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いくひ誌。【3541~3550】

※日々、おふとんにくるまり寝ていたい、でもときどきは外に飛びだし遊びたい。


3541:【2022/04/02*秘密にする理由はなんですか?】
好ましい戦略ってどんなの、っていくひしさんが考えるとしたら、たぶんそれってきっと戦略のすべてを公開しても困らない戦略かなぁ、なんて思っちゃうな。秘密なんてなーいよ、ってしてもなんでか思い通りになっちゃう、そういう戦略が一番よい戦略だと思います。隠し事ばっかりの戦略は、三流の仕事だと思います。プロではありませんね。うひひ。


3542:【2022/04/03*いい加減なことを並べすぎ問題】
摩擦が高い床と、摩擦が低い床だと、摩擦の高い床のほうが怪我をしやすい。コンクリートと大理石なら、コンクリートのほうが転んだ時に膝を擦り剥きやすいのと似た理屈だ。けれども、身体が頑丈だったらきっと、摩擦の高いほうの床のほうが動きやすいだろう。それはたとえば、氷の上では満足に足を踏ん張れないけれども、コンクリートの上ではグリップがきいて歩きやすいのと似ている。でも、摩擦が高いとちょっとの踏ん張りでもぐぐっと圧力が加わるので、関節への負担は大きくなる。靴を履いていれば、靴底だけはギュッと止まって、素足の裏がズルっと滑るため、マメや靴擦れができやすいだろう。これはきっと人間関係や、学びにも言えることだ。あまり密着度の高い関係は、相互依存となって、一瞬一瞬の瞬発力は増すものの、長い時間そのままだといずれは節々に異常をきたす。関節は鍛えられないからだ。その点、摩擦のすくない関係であれば、靴を履き替えるようにそのときどきで都合のよい距離感を保てる。摩擦の高い関係から薄い関係へはなかなか移れないが、その逆は比較的しやすい。靴を換えるように、相手に見合った話題や接点をつくればよいのだ。学びの場合はどうだろう。摩擦の高い知識とは何か。なかなか読み解けないむつかしい本といったところだろうか。数式ばかりの論文や、特殊な語句ばかり並ぶ哲学書はかなり読むのに摩擦がかかりそうだ。その点、すらすらと読み解ける本は摩擦がすくなそうだが、これはどのように読むかによっては、摩擦を高めることもできるだろう。行間を読むというのがその一例だろうか。まとめると、摩擦がまったくないのはたいへんだが、すこしあるくらいがちょうどよいのかもしれず、けれども摩擦が高い場合では、瞬間瞬間で発揮できる力や入力できる情報が増す、と言えそうだ。本当か? 怪しいなぁ。いい加減なことを並べすぎ問題である。


3543:【2022/04/03*波長の合う物語は貴重】
波長がぴったり合うっていうのはきっと、同じ波形や波長を伴なっているということではなく、溝と溝がなんでかカッチリはまっちゃうなぁ、まっちんぐーだなぁ、みたいな感じの、【レコードと針】とか【ファスナーと引き手】とか【刀と鞘】みたいな、本当は異質なものなんだけれども、なんでかしっくりくるなぁ?の組み合わせこそが、波長が合う、の意味合いなのかもな、といま三秒で閃いちゃったな。アチョー、みたいな感じで。波長だけに。


3544:【2022/04/04*支配と庇護の綱引き】
思うのが、人間らしさって、動物らしさでもあって、単純に予想外なことにはびっくりしちゃうし、うれしいことがあったら素直によろこんでしまう。そういう純朴な、けれど危うさとウラオモテな動物性みたいなものが、人間らしさを支えてもいて、しかしそれだけでは人間っぽさは生まれず、きっとそうした動物性を眺めて、ああかわいいなぁ、と思える感性が、人間性の皮の役割を果たしているのかな、と直感としては思うのだけれども、どうなのだろうね。動物はきっとほかの動物を眺めても、ああ動物だなぁかわいいなぁ、とは思わないのだ。母性本能としての庇護を見せることはあっても、きっと、ああ動物だなぁかわいいなぁ、とは思わない。メタ認知というか、ある意味では、かわいいという感情は、ほかのものをじぶんより下と見ることで得られるいっときの安心であり、束の間の平穏であり、脱力だ。動物は対象を「害か餌か同族か(その他)」で判断するが、人間はそれ以外の視点を持てる。環境を連続して認識し、俯瞰の視点を持つ。連続した認識は時間の概念をもたらし、獲得した俯瞰の視点は――客観性へと昇華され、それを維持する。人間は自身を他者として見做すことで、環境のなかでの立ち位置を把握し、それゆえに生存戦略における優位な立ち位置をしぜんと探し求めることができる。かわいいという感情は、そうした環境のなかで培われる、母性本能とは異なる、支配と庇護の綱引きである。張り詰めた綱は均衡を保つに限り、それはかわいい、であり、対象との距離があくが、接近し接触してしまえば、支配と庇護のどちらかに寄る。ともすれば、庇護とは支配によってのみ成しえるのかもしれない。言い換えるのならば、支配したうえで支配を遠ざけようとする意思こそが庇護であり、遠ざけきってしまえばそれが、かわいい、になるのだ。定かではない。


