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12・9 書くときのくせ・蟻塚・繰り返し

 原稿にかかるときには大量の参考資料が必要になる。それは学術書だけでなく辞書、類似の作品、モチーフになる映像、あるいは漫画に詩集と様々だ。
 それらを持っている本の中から抜粋して手の届くところに置いておきしばしば読み返すのだが、思索の期間や文が長くなるほど増えていき蟻塚になる。
 
 現状蟻塚は部屋のあちこちにあり、ベッド、ゲーム機の上、足元の3つだ。読んだら片付ければいいのにと思われるだろうが、インスパイアされた瞬間に原典をチェックしたかったりイメージのつながりを大切にしたいのでどうしてもこうなる。つまり部屋が片付いていない時は仕事をしている時だ。

 一番近くにある蟻塚には辞書に加えて2020年の文學界が3冊、中也の詩集、昨日ツイートした『パパララレレルル』、『Ordinary±』、『よふかしのうた(9)』、その他ギブスン等のSF小説が5~6冊。そのどれもが通しで複数回読み直し、おおよそは記憶にあるけれども精密さを求めて見返すというものだ。

 そもそも僕は多読なほうではない。ない、と思う。
 これまで買った本で売ったものはないし、すなわち売らずとも問題ないぐらいの分量であり、一冊を最低4~5回は通しで読む。
 映画も同じだ。GGIでも擦った『LEON』は少なく見積もって6回通しで見たし、『トータル・リコール』あたりになると数えるのが億劫になる。ゲームにしても『Fate/stay night』を通しで13~15回ほどプレイしたが、平均クリア時間60時間を15回読み通すことは普通に考えてないだろうなと思う。ということは900時間ぐらいになるのか? 僕は人生の1ヶ月ほどをあの一本に捧げているらしい(実際にはもっと短いとは思うが)。

 個人的な見解にすぎないが、創作する側としてはいかに自分の血肉にできるかが重要で、なんとなくイメージにあるがすぐに引き出せない100冊よりも読み込んでモノにした1冊のほうが優位性を持つのではないか、と考えている。だから写経もある程度効果を持つのだろうな、とも。僕はやっていないが。
 それに何度も体験したくなる物語は一定の強さがあるだろうし、少なくとも「わたし」にはフィットしたものと言えるだろう。その時に得たものはパワフルさを持つし、自分自身の物語に対するダイナミズムともなる。
 様々な物書きがいるだろうが、迷った時には原点、書きたいと思わせたもの、思わせた物事に立ち返るほうが間違いないのではないだろうか。

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