第二話 特級探索者は暁に吠える

 特級探索者――それは、現時点で世界に五人しか存在しない、最高ランクの迷宮探索者である。

 しかし、彼らについて語る前に、まずは迷宮の種類について説明しなければなるまい。

 迷宮はその攻略の難易度によって、大きく五つのランクに分けられる。

 最も初歩的な第二十迷宮。これは「子供用」と言ってもよい。

 迷宮内のどんな敵と戦っても一切のダメージを受けないし、出てくる魔物も見た目からして牧歌的だから、家族連れがピクニック感覚で使うこともできる。

 第十九から第十五までの迷宮は「初級探索者向け」である。

 初めて迷宮探索に出た者は、ここで一通りの基本的なスキルを学ぶことになる。

 しかもここは、魔物のレベルが段階的に上昇する親切設計になっている。

 そして、第十四から第十までの迷宮は「中級探索者向け」だ。

 一般人が単独行をしても、なんとか最期まで行ける上限である。

 但し、変則的なイベントが発生する可能性も高いため、それなりの装備が必要だ。

 以上の三ランクが『二桁迷宮』と呼ばれている。

 そして、その上が『一桁迷宮』で、この段階になると単独での攻略は実質的に困難となる。

 急にこれまでの戦術重視の戦闘から、戦略重視の戦闘に切り換わるからだ。

 それでも、第九迷宮及び第八迷宮は、なんとか軍編成でラスボスを攻略できた。

 しかし、現時点で第七迷宮の攻略は暗礁に乗り上げている。

 これまで以上の大規模な軍編成で攻略に臨んでも、後半にいる大魔王が倒せないのだ。


 また、この世界では「迷宮に入った時点のグループ単位で、イベントが発生」する。

 言い換えると、既に攻略された迷宮であっても新たに入口から入れば、初めて入った探索者と同じ条件で攻略が進められるようになっているのだ。

 従って、既に軍が攻略したラスボスをより少ない編成でより短時間で攻略する、その記録を競うことも出来る。

 もちろん、究極目標は「単独でラスボスを秒殺する」ことだが、第十迷宮までは既にラスボスの単独攻略が完了しており、新たな記録を打ち立てることも難しいほどに秒殺が一般的になっていた。

 ところが、第九迷宮以降は桁違いに難易度が上がる。

 そのため、単独行で第九迷宮のラスボスを攻略できたものは未だに五人しかいなかった。

 その五人が、前述の特級探索者である。

 さらに、第四迷宮から最終ステージである天上迷宮までは「特級探索者向け」と呼ばれている。

 特級探索者でなければ、迷宮の入口に足を踏み入れた瞬間に秒殺される――それほど過酷なレベルだ、とまで言われている。

 しかし、実際にその内部を見たことのある者はおらず、特級探索者であっても、現時点では第五迷宮の入口付近までを探索し終えたに過ぎない、と噂されていた。


 *


「要するに何を依頼したいのですか? 内容の説明を簡潔にお願いします」

 男はきっぱりとそう言い切った。

 カナンは、昨日から準備していた決めの台詞を一蹴されたショックから、まだ立ち直れなかった。

「あの、そうですね。ですから、その、掃除をお願いしたいと」

「でも、心の中とか、抽象的なことを言われても困ります。掃除には薬剤を使ってよいのですか。堅めのブラシは大丈夫ですか。前もってその辺のところを具体的にお答え頂かないと、作業が出来ません。事前に確認もせずに進めて、途中でやり直す羽目になるとか、最後の最後でこんなつもりはなかったと言われるとか、トラブルになるのはプロとして許せませんから、事前に必ず必要事項を整理し、文書化しておのおの一部ずつ保存させて下さい。さもなければ、白紙委任して下さい。何がどうなってもクレームは一切致しません、という一文にサインをお願いします」

 そう言って、男は懐から書類を取り出そうとした。

「ちょっと待って頂けませんか!」

 カナンは慌てて男の動きを制止した。

「白紙委任をしたくない訳ではありませんが、その前にちゃんと私の依頼内容を聞いておく必要があるのではありませんか? でないと白紙委任する意味がありません。それより何より、受け手として不味いのではありませんか?」

 彼女は早口でそう言った。

 その間、男は元の無表情に戻っていたが、彼女の話の内容を理解するやいなや、

「おお、それはそうだ。大変失礼致しました。確かに貴方の仰る通りです。今ここで白紙委任状にサインをされてしまったら、私はどんな依頼であっても受けなければいけません。いや実に正直な方だ」

