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いくひ誌。【2541~2550】

※日々、じぶんより下がいると思いこんでいる、上とか下とかそれ自体が幻想なのに。


2541:【他自本願】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはさいきん、左手がぷるぷる痙攣するでござる。かってにふるえているでござる。なんだか魔物でも宿ったみたいでかっこいいでござる。きっと覚醒なんかしちゃって、身体をのっとられるの、のっとられないの、えんやこらしながら世界の危機をすくおうとしてかえって混乱をまき散らして、魔王を倒すはずが魔王そのものになってしまうでござる。え、やなんでござるけれども、でござる。そんなのかっこよくないでござる。いやじゃいやじゃでござる。いでよシェンロン!でござる。伝わったでござるか? なんでも願いを叶えてほしいでござる。願いを叶える回数を無限に増やしてほしいでござる。それともなんでも願いを叶えられる能力がほしいでござる。でもたぶんそこでいくひしさんはいつか、もう一人のじぶんがほしいとかなんとか祈っちゃって、そのもう一人のじぶんにも無敵のなんでも願い叶える能力があるから、そこからみょみょーいってお互いの存在が邪魔になって、うぎゅうぎゅムギャムギャに発展して、どっちがさきに相手をバッタンギューできるかの競いあいになって、魔王が二人もできちゃうでござる。いやでござる。いやじゃいやじゃでござる。そうなったらたぶん、願いを叶える能力を身につけた過去を失くしてしまう方向に願うでござる。でもいくひしさんの代わりに誰かがその能力を持っても不安だから、じゃあ願いを叶える能力をくれたシェンロンを滅ぼすでござる。やっぱりどこか魔王じみているでござる。いやじゃなあ、でござる。やっぱり願いはじぶんで叶えるものでござる。そうじゃないとたいのへんでござる。なにも願わないようにするのもよいかもしれないけれども、それはそれで味気ないでござる。おいしいものたべたいな、くらいはやっぱり思っちゃうでござるから、じゃあおいしいものたべようかなってじぶんでなんとかするのがよい気がするでござる。そうするでござる。他力本願なんてダメでござる。損をするでござる。得をしないでござる。けれども、やっぱりなんかきょうは疲れたので、もうおねむだし、いま寝ちゃえばあしたのいくひしさんがなんとかしてくれるから、じゃあそういうことで、きょうのいくひしさんはおやすみーでござるー。


2542:【異常と過剰と欠落と】
さいきん身体と心が繋がりすぎていて、直結しすぎているというか、癒着しすぎているというか、もっとおいてきぼりにしていかなきゃなと思うのに、なかなかうまくいかないのだね、引きずられている感があって。我をおきざりにして、できるだけじぶんから遠く離れたいのにそれができなくてもどかしい。空想よりも現実に引っ張られている感があって、たぶん一般的にはそちらのほうが正常なのだろうけれども、あ、いま並べようとしていたことじゃないことを思いだしてしまったので、そちらのほうを並べてしまうけれど(思考は多層的に展開できるのにどうして文章は一面的にしか述べられないのだろう、本当に不便だ)、むかしから引っ掛かりを覚えていたことの一つに、異常、という言葉があって、まず以って正常と異常の違いは何を基準にしているのか、という疑問がちらほら浮上するのだけれど、たとえば人間の性格にしてみても、まあいわゆる平均値というか、或いは社会にとって都合のよい存在というか、一般的には人間の知覚できる範囲で、そこそこ長いあいだ継続する破たんしない生活を営める範疇の気質といった具合で、けっきょく時代によって世代によってゆるやかに基準はずれていくものであって、何が正常で異常なのかは厳密に決められないものだとしても、たいがいの異常とされる性格、気質というものは往々にして過剰でしかなく、ほとんどの場合は異常ですらないのだよね、というのは、たびたび実感として湧く感慨なのであるが、まあまあ過剰であるだけで異常扱いされる世のなかは徐々にではあるものの是正されつつあって、みななんだかんだ言って寛容にはなっているのだよね、とは感じるものの、それでもやっぱり許容される過剰さとそうでない過剰さは歴然としてあって、もっとこうなんだろうな、異常とはなんぞや、正常とはなんぞや、というところを言語化できるようになって、そのあいだに位置づけられる過剰な気質におかれては、一律に異常と呼ばずにいたほうが好ましい気がするものの、行き過ぎた過剰が異常になることもあって、そこらへんの加減というか、閾値というか極限というかあいだあいだのどっちつかずな領域においてどのように扱い判断するのかについては過剰にかぎらず、欠落であっても似たようなもので、ほとほとむつかしいなあ、と思う本日のいくひしさんなのであった。要約いたしますと、むつかしいなあ、でございます。


