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いくひ誌。【2521~2530】

※日々、宙を舞う埃のように、積もることなく、ごみにすらなれず。


2521:【伸び白なし】
これまでそんなに好きではなかったものの魅力がわかってきて、どんどん興味の幅がひろくなってきていて、前よりも楽しめることが増えてきている反面、じぶんのつくっているものや目指そうとしている理想がなんだかものすごく色褪せて感じられていて、言ってしまうと限界が見えてきてしまっているので、ようやく限界に手が届きはじめたかと、ほっとしてしまっているのだけれど、それはもちろん、限界は見えなければ越えられないからであって、ようやく第一段階を突破できるというか、スタートをきる準備に入れるかなといった見通しの晴れた心地がして、ちょっと気が緩んでしまっているところがある。でも可哀そうだから、気を引き締めるのはやめておく(引き締めるってこわくない?)。


2522:【方向性】
道具の性能の高さによって成果物の評価が大きく左右される分野にはなるべく手をだしたくないというか、極めようとすればするほど資本が必要となるし、単純に資本の多寡が評価に直結してしまうし、そうなると高評価されなくてはつづけられなくなり、最終的には評価されることが目的になってしまうので、ただ日々を楽しくすごしたいだけのいくひしさんはそうした分野からは距離を置いていたいとぼんやりと考えている。もっとほそぼそと、泥臭いほうが性に合っているし、泥遊びみたいに、いつでもどこでも、すぐそこにあるものだけでつづけられるものを極めていきたい。とはいえ、この極めるというのもよくわからなくて、ずっと感じているのが、なるべく上手いと下手の両方を手放さずにいたいな、ということで、極限みたいにある一つの終着点を目指していく、という感覚ではなくて、もっとこう、じぶんの足跡で世界を埋め尽くしていく、みたいな感じにちかくて、コレクションと言ったほうがちかくて、じぶんにできることの幅を広げていきたいのだ。そのためにはもちろん、できないことや、敢えてしないことを決めていかなくてはならなくて、これは直感でしかないけれども、何かを極めるためには、ある時点からは、何をしないか、のほうが、何をできるようになるか、よりもずっと多く選択していかなくてはならなくなるような気がしている。できるようになることの制限はむしろなくなっていくけれど、何をしないのか、においては、かなり厳格に制限されるようになっていくのではないか、との予感がある。だからこそ、つよく自由を縛ってしまうがゆえに、何をしないでいるか、のほうをよくよく吟味しなくては、いざ何かをしようと思っても抵抗が大きくなり兼ねない懸念があって、なるべくそうした抵抗を増やさないでいるためにも、早いうちから手に入れることで抵抗が大きくなりそうなものからは距離を置き、なるべく長くつづけられるもので遊んでいられたらな、と思うのだ。


2523:【説教くさいですか?】
もはや若い世代(二十代前半以下)からツイッターやってますか、と訊かれることがなくなった。いまはもう完全にインスタだ(2020年2月8日現在)。たほう、イベントを開く側はツイッターを活用している率が高い。これは一般化してよい現代社会の傾向に思える。他者と交流するためのツールとしてツイッターを使っている若者は減少傾向にあり、同時にインスタは一昔前のフェイスブックが担っていた簡単な自己紹介ツールとしての側面を強化しているようだ。いまのところティックトックの話題を振られたことはないが、これは話しても通じなさそう、と判断されている可能性がそう低くはないのでなんとも言えない。SNSの利点の一つに上下関係が希薄な点が挙げられる。因果関係は不明だが、現実のコミュニティにおいても上下関係での繋がりは敬遠されるようになって観測される。好ましい傾向に思う。ただ、意識的か無意識的か定かではないが、人数の多い集団に属したがる個人が増えて感じられる。分母の大きい集団に属しているだけで安心して、気が大きくなってしまうのは、これはインターネット上でも現実の世界でも同じかもしれない。もちろん現代に限らず、人間にはすくなからずそうした性質があるのだろう。もっとも、そうした個人は集団からはずれてしまうと途端にそれまで活発に行っていた何かしらをしなくなってしまうので、集団に属するための手段としてそれをしているのか、それともそれをしたいからしているのか、の区別は見失わないでいたほうがよいのではないか、と考えるものだ。もちろん断るまでもなく、集団に属したいからそれをする、という行動原理を非難しているわけではない。各々、好きなように日々を楽しめばよいのだ。とはいえ、集団を大きくすればするほど、それだけ集団の維持に労力がかかる。束縛される、とそれを言い換えてもよい。ただ集まるだけでも想像している以上の時間や労力が奪われている一面があることくらいは承知しておいたほうが好ましいのではないか、と思うしだいだ。(極々狭い観測範囲からの偏見ですので、真に受けないように注意してください)


