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いくひ誌。【3721~3730】

※日々、日々なんちゃらで言葉を並べるとそれっぽくなる、中身がなくともそれっぽくなる、日々はじつはすごいやつ、日々があればなんでも映える、日々よ永遠なれ、日々よ絶え間なくあれ、けれどもけっして荒れてはくれるな、至福の芽生える日々であれ?と何かを忘れる日々もある。


3721:【2022/06/16*愚か者でごめんなさい】
私は愚かなので、感じた何かを言語化して人に伝えようとしてもたいがいうまくいかない。伝わらないだけならばよいのだが、無意義に誤解を生み、愚か者の名を色濃くする。だいいち、私はじぶんの感じたうちのほとんどすべてを言語化できてはいないのだ。睡眠一つまともに言語化できない。カレーの味とて言語化できない。猫なるものを言語化できない。風なるものを言語化できない。世の中のだいたいのことを言語化できなければ、じぶんのこととて言語化できない。言語化しているつもりでいても、たいがいの多くの情報を取りこぼしている。たいがい、とは何か、とて言語化しようとしても言葉に詰まる。分かったふりすらろくすっぽできない。いいや、分かったふりくらいならばしようとすればできるのだが、そんなことをしていったいどんな得があるのだろう。分かったふりをしても分ったりはできぬのだ。ふりはしょせん、ふりにすぎない。ふりとは何か。真似のことか。分かったことがないのになぜ真似ができる。分かっている者を見たことがあるのか。それすら真実には定かではないにも拘わらず、分かったふりをできるつもりでいる。分かった、とは何か。見るとは何か。認識とは何か。ぼんやりとここに、ほかの雑多なものとは違う何かがあると違和感を覚えられたら、それが一応の、分かった、になるのだろうか。それくらいならばできそうだ。違和感を覚えるのは私にもできる。だがその違和感はどうやら必ずしもほかの者たちが感じ取れるとは限らぬようだ。ならばやはり言語化して、何がどのように違和があるのかを説明しなくては伝わらない。しかし何がどのように違和感があるかを言葉にしたところで、あなたのなかではそうなんだね、で終わってしまう。では逆に訊きたい。あなたのなかではそうでないことと、あなたのなかでのみそうであることの違いは何か。どのように区別するのか。あなたはそれを言語化できるのか。言語化できたそれがどれほど現実を反映しているのか、なぜあなたにそんなことが分かるのか。分かるとは何か。何とは何か。こんなことで躓くようでは、やはり私は愚かなのだ。伝わらないのだ。伝わりようがないのだ。蟻の生きている世界を、人間が生きることはできない。共有はできない。視えないモノは視えない。視える者には視えるソレが、視えない者には視えぬのだ。楽譜を読めない者には紙面の曲が聴こえぬように、文字の読めぬ者には本の中へと旅立てぬように。これすら口から出まかせの定かではない有耶無耶、愚か者の戯言なのである。私は愚かだ。そのように視える者には視えるようだ。私は私だ。しかし私は愚か者なので、私とは何かすら、とんと言葉にできぬのである。


3722:【2022/06/17*極論でしかないけれど】
極論でしかないが、真実に戦争を防ぎたいのなら、各国の首脳は、侵略されている国に集まって、戦地の最前線で首脳会議を開けばいい(パジャマパーティでも可)。攻撃すれば全世界を敵に回す。侵略行為にしろ、そうでない自衛行為であろうと、どの国だって停戦せざるを得ないだろう。兵器を贈るのではなく、各国の首脳が戦地に集まればよいのでは?(一網打尽じゃ、と攻撃するような国はもはや未来永劫、国家としてやってはいけなくなるだろう)(とはいえ、一介のテロリストがそこを狙い撃ちした風――を装って、第三勢力の仕業と見せかけて攻撃することも可能だ。リスクという意味では、愚かな策かもしれないが)


3723:【2022/06/17*粉】
正味、郁菱万はいますぐ放棄して、放置して、さっさと新しい筆名で活動するほうがいろいろともろもろと楽でよい。だがそれだと、なんかちょっとかっこうがよろしすぎるし、潔くありすぎる。もっと泥に塗れながら、さびちさびち、とぼやきながら、郁菱万を無様につづけていくほうが、いろいろともろもろと都合がよい気がする。なんもないよぉ、という無様さ、己が救われていることを自覚せぬままに、誰より不幸だ、と嘆く惨めさ、そういう人間らしさから目を背けたり、逃げたりはしたくはないのだなぁ。否、目を背け、逃げている事実を、なかったことにはしたくはないのだ。我は何様か。我は無様なり。無にも虚にもなりきれぬ哀れでせつない人の粉だ。大豆をすりつぶして粉にしたやつ。それはきな粉や。(あれ美味しいよね)(ぼふぼふってして食べているとむせかえっちゃうけど)