 と、トイレのスッポンを右手に持って腕組みをしながら、上下に大げさに頭を振って感心し始めた。

 その男の様子を見つめながら、カナンのほうは急に、

「こんな男に任せて本当に大丈夫なのだろうか……」

 と、不安になった。

 情報屋の話では特級探索者の中でもトップクラスの凄腕ということらしいが、先程の行動と言動から考えるとただの掃除好きである。

 それ以外のことには全く興味がなさそうな様子から、掃除オタクと呼んでもよいぐらいだ。

「それでどのような依頼ですか? もちろん掃除に関わることでしょうね」

 先程までと違いノリノリな男を見ていると、カナンは溜息をつきたくなる。高揚した気分は影も形もなくなっていた。しかし、成り行き上、話さない訳にもいくまい。

「とりあえず、最後まで黙って話を聞いて頂けませんか」

 そう念押しをして、彼女は語り始めた。


 *


 ここで話は少々横に逸れる。

 カナンの依頼内容について触れる前に、前提となる条件を先に説明しておかないと分かり難いからだ。

 既にお気づきの方も多いと思うが、カナンと男がいるのは所謂「VRMMORPG(バーチャル・リアリティー・マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム)」の中である。

 米国の老舗ゲームメーカーであるメイズ・アンド・ドラゴンズ社が二〇二五年に発表した「ザ・ワールド・オブ・メイズ」というゲーム・システムで、仮想現実空間上のアバターとして彼らは行動していた。

 欧米系のゲームは、日本製のようなユーザー・フレンドリーが重要視されていない場合が多い。

 この「ザ・ワールド・オブ・メイズ」も例外ではなく、執拗なまでに現実感が追求されている。

 レベルやステータスという数値情報が空間表示されることはない。

 アイテムは身に着けるかバックパックに入る分しか携行できない。

 迷宮の途中にはマップを保存したり、外に戻るワープルートは存在しない。

 辛うじてマッピング出来るところが現実との相違点である。

 このハードな設定が意外にもウケて、二〇二九年時点では最大ユーザー数を誇るVRMMORPGだ。

 使用方法は至って簡単で、ユーザーは頭部に網目状のBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)とFMD(フェイス・マウント・ディスプレイ)を装着し、首に太いバンドを巻いて安楽な姿勢をとる。

 その後、「オン・ザ・ワールド」というコマンドを音声入力するだけで、脳内に世界が広がるようになっていた。

 視覚は、FMDから発生する疑似網膜情報信号を網膜から直接取り込むことで、脳内に形成される。

 聴覚は、インナーイヤーフォンによって提供され、外部の音はノイズ・キャンセリングされていた。

 触覚、嗅覚、味覚は、頭にかぶったBMIが電気的な刺激を発して、それが大脳に送り込まれて生成される。

 首のバンドが脳からの運動信号を脊髄の手前で読み取ると同時に、対信号を発生させて末端筋組織への伝達を相殺する。

 その一方で検出された運動信号は解析され、視覚情報に反映されていた。


「脳内で発生した運動信号を利用して外部で疑似網膜情報記号を更新する」技術自体は、比較的早期に実用化されていた。

 しかし、何故その動作が必要かという目的が適切に処理できないために、初期のVRMMORPGでは誤差が非常に大きかった。

 例えば、足を上げるという運動を機械的に検知したとする。

 その目的が「目の前にある階段を歩きたい」ためのものなのか、それとも「剣を振り下ろすための前動作をする」ためのものなのか区別がつかなければ、正確に動作を再現できずに錯覚の元となる。

 具体的には、「停止しているエスカレーターに動いているつもりで足を踏み出してよろめく」のと同じような誤差が細々と生じることになるから、船酔いに似た症状に悩まされることになる。

 そのため、なかなか実用に耐える技術にはならなかったのだが、二〇二〇年にこの分野の技術革新が起きた。

 脳内各部位の電位差と脳内伝達物質の濃度変化という生化学反応に着目することで、脳内の運動信号に付随する目的が推測可能であると判明したのである。

 動作に付随して生じた感情が、特に緊張を伴わないものなのか、激しい緊張を伴うものなのか、快楽を伴うものなのか、苦痛を伴うものなのかは、電位差と濃度差から分かる。

 それを踏まえて行動を予測する技術の登場と、その精度の向上により、VRMMORPGの実用化は一気に進んだ。

 同時期にオンラインでの処理速度が向上したことにより、首のところで検出された運動信号は、現実世界で身体の動きに反映される速度よりも僅かに速く視覚に反映されるようになる。

