ということに気づかされたのだ。

 父親の洋と母親の笠井鞠子かさいまりこの生活時間は大半が擦れ違いで、両親揃って仲睦まじげにしている姿を瞳子はあまり見たことがない。

 一緒にいることが多いのにすれ違がっているということであれば分かりやすいのだが、一緒にいる時間すらないというのはどうなのだろうか。

 鞠子は仕事が忙しくて考える暇すらないのかもしれない。しかし、洋のほうはどうなのだろうか。

 瞳子は子供心に「パパがママに愛想を尽かさないか」と不安を感じていた。

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