第五話 魔王が呪詛を唱えたら
「それでは参ります」
イアンはそう言いながら禍々しい扉を押し開いた。金属のこすれ合う耳障りな音が洞窟内に響き渡る。
眼前に広がってゆく室内は暗く、しかしその遥か向こうのほうでは無数の光が瞬いていて、あたかも夜空のように見えた。
――光の瞬き!
カナンは戦慄した。それは決して星などではない。
ミオンが即座に呪文詠唱して緋扇を一閃する。火球が飛び、部屋の遥か上空で停止した。
明灯を片手に戦闘する訳にはいかないので、照明代わりに使われる火焔魔法である。
それで室内の全貌が判明した。
軍勢。
第十一迷宮の地底湖に匹敵するほど広い平地の向こう側に、魔物の軍勢がひしめいていた。
数を推定することすら出来ないほどの大軍勢。ただ、ボスらしき魔物の姿が中央にある。
大魔王クレアモン。
しかも、黒と赤の二体――軍編成でも単体を破ることが出来ない第七迷宮の中ボスが、しかも複数である。
特級探索者向け迷宮とはいえ、あまりの難易度にカナンの頭はくらくらした。脚の震えが止まらない。
――こんなの、無理。
しかし、彼女の弱音とは真逆の声が室内に響いた。
「イアン、ガード、先手!」
「「おう!」」
「ミオン、
「承知!」
グェンの凛とした指示に、三人が即座に応じる。怯えなど微塵も感じられない。
「カナン、僕の後ろに。絶対に動かないで!」
「あ、はいっ!」
カナンはあたふたとグェンの後ろに着く。途端に上空を埋め尽くす唸りを聞いた。
矢。
一斉に放たれた無数の矢が、黒い粘菌のように密集して襲いかかってくる。
あまりの密度に、そのうちのいくつかがぶつかりあっているところまで見える。
避ける場所がない。逃げる時間もない。
――無理!
カナンは二度目の弱音を吐くが、同時にその後ろから流れ出した歌を聴いた。
いや、これは正しくは歌ではない。
主要部分のみを詠唱するショート・バージョンは戦場でよく使われていたし、カナンも耳にしたことがあるので分かる。しかし、フル・バージョンは一度も聞いたことはなかった。
すべてを詠唱するのに一分近くかかるその長さと、一字一句、定められた音程を間違えてはいけないという厳密さで、火焔系魔法奥義と言われる呪文。
それが絶体絶命の中、美しい旋律で詠われてゆく。躊躇いはない。
そして、前にいるグェンが叫んだ。
「
イニシエーション・デルタ工房の呪文彫刻が発動。その際の振動で彼の全身が二重写しになる。
迫りくる矢。壁のような圧力。
「ふん!」
重い息。
そして、カナンの眼前でグェンが爆ぜる。
耳のすぐ横を通り過ぎる矢の風切音。
それが十秒ほど続いて、急に静かになる。
矢は、カナンとミオンを中心とした半径二メートルの円の外側に散乱していた。
「イアン、ガード、あと三十秒!」
「「おう!」」
二人は矢の壁が到達する前にその下を抜けて、魔物の軍勢の先鋒と交戦状態に入っていた。
動きが早過ぎて捉えきれない。そして捉えている暇もない。
再び上空を埋め尽くす唸り。
「ふん!」
グェンの重い息がカナンの腹に響く。そして再び彼が爆ぜた。
今度は辛うじてカナンの目が追い付く。
グェンは半径二メートルにある矢をすべて薙ぎ払い、弾き飛ばしていた。あてずっぽうに剣を振り回して出来る芸当ではない。
しかも、すべての矢に対応できるわけはないから、中心部にある矢を弾き飛ばしたついでに、その周辺の矢を巻き込んで弾き出しているように見える。
第二波の矢も半径二メートルの外に散らばる。
グェンは叫んだ。
「イアン、ガード、退避!」
「「おう!」」
二人は即座に後退した。
カナンの背後ではミオンの呪文詠唱が音程を一オクターブ上げ、部屋の中を音素で満たしてゆく。
その間にイアンとガーランドは、グェンの横に戻ってきた。
