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いくひ誌。【3521~3530】

※日々、静かで穏やかでありたい、と望むとなぜか、孤独以外では叶わない。


3521:【2022/03/24*ノイズあってこその静寂】
じぶんが「本当は静かで穏やかなほうが好きなんだな」と気づいたのは、産まれてから二十年くらい経ってからのことなので――これは成長するにつれて性質が変わったのではなく、元からそうだったらしい、というのは、過去を振り返れば、そうだよなそれしか考えられん、となるので、いくひしさんのなかではそうなのだけれども、人間、なかなかじぶんが何を好んでいるのかには気づけないもののようだ。いまですら何かを錯誤して、苦しい思いをしながらさほどに欲しくないものに囲まれて生きているのかもしれない。それでものほほんと生きていられる日々に昼寝。


3522:【2022/03/25*もっとスラスラしたい】
けっこう前から思っているのが、この「いくひ誌。」で並べる肩のちからの抜けたような文章形態で小説をつくれないかな、ということで、けっこうまあ、試し試しつくってはいるものの、むつかしい。長編ともなると、成功したためしがない(連作短中長編小説「血と義と花のモノガタリ」における「血」の最初だけは、それを意識したが、すぐに小説の型に押し負けてしまった)。考えを述べるような文章形態と、小説の文章形態って、けっこう根っこから違うというか、水泳とバスケットボールくらいの差がある気がするんよね。バスケットコートであっても水泳の真似はできるし、プールのなかであってもバスケットゴッコができるけれども、それは一時的なものであり、やはりどこかで、それぞれの舞台に適合した形態に寄せていかなきゃならなくなる(前者はダンス、後者は水球に寄っていくはずだ)。そこでいくと、小説における描写、という側面がどうしてもネックになってくる。というか、小説とは描写である、とすら言えてしまう。これはけして、小説は描写だけでできている、という意味でも、描写が神髄である、という意味でもなく、描写を入れることで、どんな文章も小説の文章形態に寄ってしまう、ということだ。いくひしさんは、ここでいちど打鍵の手をとめ、ふと窓に目をやった。いつの間にか日が昇り、障子にうっすらと庭の樹の影が映っている。鳥が枝に止まっているのか、丸い影が忙しく動いており、しばらく見ていると枝を揺らして飛び去った。――このようにして描写を入れるだけで急に、前半の思弁が思念となり、独白となり、小説の一節へと様変わりする。描写なき小説もつくれるだろうが、それはきっと、多くの者たちからは小説と見做されない気がするが、真実のところはどうなのだろう。ああでも、ほら、会話劇があるじゃないですか。秘書がコーヒーを淹れてくれた。カップを受け取るといくひしさんは、ありがたいけど、と苦言を呈した。これはきみの仕事ではないよ。カップを爪で弾いて示す。いいんです、と秘書はほころびる。私がやりたいだけですから。ほら、と指揮棒のように食指を振って、小鳥に餌をやるのって楽しいじゃないですか、と怒るべきなのかどうなのかむつかしい微笑を残し、じぶんの仕事へと戻っていった。果たしてこれは小説と呼べるのか否か。答えは未だ藪の中。