 そうすると、利用者全員が「何だか身軽になったぞ」と感じるようになった。

 現実世界に戻ってきた時、自分の身体の重さを感じて憂鬱になる「スピード・ロス」が問題視されたのはこの時期だ。

 現在では、ログアウト直後に感覚を現実にあわせて調整するためのクールダウンタイムが設けられており、現実世界よりも三割増しの速度が実現可能な仮想現実世界との行き来も支障がなくなっている。


 *


「私の兄である川島正雄は、MITでBMIの基礎研究をしていました。在学中にメイズ・アンド・ドラゴンズ社から声がかかり、卒業後に「ザ・ワールド・オブ・メイズ」の開発に携わったのです」

 カナンの話を男は最初の約束通り黙って聞いている。

 むしろ外野のほうが五月蝿い。

「MITって何なの?」

 と、狐目の豆狸が訊ねたので、

「みんなのITの略称じゃない?」

 と事務担当者が答える。

「マサチューセッツ工科大学の略称です!」

 とカナンは口を挟んだ。


 *


 川島正雄は「ザ・ワールド・オブ・メイズ」プロトタイプの中で、管理者アドミニストレイター権限でBMIの調節を行なっていた。

 管理者であるから、最終ステージである天上迷宮であっても何の問題もない。

 どこに行くのも自由自在である。

 そうやって迷宮を探索しているうちに、彼はあることを思いついた。

 昔から仲の良かった妹に、発売直後にこのゲームを送るのと一緒に「イースター・エッグ」をプレゼントしようと考えたのだ。

 ここで言うイースター・エッグは、もちろん復活祭の日に装飾した卵を子供たちに探させる遊びのことではない。

 コンピュータのソフトウェアには、開発者が意図的に「本来の機能とは無関係なメッセージを表示させる機能」を隠していることがあり、それらはイースター・エッグと呼ばれていた。

 ソフトウェア開発が大企業化し、個人の作業分担が断片化し、品質管理が厳格化されるに従って、イースター・エッグは次第に姿を消していったが、昔堅気の企業は偽造防止の目的で継続していることがある。

