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人の文章を見ること・話すこと・言い訳

最近は人の文章に手を入れることが多くなっている。
もともと契約書を作るようなこともやっていたけれど、自分の文章以外の校正校閲にそれなりのシビアさで取り組んだことは初めてと言っていい。
どうブラッシュアアップするか、意図を酌みながらなお思索し、あるいは美的感覚を擦り合わせたり戦わせたりする時間は引き出しとなる。
若くして鋭い部分を持ち合わせている人はこうやって研いできたのか、と気付かされ、改めて自分の小説に向かう姿勢を考えさせられた。

完成品の、書籍となったものはどこか違う目で見てしまう。それは評論の視線であろうし、商品である以上どんなに頼りなく不格好であろうとも、一箇の独立した存在であるから、下読みの意識が薄れてしまう。

山際淳司が雑誌記者時代を回顧し、赤入れの多いデスクが語った、としてこんなことを書き残している。

「活字になってしまえば、たいていの文章は読めるもんだよ、とかれが言っていたことがある。
もっともらしく見えるからな」
「それにおれはナマの原稿を読まされてるんだ。原稿の粗がいくらでも見えてくる。腹を立たせながら赤を入れてるんだ……。」
(『男たちのゲームセット』 七章 優勝まであと二百時間だ より)

手練であっても見え方が違うのだから、なるほど自分であればもっとゲラを読むような経験をしてみてもよいかなと思うわけである。



最近……と冒頭で書き出したのでもうひとつ。
ここしばらくよく通話をしている。生半可な通話ではない。
夜の9時に開始して翌日の昼12時というケースもざらで、いつぞやは15時まで続いたこともある。
不思議と話の種はつきない。こちらも話すが、人の話を聞きたい気持ちも強いからか。
『1973年のピンボール』の冒頭、「見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった」に近いような時期だろう。そも人の話とは固有の体験と人生の上に哲学が横たわっているわけで、これもまた「人生がただ一度であることへの抗議」だろうなと思う。
こういう日、筆は進まなくても、下地が固まっている予感はある。するとどこかで驚異的に爆発する時間が来る。
いやまったく、地固めには時間がかかるものだからね――などとぼやきつつ、迫る〆切の言い訳をして本稿を閉じることとする。

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