2524:【ふぁいや】
唐辛子触った指で目ぇこすったら、めっちゃ目頭イタイ。燃えてる。


2525:【ぽんぽこりんになるぞ!】
文章にはその書き手の内面が滲み出る、という言説はあまり支持していないし、信じていないいくひしさんではあるけれど、長文をつむげばすくなからず書き手の負の面というか、陰湿な部分が表出するだろうな、とは思っていて、というのも、基本的に文章には否定文がつきものであるから(なぜなら何か意見を主張した際に説得力を帯びさせるには反対意見に対する反証を用いるのが効果的だからで)、どういうふうに物事を否定して自説を強化しようとするのかには、書き手の常日頃利用している思考法が顕著に表れるというか、それ以外の考え方を用いる利点は多くはないので(読者を欺きたいなら別であるが)、どのように物事を否定して、それによってじぶんに有利な理屈を構築しようとしているのかを見れば、必然、そこにはその書き手の言ってしまうと、いやらしさが窺えるものだと考えている。とはいえ、いやらしいことが一概にわるいとは思っていなくて、そもそも生きるというのはいやらしい行為の数々によって支えられているわけだから、これはもういやらしくて当たり前ではあるわけで、そんないやらしさにも、まあ一見していやらしいな、と判るいやらしさもあるし、巧妙に装飾されたいやらしさもあって、そこらへんの偽装工作の高さが、いわゆる上品さだとか賢さに通じているのかな、と思わないわけではないのだね。もちろんいくひしさんの文章なんてものはいやらしさのてんこもりで、あまりにおっぴろげすぎて却っていやらしく感じないくらいで、まあありますよね、隠そう隠そうとするほうがいやらしいというか、見えそうで見えないくらいのチラリズムのほうがいやらしいというか、真面目ぶったところに垣間見える抜けている面だとか、おっちょこちょいなところとか、ぜったいにこのひとは下品な行為なんてしないんだ、死んでも生殖器の名前なんか口にしないんだ、排泄物だって柑橘系のよい匂いがするんだって、まあ排泄物を垂れ流すところはさすがに否定できませんよねそれだって人間じゃないし、みたいなそういう感じの、いやらしくなさそうなところに幻視されるいやらしさのほうがいやらしくて、言ってしまうと、いやらしさはまあ、書き手ではなく読み手の脳裡に否応なく思い浮かんでしまうくらいのほうがよいのかな、みたいなね。二次創作を生む余地を奪わずにいましょうよ、という感じでしょうか。これもまた何を言って何を言わずにいるのかの選択の妙とでも申しましょうか。人体だって細胞の死滅によってその輪郭を得ているわけでして、手足が生えているのは、そのカタチに細胞が生えたからではなく、手足のカタチに細胞が死んでいるからそのカタチがとられているわけでして(でなければ肉団子になってしまうわけでして)、けっきょくのところ、ない部分、欠けているものこそが複雑な事象を形作り、我々に奥深さを感じさせているのかな、幻視させているのかな、なんて妄想を逞しくしたところで本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。とりもなおさず、欠けるにはまず満たさなければならないわけで、肥えるというのもときには必要なのかもしれませんね。


