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いくひ誌。【2511~2520】

※日々、他人の影を身にまとう、ぺたぺた欠けた輪郭を補っていく。


2511:【まとまりがない】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはさいきん、まいにちまいにち、たくさんおねむでござる。眠たすぎて、娯楽が睡眠になってきたでござる。寝るのってどうしてあんなに気持ちよいでござるか? ちいちゃいころは寝るのがきらいだったでござる。おふとんに入るのがいやだったでござる。暗いし、遊べなくなるし、起きたときになんでか寝るまえまではあった、たのしーってきもち、こうふん、そういうのがなくなっているでござる。ギアを全開にするまでに時間がかかっていやだったでござる。せっかく一日をかけて全開にしたころに寝なきゃいけなくなるでござるからいくひしさんはなんだかまいにちまいにち賽の河原にいるきぶんだったでござる。せっかく積み重ねた、おりゃー、わい最強!ってきぶんが寝て朝になると消えているでござる。でもでもきっとこどもというのは、そうやって日々蓄積した、おりゃー、わい最強!ってきぶんをバネにして、燃料にして、素材にして、身体を成長させていくのかなって思わないでもないでござるよ。等価交換でござる。ちいちゃくないいまのいくひしさんは、寝ても起きても、おりゃー、わい最強!なので、つねにそれなので、ぜんぜん弱くはないので、よわよわのよわではないので、ほんとにもう信じて! あー、もうわかったでござるよ、認めるでござる。いくひしさんはよわよわのよわでござる。これでいいでしょでござる。認めてやったでござる。膨れてやるでござる。ぷくぷくのぷくでござる。風船でござる。しゃぼんだまでござる。すぐに割れるでござる。しょぼしょぼのしょぼでござる。卑屈になってやるでござる。でもだいじょうぶなんでござるよ。いくひしさんは最強なので。ふつうのひとなら、もうだめだー、ってなるよわよわのよわでも、ぜんぜん、おりゃー、わい最強!ってなるでござる。もうもうそうなりたいがために、よわよわのよわでいると言ってもよいでござるな。つよがりでござる。でもでも、暑がりは、暑いのによわいという意味でござるから、寒がりだって寒いのによわいって意味でござるから、じゃあつよがりは、つよいのによわいって意味でござらん? そうでもないでござるか? まあよいでござる。なんでもよいでござる。よよいのよいでござる。よわよわのよわすぎて、もうもう、いくひしさんは起きていても夢心地、寝ているきぶんでござる。ぽわぽわのぽわでござる。きょうも、おりゃー、わい最強!ってきぶんをバネにすべく、たくさんいねむりしちゃうもんね、でござるー。


2512:【タイトル考えてなかった】
新作の第一稿ができた。四万字ちょっとの中編だ。いちど推敲して寝かせて、また推敲したら掲載する。二月半ばごろを目途にしよう。ただこのあとちょっと後日譚を付け加えるかもしれない。いったんつけてみて、しっくりこなかったら削る。新作は「霊魔怪シリーズ(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371)(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886316030)」だ。これは掌編や短編がほかにも二十作ちかくあるのかな?(そんなにない?) で、いちおう全部を通してひとつの物語になるようにつくっている。完結はまだで、あともうひとつ六万字くらいの中編が必要で、それをつくるまでにまたちらほら掌編が増えるかな、といった塩梅だ。連作短編としては未完成だけれども、一作一作が完結しているので、どこから読んでもらっても構わない。電子書籍にはまだしていなくて、たぶんもうすでに一冊分くらいは溜まっているのかな? ぜんぶで二冊分くらいの文字数になりそうだ。シリーズをとおして一冊にまとめたいので、電子書籍化は来年以降になるかなと想像している。原稿を寝かせているあいだにもうひとつつくりかけの中編を閉じてしまって(これはいくひしさん最後の百合小説で、すでに六万字の分量に達している。あとは閉じるだけなので、読み直しに一週間、プラス一週間あれば脱稿までこぎつけられるかな、といった塩梅だ)、できれば加えてもう一個くらい、何かつくりかけの物語を閉じてあげられたらうれしい。二月半ばまであと十五日あるから無理をすればいけるかなといった具合だが、いくひしさんは無理をしないので閉じれて一作だろう。というかあいだにまた気まぐれに掌編やら何やら新しいのをつくりはじめてしまうので、予定を立ててもいかんともしがたい。ファイル名は「除霊」で保存しておいたけれども、変えるつもりだ。なんにしよう。いま考えてしまおうか。んーそうだなあ。「神狩る者」とかどうだろう。いくひしさんは固有名詞のセンスが壊滅的にないので、キャラ名とかもそうなのだが、もはやいまは名前すらつけないというね。絶対よくないので、推敲しがてらつける方向に修正するかもしれない。霊魔怪シリーズは主人公の名前すら出てこないのだ。今回も登場人物の名前が誰にもついていないというね。言っていて、それダメでしょってなってしまった。ダメですね。つけます。せめてヒロインの名前くらいは。やっぱりきょう中にいちど修正がてら推敲して、足りなければ後日譚もつける。よし。そうしよう。と、その前に、お風呂に入ってこーよおっと。2020年1月31日のいくひしまんでした。


