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いくひ誌。【2531~2540】

※日々、他人をひねりつぶすよろこびに飢えている。


2531:【夢には扉がない】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはさいきん、夜型の生活でござって、夜中にいっぱい物を食べるでござる。いまだってほらみて、厚切りフランスパンに四角いバターを敷き詰めて焼いて、そのうえから練乳をたーっぷりかけて、こんなの食べたらすぐにぽんぽこりんのぽんでござる。お気づきの方もおられるかもしれないでござるが、さいきんのいくひしさんは「ぽんぽこりん」がマイブームでござって、だってなんかかわいくないでござるか? 気のせいでござるか? たぶんいま好きな生き物のタイプはどんなですかって訊かれたら、ぽんぽこりんなぽんぽこりんかなって答えちゃう気がするでござる。ぽんこつではないでござるよ。ぽんこつはいくひしさん一人で間に合っているでござる。ぽんこつと言えばいくひしさんはラーメンのなかでトンコツが二番目に好きで、いちばんはお味噌で、あやっぱりトンコツは三番目にして二番目をお塩にしておきたいでござるけれども、海鮮がいちばん苦手で、お醤油がそれよりかはすこしだけマシかな、みたいな感じでござる。どうでもよいでござるか? どうでもよかったでござる。なんにも並べることがないとひとはじぶんのことを並べちゃうでござるな。なるべくいくひしさんはじぶんのことではない、じぶんからかけ離れたものをやことを並べていきたいでござるけれども、けっきょくはいつもじぶんの思ったこととか感じたこととか、妄想とか、そういうのしか並べられないでござる。じぶんから逃げられないでござる。いやでござる。いやじゃいやじゃでござる。なんだかまたじぶんのことを並べているでござる。こうなったら引きこもってやるでござる。夢に引きこもってやるでござる。そういうわけできょうはもうおやすみーでござるー。


2532:【DNAと遺伝子】
DNAと遺伝子はイコールではない。DNAのなかの一部が遺伝子だ。2020年現在において遺伝子はDNA全体の2~5%くらいしか占めていないとされている。いわゆるたんぱく質を合成し、子に踏襲される形質を記録している塩基配列の部位を遺伝子と呼ぶ。残りの大半の部位においてはではどのような役割を果たしているのかについてはまだまだ解明の余地がある。そもそもの話として遺伝子といった身体の設計図だけでは人体のような複雑な機構は発現し得ない。設計図を基にして肉体を組み立てる仕組みがなければ宝の持ち腐れを地で描く。この仕組み、つまり回路のようなものは、DNAにおける遺伝子以外の残りの95~98%のほうに搭載されているのではないか、と私見だが妄想している。いわゆる非コードDNA領域と呼ばれるたんぱく質を合成しない領域のことであり、かつてはジャンクと呼ばれた領域だ。また一般的には獲得形質の遺伝は否定されている。すなわち生きているあいだに獲得した経験や記憶やそれに伴う肉体の変化は子には踏襲されない、なぜなら遺伝のメカニズムは一方通行であり、遺伝子の変異からたんぱく質(肉体)を変質させることはあっても、たんぱく質(肉体)の変異から遺伝子が変質することはないと考えられているからだ。しかしこれも妄想でしかないが、そもそも生物にはそれまでの祖先が辿ってきた進化の来歴が非コードDNA領域などの遺伝子以外の回路のほうに集積されており、ある閾値以上の急激な環境の変化や、外的刺激を知覚すると、それら太古に培ったしかしいまは表面に顕現していない形質が発現することもあり得るのではないか、との疑念がある。つまり、回路のほうで遺伝子としての機能をONにしたりOFFにしたりするようなある種恣意的な能力を有しているのではないか、との妄想をしてしまう(遺伝子内には、心臓なら心臓、ゆびの筋肉ならゆびの筋肉になるように、それ以外の機能をOFFにする働きをする機能が付随している。ここで述べているのはそれとはまた別で、遺伝子ではないコードが遺伝子として働くように目覚めさせる機構という意味だ)。それは、回路に集積された情報がどのようにどれくらい記録されているのかを知らない我々からすると、環境の変化を機に改めてONとなった遺伝子コードが、獲得形質の遺伝として観測されるのかもわからない。或いは、そもそも回路のほうには、ストレス物質などの遺伝子を破壊するような外部刺激を過剰に感知したらその刺激を――すなわち弱点を記録しておくような能力が備わっており、つぎに任意の刺激が加わった際には、破壊されるよりさきに遺伝子を修復せよ、とする仕組みがとられているのかもわからない。言い換えるなら、生きているあいだに知覚する外部刺激によって自発的に遺伝子を変異させるような能力が、DNAには備わっているのかもしれない。いずれにせよ、自然淘汰や偶発的な遺伝子のバグによってのみ進化が促されてきた、と考えるのはやや尚早な気がしている。もちろん以上の記述は妄想でしかないので、真に受けないように注意してください。