障害のなくなった魔物の尖兵達は、津波のように押し寄せてくる。その後方からは矢の第三波が放たれ、黒い雲を形成した。
正面と上からの挟撃。地面を踏みしめる振動と矢の風切り音が圧力となって押し寄せてくる。このままでは先に矢が到達し、直後に軍勢が殺到することになるから、逃げ場はない。
その時、カナンの耳にグェンの声が届いた。
「全員後退!」
即座にカナンはミオンの後方に退く。しかし、その時点で他の三人は既に退避を完了しており、それぞれの顔に笑みを浮かべていた。
呪文詠唱の余韻が尾を引く洞窟の中で、ミオンは吐息のように呟く。
「
途端、炎が炸裂した。
カナンの眼前は赤くなる。
火焔が明確な指向性を持って放出される。
凶悪な熱波で、空中にあった矢は即座に燃え尽きた。
魔物の尖兵達は全身を瞬時に焼き尽くされ、灰となって散る。
ミオンを中心とした半球状の火焔は、すべてを飲み込みながら進んだ。
そして、その進路上にあった生は死へと、無慈悲かつ平等に変換されてゆく。
火焔は運命を切り分けながら、半径一キロメートルほど進んだところでやっと消滅した。
ミオンが最初に打ち上げた火球も消滅したらしい。
薄暗い迷宮のあちらこちらに炎が散乱している。魔物の焼け残りなのだろう。刺激臭が鼻を突いた。
「よいしょっと」
ミオンが再び緋扇を一閃する。火球が飛んで地下空間の上で静止したため、詳しい状況が判明した。
「えっ……」
カナンは目の前に広がっている光景が、一瞬信じられなかった。
四人の目の前には黒く焼け焦げた空間が広がっている。
その先にいる魔物の軍勢は、最初の時に比べるとざっと三分の二近くが消滅しているように思われた。
前衛に並んでいたはずの
魔物軍団の中では軽装歩兵の位置付けにあたり、集団戦闘では常に先陣を切って殺到してくる
今や軍勢の中心は
魔物達はさほど動揺しているように見えない。
「流石に最大難度の呪文詠唱はきついわね。少しだけ休ませて頂戴」
ミオンがグェンに対して、疲れた顔で微笑む。
「お疲れ様でした。君は僕が守るからゆっくり身体を休めて下さい」
グェンがミオンに対して、優しく声をかける。
「それではガード、我々は行くとしようか」
イアンがガーランドに、さも当然のことであるかのように告げる。
「無論だ。右はイアンに任せる。左は私に」
ガーランドはイアンに、さも当然のことであるかのように答える。
そして、ミオンは戦闘中であるにもかかわらず部屋の片隅に無防備な姿で横たわった。その表情は寝室にいる時のように穏やかである。
その前にはグェンが立ち、腕組みをしながら敵を待ち受ける様子を見せた。先ほどまでの戦闘で、カナンは彼の実力を嫌というほど思い知った。これほど頼りになる騎士はそうはいない。
イアンとガーランドは併走しながら魔物を殲滅してゆく。互いに互いの動きを邪魔をしないように注意を払いながらも、縦横無尽に剣と拳を振るっていた。
それぞれに桁違いの実力を持つ特級探索者が、それぞれの持ち場を心得て集団として動いており、そのほうが充分に実力を発揮できているようにすら見える。カナンはその在り方に改めて衝撃を受けた。
特にガーランドの動きが、過去にカナンが見た動きと比べて桁違いに速い。
同時にカナンは、ガーランドが軍による集団戦に積極的ではないことを思い出した。
お願いされれば参加を断らないものの、自ら進んで集団戦に加わろうとはしなかったし、戦闘中は殆ど位置を変えない。
「皇帝ガーランドが立っているところが、常に最前線である」
という評判を生むほどに動かない。
もちろん、それには「女の子であることがばれては困るから」という理由もあるのだろうが、それ以外にも理由があったのだ。
――彼女は遠慮していたんだ!
