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いくひ誌。【1831~1840】

※日々、孤立無援と思いこんでは、見知らぬ誰かに救われている。


1831:【こわい】
よくよく考えてみたのだけど、恋愛ってホラーじゃない? めっちゃ怖いんだけど。失恋が、とかじゃなく、恋愛にまつわる人間関係というか行動原理というか、なんでそこまでする必要ある? みたいなのが、すごく怖い。未知。ホラー。虚構のよくある題材なのに、殺人とかとちがって、すぐそこに、そこら中に溢れてるわけでしょ、なんなの、オバケってやっぱりいるんじゃん、みたいな、虚構じゃないのかよ、みたいな。


1832:【おかわり!】
依存体質なので、いくひしはコレが好きとなったら、ひたすら飽きるまでそれを摂取しつづけてしまう。食事なんかも同じものばかり食べてしまうし、創作でも同じようなパターンを繰りかえしてしまう。ツイッターやnoteでもその傾向はでていて、平等にパラパラと好きなものだけをチョイスするというよりかは、だいたい同じアカウントを眺めにいくのが日課になっている。言い換えるなら、果実そのものではなく、その果実をならせる樹のほうに興味の矛先が向かいやすい。どんなに好ましい果実をならせていても、樹のほうに興味が湧かないと一過性のいいですねー、で終わってしまう。お?とならないと、食指が動かないのだ。その「お?」はおおむね、いくひしにないものであり、欠けているものだ。ただ欠けているだけではなく、このさきどれだけ努力しても手に入れられないだろう、と予感させるものにつよく「お?」と感じる。いくひしに好かれてしまった方はたいへんかもしれない。執着されていると感じ、嫌悪感を覚えてしまわれるかもしれないが、飽くまでいくひしが興味があるのは実をならせる樹であり、あなたそのものではない。蚊は人間の血が目当てであり、その人間そのものに興味があるわけではないのと似ている。安心してくださいと言いたくて並べてみたものの、かえって失礼な文章になってしまったかもしれないし、そもそもを言えばいくひしが好きな方々がこんな文章を読んでいるわけもないのだから杞憂かもしれない。世のなかは広い。見かけだけでは計り知れない、深い根を張り巡らせている人間が何食わぬ顔をして、有象無象に埋もれている。「インターネットがなければまず繋がらず、たとえ物理世界で見かけたとしても歯牙にもかけなかった相手が、内面を可視化させた世界を介して、その片鱗を覗かせる現代」に生きていられる偶然は、じつによろこばしく、余すことなく甘受したい。