 そして、メイズ・アンド・ドラゴンズ社もそんな昔気質の会社だった。

 一般的なサラリーマン企業であれば、「個人的なメッセージをゲームの中に残したい」という要望が受け入れられるはずはない。

 しかし、いまだ色濃くベンチャー気質を維持していたメイズ・アンド・ドラゴンズ社の経営陣は、正雄に対するインセンティブとしてそれを認めた。

 それほど、「BMIで得られた情報をソフトウェア側で処理する際の連携プログラム開発」における正雄の貢献度は高かったからである。

 正雄は自ら作成したイースターエッグ・プログラムを、彼以外の誰も保存場所を知らない形でシステムの中に隠した。

 その時点で予定されていたゲームバランスであれば、発売後の早い段階で隠された場所まで妹が到達できるものと正雄は考えていたのだが、ここで想定外の出来事が起きる。

 発売寸前にゲームの寿命を再検討した会社が、一桁迷宮の難易度を急激に上げてしまったのだ。

 BMIの最終調整に集中していた正雄は、そのことを全く知らなかった。

 勿論、知っていたとしても経営判断であるから、彼が異議を唱えることはなかったのだが、そのために齟齬が生じていた。

 全世界同時発売の際、正雄は『ザ・ワールド・オブ・メイズ』の日本語版フルセットを妹に贈っており、その際に同封した手紙には、

「第五迷宮の中盤にメッセージを隠しておいた。セットの固有番号に反応してイベントが発生するようにしてあるから、楽しんでね。一年ぐらいでそこまで行けると思うよ」

 と書かれていたのである。

 その頃、まだゲーム好きではなかった妹は、尊敬する兄の言葉をそのまま素直に受け取った。

「メッセージの件、有り難う。とっても楽しみだよ。なるべく早く行けるように頑張るからね」

 彼女はゲームセットの礼を言った後、疲れ切った顔をしていた兄を気遣い、早口にそれだけを付け加えて海外との通話回線を切った。

 もし、彼女がこの後に起きる事を知っていたならば、メッセージについて兄に問い質していたはずである。

 しかし、その機会は永遠に失われ、小さな齟齬は大きな障害に発展してしまった。


 この電話の直後、ゲームの完成を祝う会社のパーティーに出席した正雄は、最期の追い込みの疲れもあって会場で酔い潰れ、寝てしまった。

 会場から彼の自宅まではさほど遠くない。

 そのため、彼の自宅を知っている仲間の一人が「俺が送り届けるよ」と言い出した。

 正雄が起きていたら、決してそれを承知しなかったであろう。

 運転手もまた酔っていたが、彼は今まで何度も同じことを繰り返しており、その時も問題はないと考えていた。

 そして、重大な問題は「たいした問題ではない」と考えている時に生じる。

 自分を乗せた車が蛇行運転を繰り返した後、対向車線の大型トラックに正面衝突したことを、正雄はとうとう知らずに終わった。


 *


 場の空気が急に重くなる。

 VRMMORPGの中であるにもかかわらず、その気配のようなものを全員が共有した。

『ザ・ワールド・オブ・メイズ』の公開後、比較的初期の段階からカナンの活躍は探索者の中で知られていた。

 特に三年前からのやり込みようは半端ではなく、ゲームの中に住んでいるのではないかと噂されるほど、彼女はあちらこちらの主要なクエストに顔を出していた。

 魔剣『鋼星之誉』の入手や莫大な資産の蓄積は、その結果、副次的に得られたものに過ぎない。

 呼び名の『カナン・ザ・グレート』にしても、彼女のその常識外れなスタイルを反映していた。

 だから「カナンは重度のゲームマニアである」というのが一般的な認識であり、それを揶揄する声もある。

 また、彼女の八方美人なキャラクターを嫌うアンチ・カノン派も存在している。

 まさか背景にこのような救いのない話があるとは、誰一人考えていなかった。

 重い雰囲気を打ち消すように、カナンは努めて笑顔を浮かべる。

「ごめんなさい。ここまでの話は依頼内容を理解して頂くための補足情報なので、すぐに忘れて下さいね。兄の死から四年が経過していますから、私もすっかり心の整理が出来ています」

 背の高い青年は、いまだトイレのスッポンを右手に握り締めて腕組みをしながら、言った。

「伺った話から察するに、私への依頼事項というのは第五迷宮絡みのようですね。しかし、心の整理がついているのであれば、もう少しお待ちになったらどうでしょうか。確かに、現在の軍編成による攻略は第七迷宮の中ボスで進行が止まっています。しかし、これまでの歴史が示している通り、個々のレベルが上がって軍編成した時の層がさらに厚くなれば、状況は変わります。もう少しお待ちになれば、第五迷宮まで到達する日が来るのではありませんか? 個人的な見解で恐縮ですが、あと三年もすれば第五迷宮の完全攻略まで到達するように思いますが」

 カナンは青年の言葉を、真剣な表情で聞いていた。

 そして彼の話が終わった途端、ふっと小さな溜息をつくと言った。

「それでは遅いのです」


 *


 初めのうち、ゲームの初心者に近い彼女は迷宮探索に苦労した。

 体力回復薬や解毒薬などの基本装備品に金をケチり、途中で不足したために体力回復できずバッドエンドを迎えたり、

 マッピングを疎かにしていたために迷宮内で迷子になった挙句、外に出るために魔獣にわざと斃されて成果をすべて台無しにしてみたり、

 見た目が弱々しい不死人アンデッドを相手に正攻法で真面目に闘ってしまい、気が付いたら周囲を不死人に取り込まれてみたり、

 そんな初心者が犯しやすい間違いを何度も繰り返しながらも、カナンは兄の残した最期のメッセージを聞きたくてレベルを着実にあげていき、一年を経過する頃には初心者のレベルを遥かに超えていた。