普段の彼女は自分の動きに周囲の探索者が巻き込まれることがないように、遠慮して動けないのだ。そして、それが「最小限の動きで最大限の効果を生み出す」というガーランドの戦闘スタイルを、結果として生み出していただけなのだ。
例えるならば、それは幼稚園児の群れの中にいる大人のようなものである。
周囲の幼稚園児は大人の都合を考えずに思いがけない動きをする。そこで大人が本気を出してしまうと、周囲にいる幼稚園児に怪我をさせかねない。
それと同じことで、ガーランドが不用意に動くと、魔物以前に他の探索者がそれに巻き込まれる可能性がある。
カナンのレベルでも冗長性がキャンセルされた状態になると、味方の動きが急に邪魔になるのだから、特級探索者にとってはそれがもっと深刻なのに違いない。それほどに力の差が大きすぎるのだ。
そして、だからこそ特級探索者たちは単独で迷宮を攻略せざるをえないのだろう。周囲に展開している仲間の力を信じて、全面的に任せることが出来なければ、自分の力を十分に発揮することすら難しいに違いない。
今、イアンと一緒に戦っている時だけはそれを考える必要がないから、ガーランドは全身を使ってフルパワーで動き回ることが出来ている。
しかも、それだけではない。
イアンがいる方向からは敵がこないと考えてよいのだから、意識を向けるべき範囲は狭くなり、その分だけ判断は早くなる。それで更に加速する。
お互いがお互いにそうであるから、イアンとガーランドは縦横無尽に位置を入れ替えながら、魔物を殲滅してゆく。
その連鎖がまるで芸術家の舞踏を見ているかのように美しかった。
戦闘中であるにもかかわらず、カナンの心は高鳴る。これはもうレベルがどうのという問題ではないし、上級者に対する妬みが生じる余地すらない。
「凄い……」
思わず感嘆の声がカナンの口から洩れた。
その時、集団を組み、仲間数体を楯にして二人の攻撃を辛うじてかわした魔法騎士三体が、カナンたちのほうに向かって突進してきた。
魔法騎士は第八迷宮のラスボスである。カナンもその攻略戦に参加していたが、止めを刺すのに苦労した。それが二体。
カナンの身体は強張る。
グェンの実力は先程の防御で目の当たりにしていたが、さすがにこれはかなり厳しい――
「グェン、お願い」
「了解だ、ミオン」
グェンの足が発光した。
呪文彫刻による魔法増幅の発動により、彼は高速で戦場に飛び出す。
「カナンちゃん、グェンは本当は鎧なんかいらないのよ」
ミオンの嬉しそうな声がカナンの背中のほうから聞こえてくる。
「彼の本来の力はそんなものとは関係ないから」
カナンはミオンの声を聞きながら、前方から目が離せなくなっていた。
「彼の別名は『絶対零度の計算機』――戦闘中の事象全てを計算しつくし」
グェンは魔法騎士の一団に正面から切り込み、
「剣も魔法も、紙一重のところですべて見切られる」
三体が時間差で放った、火焔、氷柱、雷撃の魔法攻撃を、すべてかわしてゆく。
カナンの目には、それがことごとく命中しているようにしか見えなかった。
「よっこらしょ」
グェンが間の抜けた掛け声とともに、中級装備に見える剣を後方に構える。
それと同時に剣に施されたイニシエーション・デルタの呪文が青白く輝き出した。
魔法増幅――しかも、それはカナンの持つ上級装備の魔剣『鋼星之誉』より眩しい。
「ふん!」
グェンが再び鼻から息を吐く。同時に剣が動いた――らしいが、カナンには見えなかった。
まるで瞬間移動したかのようにグェンの身体が魔法騎士三体の向こう側に現れる。
その直後、三体の魔法騎士は腹部から両断されて、黒い焔を巻き上げながら消滅した。
即座にミオンの傍らに戻るグェン。
イアンとガーランドもカナンのそばに戻っている。
そして、グェンが宣言した。
「そろそろ最終局面です」
部屋の向こう側から、黒と赤の大魔王クレアモン二体が前に進み出た。
同時に二十体ほどの泥巨人、魔法騎士、火焔魔人がその後方に下がってゆく。最後の
「どうやら、ある程度まで敵キャラの数を減らすと、中ボスが前に出てくるようになっているようですね」
「どう攻める、グェン?」
「そうですね――ミオン、そろそろ大丈夫そうですか?」
「いけるわよ、グェン」
「そうですか。じゃあ、こうしましょう。まず、イアンとガーランドが時間を稼いで下さい。ミオンは火焔波動の最大難度をもう一度。その後、私が最大加速で突っ込みます」
そして、グェンはカナンのほうを見て、にっこりと笑う。
「カナンさん、ミオンをお願いします。守って頂けませんか?」
「はい!」
カナンは素直にそう答えた。
グェンの配慮が痛いほど伝わってくる。彼はここでカナンに役割を与えることで、彼女がパーティーの一員であることを示したのだ。
実際のところ、カナンの実力ではクレアモンに太刀打ちできない。そんなことは本人が一番よく知っている。それでも、グェンは戦力の一つとカウントしてくれたのだ。
カナンは、「もしミオンに敵が迫ってきた時には、自分が身代わりになってでも救う」つもりで剣を構える。
「それでは始めます。イアン、ガード、最大戦速!」
「「おう!」」
イアンとガードの姿が消える。
カナンの後方から再びフル・バージョンの火焔系魔法奥義呪文が詠唱される。
「俺は右!」
イアンが叫ぶ。
「私は左!」
ガーランドが呼応する。
二人はおのおのの敵に急速に接近すると、
イアンが両拳を漆黒の巨体に叩きつける。
ガーランドが剣を深紅の巨体に突き刺す。
まるで荒れ狂う竜巻のような速さである。
そこでグェンが叫んだ。
「イアン、ガード、退避!」
「「おう!」」
二人は即座に後退。
ミオンの呪文詠唱が音程を一オクターブ上げる。再び室内は音素で満たされた。
ミオンが吐息のように呟く。
「真火焔波動――」
途端、火焔は二体の魔王めがけて放たれる。直撃。
いまだ目の前が赤くなっている中、剣を後方に回したグェンが息を吐いた。
「ふん!」
カナンはグェンの残像だけを辛うじて捉える。
直後、黒赤二体のクレアモンが咆哮を上げた。
いずれの胸にも巨大な刀傷が付けられている。
――やった!