2533:【さいきん眠すぎない?】
予定より一日早いですが新作「神狩る者(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054894183185)」を更新しました。霊魔怪シリーズで、45000文字です。けっきょく登場人物の名前はつけない方向に統一することにしました。霊魔怪シリーズはどれも連作短編の一部ですが、一つ一つが独立していますので、どれから読んでいただいても問題ありません。すべてつくり終えたら改めて霊魔怪シリーズとしてまとめようと思います。それまでは短編集「零こんま。(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371)」に載せていきたいと思います。あ、掌編「極上の食事(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054894046345)」も更新していました。こちらはお腹が空いたひとがドラゴンの卵を獲って食べようとする話ですね。たぶん猛烈にお腹が空いてたときにつむいだのではないか、と過去のじぶんを分析するしだいです(そんなことはない)。あとはそうそう、掌編の類はつくってももう、いちいちこちらで報告しないようにします。つぎの新作はいくひしさん最後の百合小説となりますが、忘れていたのですが、じつは百合小説、それをつくる前に二万字ほどつくっていたままほったらかしていた短編があって、それを含めて最後になるかと思います。要約すると、百合小説はあと二作、新作として更新することになります。何度も繰り返していますが、百合小説と標榜する作品はこれで最後、という意味であって、生物学的特徴が女性の登場人物しかでてこない物語や、女性同士の絡みが多い物語はこれからもたくさんつくっていくでしょう。百合とわざわざ注釈を挿すような時代でもなくなっていくだろうな、と考えているので、そのようにするしだいです。BLも同様ですね。個人的な方針の変更でしかありません。百合やBLを愛好する方々を非難する意図はすこしもありません。各々、好きなように好きな物語をつくり、愛でていきましょう。いいえ、愛でていってほしいな、と望みます。2020年02月14日のいくひしまんでした。


2534:【愉快な利】
定期的に並べていることなのじゃが、現在進行形でこの「いくひ誌。」を読んでいるひとはたぶんいないのじゃ。十年とか百年とか経てばそれなりに偶然、ここに辿り着いて、目にする奇特な御仁もおられることよのぉ、と思って並べてはいるものの、どちらかといえば人類が滅んでしまってじぶんしかいくなくなった地上でだれかほかにいませんかぁ、とまいにちラジオで呼びかけるみたいな感じ、もしくは宇宙を旅する船内にひとりきりで取り残されてこの宇宙でほかに私の言語を解するひとはいませんかぁ、と呼びかけるみたいな具合で、まあいつかは誰か読むじゃろ、の投げやり感満載でお届けしております(届けているのか? どこに?)。とはいえ、けれども、しかしながら、いざ誰かに読まれるだろうと想像したとたんに、たとえそれが想像上の人物であっても、ぎゃああはずかしぃいい、となってしまうので、いまくらいがちょうどよい。読まれたいのと読まれたくないのが、ちょうど九対一くらいで、どっちがイチなんだい、と問われてもやっぱりはずかしいので言いたくはない。せめてこっちを読む前に小説のほうを読んでほしいな、とは思うものの、たぶんこっちをさきに目にして、ぺぺっ、へんなもん見ちゃった、とかいってさっさと背中を向けられてしまいそうだ。それもまた愉快なり。