 それにも拘らず、第五迷宮はまだ遥か先にある。

 最先端の探索者達がやっと第九迷宮のボス戦に軍編成という戦略を取り始めた段階であり、第五迷宮は誰も見たことがなかった。

「兄が嘘をつくはずはない」

 と確信していた彼女は、知り合いにその辺の事情を訪ね回ってみる。

 すると、その中に『ザ・ワールド・オブ・メイズ』の開発スタッフが含まれていた。

 町で情報屋を営んでいた彼は、皮袋(小)に詰め込まれた金貨を受け取りながら言った。

「ああ、それはゲームを売り出す直前に、社長の鶴の一声でゲームの難易度をいきなり上げたからだわ」

「じゃあ、第五迷宮はどのぐらいのレベルになるんですか?」

 黙って右手を差し出した男の手に、先程と同じ量の皮袋を載せると、彼はにんまりと笑って気楽な声で言った。

「第九迷宮以降は、迷宮一つの完全攻略に一年半はかかるぐらいのバランスになっているはずだから、あと六年以上は無理な計算になるねえ」


 その言葉を聞いて、カナンは蒼白になる。


 誰かが第五迷宮まで到達したら終り、ではない。

 兄の言葉によれば、カナン自身が第五迷宮の特定の場所に行かない限り、イースター・エッグは発動しないのだ。

 そして彼女はその年、大学に入学したばかりである。

 それまでも受験勉強とゲームのバランスを保つのに苦労していたのに、それが更に六年も続くという。

 社会に出たらゲームばかりやっている訳にはいかない。

 実質、大学生の間に勝負をつけなければならないし、彼女は留年したくなかった。


 *


 彼女の両親は彼女が中学生の頃に事故で亡くなっていた。

 保険金や損害賠償で相当な金額が遺されたため、それを目当てに親戚達が二人の面倒を見ようと群がってくる。

 そんな親戚を嫌悪した兄は、妹を全寮制の高校に入学させる一方で、自身は米国に留学した。

 親戚達が簡単に妹に接触出来ない様に策を講じた上で、米国での生活基盤が整ったところで彼女を迎える段取りになっていたのである。

 ところが、不慮の事故で彼までが多額の遺産を残して亡くなってしまった。

 彼の葬式が終わるか終わらないかのうちに、親戚たちは「まだ高校生であるカナンの身元保証人に誰がなるか」を巡って、見苦しい争いを繰り広げる。

 それに閉口したカナンは、こう宣言していたのである。

「高校には寮があるので問題ございません。大学に進学したら誰の世話にもならずに自立します。もし、その時の私の生活に何か問題があるようでしたら、その時は言って下さい」

 その時点で彼女は一年以内に兄のメッセージを聞き終え、ゲームの世界から足を洗うつもりであったが、その目算が完全に狂ってしまった。

 ゲーム三昧で大学を留年したり、就職浪人になったとなれば、親戚達に格好の口実を与えることにある。

 それは決して出来ない。

 従ってタイムリミットはさらに短くなる。

 大学在学中の三年間で勝負を決めないと、卒業や就職が危なくなる。

 それでもまだ、時間をかければ何とか到達できそうな話ではあるから、最悪、会社員になってからも細々と続けていくという選択肢があった。

 致命的だったのは、一年前に流れた裏情報である。

「一桁迷宮で大規模なバージョンアップがあるらしいよ」

 