カナンは確信した。
――これだけのクリティカルヒットを受けたのだから、斃れないはずがない。
二体のクレアモンが咆哮を上げながら、地面に向かって身体を傾けてゆく。
そして、とうとう地面に倒れこもうとした瞬間に、
クレアモンは両腕を地面についた。
そして、重苦しい輪唱が室内に響き渡る――二体のクレアモンが同時に呪詛の詠唱を始めたのだ。
「なんで!?」
カナンは目の前の光景が信じられなかった。
「あの連続攻撃で斃せないというのは、どう考えてもおかしい」と考えた。
――これじゃあ、何をやっても無意味じゃ……
「まずい。イアン、青いスッポン準備!」
ガーランドがイアンに向かって叫ぶ。
「品切れだ」
「なんですって、こんな大事な時に限って!!」
「申し訳ない」
「そんな、申し訳なさそうに全然聴こえない声で言わないの!!!」
グェンがミオンを労わる。
「また休んでいてくれるかい」
「分かったわ。じゃあ、しばらくの間、私を守って頂戴ね」
彼らは誰一人として諦めてはいなかった。即座に次の攻撃に備えて準備を始めている。
しかし、大魔王クレアモンの呪詛を止めない限り、状況は何も変わらない。
そして、クレアモンは今にも呪詛詠唱を終えようとしていて――
室内に呪文詠唱が響き渡り、大魔王の身体が僅かに輝いた。
クレアモンの呪詛が途中で途切れる。
――えっ?
カナンが状況変化についていくことが出来ずに呆然としていると、ガーランドが叫んだ。
「ユダ、遅い!」
すると部屋の後方、扉に近いところから男性の声が聞こえてきた。
「すまない」
「戦闘が始まったら扉は開かないんだから。最初からそこに居たんでしょ! だったら、もう少し早めに手助けして頂戴よ!!」
「悪かった、ガーランド」
カナンはいまだに状況が把握できていない。そこで、グェンに訊ねることにする。
「あの、グェンさん、これは一体何が起こったのでしょうか?」
「いやあ、私も驚きましたよ。まさかそんな手でクレアモンの呪詛を無効化するなんて思いもしませんでしたから――」
グェンは頭をかきながらこう話を続けた。
「――彼は大魔王クレアモンに
「えっ!?」
カナンは目を丸くした。
戦闘中にボスに対して治癒魔法を用いる、というのは前代未聞である。それでは魔物の体力が回復してしまって……
そこでカナンは、やっとあることに思い当たった。
「つまり、大魔王クレアモンが呪詛を詠唱する前まで体力を回復させた――そういうことですか?」
「その通りです。それで呪詛をキャンセルしたのです」
グェンの言葉にカナンは絶句する。
グェンは僅かに微笑むと、扉の方向に向かって言った。
「ユダ、姿が見えないと戦闘に巻き込む可能性があるから、隠蔽魔法を解除してくれないか」
「……分かった」
少しばかり躊躇してから、ユダは了承する。
直後、カナンは扉の傍らから黒い鎧を見につけた男性が姿を現すのを見た。
「紹介しますよ。彼の名前はユダ、別名『黒き
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