2535:【自虐ってなんでこんなに】
メンタルよわよわのよわなのでいつでも、あーひとに好かれてぇ、と思っている。というよりも、あー愛でられてぇ、崇められてぇ、人類みんなわいの足元にひれふさねぇかなぁ、と思っている。同時に、嫌われたくないなぁ、と思い、困らせたくないなぁ、と思い、憎まれたくないし人類みな争わないでほしい、と思っている。要するに、他人を物かなにかだと勘違いしているのだ。植物かなにかだと思いあがっているのだ。じぶんの都合がよいようにどうにかできると、内心どっかではそう思っているし、望んでいる。小説なんてまさにその典型ではないか。キャラクターというじぶん以外の想像上の人物をじぶんの都合で動かしていく。もちろんある程度の葛藤はあって、ルールがあって、法則があって、秩序があって、或いは無秩序を許容して、かんぜんに思いどおりには動かせないけれども、ある種創造主としてふるまうことをいさぎよしとする。望んでそうした世界を編みだしている。まあまあずいぶんとせこくてじぶんかってで、尊大な心持ちだこと。自覚するほどにやっぱり、好かれたいなぁ、嫌われたくないなぁ、崇め奉られて、いっそこの世界そのものも小説みたいにじぶんの思いどおりに、理想的に、争いのない清らかな世界、或いは争いがあってもどうにかなる世界にならないかなぁ、と独善的に考えるまでもなく望んでいる。欲している。ゆがんでいる。未熟者である。ゆえに物語などという虚構にばかり囚われている。精神が弱い。メンタルよわよわのよわだ。つよくなりたいなぁ。思うだけでけっきょくは、現状に満足するようにじぶんをさらにゆがめるほうが楽だと知っているから、よわさに磨きをかけていく。はぁ、自虐ってきもちよい。


2536:【怪我というほどでもないけれど】
きょねん右ひざを痛めてから動きが制限されてしまって、自由から不自由側に寄ったはずなのに、意外にもいまのほうがしっくりきているというか、制約を課したことによって工夫の余地が生まれてこれまでになかった身のこなしや、いかに無駄なく、身体に負担なく動くかのほうに思考を割くようになって、言ってしまうとかえって調子がよくなっている。怪我の功名だ。文字通り。俳句なんかもそうで、敢えて制約を強いることで自由度が増す、というのは世のスポーツやらゲームやらを見渡せばなんとなくではあるが、感覚的に、経験的に、統計的に、そんなもんかな、といった納得が湧く。競争原理というのも似たようなものかもしれない。何か妨げになるもの、邪魔者、障害物などによって否応なく模索を強いられる。手札が増える。選択肢をひねりだす。制約は変化の強制だ。同時に侵害にもなり得、ここら辺をどう解釈するのかが、個人にとってもこれからの社会にとっても見逃しがたい問題点となりそうだ。ルールや規律とは本来、妨げるもの、邪魔するもの、障害物なのだ。だがそれがあることで社会はここまで複雑化し、秩序を生み、或いは混沌の余地をあらたに広げつづけてきた。おそらく俯瞰してみれば、そのメカニズム、構造はフラクタルな回路を伴っているだろう。ルールや規律は社会が発展していくにつれて細分化していく。複雑になればなるほど、巨大化すればするほど、迷路は初期の部位が面から線へ、そして点へとつぶれていく。それは文章の文字数が多くなればなるほど、全体を見渡したときに一行が黒く塗りつぶされて見えるのと同じ現象だ。そうしたとき、重複した部位や、不要な部位は削除してしまっていったん白紙にするのも一つかもしれない。動くための土俵に存在しない障害物は、もはや妨げでも邪魔でもなんでもない。ゆえに、ときおり制約を取り払ってみたり、それって本当に必要な枷だろうか、と疑問視し、考えなおしてみるのも自由を拡張するのに有効かもしれない。右ひざを痛めたが、いまはもう痛くもなんともない。わざわざ庇って動くのは、単なる怠惰と言っても間違いではない気がしてきた本日のいくひしまんでした。


