忘却とは、罪なのであろうか。
何もかもを忘れ、それが過ちであることすら認識できないまま、何を忘れてしまったのかもわからずに男は平穏な日々を過ごすのだ。
あるときは、隣に座っている人の誕生日が過ぎていることを忘れたまま、他人の誕生日だったことを思い出し、メッセージを送らねばならないと言ってみたり、昼食を食べたはずなのに再び食べ始めたり、以前は炊飯予約をしていたはずなのにラーメンを食べに行ってしまったりなど、男には忘却がつきものだった。
注意欠陥なのだろうか、と思い悩むこともあるのだが、そんな悩みも、次の日には忘却の彼方へと消えている。
さて、男は今日もいろいろなことを忘れていた。
家に持ち帰ってやらなければならない仕事を忘れてみたり、昨日から始めたはずのダイエットを忘れてみたり、スーパーマーケットへどんな服を着ていけばいいのか悩んでいたことを忘れてみたりなど、いろいろ忘れていた。
そんな男はスーパーマーケットで夕飯の買い物をする。
肉や野菜など、ヘルシーに決めるつもりであった。
しかし、男はこの時すでに、重要なことを忘れていたのである。
家に帰宅する。
袋を冷蔵庫の前に下ろした時、男ははっとした。冷や汗をかいた。
あまりの冷や汗に、床が浸水したかのようにびしょ濡れになった。自分がどこか湖の中心にいて、ひとり世界に取り残されたかのような気分になった。
神様がいるとすれば、神様は残酷である。忘却の彼方に置き忘れていた記憶を、現実を目の当たりにする直前に思い出させるのだから。
男は思い出した。
かつて、ここには男が愛するものを大切に寝かせていた。潤いもある。光沢もある。その艶やかでみずみずしい身体を欲しいままにするためには、まだ時は満ちていなかったのである。
それは、青い果実と比喩できるであろう。
まだ手を触れることは許されぬ、禁断の果実。
男は、その一枚一枚を丁寧にめくりあげ、その麗しい果実に貪りつく瞬間を夢見ていた。
しかし、現実は違った。男が忘却に襲われ、その麗しい身体を忘れ去っていた。
暗く、冷たく閉ざされた部屋の中で、ゆっくりとその身体は崩れ落ちていった。やがてみずみずしさを失った、いや、みずみずしさをより液状に、ドロドロと溶かされたようにその身を腐敗させ、鼻から脳天まで穿つような腐臭を漂わせながら、それは、静かに終わりの時を迎えていた――。
男がその扉を開いたとき・・・
放置されていたキウイが、野菜室の中ですべて腐っていた。
今日も執筆は進まなかった。