2526:【旧世代、時代遅れ、古代人】
こんなに他人との接点のないいくひしさんですらインターネットからすこし距離を置きたいと思ってしまうくらいなのだから、インターネットを他者との双方向での交流を目的に利用しているひとたちはいったいどれほどの心労を割いているのだろう。よほど何とも思っていないか、じつのところ精神的にまいっているかのどちらかなのではないか。インターネットを手放すのがむつかしい時代であるから、しんどくなったらせめてSNSから距離を置くくらいのことはしてもよいのかもしれない。さいあく、双方向の交流にならないようなアカウントを別途に作っておけば体調を崩す前に休む方向にじぶんをコントロールできそうだ。他者からの反応に反応し返す、というのはSNS上ではあまりに手軽でいて、それゆえに心労が大きくなりがちだ。無視するのもけっこうに気を使いそうでやはり避けられるなら避けたいものだ。通知をOFFにするか安心して眺めていられるアカウント以外はミュートにするのがよいのではないか。いずれにせよ、これまで以上に現代は孤立を感じやすく、それでいて孤独になりにくい社会なのかもしれない。好きなときに孤独になる術の一つくらいは持っていたほうが心身ともに調子を崩すといった事態を回避できそうだ。逃避先と言えば端的だ。孤独の価値はこれからさきの社会におかれては、まだまだ相対的にあがっていくだろう。もちろん、好ましい人間関係を築くこともまた同様にして価値が高まっていくはずだ。選べることがたいせつなのだ。好きなときに、好きな相手と好ましい交流を結び(或いは距離を置き)、好きなときに好きなような孤独な時間を満喫できたら言うことがない。もちろん孤独などいらぬと、すべての時間を好ましい他者との交流に費やしてもよいし、すべての時間を好ましい孤独な時間に費やしても構わない。ただ、すくなくともインターネットに繋がることは、その架け橋ではあってもいましばらくの期間は、それそのものに成り代わることはないのではないか、と見立てている。仮想現実が物理世界と肩を並べ、或いは物理世界に密接に関わり、進出してくるようになるまでは、一日のなかで(睡眠時間以外に)二時間くらいはインターネットに繋がらない(その動向に影響されない)時間をつくってみるのも一興かもしれない。(スマホを持ち歩かない旧世代、時代遅れ、古代人の戯言ですので真に受けないように注意してください)


2527:【見失う】
なんかいくひしさんってどんなキャラだっけとうっかり忘れてしまって、ちょいといっちょ見直してみっか、とむかしの「いくひ誌。」を読み直してみたら、アイタタタ、こりゃあれだね、いわゆる古傷が痛むというか、あっそれ傷だったんですね、といまごろ気づいてしまったというか、あちゃーいくひしさん、あなたなかなかのオイタタタでしたね。あれ、あやー、ひょっとしていまも?


2528:【じぶんっぽいものはむしろ苦手】
共感よりも憧れや新鮮を求めて物語を味わってきたこれまでのいくひしさんであったけれども、さいきんはかってに共感というか、こいつわいやん、みたいな読み方をしてしまいがちで、自己嫌悪に陥るのでやめてほしいのだけれども、自動で脳内に「これわいやん」が流れてしまうので、ほんとにほんとにやめてほしいと思っています。べつに誰がわるいという話ではなく、さいきんのちょっと困った変化というか老化というか、もうこれあれだよね、自意識過剰? わかんないけど、そういうのがね、ちょっとね。共感よりも憧れや新鮮を求めていきたいなって話。でした。


2529:【ぶんがくってなんじゃ?】
古典と呼ばれる小説をたぶんほとんど読んだことがなく、文学の素養もなく、とくに文章を読むのも好きではなく、かといって読書はどうかと言えば、楽しい読書は好きで、じゃあどういう読書なら楽しくないのかと言えば、何かこう、読書をすることが特別なことで、高尚なことで、小説ってすばらしいよね、うぃんくパチ、みたいな感じが漂いはじめたり、嗅ぎつけたりしてしまうと、とたんに、ウッ、となってしまってダメになる。もちろんこれはそう感じてしまういくひしさんがかってにダメになっているので、そういうふうに誤解されたり、錯覚されたりするほうに瑕疵はない。問題はない。わるくない。ただいくひしさんは、文学というものから匂いたつ、えっらそーな感じが好きではなく、もちろんじっさいに偉い部分があることはなんとなしにそれなりに想像はつくものの、やっぱりこう、なんだ、もっと単純に、文芸くらいの意気込みで、文章でお芸ごとをお見せしよう、くらいの塩梅で、そこそこの愉快さといっぱいの新鮮さと、回避不能な視界のぐるりを、これまでの視点にさようなら、こんにちは新しい見方、解釈、言葉たちよ、の太っ腹具合で、拍手ではなくぽんぽこりんとお腹を叩いて終わりたいなと、読み終わりたいなと、ページを閉じて、ほぉっと満足のひと息を吐きたいのだと、そう思うのだ。文学が好きなのか、読書が好きなのか、はたまた新しき何かに触れるのが好きなのか。いずれにせよ、こんな悪態を並べる前にせめて古典の一つでも読んでから言えよ、と内なるいくひしさんに睨まれてしまったので、そのとおり至極、わるく言ってごめんなさいでした、と保険の言葉をみょいと残して本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。


2530:【わかんなくなっちゃった】
いやそんなキャラだっけ? まだ迷走してない?(言うほど変化はしてないが)


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参照:いくひ誌。【1541~1550】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886837372

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