3545:【2022/04/04*知識を仕舞う能力】
むかしは好きだった定型の物語が楽しめなくなる、という話題を目にした。人間には慣れがあるので、知識が蓄積されていけば、以前のようには楽しめなくなるのは当然だ。大好きな物語とて、百回、千回と読めばさすがに飽きる。しかし、まったく同じ物語ではなくとも、定型と言われるいわば、お決まりのパターンを学習してしまうがゆえに、以前のように楽しめなくなることもある。これにはいくつか楽しめなくなる理由を分類できそうだ。単純に慣れの問題もあるが、長編小説では、定型とはいえども細部が大きく異なるものがある。百人の作家に桃太郎の物語を下敷きにして自由に書いてくれ、と依頼すれば、きっとそれぞれ異なる細部の物語ができるだろう。しかしそれら作品群をして、桃太郎ばっかりなのでもういいです、と食傷気味になる気持ちも理解できる。また、男の子と家来と敵といういくつかの符号が合致しただけで、定型と判断されて忌避されてしまうこともある。この場合は、過学習、いわば慣れというよりも偏見のせいだと言えるだろう。具体的な例で言えば、さいきんだと、「相棒の正体を知らずに接していた目の見えない主人公が、相棒の正体に途中で気づくパターンの物語」を読んだのだが、以前は好きだったがいまは素直に楽しめなくなっているじぶんに気づいた。なぜかと言えば、あまりに目の見えないひとの認知能力を軽んじて映ったからだ。視覚が不自由であっても、そばにいる人がどんな姿カタチをしているのかくらいは、付き合いが長くなればなるほど伝わるのではないか、とどうしても思ってしまうのだ。正体に気づかない、というのは、それほど親密ではない、と言い換えることもできる。親密でないのなら、別にそばにいる人がじぶんの思っていたような人物でなかったとしても、さほどに感情を乱されたりはしないのではないか。ましてや傷つくこともないだろう(相手が悪意を以って騙そうとしていたならば話は別だが)。ただし、こうした批判的な視点は、おそらく知識の積み重ねによるものであり、だからといって目の見えない主人公と相棒がでてくるだけで、これは面白くない物語だ、とはならないし、仮になったとしてもそれは、物語自体がわるいのではない。仮に任意の物語が世界にたった一つしかなかったのなら、それがたとえどんな物語であったとしても面白く感じるはずだ。みな、慣れているのだ。過学習すらしているのかもしれない。枠組みに囚われ、知識に囚われている。好きなときに好きな知識を引っ張りだせることも記憶力の一つだろうが、好きなときに好きな知識を無視できる能力もまた記憶力の一つと言えそうだ。後者はなかなか意識されないし、それを日常で使っているひとも滅多にいないのかもしれないが、知識は、仕舞ったり引っ張りだせたりするから便利なのであって、いつでもかってに浮上し、思考を濁らせるようならば、それはちょっと困りものと言えそうだ。トラウマやPTSDなどがその筆頭だろう。そこまで顕著でなくとも、人はじぶんで思うよりも、記憶力を満足には使っていない。いつでもまっさらな、初めましての気持ちで情報に触れられるのなら、きっといつでも楽しい気持ちに包まれるだろう(まっさらな「記憶」だと困っちゃうかもしれませんが)。そんなことができるのかは定かではないが、知識のないいくひしさんの並べることなので、ひとまずここではよしと致しましょう。本日のいい加減な「いくひ誌。」でした。(その点、コテリさんの「Veil」は素晴らしいですね)(ルッキズムの観点から批判されそうではありますが、やはり美しいと思ってしまいます。なぜなら仮に登場人物の姿がゾンビであっても、そこに描かれる「【優しさ】の文字の浮かばない透明なぬくもり」そのものが美しいと思えるからです。優しいことは美しい。けれど当人たちはその優しさを、優しさだとは思わずに、当然そうあることのように注ぎあっている。素晴らしいですね)