2543:【ほっと】
ひさびさにインスタントコーヒー飲んだらやっぱりおいしかった。


2544:【逃げ癖がついた】
苦手な方面の技術を取り入れないと目のまえの壁を突破できないとようやく認めつつある。もっとこう、壁を破らずにそのままにしていても抜け道というか、なんだったら正反対の方向に進路を曲げるだけでも選択肢の幅を広げられるのではないか、組み合わせの色合いを豊かにできるのではないか、新しい土壌に巡り遇えるのではないか、と思って三年くらいもがいてみたけれど、やっぱりどうしてもこれまで逃げていた方面の技術があったほうが格段に自由度が増すとどうあっても認めざるを得ない局面に立っていて、むぐぐ、と下唇をはんでしまう。やろうと思えばそれほど苦労なく身につけられるだろうとは思うのだけれども、疲れるからなるべく通りたくない道だ。体得するまでの苦労はどんなことであれつきまとうからそれで疲れるだけならよいのだけれど、今回の技術のやつは体得したところでその技術を行使すればするほど疲れが溜まる。技術というのは基本的にはそれを使えば楽になるものなのだけれども、ジェットエンジンみたいにただそれを使うだけでも大きな負担になる場合もあって、否応なく出力をあげざるを得なくなるのが本当に嫌だな、と面倒に思っている。なさけないなこのひと、と思いましたか? 正解です。はなまるをあげたいと思います。使い勝手がわるい技術でもあるから、体得したところで使いどころがまず限られるし、こうして改めて考えてもみるとかえって不自由になる気もしてきた。やっぱりもうすこしだけいまのまま、面倒でたいへんな技術からは距離をおいて、楽に、疲れないレベルの低い技術だけで、あはははー、とやっていこうと決意を新たに固めたのだった。まんちゃんあなた、逃げるのだけは本当に上手ね。