3724:【2022/06/17*理解妄想】
人に理解を求めないほうがよいことと、理解を求めつづけたほうがよいことの区別が未だによく分かんない。理解されたところで何も解決しないことは理解を求めないほうがよくて、理解さえし合えたら、たとえその理解が錯誤であろうとも何かしらの問題が解決可能なら、それは理解を求めたほうがよいのかもしれない。ただ、理解なるものは極限を持つ。絶対にそこには辿り着けない陽炎のようなものだ。理解し合おうとしているうちに、当初の「ここに至れたらそれが理解だよぉ」の場所が、いつの間にかさらに奥へ奥へと遠ざかっている。それとも、いざ理解の到達点に至っても、じつはそこにはがらんどうがぽっかりと開いていて、崖になっていて、深淵が佇んでいた、なんてこともある。こんなんだったら理解し合おうなんてしなければよかった、となることのほうがトータルでは多い気がする。理解と孤独は似ている。大勢に囲まれていながらにして誰とも干渉し合えない、同じ「生」を「時」を共有できない。そういうとき、孤独はただ一人きりで静かに過ごしているときよりもいっそうの凝縮を見せる。存在感を拭い難く強くする。それはときに孤立と呼ばれ、単なる孤独と一線を画する。これは理解と似ている。ただ一人きりであれば、理解されないことはさほど苦ではない。だがいざ理解し合おうと言葉を尽くして、工夫を凝らして、奔走しだすと、理解されないことが苦痛になる。孤独と似ている。否、理解されないことが孤独の深みと通じているのだ。孤立と性質が似ているのだ。理解しようとすればするほど孤立する。ならば最初から理解し合おうとなんてしないほうが利口だ。そのように判断を逞しくすることは、真実に利口と言えるのか。君が愚か者ゆえに理解し合えないだけではないのかと、工夫が足らんだけなのでは、と苦言の一つでも飛んできそうだ。そうかもしれない。理解できないのは、工夫が足りないからだ。けれどそれは、いくひしさんだけの――いや、やめておこう。いくひしさんとて、他者に示せぬ理解などいくらでもあるからね。工夫が足りない。こんな単純な事実すら、足りないのはあなただけよね、と理解にはとんと結びつかぬのだ。


3724:【2022/06/18*じぶん自身に】
いくひしさんは弱い者いじめの楽しさを知っているし、他者のできないことを行って得られる優越感を知っている。じぶんの属する環境よりも劣悪な環境で日々を過ごしている人々がいると知って、ああじぶんじゃなくてよかった、と思う安息の念を知っている。でも、だからといって、それが自然だし致し方ないよね、みなそれぞれがんばりたまえ、とは思わない。もしそれが自然だというのなら、まっさきにおまえからすべてを奪ってやる、と考える行動原理もまたいくひしさんは知っているからだ。じぶんのためにも、できるだけ平和で、公平で、そういった危うい考えを誰もが抱く余地のすくない社会になっていくとよいな、とじぶんのためにやはり思う。そういう未来が築かれるとよいな、と綺麗事ではなく、自分事としてやはり思う。たいせつなものを守るために、自由を築くために、やはりそう思うのだ。ただし、こういう考えもまた、争いの種であるので、むつかしいのだよね。ただやっぱり、弱肉強食とか結果論とか、自然はこうだからしょうがないじゃん、とは割り切りたくはないのだ。割り切ってもいいじゃん、という人には、まっさきにあなたから利を、自由を、奪わせてもらう、とやはりいくひしさんは考えてしまうな。危ない考えである。この考えもまた一つの割り切りなのだ。よろしくないと思います。割り切るなよ、考えるの好きなんだろ、と思ってしまうな。