3546:【2022/04/05*失敗の種類】
基本的な傾向として、人間の関わる事象は予測するのがむつかしい。自然界のなかにあって、人間ほど複雑に物理法則が絡み合ってる存在も珍しいためだ。同じような条件であっても、時間が違っているだけで入力されたデータから出力される結果がランダムに変わってしまうといったことがすくなくない。だからこそ、統計的に全体で、なんとなーくこういうことが多いよね、といった傾向でしか人間の関わる事象における答えは導きだせない。いっぽうでは、一つの個体のみを抜き出し、徹底的に分析することで高い精度での予測を可能とすることはできるだろう。人間には文化によって刷りこまれた性質(ミーム)や、個々人に固有の習慣というものがある。ともあれ、それも完全な法則とまでは言えない。人生でいちども遅刻をしたことがない人間がいないのと同じように。感性や体感ともなれば、この性質はより顕著となっていく。同じ食事でもお腹が空いているか否かで満足度は違ってくるし、五歳児のときの自分と二十年後の自分とでは感じ方からして大きく違っていると呼べる。ゆえに、どういう作品が多くの人々に受け入れられるのか、といった個々人の感性はほとんどその時代ごとに様変わりしていくと言ってよく、普遍的な物語、なんて言い方は、人間には三大欲求がありますね、と言っているのと同じレベルで、抽象的にすぎる言い分だと言っていい。言い換えれば、普遍的な物語なんてものはない、と言ってしまっても、この際、論旨から大きくずれることはない。ゆえに、いくら創作で失敗を重ねたからといって、そしてその失敗から学んだからといって、それが多くの人々に受け入れられる作品づくりに直結するとは限らない。むしろ極めて稀だと呼べるだろう。どちらかと言えば、確率の問題として、作品数が多いことのほうがヒットする条件としては優位にたつだろう。極端な話、創作にかぎっては、失敗を重ねて得られるのは、成果物を最後まで仕上げるための術である。ヒット作がつくれたとしてもそれは、創作の成功を意味するわけではなく、また、上達の証とするのも微妙なところだ。狙った的に当てられるならそれは技術が高いと呼べるが、創作はスポーツではない。成果物を罠と捉え、獲物を読者とするならば、それらしいが、けっきょくのところ相手から警戒されれば成立しない時点で、やはり創作と狩りは似て非なるものと結論づけて、ここでは齟齬は生じない(狩りは獲物を追えるが、創作における成果物ではそうもいかない)。創作とは、失敗することそのものだと言ってしまってもよいかもしれない。成果物がヒットするか否かはそもそも創作の本質には関係がなく、どのように失敗しつづけてきたかこそが、つぎなる創作の土壌となり、新たな成果物の息吹となってそそぎこまれるのではないだろうか。(以前にボツにした項です。いくひ誌「1716」の時期に並べましたが、そのときのいくひしさんはボツにしたようです。なんでなんですかね? 謎です)


3547:【2022/04/05*失敗は失うばかりではない】
失敗には二種類ある。他人がした失敗と、じぶんでした失敗だ。次回に活かせるのは、基本的に後者のじぶんでした失敗だけである。じぶんでしたから身に染みている、といった理由からではない。他人のした失敗や、知識として「してはいけないこと」とされている失敗談には、時代や環境など、考慮すべき事項が抜け落ちていることがすくなくないからだ。いまこのときに試みてみればまた違った結果になるかもしれないのに、過去の失敗から「それはもうすべきではない」との烙印を捺されたからといってその試みを断念するのは、ハッキリ言って損である。疑念を抱いているのならばまずはやってみたほうがはやい。取り返しのつく失敗なら、いくらでもじぶんの手で行ったほうが、ただ知識としての失敗談よりもよほど多くのことを学べる。これは失敗だけでなく、当然そうあることとしてまかり通っている常識や通例でも同じだ。たとえば、比較的新しい話では、ニュートリノがある。2002年に日本人の科学者がノーベル物理学賞をとったことで有名になったので、知っている方も多いだろう。ニュートリノはじっさいに観測される以前から存在が予言されていた。すでにあるものとして扱われていたくらいに馴染みのある粒子だったために、膨大な資金を費やしてまでじっさいに観測する必要があるのか、とすら言われていたそうだ。だがいざ蓋を開けてみるとなんと、当初考えられていたよりもずっと量が少なかったのだ(太陽から飛んでくるニュートリノが従来の理論予測よりもずっとすくなかった。それは質量がないと思われていたニュートリノに質量がなければ説明できない現象だったのだ)。その結果、既存の理論を構築しなおす必要に迫られ、いまではそちらの修正された理論のほうが基礎として、新しい研究分野で利用されている。理屈のうえで正しくとも、じっさいにやってみたら、予想外の結果が現れたという例は、科学の分野ではむしろ珍しくない。ただし、科学と創作では、失敗の質が異なる点には注意が必要だ。科学の失敗は、現象とのズレとして顕現するが、創作では、受け手からの反応以外では、おおむね自己評価でしか推し量ることができない。作者が満足してしまえば、それを以って成功だとしてしまっても構わない鷹揚さが創作にはある。ゆえに、何を以って失敗だったとするかの基準は、つどじぶんのなかに明確に持っていたほうがよいかもしれない。一つである必要はない。創作の受け手からの反応を見て、つぎはこうしようとするのもよし、読みなおしてみて、思ったように表現できていなかったと修正点を洗いだすのもよし、そこはいくらでもやりようはある。言い換えれば、完全な創作物などは存在しないのだ。つねにどこかしらに修正点があり、改善の余地があり、発展のしがいがある。だからこそ、じぶんのなかでの理想を、現物と比べられるくらいにハッキリと思い描けるくらいに掴んでおいたほうが好ましい。理想はつど、変化していく。ゆえに、創作もまた変化していく。変化の軌跡そのものすら変化していくだろう。しかし、制御はできる。その微妙な舵取りこそが、人間の枠組みをかたちづくる。それはたとえば「原子核を囲う電子」や「地球を覆う大気」のごとくぼんやりとでしかなく、けして確固たるものではないように思うが、やはりここでも定かではない。ただし、どうやら無でもなさそうだ。(これもボツにした文章です。前項と併せて1716を二度ボツにしていたようです。よくあることです。なぜボツにしたのかはやはり謎です)