2513:【手癖の極み】
絵描きさん界隈でたびたび目にする言説に、手癖でばかり描いていると上手くなれない、というものがある。異論はない。そういうものだろう。これは絵にかぎらず、どんな分野でもそういう傾向にあるように観測できる。ただし、だからといって手癖がわるい、ということはない。どちらかと言えば、手癖で上手ければ一番よいのだ。超一流の力作と同レベルの絵をラクガキで描けたらそれこそ天才というものではないか。「手癖でばかり描いていると」の「ばかりいると」が肝なのだ。手癖がわるいとは一言も書かれていない。ここのところを勘違いしてしまうとむしろ上達の道からはずれてしまうように思うのだ。ラクガキの楽しさを忘れてしまえば、絵を描くことそのものの楽しみすら忘れてしまいかねない。重要なのは、描きたい対象をよりしっくりくるカタチで表現できそうな手法をいろいろと取り入れてみることなのではないか。失敗してもいい。まずは何が失敗なのかを知ろうとし、じっさいに知ってみる。手癖とはすなわち、すでに獲得した技法だ。楽に、いまある最上級の表現を再現することができる。だからこそ手癖だけで表現しつづけてしまうと、それ以外の対象や、それ以上の表現に届かないどころか、そういったものがあることすら知ることができない。理想を見ることすらできない。思い描けないのだ。繰り返しになるが、手癖がいけないのではない。手癖への拘りが厄介なのだ。いまある型をいちどよこちょに置き、ほかの型にも手を伸ばしてみようとしないことには、自身の限界を知らず知らずのうちに狭めてしまう。手癖の幅を広げようとしつづける姿勢が、上達への道へと通じている。千手観音がごとく無数の、種々相な手癖を取り揃えよう。否、いくひしさんは取り揃えたいと望んでいる。それは何でもつくれるようになろうという意味ではない。絵具の色を増やし、筆やキャンバスを選べるようにしたいね、という願望である。(五分で並べた文章です。手癖の極みですので、真に受けないでください)


2514:【あおい】
とりたてて器用でも不器用でもない。節操がないだけ。作法を知らないだけ。未熟なまま朽ちていくわたくし。熟したくないわだつみ、その色もまた青い。


2515:【ひょっとしたら創造性皆無かも】
じぶんの頭で考えることができない。インターネットや本のチカラに頼りっぱなしで、ほとほと知能がないなと感じている。他人の思考をかすめ取ってばかりだ。楽ちん。