3523:【2022/03/25*進化の外部化】
情報は、緻密な回路を高速で流動することで「場の変化」を促進する。未来予測でいくひしさんがよく用いる視点の一つだ。いったいどの分野や界隈が複雑で立体的な回路を築き、情報を伝達しあっているだろうか、と観察する。情報の伝達速度があがればあがるほど「場の変化」が促進されるので、その分野はこのさき発展する確率が高い。ただし、そうした場では、「取りこぼされていくもの」もまたふんだんにでてくる。本来、人間には、そういった「取りこぼされていくもの」をいかに拾い集め、再利用し、その技術を蓄積し、広げられるのか、によって文明を発展させてきた側面がある。これは弱点や失敗を活かせることと通じている。人間は、いわゆる進化の道を捨て、弱体化することによって生存確率をあげることに一時的に成功した種であると言える。退化もまた進化のうちの一つだが、人間はむしろ弱体化と呼ぶにふさわしい肉体構造の劣化を、文明を発展させるたびに帯びてきた。おそらくこれは、進化とはまた異なった概念でくくったほうが好ましい範疇ではないか、と妄想している。或いはこうも言い換えることができる。人間は、進化すら外部化したのだ、と。閑話休題。情報伝達速度が著しいだけでは、その「場」がその後に発展するか否かは分からない。情報がどのように伝達し、蓄積され、交錯するか。回路の構造そのものがどのように変化していくのか、緻密化していくのか、立体化していくのか、そのものもまた基準の一つとなる。回路は場とイコールではない。更新される概念の来歴そのものが回路の一路として機能するため、場に含まれる時間経過(場の歴史)そのものが、回路を上部にも下部にも広げる。これはつまり、場に属する人数にかかわらず、個人にすら当てはまることである。極端な話、一万人によるコミュニティよりも、たった一人の築く回路のほうが「場の変化」を促進させることもある。しかし個人に限定された「場の変化」は往々にして概念上の上部構造に限るので、それを下部構造にまで落とし、普及させる手続きが別途に必要となる。簡単にまとめれば、優れたアイディアは一人でも生みだせるが、それをカタチにするには現代社会という巨大な工場が必要であり、その工場を適切に稼働させるためには、協力者が必要だ、という極々単純な話にまとめられる。裏から言えば、いくら工場があろうとも、それを以って何を生産するのか、アイディアがなければ宝の持ち腐れを地で描く。そのためにも、「場の変化」を促す回路がどこに築かれつつあるのか。情報の流れに目を凝らしてみることである。ただし、大河をなす源流がはじめはちょろちょろと流れたり、ふわふわと穏やかに湧いていることがあるように、真に澄んだ閃きほど、情報の渦ができるほどに濁流と化した回路からは程遠いシンと静まり返った場にあることもまた、そう珍しくはないようだ。(上記、寝起きの妄想です)(口からでまかせのあてずっぽうですので、真に受けないでください)


3524:【2022/03/25*別バージョン】
人間とほかの動物の違いが何であるのか、と考えたときに、言語とか文化とか、身体の構造とか、ゲノムとか、いろいろな基準で枠組みを規定できると思います。きょう閃いたのは、人間は、進化の過程で取りこぼされていくものを認識し、蓄積できる点こそが動物と人間の差異なのではないか、との妄想です。取りこぼされていくものを拾い集める。言ってしまえば、もったいないの精神でしょうね。不要なものを再利用できる。弱点を長所に変える。失敗を活かす。本来、生き物は、進化の過程で、生存に適さない能力や個体は切り捨ててきました。淘汰されたり、退化したり、満足に利用せぬまま無用の長物化したり。進化とは往々にして、環境への先鋭化と呼べるでしょう。その点、人間は、ある意味では進化への道を手放し、進化によって取りこぼされていく数多の弱点や欠点や不要そのものを拾い集め、蓄積し、共有する術を磨いてきたのです。人間は傾向として、文明を発展させるたびに肉体構造は生物として弱体化しています。退化もまた進化の一つとはいえ、人間のそれはもはや退化というよりも、やはり弱体化と呼ぶべき変化ではないでしょうか。人間は、生物にとっては本来不要なものでできているのです。これは、ひょっとすると、進化とはまたべつの尺度での概念が必要なのかもしれません。メモ「人間の群れ=四次元(空間プラス時間=世代間による接続を可能としている)」「ほかの生き物の群れ=三次元(その場その場での空間=同時代性のみ=世代の壁を超越できない=遺伝子の乗り物でしかない)」「人間は群れの来歴を繋ぐことができる」


3525:【2022/03/25*善意は矛盾】
善意の塊は攻撃しにくい。攻撃すればそれだけでじぶんのほうが悪になる。つまり、攻守最強であるためには、善意のみを配れると好ましい。優しい人は強い理論だ。しかし問題は、現実では優しいだけでは、利を奪われてばかりで損をし、貧しくなっていってしまう点だ。優しいだけでは生きていかれない。言い換えるなら、優しい人が強いのではなく、優しくいつづけるためには強くなければならないのだ。生存者バイアスなんですね。それでもなお、悪意に対してすら善意で応じられる者こそ、真の強者と言えるでしょう(強さの外部化を行ってもよいでしょう。環境を整えるのです。そのために必要な強さとは、知性と同義と言えましょう)。何せ、悪意を物ともせずに善意で返せてしまうわけですから、要は相手を赤子のように扱っているわけですね。そうできるくらいに強者でなければ、悪意に対して善意で返しつづけていると、いつかは命の危機に陥るでしょう。