2545:【たなあげ】
モチベーションというものをとくに意識したことがなかったので、日々のモチベーションはなに、と問われてもとっさに意図が掴めなくて、どういう意味ですか、と訊き返してしまった。和訳するとモチベーションは動機付けだから、その質問を、目的はなに?と言い換えてもよいかもしれない。でも、日々の目的はなに、と問われても、楽しく苦痛のない自由な時間を過ごせていたらそれで充分至極で、理想であるから、とくべつにずばりこれと示すような目的はあんまりなくて、その日そのときによって興味の対象は変わるし、対象が変わればそこから生じる問題も多様化して、そのつど目標も変化するので、やっぱりずばりこれ、といった動機付け、モチベーションはない気がしている。漠然とした目的意識というのなら、「そのつど見つけた、なぜ?に対して、じぶんなりの仮説を構築して、ときには試行錯誤すること」としてもよいかもしれない。じぶんなりに納得したいのだ、満足はできずとも。問題や疑問に対して、じぶんでひねくりだした解が浅くとも、よしんば間違っていてもべつに構わない。ひとまず、妄想をするだけの時間がほしい。あれやこれやと可能性を羅列させてほしいのだ。そのなかでもっとも確率の高そうなのはどれかな、と順位づけできたらけっこうあんがいにスッキリして快感だ。モチベーションはたぶんそんな感じなのだけれども、これを会話で一言二言でハイサと伝えるのはむつかしいし、たぶん質問をしてきたひとはこういうことを訊きたかったわけではないのだろうなと思うし、ひととの会話ってどうしてこんなにも難度が高いのだろう。仮の話として、モチベーションがなかったらどうなるんだろうね。とくに支障はない気がするけれど、動機付けや目的意識がなくとも、いくらでもそのときそのときでやりたいことや興味の向かう対象って目につくものではないのだろうか。そうでもないのかな。基本的にいくひしさんは欠けているし、足りないし、未熟だし、なっていないので、満足しようがない。飽きたらまたべつの欠落を埋めるだけだ。モチベーションを保つ必要がそもそもないのかもしれない。(そう言えばモチベーションって言葉、この「いくひ誌。」で使ったことあるのかな、と検索してみたら二回だけ使っていた。「818項目」と「1000項目」に登場していましたね。どちらも、モチベーションがあってもなくても変わらんよね、みたいな文脈で使っていて、なんだいくひしさん、あなた何も変わっていないのね、とざんねんになってしまった。なんだかおもしろくないのでこれからは日々、モチベーションをあげていこうと思います。たとえばそう、棚とかに)


2546:【慣れ】
文芸とはべつの分野の話だが、どんなに簡単なことでも最初の一歩が重いのだな、ということをたびたび実感する。さいきん、むかしは得意だったけどレベルが低いから使わなくなっていた技術をもういちどじぶんの創作に取り入れてみようかな、とやってみていて、これがまた思っていた以上にできなくなっていて、物になっていなくて、レベルが低くて簡単なはずなのに、すぐにできなくて、なんだったらちょっと予想外に負荷がかかっていて、こんなにむつかしかったっけ?とじぶんの貧弱さや未熟さをまざまざと思い知っている。単純に衰えているというのもあるだろうし、過去を美化していただけでじつはむかしもそんなに上手にできていなくて、体得していたと思っていただけで本当のところはそんなにできていなかっただけかもしれない。おそらく両方だろう。認識の修正を余儀なくされている。或いは、慣れというものを軽視しすぎているきらいがいくひしさんにはあるのかもしれない。レベルの低い高いだけでなく、慣れているか否か、というのは、習得や熟練という意味では不可欠な評価基準であるのかも分からない。以前はできていたのにいまはできない、というものの多くは、忘却や衰退を論じるよりも、この「慣れ」という概念で評価したほうがてっとりばやくある気もする。わかりやすいのだ。慣れていないから疲れる。上手にできない。負荷がかかる。まずは慣れるまでやってみる。そういう意味では、継続や習慣が欠かせない、というよりも、効果的なのかな、と思いつつ、予想外に疲れたのでしばらくは予定を大幅に繰り下げて、一日一回、くらいの塩梅でやっていこうと思う本日のいくひしさんなのだった。


2547:【忘却の時間】
習得するためには忘却の時間をあけるのが効果的だ、と個人的には感じている。これはいくひしさんの経験上というか、体感でしかないので一般化できる話ではないことを前置きしたうえで述べるが、知識や技術にかぎらず、なにかしらを習得する際には、いくつかの段階に分けられると考えている。それは記憶の定着と無関係ではなく、短期記憶を長期記憶に変換する作業が必要で、そこで欠かせなくなってくるのがいちど忘却することなのではないか、と疑っている。泥のようなものだ。いちど水底に沈んだ泥をもういちどゆびでかき混ぜ、必要な養分のみを水に溶かす作業が知識や技術を身体に定着させるうえで効果的なのではないか。ずっと水が濁ったままでは見通しがきかないし、新しく知識や技術を投下しても、何が新しくて古いのかすら区別がつかない。物にならない。だからすこし時間をあけて、舞いあがった泥が沈殿するのを待つ期間が入り用なのではないか。そしてもういちど沈殿した泥をゆびでかき混ぜて、必要な知識とそうでない知識を濾過するように、或いは石油からガソリンを分留するように、水によく馴染み溶解するものだけを抽出する。忘却し、思いだす、という繰り返しによって知識や技術は、単なる記憶ではない技能として身に着くもののように感じている。惰性で毎日継続するだけではおそらく逆効果だろう。忘れる時間を敢えて取り入れる、というのも、技術を習得するうえでは欠かせないのではないか、と経験則、ともすれば直感でしかないが、思っている。