2516:【デタラメとしても中途半端】
ものすごく単純な話として、想像の翼を強引にでも羽ばたかせたければ、知らないことや行ったことのない場所、未知の領域を見ようとしてみればいい。たとえばじぶんの住まいを俯瞰してみる。これくらいなら誰であってもできるだろう。地図を上から眺めるように、近所の風景を思い浮かべる。これくらいだと視点を上昇させただけで想像と言うには飛躍が足りない。いつも通る道くらいなら辿れるだろう。しかし、いつも通らない道や行ったことのない方向に視点をずらしていくと、いきなり知っている情景に飛んだりする。空白の領域がかってにジャンプされており、漠然とこんな感じ、と補完されていたりする。その部分をもっと詳細に思い浮かべてみよう。見たことがないのだからそこで思い浮かんだ情景はほとんどでたらめだ。どこかで見たことのあるような景色の組み合わせでしかない。だが、それこそが想像だ。そう、想像とはけっきょくのところ、既知の情報の組み合わせでしかないのだ。創造や妄想はもっとデタラメ度が高い。元の素材が判らないくらいにグチャグチャのドロドロしたダマから、まるで実際に見てきたように、すぐそこにあるものとして扱えるくらいの事象がひねくりだされる。創造も妄想もとどのつまりが窺知の情報の組み合わせでしかないが、想像よりもずっと細かく、情報の量も多い。何より、出処が不明だ。想像するときはたいがい、知っている部分と部分に開いた空白を埋めようとする作業になる。だが創造や妄想はどちらかと言えば、知っている部分など端からない、現実から一歩と言わずしてまったく離れた空白そのものに「知っている気がする領域」を構築する作業と言えそうだ。グチャグチャのドロドロとなった情報のダマとも呼べる「種」をその空白へと植え、水をやり、必要に応じてそとから既知の情報――養分を加えてやって、種を芽吹かせ、樹へと展開し、空白を埋めていく。そうして生えた樹はもはや、どこかで見たことがあるような、しかしそこにしかないものとして顕現する。なぜどこかで見たことがある気がするかと言えば、樹へと展開される前の段階ですでに、その樹の全貌が「種」から幻視できるからだ。否、種かと思っていたそれは、鏡の世界のあちらとこちらの境目のようなもの、湖面のようなもので、種は単なる穴としてそこにある。こちら側に樹が生える以前からすでに、種の向こう側には同じシルエットの樹がさかさまになってさきに生えている。それは地中に伸びた根っこのようで、ひょっとしたら目のまえに展開された樹のほうこそが根っこなのかもしれない。創造や妄想を育ませれば育ませるほどに、種の向こう側では枝葉が萌え、茂り、新たな種を無数にならす。想像するだけでは足りない。創造し、妄想する過程で、つぎなる想像の余地を生み、その土壌を耕し、そうして空白を補完する機能をひとは高めていくものなのかもしれない。窺知の情報だけでは足りない。種だけでも不十分だ。思考は循環し、深まる。知っていることと知らないことの狭間にて、想像を足場に、無知の領域へとあがりこみ、創造と妄想の根を張り巡らせ、想像の金型をさらに増やし、知っていることと知らないことの区別を明瞭とし、情報を溜め、さらなる思考を煮詰めていく。(知った口をたたきました。そんなに単純ではないと思います。真に受けないでください)


2517:【がき】
一人遊びが好きなのに、読者という存在がいないと成立しない小説なんてものを遊び道具にしてしまったのは大きな間違いだった気がしてきた。端的に失敗だ。失敗したかもしれない。けれども、しかし、でもでも、よくよく考えてもみると(よくよく考えてみなくとも)、小説は読者がいないと成立しないとは限らないのではないか。この「いくひ誌。」がそうであるように言葉を並べ、文字を配置し、文章をつらね、物語というそれで一つの巨大な言の葉をかたどるだけでも、お遊びとして充分至極に成立していると呼べるのではないか。物語はそれでひとつの言語だ。なればこそ、物語を、小説をつくるだけでも、新しい言語を手に入れる過程を経ており、それはそれで一人遊びとして認めても矛盾はしない気がしてきた。端的に失念だ。失念していたかもしれない。けれども、しかし、でもでも、よくよく考えてみると(よくよく考えてみなくとも)、小説はただそれをつくるだけでも同時に読んでいるわけで、作者と読者は創作過程においては不可分であり、やはり読者がいなくては成立しないとも言える気がして、やんだくなっちゃうな。どっちかにしてほしい。失敗なのか、失念なのか。ただつくるだけじゃダメなんじゃろか。読者いなくちゃいかんのじゃろか。そんなことないよって言ってほしいな、と第三者の承認を欲した時点で、やはりというべきか読者の必要性を半ば肯定してしまうのだ。読者がいようがいまいがどっちでもええよー、といった姿勢がもっとも自由でいられそうだ。どっちでもよいのだ。読んでもらえたらうれしいし、運がよいだけで、べつに読まれなくとも創作そのものには影響しないし、させたくない。やっぱりけっきょくどこまでいっても、いくひしさんのしていること、したいことは、一人遊びなのだね。泥んこ遊びだし、砂場遊びだし、積み木遊びなのだ。キィボードをぽちぽちしている時点で、正真正銘、判子遊びではないか。高尚さのかけらもない。帯びたくもない。ようやくわかってきた。いたずら書きなのだ。卑下ではない。見るのも書くのも楽しいではないか。いたずら書き、ラクガキ、能書き、総合してワルガキだ。やはり一人で遊んでいるくらいがちょうどよいのかもしれない。


