54「懸案事項」


・学童疎開は、その受け入れ先によって随分と対応が異なっているようです。
 本作で連絡会議を設定していますが、これもその一つとお考えいただきたいと思います。
 なお足利郡毛野村長林寺の記録である『集団疎開学寮の記録』では、集団疎開学童後援会が組織され、定期的に開かれて学寮側と地元との調整を行っていたことが記されています。


・疎開の体験談では、どの体験談でも食べ物に困っていたとあります。本作ではその困っている様子を描き出せませんでしたので、このエピソードを挿入してあります。

・農作物の収穫について、当時は現在ほど技術がないことを考えると、秋ごろはまだまだ食料が確保できた時期と捉えています。
 辛くなるのは、冬から春という想定です。お米頼りの地方だと夏場もキツそうですね。

・じゃがいもなどの保管はネットで見た保管方法ですので、一例とお考えいただきたいと思います。
 野菜主体の生活ですから、どうしてもタンパク質とか糖分の摂取が問題になると想定しました。
 戦争末期では、とにかくなんでも粉ものにして凌いでいたようで、本作でも代用食の講習会の所で石臼を登場させています。
 私の住んでいる地方では、地元で集まりがあると女衆が蕎麦を打つ風習があって、本作でもそば打ちのシーンを入れるつもりでしたが、作中でも書いたようにアレルギーの問題があるので取りやめました。

・大豆はまだしも、このころ豆腐が手に入っていたかどうか。農家で自作できていたかどうかがわからず、曖昧な書き方になっています。
 豆腐を自作していれば、もっと作中に出せる料理のレパートリーが増やせるのですが……。どなたかご存じではないでしょうか。大豆ミートも考えたんですが、やはり機械がないと無理そうですし。


・子供たちの娯楽について、作中に書いたように雑誌の配給はあっても、娯楽は少なかったようです。
 『この世界の片隅に』で主人公が闇市で絵の具を買うシーンがありましたね。画材も手に入りにくかったでしょう。


55「移動文化隊」

・岸田国士の『かへらじと』は青空文庫からです。

・慰問と戦意高揚のために、このような移動文化隊が農村を回っていました。人形を使った腹話術とか、音楽、講談、劇などをしたようです。
 とある農村で、特別攻撃隊を題材にした講談を行ったところ、村の人たちは喝采を揚げていたようですが、疎開学童はシーンとしていたという体験談があります。

 最初はそのあたりを絡めて、春香が移動文化隊に文句を言うエピソードにするつもりが、何故かこうなっていました(笑)
 『かえらじと』を執筆時に読んだせいだと思います。

 レイテ島からの葉書は『探偵ナイトスクープ』の放送ですね。
「ぼやくっくり」さんのサイト?
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1640.html

 奈文研まで調査を手伝っているという感動回です。


・疎開学童の食糧の問題で、親御さんから衣類などに挟んで送られてくる食べ物を先生に没収されたという体験談がよくあります。
 それも皆に配るといいつつ、配られなかったという。
 先生と寮母さんで分けて食べていたり、先生の部屋を覗いていたら、先生が食べているのを目撃したとか。
 暮しの手帖編『戦争中の暮しの記録』(私の手元のは平成28年23刷。最新の増補改訂版があるとききます)の「先生のピンはね」p128など
 それでみんなで学寮を逃げ出したり、先生の部屋を襲撃して食べ物を取り返したなどという体験談もあります。
 本作でははっきり書いていませんが、おそらく青木先生は食べているでしょう。

・お菓子に飢えた子供たちがやったのは、お菓子を絵に描くことです。その絵を見て食べた気になったというか。味を想像していたとか。それで絵の上手な子は人気があったとか。いじましいと言っていいのかわかりませんが……。

・このころすでに特別攻撃隊の活動が始まっています。これは清沢洌の『暗黒日記』で確認しました。この日記には、当時の新聞記事も貼り付けられていて、資料として便利ですね。



