書けないときは書けないなりにもがき方を模索します。
GWということもあり、昨日は国立西洋美術館に行きました。
『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』
現代の作家が”国立”でありながら”西洋”の作品を蒐集・展示する美術館の存在意義について問い直す企画展です。
結論からいって、とても面白かったです。
でも、多くの人にとっては退屈でよくわからないものだったのでは、という気もしました。
現代アートはとても概念的なので、
コンテキストへの理解がないとなにが描かれているのかまるでわからないことが多いです。
一方、西洋美術のような歴史的な、特定の文化依存的なコンテキストではなく、
むしろ美術・芸術と呼ばれるものや、社会そのものへの問いかけという形での主題が多いため、
説明を読めば表現しようとしていることがよく理解できます。
印象に残っているのが、
藤田嗣治(レオナール・フジタ)がもしパリではなくバリに行っていたらというifからはじまる作品、『帰ってきたペインターF』です。
藤田は戦前、パリで画家として活動し、戦中に帰国、戦争画に関わったことで"「戦争協力者」と批判されることもあった"(Wikipedia)そうです。
そんなこんなに嫌気がさした藤田は再びパリに戻るわけですが、
それがパリではなく、インドネシアのバリ島だったとしたら……?
おそらくこの企画展のために製作されたものではないのですが、
あらゆる分野で抱え続けている西洋中心主義的なものの見方、
そもそも西洋とはなんぞやという問い、
藤田の容貌のユーモアと”もし”の持つ荒唐無稽な想像力、
すべてがあいまって、絵を見た瞬間、思わず笑ってしまいました。
はて、これは、私はいったい誰を笑っているのでしょう。
西洋? 日本? 藤田? 自分自身?
私が立っている場所、見ている視点、前提としているものが崩されるような感覚があります。
日本で生まれ育ち、外国のことなどろくに知らず生き、
そのくせ今は外資で働いている私。
物事を理解するときには事実を単純化して、
線引きして、因果と相関をある程度は混同しながら、
それっぽいなにかを見出していくものです。
そのためには、前提としての「正しさ」や「確らしさ」をどこかに置いておく必要があります。
脆弱な基礎の上にはなにも建てられない。
文学や芸術の面白さは、
そうした基礎を揺さぶる力を持っているからだと思います。
科学が好きなのも、同じ理由かもしれない。
私は、私がいったいなにものなのかを知りたいにもかかわらず、
私が明確なひとつの何かに定まって、決まりきった一つの考えに執着するのも嫌うらしいのです。
書く、というのも同じプロセスですね。
書くことで私を固定します。
でも、書き切った瞬間からそれは私の外部になります。
私は浮遊を続けている。揺らぎ続けている。
固定と視点の再探索の繰り返しで、定まりながら永遠に定まらない。
もっともっと、揺さぶられたいです。
詩でも小説でも絵でも音楽でも、
もっともっともっと。