1833:【だんぴんぐ】
正規の価格よりも低い値段をつけて販売することによって、市場全体へ低価格チキンレースを仕掛ける手法を不当廉売(ダンピング)と呼ぶ。資本に体力のある企業が最終的に生き残り、そうでない企業や個人事業主は淘汰されるため、独占禁止法(独禁法)にて制限されている。しかしコンテンツ業界にかぎっていえば、SNSの普及により、市場に大量のコンテンツが溢れる事態に陥っている。しかも高品質で無料ときたものだ。コンテンツにお金を払う行為そのものが淘汰されようとしているのが現状から分析できる実情であろう。こうなったときにコンテンツ提供者としてお金を稼ぐために立てる策は大きく分けて三つある。一つ、SNS上に溢れるコンテンツには真似することのできない付加価値をつける手法。メディアミックスやイベント、グッズ販売などがこれにあたる。二つ目は、高品質の無料コンテンツを拾いあげ、値段をつけ、正規の流通ルートに載せることで、これまでの市場にちかいシステムを維持する方法だ。バイパス手術のようなものだ。血流の滞った部位にメスをいれ、チューブで繋ぎ、全身に血が巡るようにする。人材発掘などの手間を、SNS上の神の見えざる手によってまかなえるため、コスト削減の効果もある。反面、これまでコンテンツ提供者側の権威をかたちづくっていた新人賞などの箔が落ち、新人賞の存在意義そのものが大きく揺らぐ可能性は低くはない。最後になるが、SNSダンピング時代におけるコンテンツ提供者たちのとるべきもっとも理に適った策とは、コンテンツ提供そのものをビジネスの核にするのをやめることである。もはや、これまでのような「流通」でお金を稼げる時代ではない。否、流通は儲かるが、コンテンツ提供者にその役割はなく、SNSやネット通販サービスに取ってかわられる。全滅することはないが、ビジネスの核にすべき事業ではない。では、どうすべきか。一つは、コンテンツの権利を商品にしてしまうことだ。おそらく、これからはこれまで以上に、コンテンツを扱う権利が、株や証券のようにやり取りされるようになる。コンテンツの付加価値を高め、企業間でやりとりをする。その過程で、さまざまな商品開発がなされ、市場が活性化する。そのための布石として必要なのが、「まとめること」である。SNSでバズッたコンテンツでも、一週間も経てば、情報の海の底に沈んでいく。過去にバズッたコンテンツを一望できるサイトがあれば非常に便利であり、需要があると推し量るものだ。ただし、まとめただけではユーザーは金を払わない。まとめる作業は、飽くまで、潜在需要者を集めるための施策だ。となると、どうやってお金をいただくに値するサービスにするか。これはもう答えは半分でていて、ユーザーからお金を集めるのは、コンテンツサイト、とくに漫画や小説の分野では、理に適っていない。ユーザーはもう、コンテンツそのものにはお金を払う気がないのだ(一部ではいまなお、お金を出しても手元にモノが欲しいと希求しているユーザーもいる。が、減少傾向にあることは否めない)。そういう時代になってしまった。そしてそれはこのさき変わることを期待してはいては、市場が衰退していくいっぽうである。そのため、お金はユーザーではなく、他企業からもらい受ける方針に変えていくしかない。これはユーチューバーの資金繰りと似たようなものだ。YOUTUBEでは、動画の視聴回数に添って収益が支払われるが、それだけではたいした金額にはならない。宣伝効果をウリにすることで、ユーチューバーは、スポンサーを募り、商品の宣伝をする。同じように、コンテンツの分野でも、「需要のあるコンテンツを企業のほうで売買するビジネス」が主流になっていくと想像する。たとえば映画をつくって、自社の商品に有利な流れを市場に生みたいと考える企業があったとする。CMを打つにしても、まずはそのCMに起用する俳優たちに有名になってもらわなければならない。知名度や好感度をあげるのに映画は格好の場だ。そのために企業は、コンテンツ提供会社から原作を権利ごと買い取る。そのときに企業へ原作を高値で売るためには、そのコンテンツの付加価値が高まっていなければならない。バズッた実績や、ユーザー層のデータ、二次創作としてどこまで発展し、現状の需要はどの程度あるのか、などなど。そうしたデータそのものが、コンテンツの価値を高めていく。基本的に制作会社は、映画にしてもグッズ販売にしても、それらをつくる際に、外部から茶々を入れられたくない。権利ごと買い取り、あとはすべて自社の判断で行いたいと考えている。そして、コンテンツ提供者は、コンテンツの開拓と付加価値の向上、権利の管理と、三つに集中できるため、どちらにもメリットはある。これからはこうした流れが主流になっていくのではないか、と想像するが、むろん懸案事項もある。たとえば、この考え方の場合、最初に集めるコンテンツはすでにバズッた作品など、付加価値がある程度ついているものだ。クリエイターの側で果たして企業側に権利の管理を任せるだろうか。管理会社を介さず、直接制作会社にアプローチしたほうが話ははやく、もっと言えば、制作会社のほうで、アプローチする部門をつくったほうが成果は大きい。現に、アニメの原作発掘プロジェクトはどの制作会社も前向きに検討し、実地している会社も珍しくはない。現在、コンテンツ提供企業は、コンテンツの囲い込みに必死だ。投稿サイトを開き、自動的に実のなる畑を開拓しようと資金をつぎ込んでいる。並行して、SNS上で人気のあるクリエイターに片っ端から声をかけたりと、いそがしい。ビジネスとしてはまっとうで、合理的な判断だと評価できる。ただし、クリエイターがいつまでそうした企業の都合に合わせてくれるのかは大いに疑問だ。権利を商品にしないことには、コンテンツ提供者たちに未来はない。同時に、権利を商品にされたら、手放したくなくなるのが人情だ。すでに付加価値のついた作品であるならば、クリエイターのほうで、制作会社と交渉をすればよい。個人でやるよりも高値で売れますよ、利益をだせますよ、とそこのところを企業が証明できないことには、今後、コンテンツ提供者とは企業のことではなく、クリエイターそのものを示すようになるだろう。仲介業者を介する意味が消失しつつある時代だ。何ができるか、何が起きているのかを、見極めていきたいものである。


