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いくつかの表現主義演劇に関する覚書

・ココシュカ「暗殺者・女たちの希望」
情愛とこれにまつわる痛みをクローズアップしている。表現主義の巨視化・意図的な歪曲化によって強調される。
出会いは天啓のようなものであるからこそ惹かれ合う。暴力的で容赦のない、つまり理屈にのっとったような作法には反している。しかし情動に抗うことができないことこそが愛であり、ゆえに傷つく――として見ると、ある種ロマン主義的な面も包含しているか。もっとも、ロマン主義は構造論の分類というよりは思想であるので、リアリズムと併存させることがしばしば見られるように、表現主義との噛み合いもよいか。


・カンディンスキー「黄色い響き」
天啓それそのもの、信仰の現れ。つぶらな瞳をした萌葱色の巨人はあまりに示唆的。人の理解しうる範囲を凌駕した部分にある信仰的な安らぎと心的なゆらぎ。
メタファーとしての事物というよりは色彩的心象風景か。信仰を論理として描くほうがよほど嘘くさいだろう、という意識がこの形式としたように感じる。これについては共感。「覚える」「感じる」ことを理屈で整理するととにかく嘘くさくなる。リアリズムしか読めないと感じないだろうが。

また芝居を演じる側が没入/神への実在という意識へ身を委ねることが強く要求される、難しい芝居ではないかとも感じる。
このあたりは基本的にカンディンスキーが神智主義を中心としていたという側面からの読み取りであるので、絵画も含めた他作品の読み込みが必要。


・シュトラム「めざめ」
わからん。アウトラインは3作の中でもっともはっきりしているのだが。
俗っぽく言うのなら「男が全て積み重ねてきたものを一瞬で女が台無しにしてしまう、それも気まぐれによって」というところなのか? あるいは男女をメタファーとして戦争と裏切りを描いているとも見えるか。『めざめ』は1915年の作品ということもあり、こちらのほうがまだ可能性としてはありそうだ。
シュトラム個人の価値観に関する文献にあたる必要がありそう。彼の人間関係・女性関係というあたりからモチーフ解読のきっかけになるかもしれない。

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