3725:【2022/06/18*スピンってなに?】
電子は回転しているらしい。いわゆる量子スピンと呼ばれる事象だ。いくひしさんはスピンが何かをほとんど知らない。言葉だけを見聞きしている程度の知識である。wikiペディアを読んでも、「はにゃ~ん???」となるし、それ以外のインターネットさんの記事を読んでも、「ほにょ~ん???」となる。ただ、スピンが回転のことだとすると、地球の南極や北極のように、どちらが上でどちらが下かを決めないと、視点によって回転の方向が真逆になってしまう。そこで言うと、量子スピンの上下を決めるのは、磁界の向きなのかな、と想像する(そうなのかな?)。wikiペディアさんに書かれていた説明で、電子の大きさはほぼ面積を持たない点であり、スピンを自転のような回転と見做すと、その速度は計算上光速を超すことになるので、いわゆる自転のような回転ではないはずだ、といったニュアンスのことが書かれている(よく分かっていないので、間違った解釈かもしれません)。で、いくひしさんが思うに。ラグ理論からすると、電子は遅延による起伏である。そして遅延による起伏は、「123の定理」から渦を巻く(そういう意味では、水の波や音の波とて、一つ一つの起伏を観察すれば渦を巻いているのでは?)。回転せずとも、コイルのようにぐるぐる巡るので、光速で動くと想定せずとも、磁界を発生させることの説明はつくのではないか、と妄想できる(もういちど繰り返す。渦を巻くので、コイルのように磁界を展開し得る)。で、思うのが、じゃあどの向きに磁界が生じるの、ということで、これはできた起伏に対して、外部干渉がどのように作用するのかで決まるのではないか、と想像する。量子(電子)が大きさを持たない点のようなもの、というのも、起伏の頂点を想像するとしっくりくる。円と円の接点は点であるように、起伏の頂点もまた点なのだ。そしてラグ理論からすると二つの異なる事象同士の作用による遅延は渦を巻くように起伏を生むので、起伏の頂点からは磁界が展開されるのではないか、と想像できる。ただし、その磁界がどの向きに展開されるのかは、起伏が生じる契機であるところの外部干渉によるし、それ以後の起伏ができたあとの干渉にも左右されるはずだ。イメージとしては、翼の上と下にできる対流のようなイメージだ。電子もまた、電子(粒子)ができると共に陽電子(反粒子)ができているはずだが、いくひしさんの想像だと反粒子は反重力を伴なうので、陽電子は原子から遠ざかるように振る舞い、原子のそとの電子に触れて対消滅するのではないか、と妄想するしだいだ。そうすると原子核の周りには電子しかないことになる。遅延による起伏(電子)はベーゴマのように互いに弾き合いつつ、原子核の陽子に引っ張られて、原子核の周囲を波のように覆うのではないか。ただし、遅延であるので、時間が経てば凪となるように変化するが、絶えず弾き合う起伏が、その凪になろうとする変化を阻害するため、単一で起伏を帯びるよりも、長い時間その形態を維持するのではないか。量子スピンはつまるところ、遅延によって起伏が生じる過程でできる渦であり、電子以外の素粒子の場合は、渦の上と下のどちら側から電子が走るのかによって、磁界の向きが決定されるため、外部干渉されるまで磁界の向きが決まらず――言い換えるならスピンの向きが決まらず――それが重ね合わせや量子もつれとして観測されるのではないか。よく分からないが、スピンについては、いまのところいくひしさんはそのように妄想しております。(これはいつも以上に、スピンってなに???の気持ちで並べた妄想×妄想=もうしょうもない空想!くらいの塩梅ですので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください)(あてずっぽうを並べすぎて、段々恥ずかしくなってきた)(ラグラグ言いすぎて、本気で信じてると思われそう。いま創っている小説に使うので、考えをまとめたいのである)(R2L機関シリーズにおける波紋やWダブル理論のようなものです。真に受けないでください。マジで)


3726:【2022/06/19*段々】
改めて思うのですけど、遺伝子がたんぱく質を作る、までは呑み込めるにしても、なにゆえ肉団子にならないのか、なにゆえ人間の形になるのか、なにゆえどこまでもぷくぷくと細胞分裂によって巨大化しないのか、個体差があるのか、いったい遺伝子のどこにそんな制御を促す情報が蓄積されているのか、どのように部分部分に最適なたんぱく質を作って、さらにはほかの細胞との区別をつけて、わいはここの細胞じゃ、になれるのかが本当に本当に、「ふざけているのかい?」になる。わけわからんくないですか。じぶんの手を眺めて、細胞の小ささに思いを馳せて、そのなかにあるらしいDNAを想像すると、あわわ人間巨大すぎるわぁ、になります。人間デカすぎる。よくこんな細胞のツギハギオバケみたいな構造していて、なめらかに動けるな、破裂しないな、崩れないな、と感心しちゃいますね。たぶん、次元とはまた違った、層みたいのがある気がしちゃいます。繰りこみというか、創発が起こるたびに単位があがるみたいに、変遷にかかるエネルギィがぽんと跳ねあがるというか、階層があがることで何を一塊と見做すのか、時間の流れが飛躍して変わる境目みたいなのがあるのではないのかなぁ、とやっぱり妄想してしまいますね。定かではありません。


