ちょっと疲れ気味の卯月です。
でも、それくらいのほうが文章を書くのには調子が良かったりして不思議です。元気いっぱいで頭はクリアなのに筆が進まないことがあるのは何なんでしょうかね。
いま谷崎の「文章読本」は、一番気になっていた文章の「調子」「文体」のところを読んでいます。このあたりのことってちゃんと書いてあるものを見たことがないんですよね。通して眺めてみましたが興味深い。この文章の「調子」「文体」もいつくかに分けられています。それぞれ例としてあげられている文豪さまの作品を照らし合わせながら再読中です。
この「調子」について谷崎は「調子は所謂文章の音楽的要素でありますから、これこそは何よりも感覚の問題に属するものでありまして、言葉を以て説明するのに甚だ困難を覚えるのであります。つまり、文章道に於いて、最も人に教へ難いもの、その人の天性に依るところの多いものは、調子であらうと思われます」と述べています。
この「調子」というのは、「文体」とは見方の違う同じものだと書かれています。
この文体というか調子というものは、たしかに作家さんごとにあるように思われます。カクヨムでもファンの多い村上春樹なんかは、とくにコアな人は村上春樹調で文章を書くことも可能でしょう。あまり彼の作品を読んでいない方からすると普通の文章にしか見えないかもしれませんが、わかる人にははっきりわかるでしょう。アレが「調子」というヤツですね。リズムというか流れというか、春樹的なそれが心地よく降ってくる。わかりにくい例えですみません。
分かりやすいのは、卯月も好きですけど西尾維新。物語シリーズで有名ですね。彼の文体は彼だけのものでしょう。誰が読んでも西尾維新だとわかるし、彼だから許される。好き嫌いは分かれるようですけどね。
ネット上でみつけたdaiさんという方のブログ記事「漱石と村上春樹と西尾維新の文体について」
https://hayatahirotaka.hatenablog.com/entry/2012/09/20/022300から引用。
漱石は「私は〜である」村上さんは「僕には〜出来ない」西尾さんは「僕は〜であって、○○でもあるし、かといって△△でもあって、とにかくどうしようもない人間なのだ」となる。
これはシンプルで分かりやすい。他にもファンの方ならいろいろ出てくるのでしょうけど。
というわけで、「調子」「文体」に意識を向けるのも面白いですよ。という近況ノートでした。