(注意 R12程度のおIRK描写が含まれます)
〇
夏の終わりの、とある一日。
……まずい。
どうしたって、これはまずすぎる。
御剣昴一郎は、ただひたすらに慄き、震え、身を強張らせていた。
朝焼けの中、教皇院の手配によって規制がなされ、すれ違う車とてほぼない山超えの道を疾走する、汎用特型多目的二輪陸戦機〈ケルベロス〉のサイドカーゴに身を沈め、流れ去ってゆく緑豊かで風光明媚な景色を憂鬱な思いで眺めながら……重々しい気分でため息をつく。
そんな様子に苦笑いしつつ、バイク部分に座する操縦士(ハンドラー)である、髪を獣の尻尾のように結わえた、黒いライダーススーツ姿の麗人――狗戒かなめが声をかけた。
「どうしたんですかこーいち君? ほーらっ、景色も綺麗じゃないですか、荒っぽいことも終わったんだし、もっと明るい顔してくださいなっ」
「……これが、どうして愉快な顔していられましょうか」
端的に表現するなら優美な姿態と野性味溢れる魅力を持つ妙齢の美女。とでもいうべき容姿の彼女は、平時であれば一緒の空間にいて談笑させてもらえるというだけでも幸いな相手ではある――のだが。
まったく楽しくおしゃべりしようと言う気も湧いてこない。
……あろうことか、現在、雇用主であり、家主であり、実の母親にも匹敵する斎月くおんに無断での外泊。
時計の針がとうに頂きを叩き、日が昇ってからの帰路。
俗にいう午前様。――である。
昨日の昼過ぎに突然やってきて
「ごめん!ちょっとばかり手を貸してください!」
という彼女の要請に、まあお互いまったく知らない仲というわけではないし、世話になったという憶えもなくはないし、まあ自分が彼女役に立てるのであればまあよかろうか、という軽い気持ちでサポーターとしての同行を快諾してしまった自分を張り倒してやりたい。
ちょっとほんのそこまで、位の軽い語調で連れられて来てみれば、結局一晩かかりで山奥を駆けまわって、彼女が標的の首を噛み千切るまでのたのしい大立ち回り、である。
「いやー、……結局一夜を共にしちゃいましたねえ♪ いやねえ、ちゃんと悪いとは思ってるんですよ?」
「……くおんさんは勿論ですけど、たまこちゃんとかの前でそういう物言いしないで下さいよ」
あの子、かなめさんのこと、ちょっと色っぽいけど品があって、腕利きのオトナの女だと思い込んでるんですから。
と、ついつい返す言葉にも毒が混ざる。
「……んぁ? それじゃあわたしが本当はまるでその正反対の、胸がでかいのだけが取り柄のボンクラ女みたいじゃないですか?」
「……そこまでは言いませんよ、いいませんけどね」
「そう言われたように聞ーこえますーー♪」
妙な節回しで、鼻歌でも歌うみたいにそう返される。これじゃあそれこそ痴話喧嘩でもしてるみたいだ。――自分と彼女はけしてそう言う間柄ではないのに、と、昴一郎が眉をひそめたその時、
「ちょー……っと、いいですかねぇ?」
と、狗戒かなめが声をかける。
はい?
