• 現代ドラマ

画面は思いやり発信局 祖父

 早いもので今年も10月。
 9月30日は母方の祖父の命日。爺ちゃんには家庭教師……しかもかなりきつい。みたいな事もされたし、僕の人間性構築には大きな影響力があった人の1人だ。
 大正生まれで昭和初期、戦中と生きて来た人。あの世代の男性は、「男子多くを語らず」の真っ只中の筈なのに、ぺちゃくちゃと1人で1時間でも2時間でも喋り倒す。例外もいるという事だ。

 母から聞いたけど、祖父は学生の時から「爺ちゃんのお姉さんが、姿は見えないけど声だけ聞こえる。あいつが帰って来たなって、声で解ったんだって」と言う程、生来の弁舌家
 しかも起承転結、中々話に「。」が出て来ない。やっと話が一段落してトイレに行き、時計を見ると16時過ぎ。「お袋の車で来てるから帰るわ」と言うと、「話す時間がねえじゃねえか」との答え……。話す時間って、一体何時間喋るつもりなの!?
 聴いている孫の方からお手上げだった。

 しかも、うちは両親が地元にいる。僕ら兄弟は格好の物言ひ伽だった
 けど、弟……あいつは爺ちゃんが来ると、家の裏からコソコソと逃げていた。流石は第二子、要領が良い。
 でも、弟は「オレも爺ちゃんの話は充分聴いて来た」と言うから、相当強烈なキャラだったのだろう。
 「朝は5時に起きて牛の餌の草切りをしよった」「昔は何でも人力たい」「満洲国で黄疸が出てな。お前は気候が暖かい所で休んでおけ。て言われて激戦地に行かずに済んだっちゃい」昭和初期、戦中のプロローグは毎度の事。

 「これはお前に話して聴かせたか知らんが……」と前置きはするけれど、聴いたら「その話30年前に疾に聴いたよ」て自分の中で突っ込みを入れるけど、「職場で人がミスをしたら大目に見てやらんといかん」など、孫の年齢に比例して、話の内容は僅かだけど変化はしていた。
 その後、僕は東京に。弟は大分に。各々「逃げた」けど、弟は九州内は九州内。88歳米寿の祝では、祖父の隣に座らされ、ビールをお酌され顔を赤らめながら、物言ひ伽。
 父方の祖母が亡くなった時も、あいつも止しときゃ良いのに「僕です」て名乗り出たらしく、また物言ひ伽。 

 「農業とかやってるもんには、こげん話はせんとぞ」……爺ちゃんは口走った。父の実家は農業……。
 母は即座に「爺ちゃん!」と肩を叩いて突っ込んだそうだけど、祖父は気に止めず、父の妹さんは笑っていたらしい。
 明治生まれの親の元に大正時代に生まれ、日本がまだ全国的に貧しかった時代を生きた人は、一筋縄では行かない厳しさがある。

 来年は戦後80年。あの時代を現役で生きた人を祖父母に持つ人は、うちら世代で終わりだろう。

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