2518:【無礼ですみません】
上手いひとの表現やお手本にしたいひとの表現は何度見ても、上手いなぁ、すごいなぁ、としか思えないのに、じぶんの表現はいちど見返すだけでも、欠点が「ここにも、ここにも、うわこんなところにも」と三歳児用の間違い探しかってくらいの難易度で、頻出度で、そんなにぽこぽこでちゃってだいじょうぶですか、イカサマしてるんじゃないの、って思うくらいの大当たりの連続で、これがカジノだったら一晩で潰れてしまうよ大泥棒ですら盗みに入らずに遊んじゃうよみたいなね。もうね。どうしたらよいと思う? 事実を並べるのはべつに卑下じゃないし、いくひしさんはプロではないので読んでくれてるひとに失礼だとも思わないし、そもそもそういう考え方がよくわからなくて、作者だってじぶんの表現の受動者であってもよいわけで、ね? べつに思ったことや感じたことを並べてもよくない? なんでそれが失礼になるんだろ。聞きたくないひとの耳元でわざわざ表現についての感想をわめいていたらそれはたしかに、なんだこのー、ってなると思うけど、それはだってべつに批判じゃなくたって称賛でも同じだし、ここをこうしたらもっとよくなると思うんだけどな、とつぶやくくらいべつによくない? 理想を話すことと何が違うんだろ。ようわからんわ。というか、真面目にやってるひとのまえでちんたら遊んでいることを指して、失礼だ、とかいう言い方もよくわからないんだよね。けっこうそういう批判あるよね、ないかな? こっちは真剣に勝負しているんだ、とか、真剣に勝負している相手に失礼だ、とか、そういう言い方をするひとがたまにいるけど、いやいや、その考え方ってどうなの、と引っかかってしまうのだよね。失礼に感じるのは自由だけど、あなたの真剣度とか関係ないから、といくひしさんなんかは思ってしまうのだよ。真剣で真面目で一生懸命だったら失礼じゃないの? たとえばだけど、治療を受ける側がお医者さんに求めるのはそんな内面の話じゃなくない? 技術じゃない? 仕事の出来じゃない? もう結果がすべてじゃない? で、そのお医者さんが、じつはもっとこうできたらあなたの病気はより早く安全に治るんですけどね、と正直に言ってくれたらうれしくない? そっちのほうがよくない? でもって、そっちの理想的な治療法を教えてくれたらよくない? いっそもっと腕のよい専門のお医者さんを紹介してくれたら最高じゃない? ぜんぜん失礼じゃないよね。表現の話と医療の話じゃちょっとニュアンスが変わってきちゃうけど、大枠は同じだと思うんだよね。あーでもでも、「じつはあなたに施した治療は、こことこことここに欠点があって、もっとこうしたらよかったなと思うんですけどね」なんてお酒飲みながら話されたら、失礼というか、「は???」とは思ってしまうかもしれないね。斟酌せずに言えば、殺意が芽生えるかもしれないけれども、それはそれ、これはこれ。やっぱり表現と医療とじゃ違うかもね。本日の所感よろしく、あんぽんたんぽかんでした。