2537:【大きなネズミ】
だるくてあんまり動きたくないからって右ひざ痛めたことを理由になるべく椅子から立ちあがらないようにしただけのことでよくもまあそんなに口からでまかせばかりがするするとでるものだね。きみはなにかね。そんなにじぶんを大きくみせたいのかね。


2538:【高評価されたいのはなぜ?】
他人から高評価されないことで悩む感覚がじつのところよく分からない。そういうキャラを演じることはあるが、なぜすくなからずのひとたちは他者からの高評価をそこまで求めるのかがしょうじきピンときていない。お金を儲けたいのならまだ解かるが、そうでなく単純に表現者としてなにかしらを表現しつづけたいとそうした姿勢を示している者ですら他者から高評価されないことを悲痛そうに嘆いている。そうした言動をまま見かける。高評価されたり、すごいと崇められたり、師として仰がれたりすることの快楽は理解できる。とはいえ、べつにその方面からの快楽を得られなくとも、表現することそのものがまずだいいちに大きな快楽となっているはずだ。おまけをもらえないからといって駄々をこねる理由はない気がするのだが、そういうことではないのだろうか。それとも、表現することのほうがおまけで、他者からの高評価を得ることのほうが本筋であり目的なのだろうか。だとしたら話は解かる。なら解決策は単純で、他者から高評価されるような表現を模索すればよいだけの話だ。そんなにむつかしいことではない。人間には誰しもが共通して抱く欲求があるものだから、まずその方面で出力すれば一定の評価(反応)は得られるだろう。もちろん簡単ではないし、どんな分野であろうと一流になるにはそれなりの研鑽や競争を積み重ねなければならない。とはいえ、たくさんではなくとも、ある程度の高評価ならば集められるはずだ。高評価を得ることを目的にするのなら、いくらでもやりようはある。すくなくとも、いまもっとも高評価を集めている者の成果物を真似すればよい。だが、他者からの高評価を得られないと嘆いている者たちの大半は、そうした模倣すらしようとしない。なぜなのか。何の工夫もなく楽しく表現したものを高評価されたいと思っているのなら、それはそもそも願望であって目的でもなんでもない。叶わないのが当然だ。きっと誤解してしまっているのだろう。たとえば死後に高評価される芸術家たちがいるが、それは何もその芸術家たちの表現が特別優れていたわけではない。芸術家とは別に、「無名の作品を評価すること」で他者から高評価を得ようと工夫した者がいただけのことだ。極論、その者にとっては芸術作品でなくとも構わないのだ。道端の小石であっても、それをほかの大勢の者たちに高値で買わせられたならそれで目的は達成できる。名誉を得られればそれで事足りる。因果が逆なのだ。素晴らしいが高評価されなかった作品がのちのち正当に高評価されたわけではない。価値のないものに価値を付与することで他者から高評価を得ようとした者がいたから、その者のお眼鏡に適った「適当な作品」が偶然に高評価されるようになっただけのことなのだ。まずここのところの認識を錯誤しないほうが好ましいのではないか。他者からたくさん高評価されている者たちは、高評価されるように工夫をしている。例外はおそらくないだろう。もしあるように見えたなら、それは単に見落としているだけだ。むろん、表現者本人が工夫をしなくとも、その周囲に介在する者たちが、その表現者の作品を利用して高評価を集めている(得ている)場合もあるだろう。この場合もやはり、高評価されるように工夫している者がいるのだ。単独で工夫しているか、媒介者と共生関係を結んでいるかの違いがあるだけだ。いずれにせよ、高評価されている者たちは例外なく、高評価されるように工夫しているし、ある一面でしたくないことを選択している。繰り返しになるが、何の工夫もなく楽しく表現したものを高評価されたいと思っているのなら、それはそもそも願望であって目的でもなんでもない。叶わないのが当然だ。何を目的にしているのかをときどき確認する習慣をつくっておくと不毛な悩みに時間を奪われずに済むようになるかもしれない。(さほど大きく間違った考えだとは思っていませんが、いつもどおり真に受けないでください)