3727:【2022/06/19*小大と大小】
小さい事象ほど面積が小さい分、ちょっとの力でじぶんより大きな事象へと作用を及ぼせる。針の先端は小さいがゆえに大概の物質に刺さることと同じ理屈だ(この考え方でいくと、素粒子が物体をすり抜けて観測されるのは、物体に作用を働かせないからではなく、作用が滑らかに伝わりすぎているがゆえに、結果として何一つとして余韻を残さないからなのではないか、と妄想できる)。一方で、あべこべに大きい事象ほど強まる作用もあるはず。それがたとえば「重力」や「時間(作用)の流れの差」なのではないか。たぶん、小さい事象ほど、それそのものとそれ以外との区別が曖昧なはずだ。原子一個が単体で存在することは、じつは結構難しいのではないか。真空とはいえどそこには何かしらの場やエネルギィが満ちているはず。そうした外部干渉によって絶えず原子はその構造の一部をとっかえひっかえ交換することで枠組みを得ているのではないか。他方、人間スケールや宇宙スケールでの事象ともなると、互いに作用を及ぼすときに、滑らかに作用が伝わることは珍しい。それはたとえば、長い棒で地球から月を押しても、どんなに硬い棒であれ弾性が働き、力が上手く月まで伝わらないことと理屈の上では同じことだ。遅延の起きたところでポッキリと折れてしまうだろう。大きいと、そのような作用の断裂が起こりやすい。その分、「重力」や「時間(作用)の流れの差」によって、ある程度の幅を持って可能性が広がりを帯びているがゆえに、複雑な構造物や事象が生じやすいのかもしれない。人間が、世界を認知し、未来を想起し、単純な物理法則に反して、すこし複雑な行動選択をとれるのも、そのような余白――猶予のようなものがあるからなのかも分からない。遅延が重なると事象の境として機能するだけでなく、事象の取り得る可能性の幅まで広げるのかも分からない。場を広げるのだ。かようにお昼寝をしながら妄想を逞しくしてしまういくひしさんであるが、きょうもきょうとて真実がなんたるかを知らないぽんぽこぴーであるし、やはりこれも単なるいつもの妄想なのである。定かでなさすぎる。情けなさすぎる。もしもし亀よ亀さんよ。アキレス腱が筋肉痛。


3727:【2022/06/20*いっそめちゃくちゃ上を目指したら?】
消費税については(も)よく分からないいくひしさんである。ただ、もし政府が消費税率を上げれば上げるほどよい循環が築かれると思っているのなら、いっそ200%500%を目指したらよいのでは? 消費税の税収が上がれば上がるほどよい循環が生まれるというのなら、いっそそのくらいを目指します、と公言すればよいのに、といくひしさんは思っちゃうな。なぜそれをしない? なぜ目指さないんでしょうかね。増えれば増えるほどよいと考えるなら、そうしたらいいんじゃないでしょうか。消費税率引き下げ派はきっと、その考えでいくと、いっそゼロにしたらいいのでは、となるでしょう。そこを目指すのでしょう。そして目指しているし、公言しているのでは?(以前からの繰り返しになるけれども、消費税もほかの税金も、それらを何に使うのか、が大事なはずだ。内訳を度外視して、%だけ議論しても話が空転するだけなのでは)(よく分からんことだらけである)


3728:【2022/06/20*頼朝さんらしくなかとです?】
歴史には(も)詳しくないのでなんもわからん、わからん、になる。で、いまはドラマでもやっているので頼朝と義経の関係が気になる。なんで人たらしで合理主義者の頼朝が義経を討伐したのかがよく分かんない。そこだけ判断が私情に走って見える。義経は奥州にゆかりがあったはず。実際、逃亡先に選んでいる。そして奥州では判官贔屓という言葉になって残るほどに不自然なほどに受け入れられている。なんで?と疑問に思う。こっから先はいくひしさんの邪推じゃけんど、頼朝は元から奥州支配をもくろんでいたんじゃないかな。そんでそれを義経が反対したんじゃないかな。で、義経邪魔だ、になったのかもしれん。義経はそのころ天皇と縁があったらしい。天皇側の朝廷は長らく、アテルイのころのやりとりにおいて、奥州や蝦夷に対して割かし強く出られない状況があったのではないか。頼朝はそれも面白くなかったんじゃないかな。奥州に攻め入る予定があったんじゃけんども、義経がいると反対されるし、邪魔されるし、ひょっとしたら反旗を翻され、政治的にも負けちゃうかもしれない。だからそうなる前に手を回したんじゃないかな。それくらいのことは考えるだろう。義経への判断だけ、やたらと理不尽に映る。筋が通ってない。合理的でない。たぶん、公にはできない事情があったのだろう、と邪推したくなるいくひしさんなのであった。(頼朝さんは、いっときの私情で兵を動かすほど愚かではなかったはず、という希望的観測に基づく邪推である)(歴史はなんもわからんので、妄想ですらないのだ。邪推である)


