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てふてふ

家への帰り道、モンシロチョウがたくさん飛んでいました。めったにスマホで写真をとることのない卯月は大苦戦。撮ろうとすると奴らもそれに気づくのか、ひらひらと……。なんとか撮影した一枚も被写体がボケてますな。たぶん便利機能とかあるはずですが、まあこれでいいっしょ。ちゃんとアップされてますかね。近況ノートってプレビューできないのがつらい。

蝶といえば、小説を読んだり書いたりされる皆さんが思い浮かぶのは「胡蝶の夢」ですかね。

昔者(むかし)、荘周、夢に胡蝶と為る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喩(たのし)みて志(こころ)に適(かな)ふか、周なることを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為れるか。周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此れをこれ物化と謂ふ。

荘子(荘周)による、夢の中の自分が現実か、現実のほうが夢なのかといった説話ですね。夢と現実の境があいまいで、区別できないことのたとえとして使われます。

5月20日からは「第2回カクヨム短歌・俳句コンテスト」。卯月は参加しませんけど、こんな短歌がありました。

百年(ももとせ)の花にやどりて過ぐしてきこの世は蝶の夢にぞありける(大江匡房)

(百年もの間、花を住み家に借りて過ごしてしまった。やはりこの世は蝶の見る夢だったのだなあ。)

大江匡房(おおえのまさふさ)は平安時代後期の歌人。学者でもあったことからこの「胡蝶の夢」をモチーフにしているんですね。

アニメなんかでも、さりげなく蝶がひらひらと飛んでいるシーンが差し込まれていると、ここからは現実ではないですよと暗示するとか(ソースは岡田斗司夫)。ちなみに誰も気にもかけないでしょうけど、拙作「とある並行世界の春の終末」では熾天使を蝶にみたてて夢オチの暗示を仕込みました。ちょっと無理があるかな(一応六本足の昆虫的な姿ですけど)……。

「カクヨム短歌・俳句コンテスト」に挑戦される方は頑張ってくださいね。卯月は古い短歌や俳句には心ときめいて妄想も膨らむんですが、現代短歌とか俳句はちょっと……。俵万智の「サラダ記念日」が流行ったのが中学か高校の頃、特に何も感じることもなくスルーしてました。俳句は松尾芭蕉の奥の細道に関係の深い場所が近いこともあって、芭蕉さんの俳句は多少知ってるくらい。

ああ、前の近況ノートに載せた「たんぽぽの ぽぽのあたりが 火事ですよ (坪内稔典)」のようなのは好きですかね。基本的に言葉の語感とか文字面といった感覚的なところが卯月の好き嫌いの基準ですからね。難しいことは抜きにして、声に出してみて感じの良いものがお気に入りです。

そういうノリでコンテストに参加されるみなさんの作品は楽しむつもりでございます。

今日はてふてふに出会えた卯月でした。

では。

1件のコメント

  • モンシロチョウ。久しぶりに見ました。ありがとうございますm(_ _)m
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