愚痴です。
三島由紀夫の『潮騒』を読んでいます。
なんというか、小説を書く気が失せます。まじで。
なにが優れているとか、素晴らしいとか、
多分そういう次元じゃないのだろうなと思います。
こんな単純で、真っ直ぐで、飾り気がなく、素朴で、純粋で、
なのにどうしてこんなにも面白いと思えるようなものが書けるのでしょう。なぞ。
打ちのめされる。
別に私と比べようとか、そんな話ではないです。
文章は本来、誰が書いたかというのは関係がないはずだから、
三島だろうが川端だろうが、彼らの使う言葉と同じ日本語を、
私も日々用いているはずなのに、
どうしてこんなにも表現が違ってしまうのでしょう。
という意味で、打ちのめされる。
私のしていることは、小説を書く、ということなのか疑わしくなってくる。しんど。
なんというか、目が違うのですね。
見えているものの距離とか深度とか広さとか、
そういうのがまるで違うのが、文章を読んでいてわかってしまう。
しいて私の成長した点を述べるならば、
昔は今ひとつわからなかった三島の魅力も、
今となっては絶望的な気持ちになるくらいにはわかるようになったということくらいです。
「読める」の目と「書ける」の目は随分と遠いのだなあ、と切なくなります。
文章も、言葉も、小説だって、
誰が書いてもいいし、自由だし、
どのような言葉だってゆるされていると思っています。
でも、その確信すら揺らぐ。
小説や文章は、ひたすら一つの美しさ、真実、
善などに向かわなければならないのではないかと思えてくる。
そして、
私は本当に、文章を、小説を、書いていいのだろうか、
という気持ちになります。
『仮面の告白』を読んだときはこれほどのことを思わなかった。
なぜ『潮騒』かといえば、おそらく、
それがとても単純なものを描いているからでしょう。
単純だからこそ、描き方や、捉え方、表現の仕方が際立つのかもしれません。
わからんけど。
鬱や……。
めちゃくちゃ良い小説なのに、
読みたくなくなる。
まあ、こういう気持ちは初めてではないですけどねぇ。
次元の違う作家というものが、世の中にはいるものですから。
ストーリーが面白いとか、テーマが新鮮だとか、リアリティに優れているとか、
そういう次元で語れないような作家ってものがいるものですから。ね。
なんていうか、
私ももっと真面目にならんといかんな。
最近ずっと危機感と焦燥感ばかりで、
どうしたらいいのかがわからずもがいている状態です。
とにかく書く。それでは駄目なのですよ。
Claudeで遊んでる場合じゃないのかもしれません。
使うにしても、私がよりより物を書くために使えるようにならにゃ。
ああ、憂鬱やあああ。