と聞き返すと、一度マシンを停止させ、
「少しここらで、休憩していきましょうか?」
と、顎をしゃくって、斜め前の分かれ道。――今向かっている、最寄りの都市への車線ではなく。
「そっちだと、下の道行っちゃいますよ?」
もう少し走れば開けた公道に出るし、休憩と言うならサービスエリアもあるでしょう。
――と思う。
ただし、同時に、
そうなれば、交通規制が解かれるし、一般の車両ともすれ違うことになる。教皇院の人員とも接触することになる。
どうも、この狗戒かなめという人物が、邪魔されたくない、この場合自分だが、信用できる相手だけと話したい。などと企図する時は、こういう回りくどい話の持っていき方をしがちであることも、昴一郎はこれまでの付き合いで知っていて。
「……いいですよ、休憩しましょう」
と頷いた。
結構な長距離このマシンを運転し続けるのも、まあそれなりに重労働ではあろう。
下り坂の側道を通って、その先でもう一度小道に入り、森の中に分け入るような、それでも木立の中を清水流れる小川の脇に、どうにかひと息できそうなスペースを見つけて、〈ケルベロス〉を砂利の上に停車させた。
「……っん~~~~~!」
大きく上体を反らし、両腕を振り上げて伸びをして見せる狗戒かなめ。
……ああ、やっぱりそれにしても大きいよナア……と妙な感慨を憶えながら、いやあまり見るのも失礼かと、昴一郎はあわてて視線を逸らす。
そして、これでようやく人心地つけそう、という状態になって、御剣昴一郎は改めて現状を思いだす。
そう言えばくおんさんとやりとりするための連絡用端末さえ持って出てきていなかった、バカバカ御剣昴一郎のバカ!と、いま一度憂鬱そうに頭を抱える姿に、狗戒かなめは
「君、ほんと結局そこですよね?」
と声をかけ、
「……そんなにビクつくくらいあの子怒らせると怖いんですか? 言う事聞かないと食事抜かれたり折檻されたりするの?」
苦笑いと共に、冗談めかしてそう言った。
……それは、だって……と口ごもりながら、昴一郎は不承不承それに答える。
「……その、くおんさんが、心配するだろうし、不安だろうし……それにもしかしたら……悲しい想いをさせてるかもしれないじゃないですか」
「いや、君、ほんと結局そこですよね?」
なんてやり取りを交わしてから、狗戒かなめはぐるりと周囲を見回して、愉快そうに声を上げた。
「……ねえねえ、こいつが咲くと、いよいよ夏も終わりなんだなァ。ってしみじみ思いませんか?」
示された先に目をやると、そこには……真っ赤な、花。
彼岸花……曼珠沙華ともいう、紅の花が、木立の合間のあちこちに何本化ずつ群生し、どこか艶めかしい姿で咲き誇っていた。
「ああ、そういえば、そんな時期でしたか」
……少し前にこの花で恐ろしい想いも味わいはしたが、何でもなくみれば、やはり綺麗なものではあるし、季節の廻りの象徴の一つと思えば、風情があるものと言えさえするだろう。
そう思ったところで、昴一郎は、
「う……わっ!」
と、裏返った声を上げてしまうが、これは些か無理もないこと。だった。
「……んぁ?どうしたんです?」
と、いつもの穏やかな口調のまま、季節の花を愛でる余裕さえ見せながら。
――狗戒かなめが、ぐいっ!と大きく、ライダーススーツの前のファスナーを引き下げて……胸元の白い肌を、露わにしていた、のである。
「なっ、何してるんですか!」
と、あわてて顔をそむけ、明後日の方角を向く。
「……あー、水を使いたいんです……血を浴びてしまったんでね」
それは確かに、標的を仕留めた際に盛大に返り血が彼女に降りかかっていて。
直後に携帯していたボトルの水で直接触れたところは洗い落とし、濡れたタオルで拭ってはいたが……やはり気分のいいものではないのだろう。
昴一郎の狼狽えぶりを意にも介さずそう言いながら、そのままいそいそとファスナーを一番下まで引き下げて、腕を、脚をするすると順番に抜き取って、惜しげもなく脱ぎ去ってしまう。
「ほら、この通り、この下はちゃんと、水着みたいなもんですよ」
そう言って、改めてその場で麗しい立ち姿を見せつけられてみれば、優美な肢体を包むのは、さっきまで纏っていたライダーススーツと同じような、光沢ある質感のチューブトップと、恐らくは揃いで設えられてると思しきアンダー。
ライダーススーツ越しですらはち切れそうな量感を伺わせていた二つの膨らみは一層強調され、二の腕や大腿が白く伸びやかに、引き締まったプロポーションを印象付けている。
……美しくて、蠱惑的で……どこか俊敏な肉食獣のような機能性を感じる、と、昴一郎は頭の隅で思ってしまう。
