男は無言を貫いていた。
目の前に映る長蛇の列に、もはや為す術はない。
男は病んでいた。いや、心ではなく、身体を蝕まれていた。擦り寄ってくる寒気と、全身に覆いかぶさるような倦怠感を携えて、男はその列に並んでいた。
列とは、元々分割する意味で使われていた言葉である。
何かを分けて並べるうちに、それが列という意味を持った。
部首であるりっとうがその証拠であった。
そのため、自分よりも先に割り込もうとするその輩たちをどうしようもできないでいた。ただでさえ身が持たないというのに、刀で切り裂かれるような苦しみが、余波が、全身へと浸透していった。
男は悩んでいた。
この列はもはや意味を成さない。間違った方向へと導く流れである。先導者は流れに棹をさし、まるでそれが悪魔が囁くかのように自分を導いていた。一歩、また一歩と足を進めるうちに、自分はいつしか冷や汗を流していた。“そっちに行ってはいけない――”そう、心の中から引き止めようとする声が聞こえる。しかし、もはや歩みを止めることができなかった。
前門の虎、こう門の狼。
うしろから迫る波に飲まれて、もはや男は先へと進むしか道はない。
例えそれが、茨の道であろうとも、寒気を武者震いに、高鳴る鼓動を勇気に変え、倦怠感を跳ね除けて、男はその門を潜った。
門を越えた先には、世にも奇妙な曲がりくねった一本道が待っている。さきほど割り込んできた輩たちが奇声を上げながらゆっくりとその高速のゆりかごに乗せられて、地獄へと旅立っていった。
一刻も早く、このゆりかごに乗って地獄に向かわねばならない。
この地獄の先には花園があると男は信じていた。
そのため、先程まで響いていた心の中の声は、「あ、もう行くしかないっすわ」と開き直っていた。
ゆりかごに乗り込む。
乗り心地は決して良いとは言えない。
ゆりかごはゆっくりと前進する。
乗り心地は全く良いとは言えない。
ああ、これから地獄に向かうのかと、見送る人に手を振りながら、男は出発した。目前に真っ暗な道が続いている。ただでさえ薄気味悪いだというのに、これから地獄へ向かっていくのだというのに、一緒に乗っている老若男女は皆不気味な笑みをこぼしていた。
意味のない会話が聞こえる。
それらは奇声とか、嘆息とか、言葉にならないような言葉ばかりである。不気味な薄ら笑いを浮かべているというのに、憂鬱な表現だけが男の耳に届く。
その幾つかの言葉を拾って、男はようやく、三つの文を組み立てることができた。
この闇の先に峠が見えるのだと。
その峠を越えたら、左を向いたり、俯いたりしてはいけないよと。
さぁ、快楽の始まりだ。
お尻の下に妙な浮遊感を感じながら、男はゆりかごに運ばれていった。
峠が見えると、男は拾った言葉を頼りに右の方を見た。
どういうわけか、指を二本立てていた。
指を二本立てると、その視線の先に一瞬の閃光が見えた。
なるほど、確かにこれは地獄ではあるが、妙な快楽を得られるものだ。
それが、世界一の急勾配を下るジェットコースターという乗り物であるということを男は知らなかった。
男は地獄から帰ってきた。
閃光に撮された顔は、愉悦に浸るような、苦痛に歪むような、難しい表情をしながらピースサインを出していた。
上下左右に揺さぶられた体は、思うようにいうことをきかない。
それでも男は、先刻の列で抱いた葛藤のケリをつけるために、花園へと足を速めた。
それは入口か、はたまた出口か・・・。
苦痛の波が勢いを強めている。波は強くなればなるほどその間隔を狭める。男は冷や汗と軽い涙を流しながら、トイレへと向かっていった。
結局、男を待ち受けていたのは、長蛇の列であった。
今日の執筆はある意味捗ったが、男は大切な何かを失った。
**あとがき**
もらしてません。