2539:【歴史は繰りかえす?】
伝説や巷説を自作の小説のなかで扱うときに必ず連想する考えがある。それはたとえば、どの時代、どの地域であっても、たとえ交流のなかった人種間同士であったとしても、文明であったとしても、そこで培われる文化や風習には一定の傾向が表れるのではないか、というものだ。よくは知らないが、神という概念はどの文明でも発生してきたのではないか。或いは、神という概念を打ちださなかったコミュニティは文明を育めなかったのではないか、といった具合だ。人間にはほかの動物種と同じように、その種固有の本能のようなシステムが先天的に組み込まれている。おそらくそれを否定する者は現代ではそれほど多くないはずだ。三大欲求以外であっても、何を好み、何を忌避しやすいか、といった傾向としても個々人に共通して遺伝されているものがあるのではないか。仮にそうだとすれば、現代文明が完全に崩壊して、知識も言語も何もかもを失った人類を荒野に放ったとしたら、これまでの辿ってきた人類史と似たような歴史を辿って、また似たような文明を築くのではないか、との妄想をしてしまう。もちろんまったく同じにはならないだろう。ただその要因が、環境が同じではないからそうなるのか、それともそこまでの強制力が人類に刻まれたシステムにないのかは定かではない。ただし、言語が段階的に複雑さを増し(ときに単純化して)、より洗練されてきた背景を鑑みれば、神や伝説や物語といったものもまた、文明の発展に相関して変質していくように思うのだ。それはおそらくどの地域のどの文明であっても、発展していけばそこに収斂するようなある種の方向性を持っているように感じている。十年くらいの差は無視してもよい――世界を見渡してみて、同時多発的に似たような構造を有した、これまでとはちょっと違った物語が目立ちはじめたら、人類に組みこまれたシステムがそうした物語の進化を促しているのではないか、と妄想してみるのも、そこそこ楽しいお遊戯となる気がするが、いかがだろうか。(まったく詳しくはありませんが、最近の歴史学者のあいだではこうした発想は否定されがちなようです。人類に備わった先天的なシステムよりも偶然による要素のほうがはるかに文明発展への影響が大きいのでしょう――それはそうでしょう、大災害や戦争がいつどのくらいの規模で起きるのか、独裁者や偉人となり得る人物がいつ死ぬのかによって歴史の歩みは大きく変化するように思います。上記は妄想でしかありませんので真に受けないように注意してください)


2540:【眠い】
ツイッターはじめたころから好きだった、新作が投稿されてるの見つけると否応なく脳汁ぶわぁ~ってでる絵描きさん、フォロワー数が当初は80とかそんなで、二年かけて300まで増えてたのが、きのう投稿された新作がバズって、いいね2万ちかくとか一気にいって、フォロワー数も2千とか増えてて、なんだかすごくおもしろい物語に触れたときくらいうれしくて、とてもとてもうれしくて、でもそこで、あれ?ってなって、ああなんだ、やっぱり他人から注目されたり、高評価されることを本心ではいいことだと思ってるんだって思ったんだけど、それはすこしちがくて、その絵描きさんはじぶんの絵をもっと見てほしいって思ってて、いろいろ工夫していて、そのなかで主義に反したことはぜったいにしてなくて、そういうひとがじぶんの定めた目標を達成できている姿が本当によかったなぁ、と思うのだ。ただ、増えたフォロワーを重圧に感じて精神的に負担になったりしないかな、だいじょうぶかな、と心配になってしまうけれども、たぶんというか、だいじょうぶなのだ。とてもすごくつよいひとなので。ただいくひしさんはそのひとにブロックされているのでリツイートはできないのだった。(オチとしては近年稀に見る秀逸さ)(ブロックされるようないくひしさんがわるい)


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参照:いくひ誌。【1751~1760】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887762742

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