まあ、しっかり隠すべきところは隠して、人に見せて問題ないと本人が言うならば……それならば少しくらい目を向けても悪いと言う事はないのかもしれないが、何と言うか、釈然としない。
「ちょっとばかりー、その辺で一休みしててくださいな」
と言いつけ、小川へと歩を進め、ちゃぷちゃぷと清水の中に脚をつけて、
「うひゃー! 水がしゃっこいー!」
と、稚気に満ちた声を上げる。
「こんなのもー、もうちょっとしたら寒くてできなくなっちゃいますねえー♪」
奇妙に節を付け、歌でも口ずさむような口調で言いながら、手ですくった冷水を艶めかしい素肌に浴びせて、気分良さそうに身を清めてゆく。
「あ、別に少しくらいそこで見ててもいいですよ?」
目のやり場に困りつつ、所在なさげにしていた昴一郎に悪戯っぽく微笑みながら
「君には以前、全部見られちゃってますしー、ねえ?」
とひとの悪い冗談を飛ばすのも忘れない。
それが、狗戒かなめという女性である。
昴一郎にとっては、そういう問題ではなかったが。
「止めましょうよ、そういうの……」
……ぼやきながらケルベロスのサイドシートを降りて、水筒の水で喉を潤しつつ、彼女の水浴びを視界の端に収めること、しばし。
「ねえ、かなめさん」
なんとなしに、ごくさりげなく、昴一郎は彼女の名を呼んでみる。
「……何ですかー?」
と返事がくるのを確認してから、
「……あれ、何だったんですか?」
と、切り出した。
「あれって? 何って?」
「……さっき倒した、あいつですよ」
あなたが獣みたいに喉笛噛み千切って仕留めた。
とまでは言わない冷静さが、その時の昴一郎には存在した。
もしそう言ってしまえば、狗戒かなめはそれがどれほど彼女にとって不利益であろうとも、物も言わずに自分を殴り殺すであろう。という確信があった。
「ウィッチですよ」
と、気のない返事が返ってくる。
「……あれは、ウィッチです。ウィッチだったんです」
重ねて、子供に言い聞かせるように、もう一度。
「……そうか。あなたがそう言うなら、そうなんでしょう」
けしてその答えに満足したわけではないが、昴一郎はそう応じた。
「やろうと思えば、自分にそんなこと疑問に思わせないようにすることだってできたはず」
ということも、同時に思う。
狗戒かなめは、時々こういうことをする。
底抜けに、自分の人生を生きる力に満ち満ちた、強い命のようで、どこか、腹の底にものすごくドス黒くて崩れそうな何者かを抱えている。
「いまわたしのこと、こいつクズだなと思ったでしょ?」
そうして、恐らくは彼女の稼業に由来する、おおっぴらに口にできないものであろうそれを、恐る恐る、包帯の下を見せるように、自分に暗に示す。
「……それで、いいです。……あんなことするやつを、……それを正しく白状することもできないやつを、君は赦しちゃいけない」
水の辺の、深紅の花に目をやり、それから背中を向けて、何だか傷だらけの子犬が鳴くような声で、狗戒かなめはそう口にする。
が――
「……いいえ」
それであっても昴一郎は、彼女の人格自体にはどこか敬意の様なものを持っている。
それは、初めて会った時から決して変わらない。
「別に、あなたのしたこと赦してませんけど」
川の半ばに立つ彼女に顔を向けて、そう告げる。
「許してませんけど、軽蔑もしてません。――ぼくが赦せるものでもないでしょうし」
「そう、ですか」
と、狗戒かなめは乾いた口調で返す。
「さっきのは、気が向いたら教えてください」
この、おっそろしく綺麗で、色っぽくて、生きぎたなくて、どうしようもなく不器用なひとが、これから先、どんな悲惨で酷たらしい最期を迎えることになるのか、それは判らないが。
それがどんなものであっても、自分はそれを心を落ち着けて受け入れようと……
「そうだな、ぼくも少しくらい、水遊びさせてもらいましょうか」
否。
否。きっとその時も自分はひどくみっともなく取り乱し、泣いて騒いで、彼女の為に、彼女に割いた自分の心を救うために喚き散らしてしまうだろうと、そう思いながら。
――口の端を引いて、笑顔を作って見せた。
今年の夏も、もう終わる。
「うわ……冷たっ!」
ズボンのすそをたくし上げて、彼女と同じく、川の水に足を浸ける。
「ああ、やっぱりこんなの、今しかできないですよね!」
「ええ、だから、今は……楽しめる時に、楽しんでおいた方がいい」
自分の前で、酷く死ねると思うなよ。
あんな顔をみてしまったからには
あんな声を、聴いてしまったからには
あんたを、ただの小悪党だなんて、思えやしない。
――きたないぞ、狗戒かなめ。
そう思いながら、御剣昴一郎は、夏の終わりの空に、笑い声を上げる。
おしまい