 そこから彼女の苦難は本格的に始まった。


 *


 狐目の豆狸と事務担当者は、話の展開の激しさに目を白黒させている。

 彼らは本来、カナンの依頼案件に対する完全な第三者であり、名前すら知らない。

 従って、カナンとしてはここまで事情を詳らかに説明する必要はなかったのだが、一緒に聞いて欲しかった。

 見た目はともかく、狐目の豆狸はおそらく恐ろしく頭が切れる。

 事務担当者にしても、その狐目の豆狸が見込んでビジネス・パートナーにした人物であるから、ただのオタクではあるまい。

 そして、『魔窟掃除人』イアン・チューリングは、自分が気に入った仕事しか受けないと聞いている。

 現在の依頼主であり、カナンのファンでもある事務担当者の存在はマイナスにはならないだろう。

 過酷な人生の中をうまく渡っていくために、そのような打算を瞬時に働かせる必要が彼女にはあった。

 人々が眼にするカナンの外見は、そのような打算が作り上げた虚構の産物である。

 カナン自身もそのことを内心嫌悪していたのだが、仕方がないことと諦めていた。

 しかし、その時のカナンは自覚していなかったが、打算とは別な思いも含まれていたのである。


 発端は狐目の豆狸に試食させてもらったアイスクリームである。


 選んでいる時、カナンは本気で楽しかった。

 そして、その味は最高に美味しかった。

 両親が亡くなってから、彼女は家族で食事をすることがなかった。

 さらに兄が亡くなってからは、店で目についたものを手当り次第に買い込み、味わう間もなく咀嚼し、食事の時間を最小限に削って、ゲームの世界に戻る生活を続けていた

 だから、物を食べる楽しみを感じたのは久し振りである。

 そのことが彼女の心の垣根を部分的に崩して、今まで一人で抱え込んでいた重荷をここで吐き出したいという気持ちを引き起こしていた。

「兄がお金を遺してくれたお陰でバイトをする必要はありませんでした」

 カナンは目の前にあるアイスクリームの器を、自分の心の中身であるかのように見つめながら話を続けた。

「そして、大学の至近距離に住めば移動時間が最小限にできますから、必修の授業だけを集中して履修すると、残りの時間は家に籠ってレベルアップに邁進しました」

 そこで、狐目の豆狸がふっくらとした手を挙げる。

「あの……本来、私は部外者なので口を挟むのもなんですが……」

「お気になさらず。自分でも理由はよく分かりませんが、お二人にも話を聞いて頂きたいのです」

 カナンは笑ってそう言ったが、自分が先程までの打算をすっかり忘れて、心の底からそう考えていることには気が付いていなかった。

 狐目の豆狸は、にこやかに笑うと意外なことを言った。

「宜しければアイスクリームを召し上がりながら、話をされませんか?」

 そう言うと女はカナンの答えを待たずに、先程と同じように滑らかな手つきで抹茶味のアイスクリームを掬い取ってガラスの器に盛った。

 透き通った器に鮮やかな緑が映える。

 女はそれに銀のスプーンを添えて、カナンの目の前に差し出した。

「女の子は甘いものを食べると、束の間であっても幸せな気分になるものです。お話には合わないかもしれませんが」

 そういって女はにっこり笑った。

 カナンは僅かに震える手で器とスプーンを受け取る。

 そして緑色のアイスクリームを一かけらだけ掬い上げると、口の中へと運んだ。

 まず、舌の上に抹茶の僅かな苦みを感じる。

 それは後に続く、舌の根元に感じるじんわりとした奥深い甘みを一層引き立てていた。

「やっぱり美味しい……」

 カナンは呟く。

「そう言ってもらえると、とても嬉しいわ」

 女は穏やかに微笑む。

「ここ数年、ゆっくりと美味しいものを味わう余裕がなかった」

 カナンは呟く。

「そうですか。じゃあ、今日は十分に味わって下さいね。いっぱいありますから」

 女は穏やかに微笑む。

 カナンの瞳からころんと涙が零れた。


 *


 カナンが兄から贈られた『ザ・ワールド・オブ・メイズ』は、見た目こそ市販品そのものだったが、内部のBMI連携プログラムに独自のチューニングが施されていた。

 市販のBMI連携プログラムには、サーバにユーザーのアクセスが集中した時のことを考えて、敢て冗長性を生み出すカウンタープログラムが組み込まれている。

 例えば、迷宮におけるラスボス戦で敵味方が入り乱れて戦う場合、処理が重くなり過ぎると感覚の欠落や画像の抜け落ちが発生しかねない。

 その場合、戦闘に参加している者全員の冗長性プログラムが起動して、時間が僅かに遅らされていた。それによるタイムラグを活用して、処理の平準化を図るためである。

 全員が一律そうなっているのだから、誰もそのことに気づくはずがない。

 しかし、カナンのBMI連携プログラムには、その冗長性が組み込まれていなかった。

 そのことに彼女が気が付いたのは、軍編成でラスボス戦に参加していた時のことである。

 周囲が混乱の巷に陥っていた時、急に周囲の全てのものの動きが遅くなった。

 一割程度の冗長性であっても、ぎりぎりの戦闘の中では非常に大きなアドバンテージとなり得る。

 ラスボスの剣の動きを余裕を持って躱せるようになったカナンは、有効打を与え続けて、最後にはそのラスボスを葬り去っていた。

 一緒に戦った者達はそのことを知らず、彼女の動きが土壇場で高速化したことを驚嘆と賞賛をもって受け入れた。

『カナン・ザ・グレート』の名はその戦闘後に一気に広まり、彼女は主要なクエストに招かれるようになった。


 *


「でも、それは決して私の実力ではありませんでした」

 アイスクリームをゆっくりと口に運びながら、カナンは話し続けた。

「兄が贈ってくれたシステムのお陰です。それが私という虚像を作り上げてゆくことに私は最初のうちこそ喜びを感じていましたが、それが自分の考えている自分の実像から乖離していくことに、次第に恐れを抱くようになりました」