3729:【2022/06/20*たぶん五万人くらい同じ邪推をしているはず】
そんで、もっと邪推しちゃうと、義経の側近の海尊さんは、弁慶が最期まで主君義経のために闘ったのに対して敵前逃亡して生き延びてしまったらしい。でも、逃亡先までついてきた側近がそんな裏切り方しちゃう~?と引っ掛かる。また、義経なら、じぶんを庇った藤原家に不義理しないように、敢えて頼朝からの催促に応じるように促すだろう。つまり、我を討伐せよ、と進言するはず。そのほうが義経の人物像に合っている。邪推すると、義経は海尊として生き延びたんではないかな。本物の海尊さんは、弁慶とはまた違った方法で主君のために闘い、果てたのだ。義経として。不名誉を二重の意味で引き受けながら。そして義経は、そうまでしても生き残ることを選んだのだ。そう考えると、自由奔放な義経の像と合っていて、お話として面白い。でも、人間はそこまで物語のキャラクターのように美しいままではいられないから、チグハグなほうが本当っぽくいくひしさんには映ります。邪推はしょせん、邪推にすぎんのじゃ。邪に推すと書いて、邪推じゃ。それを推す背景に、何かしら邪な動機が見え隠れするとき、それを人は邪推と呼ぶんじゃ。(つまりいくひしさんには邪な動機があったと?)(墓穴った!?)


3729:【2022/06/20*極小ほど環境が大事だったりしないんですか?】
極小の世界ほど、単独で事象が成り立つことはないのでは、といくひしさんは妄想しておる。で、それで言うとタンパク質の構造とか、分子の構造とか、原子の構造とか、素粒子の構造とかは、周囲からの干渉込みで、その輪郭や構造を維持しているのではないか。結晶構造とかまでいくと、組織としての輪郭の内側のみで比較的長時間、構造を維持できるのかな、と妄想する。いわゆる閉じた系のみで構造を維持できる時間が、大きな事象や複雑な構造物ほど長くなるのではないか、と妄想したくなる。そこでいくとやっぱり極小の事象ほど、外部からのエネルギィや干渉がないとすぐに崩壊してしまうのではないか。別の言い方をするのなら、極小の事象は、そもそも単独で存在することが難しいのではないか。まったく外部干渉されずに原子がそれそのもののみで存在はできないのではないか。大きな事象ほど、表面での変化よりも内部での変化のほうが総合して大きくなる。回路、構造、系――の内側での干渉のほうが複雑に、大量に、いくつもの変化を帯びる。閉じた系でありながら、閉じない系を数多内包する。その結果、あたかも単独で存在できるかのように振る舞うのではないか。閉じた系であっても構造や輪郭を長時間維持しているように観測されるのではないか。そう考えると、やっぱり極小の事象ほど、内部構造が緻密でなく、複雑でなく、数多の部位ではできていないので――これはあくまで相対的な比較なので、原子とてものすごく複雑な構造物であり、数多の干渉によって存在の輪郭を得ているのだとは思うのだが、そういった極小の事象は――外部干渉込みで構造や輪郭を表現しようとしなければ、大事な何かを見落としてしまうように思わないでもない。ということを、タンパク質の3D再現図を見て思いました。以上です。妄想です。いつものです。いちゃもんみたいでごめんなさい。そういう意図はないです。(疑問ばっかりなんです、すみません)


3730:【2022/06/20*低温って、何のどこが低くなるの?】
ボースアインシュタイン凝縮における低温の実現は、原子(粒子)に作用するというよりも、その周辺の場に作用すると考えたほうが筋が通って感じるけれども、あんぽんたんの疑問なので、あんぽんたんでーすで済ましちゃう。(ボースアインシュタイン凝縮は、超低温ゆえに原子周辺のエネルギィが低くなり外部干渉が薄れるため、原子表面の電子に起伏が帯びなくなるのでは)(つまり、原子表面の電子の起伏がみな似たような波長を築くので、原子同士が同じように振舞うことが可能になるのでは)(原子のみ超低温になる、と考えるよりも、原子の周辺が超低温になるから原子が超低温になる、と考えたほうがしぜんな気がします。電子レンジだって、まずはマイクロ波によって周辺の場がぷるぷる波打つから水分が熱を持つのでは?)(熱って何? 冷たいって何?)(なんもわからんのですが、誰か説明ちて!)


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参照:いくひ誌。【3501~3510】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927861694785474

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