3526:【2022/03/26*目的は不定】
定めた目的に対して適切な工夫をとり、実現していく人に対しては、それがどんな目的であろうともいくひしさんは尊敬するし、素直にすごいな、と感心する。いまの時期に例にだすべき話題ではないのだけれども、たとえば侵略一つとったとしても、誰の犠牲もださずに、相手陣営の誰もがみな率先して自陣営に協力し、成功させるような侵略があるのなら、それはすごい工夫だな、とやはり思ってしまう。とはいえ、その後に国の運営が破綻してしまうようなら、愚かだな、とやはり思ってしまうだろう。目的とは達成してしまえば点になる。目的を達成するまでは流れであり線なのだが、達成してしまうと途端に収斂して消えてなくなる。そうした懸念を失くすには、延々と求めていられる目的を定めるのがよさそうだ。そうした目的は、ときに理想と呼ばれ、またあるときは理念と呼ばれる。つまりが、容易く達成できないことほど、理想や理念と呼ばれるのだ。しかしそれもまた目的であり、それを求めている限り、流れができ、線として揺らぎを宿しつづける。生きるとはすなわち、この流れであり、揺らぎそのものと言えるだろう。目的を一つ定めたならば、それを実現させるための目標をその都度その都度、見繕えると、生きることに飽きずにいられそうだ。しあわせになる、という目的でもいい。生きる目的を見つける、でもいいかもしれない。ひとまず定めてみて、求めてみればよいのではないだろうか。気に入らなければ変えたらいい。きっと他人は、変えたことにも気づかない。頭のなかだけは自由なのだ。きょうもきょうとて、何もかもが定かではない、無責任な「いくひ誌。」でした。


3527:【2022/03/26*哲学ってムズ】
哲学書というのをおそらくは読んだことがなく、さいきん千葉雅也さんの「現代思想入門」という哲学書の一種を読んだ。三日かけてゆっくり読んだ。面白い。で、思ったことがある。本の中身とはほぼ関係ないが――たとえば科学では単位を揃えたり、語句を統一したりする。でも哲学ではどうやらそういうまとめ方はされずに、個々の哲学者の個性を尊重する傾向がつよいのかな、との違和感を覚えた。それの何が問題か、と言えば、哲学者ごとに、似たような概念を用いながらも、異なる「独自の言葉」を使うので、混乱するなぁ、ということで、それをいまの哲学者や学者たちは、「これとこれはほぼ同じ意味やで」と判るのだから、もうそこを統一して、ざっとまとめるような哲学の世界地図があったら便利だろうな、と思った。すでにあるとは思うのだが、思ったので備忘録として記しておく。とはいえ、言葉というのは箱である。箱の大きさが違えば、たとえ似たようなものを仕舞っていたとしても、中身がまったく同じになるわけではない。不純物の混合率も違ってくるだろう。それゆえに、語句を統一することで失われるニュアンスは必ずでてくるだろう。「車」と「Car」ですら、まったく一緒ではない。それぞれに固有の意味内容が複数仕舞われている。それはニュアンスの違いや、言葉の成り立ちの歴史、いわゆる文脈の差異として表れる。厳密さを担保するためには、それぞれの哲学者ごとの語句を尊重し、そのまま用いる姿勢は欠かせないだろう。だが、入門レベルなら、いっそ統一してしまったほうが理解の一助となるのではないか、と妄想したしだいである。そういう本があるのなら読んでみたい。以上です。


3528:【2022/03/27*風にも味があるの?】
幼いころからたまに疑問に思うことがあり、それが何かと言えば、味覚ってどこまで普遍性があるのかな、との疑問で、たとえば江戸時代の人に現代のテリヤキマックバーガーセットを食べてもらったとして、現代人のように「おいし、おいし」と食べるのかなぁ、と気になる。たとえば言語なら、現代人が何を言っているのかを江戸時代の人に理解しろというのは無理がある。漫画にしろ小説にしろ同様だ。イラストだって今風の絵柄は、すぐには受け入れられないのではないか。言い換えるなら、味覚とて、学習の積み重ねによって現代人風に最適化されているのではないか、との妄想だ。これはおそらくそうだろう。なぜなら現代であろうとも、文化によって好まれる味に違いがあるからだ。日本人ならば納豆を「おいし、おいし」となるが、そうでない文化圏のひとには、「おえっ」となるだろう。虫料理とて、それを食べている文化圏の人々にとってはなんでもないが、慣れ親しんでいない文化圏の者たちにとってはゲテモノにしか映らない。しかし、脳内報酬系を刺激する物質には普遍性があるだろうから、脂質とか糖分とか、そういったものの含有量によって、或る程度の傾向は見えてくるだろう。しかし味付けは、それとはまた別の要素足り得るので(材料と味付けは無関係でないにしろ)、文化によって好まれる「風味」には、相応にその環境に影響されるような、相互関係が見られるのではないか、との妄想をときどき浮かべるのだが、どうやって調べていいのかも分からないし、それを調べて何になるのかも分からないので、妄想だけして、ああ楽しかった、でいつも終わる。妄想人間とお呼びください。