3548:【2022/04/06*こういう日もある】
遊びに行こうと出かけたら、目的地まであと半分というところで、パーン!って破裂した。自転車の前輪が。風船がパーンってなるくらいの勢いだった。アニメ映画「ラピュタ」の一場面、町工場の親方と海賊の長男坊が筋肉自慢対決をする場面があるのだが、ムッキーンって力こぶを入れると着ているTシャツが、パーン!と弾け飛ぶ演出がある。まさにそれだった。自転車の前輪さんはマッチョだったのだなぁ。そっかそっか。毎日くるくる回って鍛えていましたし、さすがですね。なぁんて思いながら、遊びにいくのは中断して、キコキコ自転車を引きながら戻ってきた。いつでも引き返せる自由。変更できる自由。自転車を引いてめっちゃ疲れて時間を無駄にする自由。素晴らしい、素晴らしい、そして素晴らしい。これが仕事だったらたいへんだったな。遊びに行く途中でよかった(ぜんぜんよくないです)。


3549:【2022/04/06*知ったかぶり】
哲学書を読んだことがほぼない、と並べたが、その割にいくひしさんは、「脱構築(deconstruction)」やジャック・デリダやエマニエル・カントや「物自体」といった哲学用語を小説内で用いたりする。これは哲学に限らず、ほかの生物学とか物理学でも同様なのだが、初見で気になった単語をまずはWEB検索して片っ端から記事を読み漁るんですね。上から順にでてくるだけ読みます。でもたいがいは、三十ページいくかいかないかくらいで記事が重複しだすので、百記事は読まないと思います。で、記事ごとにブレはあるものの、ブレない内容というのがあり、まずはそこを押さえておくわけです。誰のどの記事でも同様にでてくるなら、それはまあ統計的に「いまは正しいとされている内容なのだろうな」と当て推量をつけるわけです。いくひしさんにある知識はたいがいWEB経由なので、書籍ほどの信憑性はありません。付け焼刃のしったかぶりなのですね。妄想にすぎないのです。どうぞ、お見知りおきを。


3550:【2022/04/06*なんよ】
局部怪奇譚という物語を2014年くらいのときにつくった。ラブドールがでてくるのだが、その発想の下敷きになっている記事を以前目にしていた。インターネット上の記事だったが、けっこう時間が経つと消えてしまう記事も多い。いま検索したらまだ読めたので、備忘録代わりに載せておく。「https://www.excite.co.jp/news/article/E1350572889781/」。さいきん同じライターさんがtwitter上で、「~なんよ」という語尾の使い方をしていて、かわいいな、と思って真似していたが、元ネタとかあるのかな。気になってしまうな。そうなんよ。気になってしまうんよ。(かわいい)(でも使いすぎるとかわいくなくなる気がするのはなぜなの?)(かわいいってひょっとして、かわいいだけだとかわいくないのか?)(そう言えばさいきんの漫画「タコピーの原罪」で、語尾が「~だっぴ」のキャラクターがでてきたが、かわいいはかわいいが、段々いじめたくなってくるウザさが湧いてくるのはなぜなんだっぴ?)(答え。あなたがいじめっこ体質だから)(チ、チガウヨ)


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参照:いくひ誌。【1711~1720】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887526868

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