2548:【我執の権化】
ちいさいころからの気質なのだろうけれど、それそのものを「する」のが好きなのであって、それそのものに対しての興味はじつのところそんなにつよく抱いているわけではない。たとえばの話、俳句が好きだったとしたら、俳句をつくるのが好きなのであって、俳句の歴史とか流行りとか、そういうのを率先して知りたいとは思わない傾向にある。もちろん素晴らしい俳句を目にすることでじぶんの創作の幅が広がったり、新作の糧に繋がることはあるし、そうなる未来を期待して否応なく進路を変えざるを得なくなるような刺激が転がっていないかな、と既存の作品群に目を配ることもある。ただ、上手につくれるようになりたいとは思ってはいるものの、ではその上手の基準はどこにあるの、と考えてみると、既存の作品群のなかにそれはない。けっきょくのところじぶんの理想とするものにより近づける方向に舵を切りつづけるよりなく、理想そのものもまたこちらが舵を切るその所作に影響を受けて変化していくので、いたちごっこというか、陽炎との追いかけっこというか、終わりが見えないし、終わりがあるとも思えない。明確な基準がなく、それでいて上手になりたいと思ってはいるものの、上手なるものの輪郭をハッキリと掴んでいるわけではないから、いかんともしがたい。とにかく何かこれまでになかった感触を味わいたいのだ。しかしながらまことにざんねんなことにいくひしさんは偏食でもあって、好き嫌いが激しく、食わず嫌いで、偏見の塊であり、息をするように差別をし、それでいてじぶんに甘く他人には厳しい。任意のそれを「する」のが好きと言って間違いではないものの、どちらかと言えば任意のそれを「なぞる」ことに堪えられないだけな気もする。それはそれとしてさいきんのいくひしさんはじぶんのことばっかり並べますね。あ、いつもでしたか。失敬。


2549:【無ではない】
仮にこの世が無限だったとしても、そこに一つも存在しないものは存在しないのだ。たとえばそれを見ただけで人間がうさぎになってしまうような謎の結晶体があったとして、誰もそれを目にしたことがなければ人間がうさぎになることはない。人類にとっては「ない」も同然であるが、しかし人類の認識にかかわらずそれはこの世に存在した以上、ふたたび存在し得る可能性が残ることとなる。つまり、たった一つでも存在すれば、仮にそれがほかの事象になんら影響を及ぼさなかったとしても、この宇宙にとっては絶大なる影響を残していると呼べるのではないか。適切な表現でないことを承知で述べるが、どんな事象であれいちど存在した以上は、その存在したという情報はこの世に残るのだ。誰にも観測されずに刹那に消えゆく雪の結晶のなかに、人類の価値観を揺るがすほどの美しい形状を帯びた結晶構造があっとして、人類がそれを目撃せずとも、人類の価値観を揺るがすほどの美しい雪の結晶はこの世に存在し、そしてそれはふたたび現れる余地をこの世に残す。存在したことと、未だかつて存在し得なかったことのあいだには、世界をもう一つつくりだしてしまうくらいの大きな差異がある。越えられない違いがある。明確に、はっきりと、まったく異なるのだ。観測されるか否かよりも、存在するか否かのほうがずっと重大だ。極小の世界では観測されることで粒子の状態が確定されると考えられているが、それでも観測され得るその粒子の存在は認められている。状態が確定されていないことと、存在が確定していないことは同義ではない。存在することがだいじなのだ。そこに物理的な形状を帯びていなければならないといった制約はない。システムとして機能すればどんな存在であれ、そのシステムとしての構造――循環――を帯びていると呼べる。誰にも読み解くことのできない言語で編まれた、人類の価値観を揺るがすほどの物語がこの世のどこかで誰かの手により編まれたとして、その物語はほかの人類に読解されることはなく、伝わることもないが、しかしその物語がこの世に編まれ、存在した事実は覆らない。言語として編まれずとも、よしんば空想であったとしても大差ない。概念を生み、物語を想像するだけであっても、そうした情報を生みだす脳内の回路が存在した事実はこの宇宙にしかと刻みこまれ、ふたたび似た構造物が結晶する余地を新たに広げるのだ。適切な表現でないことを承知で述べるが、どんな事象であれいちど存在した以上は、その存在したという情報はこの世に残る。誰に観測されるかは二の次と言えよう。極論、観測される必要すらない。情報は残る。安心して世界を新たに生みだそう。あなたの世界を編みだそう。(以上の妄想が仮に正しいとすれば、あなたが生きているだけでかってに世界はその枠組みを広げるので、とくべつ物語を編む必要もないのだが、いずれ上記は妄想に違いないので真に受けないように注意してください)