3529:【2022/03/27*操る支配】
人間には自分以外の環境をじぶんに都合のよいように整えていくことに快感を抱く性質があるように思うのだ。拡大解釈すれば、人間は他者すらじぶんの外部環境の構成要素と見做し、じぶんに都合の良いように操ろうとする欲求があるように思われる。それはいわば、支配欲や執着心として顕現するのではないか。また、それの裏返しとして、他者から都合の良いように操られることに対して、並々ならぬ不快感を覚えるのかもしれず、或いは帰属意識を刺激され、支配されることを反対に求めるようになるのかもしれない。これはおそらく、支配欲よりも、その根源たる「環境をじぶんに都合の良いように整えようとする欲求」が優位に立つため、自動的に環境が整えられるほうを重視するのではないか、との仮説が成り立つ。独裁者になるよりも、独裁者に支配されるほうが、多くの人間にとっては好ましいのだ。それには、ある側面では、仕事の役割分担(分化)によって、文明の発展を促してきた背景があると言えるだろう。組織の一員となり、規律の名のもとに支配されることで、じぶんにとって好ましい環境を半ば自動的に手に入れることを望むのだ。その結果、たしかに環境が維持され、安全安心が手に入るのならば、多くの者にとっては何に支配されるのかは問題とならない。危機が到来し、生活を脅かされ、そして危機が去ってからようやく、じぶんたちを支配していた仕組みに拒絶の意を示すのだ。しかしどの道、独裁であろうと、そうでなかろうと、人は何かに支配され、支配している。その塩梅によって、何が維持され、どのように環境が変質していくのか。問題となる視点とは、詰まるところ、その一点なのだろう。生存戦略なのですね。でもなんだかな。つまらない結論になってしまったので、いまのなし。定かではないんじゃ。うひひ。


3530:【2022/03/28*富の再分配は、発展のための施策】
富の再分配について、「個々人間の経済格差がなくなれば、実施しなくともよいし、優先すべき事柄ではない」と考えている人が、頭のよろしい方々のなかにも一定数いるようで、本当にその考えでよろしいのですか、と心配になる。経済学のケの字も知らないいくひしさんですら、富の再分配が、まさしく富の再分配であり、それがけして個々人間に留まらない、企業や国家を含めた富の再分配なのだ、ということを想像できる。企業や国家の頭上に膨れている(バブル=富)から、個々人にまで導線を引き、血流をよくしましょう、という意図が、富の再分配なのではないのでしょうか。個々人間の格差が縮んでいるので富の再分配はもう充分です、という主張を見かけ、なんだその詐欺は、と思ってしまったな。「経済の回復」と「社会の発展」はイコールではないのでは? 経済はつねに「現在どうなのか」でしか考えることができないが、社会の発展は、「このさきを含めて安心安全便利な生活を人々が送れるのか(つまりが個々人がそれぞれに至福を追求できるのか)」によって規定される。社会の発展を阻害してまで経済を回復させても意味がないし、社会の発展を阻害してまで経済を損なっても意味がない。優先すべきは決まっている。富の再分配とは、言い換えれば、社会の発展のために資本を使え、という意味だ。社会の発展とは、前述の通り、「このさきを含めて安心安全便利な生活を送れるのか(つまりが個々人がそれぞれに至福を追求できるのか)」によって規定される。富の再分配のありようには、いくつかの筋道や仕組みが考えられるが、富の再分配そのものを否定する論理は、いまのところ見受けられないように思うが、違うのでしょうか。誰か教えて欲しいです。(上記、経済のことなどほとんど何も解っていない素人の妄言ですので、真に受けないように注意してください)


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参照:いくひ誌。【2531~2540】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054894151120

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