 自分だけが異なる条件を与えられている。

 実力では他の探索者に劣るのに、混戦になると動きが突然速くなって敵を殲滅することになる。

 しかもそれは戦闘が激しくなればなるほど顕著なものとなる。

 なぜなら冗長性が亢進すればするほど、本来の動きを維持することができる彼女のアドバンテージは高くなるからだ。

 他の者が培った実力だけで闘い、僅かの差で敗れて消えてゆく中、自分だけが最期まで生き残るようになる。彼女はそのことが次第に重荷になり始めた。

「自分がずるをしているという意識は次第に大きく、重くなりました。でも、死んだ兄のメッセージを聞くという目的を達成するためには、第五迷宮まで到達しなくてはいけません。一人で第五迷宮に挑戦を試みたこともありますが、入った途端に秒殺されました。単独行動でシステムの冗長性が生じることはありませんから、私はただの無謀な探索者に過ぎないからです。ですから、私はどうしても仲間を探さなければいけなかった。自分を第五迷宮まで連れて行ってくれる誰かを」

 そこでカナンの手が止まる。

「でも、現時点で攻略の最前線は第七迷宮で膠着状態に陥っています。私も攻略軍に参加していますが、第四十二層の中ボスである大魔王クレアモンがどうしても斃せずにいます。クレアモンは最後の最後、瀕死寸前まで追い込まれてしまうと、配下の魔物たちを依代としてその場にいる勇者を実力上位の者から順に十名まで、迷宮外に押し出してしまうからです。そうなると私は大抵の場合、飛ばされてしまいます。仮に残れたとしても冗長性は解消されて、私のアドバンテージはなくなってしまうことでしょう。中ボスを秒殺しない限り、攻略は困難だと思います。だから、第五迷宮まで攻略が進むことは困難と考えて、私は別な手段を選択することにしました。既に三年前から温めていた計画で、誰か自分よりも強い人に第五迷宮まで連れて行ってもらうことを。戦闘を避ければなんとかイベントが生じる場所までいけるのではないか、と」

「それが今回の私に対する依頼内容という訳ですか」

 青年――『魔窟掃除人』イアン・チューリングは腕組みをしたままで言った。

「その通りです。でも、ここまで話して、やっと気がつきました。依頼は取り下げようと思います」

「それは何故ですか」

「……」

 イアンの言葉にカナンは直ぐには答えられなかった。話が一端切れる。

 そこで、狐目の豆狸は微笑みながらバナナフレーバーのアイスクリームを差し出した。カナンはそれを震える手で受け取ると、掬い上げた一かけらをゆっくりと口に入れる。

 ミルクの滑らかな口当たりに続いて、バナナの濃厚な甘みが口の中に広がり、それは舌の根元をじんわりと刺激する。鼻腔の奥のほうで芳醇な香りを感じた。

「本当に美味しい」

 カナンはぽつりと呟く。そして、彼女の瞳からまた一粒だけ涙が零れ落ちた。

「ごめんなさい。イアンさんには大変失礼なことをしました。だからちゃんと理由を説明します。ここで頂いたアイスクリームのお陰で、私はやっと気がついたのです。ゲームの中ですら、こんな風に誰かを楽しませることが出来るのだと。私、誰かのために何かをすることをすっかり忘れていました。兄のメッセージにここまで拘ってしまったお陰で、すっかり周囲の人間関係を駄目にして、自分の大切な時間を無駄に費やしてしまいました。それに何となく気がついてはいたのです。兄が遺したメッセージといっても、私がそこに一年後に到着することを想定して簡単な「頑張ったね。おめでとう」というメッセージを残した、という可能性が一番高いことを。それを聞くために、こんなに自分を飾り立てて、友達を欺き利用して、卑怯な手をさんざん使ってしまいました。こんなに無理をしなくてもよかったのに……」