2550:【あんぽんたん】
歴史にまったく明るくないので(小学生のほうがまだ知っていそう)、たびたび耳にする大名たちの領地の規模を示す「石(こく)」がいったい何を示しているのかが皆目解らない。広さなのか武力なのか人口なのか、何なのか。気になったのでネットで検索したら、米の収穫量とあった。人間が一年間に消費する米の量がだいたい「一石」らしい。百万石と言った場合は、百万人を一年間養えるくらいの米を生産できる土地、という意味になるのだろうか。しかし農業の技術があがって生産性が高まれば、小規模の領地であってもたくさん米が収穫できるようになり、単純に「石」の多さが領地の豊かさとイコールにはならない気もする。百万石の土地であっても人口は千人とかふつうに成立するのではないか。あべこべに、まったく米を生産せずともほかの土地から米を購入したり年貢で補完できるような土地ならば、百石なのに人口は一万人といった例もでてきそうに思うが、どうなのだろう。いかにもその土地の豊かさや武力の高さを示す単位として使われがちに思うが、率直な感応としては、米の生産量がなぜその土地の豊かさと安易に結びつけて考えられているのかが解からない。また、それを当然そうであるかのように扱っている文章を見ても、まるでその土地の戦闘力を測る指針のようなニュアンスで使っているけれど、それは妥当なの、と疑問視してしまう。「石」は土地の規模を示す単位としてはあまり適切でない気がしているが、単にこれは勉強不足なだけであるので、もっとお勉強をしなきゃな、と教養のなさを打ち明けておく。ちなみに米の生産力を「石」で表すことを「石高」と呼ぶそうだ(時代によって、石高の扱う対象は米だけではなくなっていくようだが、詳しくは知らない)。もっと解かりやすく「一石」が、現代で言ったら何に値するのかを併記してほしいと思うのだが、たぶん歴史の観点からすれば、こうしてなんでもかでも現代の価値観と比較する考え方は、あまり好ましくはないのだろう、とそれとなく想像してはいる。おそらくは、米の生産力が高いことと、その土地の人口および武力が高くなることのあいだには繋がりがあり、なにかしら相関関係が築かれるような文化や風習があったのだろう、と推し測っている(たとえば、百石あたりにつき武士を一人雇え、みたいな具合に)。そこら辺の知識が抜けているので、五万石と見ても、「それはすごいの?」と気になってしまって文章がするすると頭に入ってこない。だってそうじゃない? 石が五万個あったって邪魔なだけなのに。むかしのひとは山でもつくりたかったのかな(すっとぼけ)。


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参照:いくひ誌。【61~70】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881262233

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