2519:【ちぐはぐ、ちくたく、いつかは止まる】
いまに限ったことではなくて、わりと寝るときとか朝起きがけのときとか、ぼーっとしているときに、しずかなるキラキラとほこり舞う部屋や、影に揺らぐ風の景色を眺めていて連想してしまうのだけれど、いくひしさんが死んだところで世界は本当に、本当に、なにも変わらなくて、影響がなくて、何も損なわれないし、何も失われないのだなって、いまこの瞬間に死んだところでそうだし、このさきいつ死んでもそれは変わらなくて、誰にも知られずに死ぬこともあるだろうし、誰かに治療されながら死ぬこともあるだろうし、痛みに苦しむにしても、ぽっくりいくにしても、そんなのはいまこの瞬間にも地上のどこかでは毎秒、毎時、つつがなく、区切りなく、途切れることなくつづいている日常でしかなくて、死ぬのがこわいと思うときもあるし、どんな死に方なんだろうとやっぱりこわくなるし、だったらいまじぶんで死に方を選べるうちに死ぬのもまあ、なくはないか、と思うと、いつでも死ねるならもうすこし楽しいことを好きなだけしてから心置きなく死ねばよいよね、となって、どうせいつかはくるのだからそのときまで楽しく生きてたらよくないか、と思って、じゃあそうしよっかな、となるともう、やっぱり死ぬのってこわいし、死にたくないなあ、と思ってしまうのだけれど、それはどこか、眠ってしまいたいなあ、という欲求に似ていて、死にたくないなあ、と、眠りたいなあ、がちかくて、じゃあ死にたいの想いとちかいのは何かな、と考えたところでとくに思いつかなくて、なるほど、きもちよい死に方は選べても、やっぱり死にたくはないのだな、と思って、けっきょくいくひしさんは生きるのがそれほど嫌いではなくて、そりゃあこれだけ恵まれた環境で、たくさんの運と恩をもらい受けていて、我がままに生きていて、好きかってしていて、これで死にたくなってしまったらとっくに人類は滅んでいるだろうな、と呆れ半分に、じぶんのちんけさに安心とすこしの罪悪感と、誰にも影響を及ぼさずにいられる運のよさと、それでいて誰かの足を引っ張り、誰かの何かを損なっている傲慢さに嫌気がさして、見ぬふりをして、ちっぽけなちっぽけな自意識の手のひらのなかに引きこもっている日々は、ひと知れず継続しているぶんには、まあまあそこそこの快楽物質じみた恥辱の念を撫でまわして、愛玩動物の代わりにでもして、どうせいつかは嫌でも打ち溶けるこの世界に、いまだけはNOを突きつけて、やっぱりちっぽけなちっぽけな手のひらのなかに窮屈な身体を押しこめていたい、眠りたい、そうたぶんきっと、ひどく我がままで、ちぐはぐなの夢のつづきを見ていたいだけ。


2520:【欠けつづける余白】
文字を並べて物語をかたちづくったときの満足感を百とすると、こうした雑記を並べたときの満足感は一とか三とかで、並べないよりかはマシだよね、レベルで、むしろ物語をつくれていないときの焦燥感、日々の浪費感をすこしでも薄めようとする姑息な手段でしかないのではないか、と思えるときがあって、というかいまがそれで、たぶんそういう側面もぜんぜんあって、これを並べているあいだにじゃあ物語のほうを進めてやれよ、と思うのもたしかなのだけれど、それはそれとしてこれは息抜きでもあって、物語は物語で進めていて、並行していて、こうして息抜きよろしく毒抜きをしないことには、何が余分で、何が足りないのかもよくわからなくなってしまって、冗長な文章をまずは並べてみないことには何が冗長かもわからないし、硬いと柔らかいの両立もできない気がして、こうしてこうすることで試金石代わりにしてはいるものの、それはそれで変な癖がつきそうだし、じっさいについているだろうことを思うと、ほとほと何が正解で何が失敗かは、いくつかの失敗を繰り返したあとでしか判らないし、それら失敗ですら正解のあとには失敗ではなく、道と道を結ぶ分水嶺となるし、或いは正解なんてものすらあとから振り返ってみればひとつの失敗にすぎないのかもしれなくて、けっきょくのところいまをどう生きるかでしかじぶんでじぶんを測れないし、これからをどう生きるかでしか失敗も成功も語れなくて、とどのつまりひとが物を語るというのは生きることとほぼほぼ同義であるのかもしれないとの錯誤を抱いた時点で、何かを置き去りにして、見逃していて、大いなる瑕疵を宝物と勘違いして、失敗を失敗とすら見做せなくなっていくのではないか、と怯えてみせることで、まだじぶんは怯えることができるのだ、とその場しのぎの安心を得る、安息を得る、息を吐く、息を抜く、毒を抜く、何が毒かも知らぬままに、気づかぬままに、目のまえの日々を毒扱いして、置き去って、捨て去って、欠けていく。未だなくならないのがふしぎなくらい。


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参照:いくひ誌。【1831~1840】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054888190853

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