 カナンの手が震え、ガラスの器に銀のスプーンが当たる音がする。

 涙は頬を伝って次から次へと流れ落ちていった。

「その時間をもっと有効なことに使えば、どれだけのことが出来たのか。今ここで、そのことに気がついてしまったのです。私は馬鹿でした。本当に浅墓な人間でした」

 涙が止められない。銀のスプーンを持つ手が濡れてゆく。

 それを狐目の豆狸が清潔なハンカチで拭ってくれた。カナンは彼女に手の甲を擦られながら泣き続ける。

 その姿を見つめながら、イアンは小さく溜息をつくと、言った。

「ふむん。しかし、それでは部分的に汚れが残りますね」

「構いません。私がそこまで拘ったのがいけないのです」

「お兄さんのメッセージはどうなるのですか」

「次回の大規模アップグレードで消されなければ、いつかは聞くことが出来るでしょう。消されてしまったのならば、運命だと思って諦めます」

「本当に諦めることができるのですか」

「……」

「本当に諦めることができるのですか」

「……」

 イアンの追及に狐目の豆狸は何か言おうとした。

 しかし、事務担当者の穏やかな視線に制されて、彼女は口を噤む。

「本当に諦めることができるのですか」

「……ごめんなさい。諦めきれません。無理です」

 カナンの口から本音がポロリと零れ出た。

「大好きな兄の死ぬ前の言葉です。どんなに他愛のないものであったとしても、私にとっては大切な宝物です。諦めることなんてできません。どんなに勝手な女だと言われても、蔑まれても、それでも絶対に諦めることはできません!」

 カナンの心情が口から迸り出る。

 それを聞いたイアンはにやりと笑うと、叫ぶように言った。


「宜しい! 依頼は承った!!」


「え……」

 カナンは霞んだ視界の中、不敵に笑うイアンを見つめる。

 彼は続けて、

「それでは契約内容を復唱しよう。今回の依頼の達成条件は『依頼人が第五迷宮に隠された依頼人宛のメッセージを最後まで聴くこと』、これで宜しいですか」

「あ、はい。確かにその通りです」

「そのための手段は私に一任して頂けるということで宜しいですか」

「はい。当然です」

「では、報酬を先に決めておきましょう」

「あ――」

 そこで口籠ってしまい、カナンは顔を赤くする。

「分かりました。希望の額を仰って下さい」

「そうですね。今回の依頼はなかなか骨が折れそうだから――」

 しばし頭を捻るイアン。

 カナンは彼を固唾をのんで見守る。全財産かけても惜しくはないが、それ以上だと払えない。

 彼は腕組みを解きながら言った。


「では、途中で生じた金貨の類をすべて頂くことに致しましょう」

 

 カナンは焦った。

「そんな……それじゃあ無報酬と一緒じゃないですか?」

 依頼がなくとも、イアンが単独で第五迷宮に入れば同じことである。

 しかし、彼は全く意に介することなく言った。

「いえ、正しく報酬です。それで宜しいですか」

「――はい」

 カナンは目がさらに潤みそうになるのを堪えて、言った。

「それから、流石に第五迷宮ですと私と依頼人だけでは危険です。他に協力者を三人揃えますので、お許し頂けますか?」

「あ、はい。お任せします」

 イアンの言葉に、カナンは同意する。

 すると彼はカナンが思いもよらなかった言葉を口にした。

「それではミオン、グェン。君達も同行して貰えるかな」

「もちろんですわ」

「喜んで同行しますよ」

 狐目の豆狸と事務担当者が即座に応じる。

 カナンは彼らの名前を聞いて愕然とした。


 特級探索者ミオン――別名『紅蓮の魔女』

 同じく特級探索者グェン――別名『絶対零度の計算機』


 見た目からは想像もつかない実力者である。二人はにこにこ笑っていた。

 そしてイアンは更に驚くべき名前を口にした。

「ガーランドも呼ばなくてはいけないな」


 特級探索者ガーランド――別名『皇帝』


「ああ、彼ならば勝手な話ですまないが、話の最中に連絡を入れておいたよ。イアンの依頼ならばOK、だそうだ」

 グェンが軽く言った。

「話が早くて助かる」

 イアンも軽い口調で応じる。

 カナンは眩暈を覚えた。特級探索者五名のうち、四名が私の依頼のために力を貸してくれるという。

「あ、あの――」

 震える声で何か言おうとしたカナンの手を、ミオンのふっくらとした手が優しく撫でる。

「その契約条件で宜しい?」

 カナンはミオンを見つめた。

 彼女の瞳は優しかった。

「――お願い、します」

 カナンは喉から言葉を押し出すようにして、そう言った。

 イアンはさらに声を張り上げて宣言する。


「これで契約は成立した。成立時間は――東京だと午前五時三十分になるね。本時間をもって我々は契約を履行するための作戦立案段階に移行する」

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