56「恩賜のビスケット」

・皇后陛下から疎開学童に下賜されたビスケットです。2月10日の紀元節で配られました。
 疎開学童にということなので、その他の地元の子供たちの分はありませんでした。
 そのために、本作のように、学寮によっては下賜されたビスケットの枚数を減らして、村の方へ配ったところもあったようです。


・季節風呂は色々あるようですね。
「菖蒲とゆずだけじゃないんです。日本の「季節湯」で、もっとお風呂を楽しもう」
https://kinarino.jp/cat6-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB/10987-%E8%8F%96%E8%92%B2%E3%81%A8%E3%82%86%E3%81%9A%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%AD%A3%E7%AF%80%E6%B9%AF%E3%80%8D%E3%81%A7%E3%80%81%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%8A%E9%A2%A8%E5%91%82%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%82%E3%81%86


・この頃、まだ空襲は精密爆撃というか、軍や工場などの局所を狙った攻撃になっています。
 が、3月の東京大空襲以後は無差別の攻撃となり、末期には一般市民にも銃撃が加えられていきました。

 参考にしているのは次のサイトです。
「とちぎ炎の記憶 とちぎの空襲・戦災を語り継ぐ会」
https://tsensai.jimdo.com/


・疎開学童の防空壕
 はじめは、そんなに大きな防空壕を掘っていたとは思わなかったので、林の中に逃げ込む設定にしていました。
 ところがネット検索してみると、あるんですね。疎開学童の防空壕が。

 「発見! キラッと☆香西」
 http://kouzai-cc.com/page2.cgi?Scate=6&Stype=4&Snumber=122



57「見送る」


・受験のために東京に帰る6年生。けれど、彼らを待っていたのは東京大空襲でした。

・『暗黒日記』を読むと、この頃、ほぼ毎日のように空襲があったようです。それでいて受験を取りやめとか延期の決定は、なぜなされなかったのでしょう。


・東京に行くに際し、子供たちだけで行かせたかどうか。また引率者がいたのかどうかがわかりませんでした。
 普通に考えれば、誰かついていったんだろうと考えて、直子さんに行ってもらったのですが、その結果はこの次の話で明らかとなります。


・鬼さんこちら
 正直に言うと、このエピソードは逸見勝亮『写真・絵画集成 学童疎開』2に出ている写真を見て、どうしても書きたくなって書きました。


・硫黄島、沖縄戦と、激しく壮絶な戦いが繰り広げられていく頃ですが、そちらはそれぞれの戦記ものをご覧になって下さい。


・工場の欠勤者が増えているというのは『暗黒日記』からです。


58「焦土東京」

・この東京の悲惨さを知りたければ、次の写真集をお薦めします。

石川光陽『痛恨の昭和』

 警視庁の事件現場を撮影する係をしていた石川光陽による記録写真です。
 その時の日記も掲載されておりますので、併せて一読を。

・また江戸東京博物館の図録『東京大空襲 戦時下の市民生活』も参考にしました。
 後ろの方に、空襲のあった地域が書かれています。
 3月10日の攻撃目標は、人口の密集地であったようで、浅草区を中心として、神田区・日本橋区・深川区北半分・本所区・下谷区東半分・荒川区南側のエリアでした。
 本郷区は南部が一部、その目標に入っています。

・空襲で亡くなった方の遺体は、近くの公園に埋められたようです。

「東京空襲 遺体処理証言」
http://www16.plala.or.jp/senso-koji/2-itaisyori.html

栗原俊雄「日本人が決して忘れてはならない「大空襲と遺骨」の話」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49149
※4ページ目に本郷区は六義園とあります。606名の遺体が埋められたようです。


・以後、多くの人が地方に疎開していきます。和則くんのセリフ「泣くもんか」は、疎開学童の記録『泣くもんか』の書名からもらいました。


◇◇
北海道の地震の被災状況がわかるにつれ、その傷痕の深さと広さに、道産子の1人として心を痛めています。
自衛隊になった同級生もいたけれど、きっと今ごろ災害救助活動にあたっているはず。片隅で祈るしかできないけれど、がんばって――。