第四.五話 再起動
ユダは迷っていた。
イアンが守秘義務を曲げて伝えた話の内容は、彼の心を大きく揺さぶった。心が落ち着かない。この世界に酒があったら煽りたいところだが、流石に酩酊感をフィードバックする機能は存在しなかった。
窓の鎧戸を締め切った薄暗い室内。それでも隙間から差し込む陽光が、室内を漂う些末な埃をちらちらと輝かせている。
――埃ですら輝くか。
自分にはそんな資格すらない。埃にすら及ばない最低の人間である。現実世界で呼吸をし続けることが嫌で、この世界に逼塞しているにすぎない。自ら命を絶つ勇気もない。
彼女を陰ながら見守っていることも、よく考えればこの浅ましい命を繋ぎとめるための口実に過ぎないと感じる。
その過程でかなりの財産を迷宮から得たが、特殊装備は売却してしまったし、金貨はストレージに注ぎこんだ。
そのストレージには膨大な情報が詰め込まれている。半分は彼女の活躍の記録であり、残りは偽装のために集めたその他の情報だ。
システムのバックドアを知り尽くしているユダにとっては、情報の収集は造作もないことであり、それを拡散するのもまた容易である。
机の上には昨日仕上げたばかりの『月刊迷宮通信』が置かれていた。
銅貨一枚という破格な値段。この世界では粗末なパンの一つも買えない。しかし、それが積み重なると膨大な資産を産む。
印刷物の体をとってはいるものの、印刷の必要はない。街角の売店に山積みされているものが、一定の量を下回ると勝手に増える。新たな号を発行すれば、前号は自然に消滅する。
物流の概念がないこの世界の苦肉の策を、逆手にとったやり方である。それによって莫大な稼ぎがもたらされたが、彼にとっては意味がなかった。
結局はイアンの言う通り、「システムの裏口を利用した犯罪行為」に過ぎない。
ベッドの上で壁に身体を凭れた姿勢のまま、ユダは呆然と空気を見る。
日はいつの間にか傾き、埃の輝きは見えない。所詮は自ら発光しているわけではないのだ。輝きが失われれば存在が消える。その点は自分とよく似ていた。
彼という天才を失った自分は、自らを輝かせることができずに闇に沈んだ。しかも、失う原因を作ったのは自分である。
――救いようがない。
また無性に酒が飲みたくなった。久し振りに現実世界に戻ろうかと考え、上体を壁から引きはがす。軽く引きはがせたことを意外に感じる。
よろよろと立ちあがって机のほうに向かうと、そこに置かれている赤い結晶を握った。ステータスウィンドウを持たないこの世界では、何らかのアイコンが操作の起点となるが、物はなんでも構わない。
彼の場合、掌の中にある結晶がそれである。アイコンに触れながらコマンドを詠唱すれば、操作完了となる。
しかし、ユダはそのまま固まってしまった。
鎧戸に空いた僅かな隙間から、微かな陽光が彼の使い古した黒い鎧に弱々しい光を投げかけている。その光は、鎧の胸当ての中央にある緑色の紋章を浮き上がらせていた。
蔦の意匠。特に大きな意味はない。
――特に大きな意味はないはずなのに……
ユダは視線を外せなくなった。
次第に薄れゆく光。微かな吐息のように紋章は闇に沈む。それでやっと思い出した。
「これは僕達の友情を繋ぐものだよ。いつまでも枯れずに伸び続ける関係を象徴しているんだ」
彼の言葉を忘れてしまうなんて、どうかしている。
ユダの心から蔦が伸びる。それは随分と久し振りに身体中に満ち、力を伝えていった。
――そうか。
この、いかにもわざとらしい演出が実に彼らしい。そして、彼が何の工夫もせずにメッセージを残すことはありえなかった。
――それならば話は別だ。俺自身が彼との再会を望んでいるのだからな。
ユダは急いで装備を身に着けた。
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