1834:【悩まない理由】
才能がないなぁ、と悩むことがいくひしにはない。じぶんにはとうていつむげない物語を読んでも、嫉妬はするものの、すぐに、「くっくっく、これでいくひしの世界がまた広がった」となるので、嫉妬するのが嫌いではない。本当にありがたい。どこを向いてもいくひしより上手なひとばかりだから、美味しい果実がなりほうだいで、ここは楽園か、と錯覚する(誇張表現です)。間違って禁断の果実を齧らないように注意しなくてはならない。いくひしは改稿をほとんどしない。それだけ創作中に考えながらつくっているから、改稿するくらいなら駄作と割り切って、また新しくつくるほうが性に合っている(もっと言えば、駄作かどうかを決めるのは作者ではなく読者だ。傑作もまた同じように)。ただ、過去作を読みかえしたときに、ここの展開は甘いなとか強引だなとか、冗長だな、と感じることは多々ある。でも改稿はしない。したとしても文字を削ったり、文章を整えるだけで、物語の構造を変えることはない。推敲するにしても、客観視できるようになるためには最低でも半年はかかる。だからまずはつくってしまって、いちど推敲したらひとまず「完」を捺す。半年後とか一年後くらいに、時期を見計らって読みかえし、本格的な推敲を施す。推敲はだいじだが、客観視できるようになるには時間がかかる。中途半端な状態で推敲するくらいなら、まずは完成として発表してしまったほうが、WEB作家としてやっていくなら効率がよろしいと感じる。推敲するのがわるいと言っているのではない。ただ、時間は有限だ。時間をかければかけるほど、本来つくれたはずの物語が失われる。もちろん、推敲をしないことで、本来到達できた領域にまで磨かれずに駄作となってしまう物語もあるだろう。そこはバランスを見極めながら進めていくしかない。予定の9万字をすぎても終わらない物語をまえに、うわーやっべー、となっているいくひしさんへ、きょうのいくひしさんからのアドバイス(余計なお世話)でした。


1835:【うっせーなぁ】
おめぇの場合は改稿しないんじゃなくて、できねぇだけだろ。複雑にしすぎだってホントは気づいてんだろ。なぁ。なんとか言えよ。きのうのいくひしさんよぉ。


1836:【やめて】
ケンカするならもうプリン買ってきてあげない。くだらないことで言いあってないで、まずは「おもしろい物語」をつくったら? 駄作なんていらないんだけど。


1837:【喧嘩両成敗】
栗ようかんおいしい。もぐもぐ。


1838:【文系とは?】
理系と文系の違いがよく解からないので、たまに目にする「文系VS理系」の二項対立では、そもそもが何と何の対立なのかが分からなくて、関心が向かない。でもさいきんになって、SNSでもそういう話題を目にするようになったので気になりだした。いくひしの解釈でいちばんしっくりきているのは、漫画家冨樫義博さんの「理系は自然全般のことを取扱い、文系は人間社会について扱う(大意)」という区分けだ。だから理系のなかに文系がすっぽり入りこむし、文系には理系が含まれる。そもそもが対立する構図を取りようがない。どっちが上だとか下だとか言いあうことそのものが不毛というか、まったくお門違いな考え方だと思うのだけれども、まあ、何かを言いあうことを楽しいと感じる気持ちが解らないわけではないから、ほどほどにね、と思うところで、これ以上の思考を煮詰める真似はやめておこうと思う(まったく煮詰まってはいないけれど)。ちなみにいくひしは人間ありきの考え方しかできないから、いわゆる理系ではなく文系に寄っていると自己認識している。自然よりも人類のことを考えたほうが楽しい。物語なんて人類がなければ存在しない。物語のない世界を考えることに興味が湧かない。ただ、いくひしは歴史があまり好きではない。たいがいの出来事が、メンツの張り合いで起きているから、くだらないなぁ、としか思えないのだ(歴史を研究したり、学んだりすることをくだらないと言っているわけではないですよ、念のため)。そうではない事例もあることは知っているけれども、それはもう個別の人間の履歴であり、物語だから、歴史とは呼べなくなってしまう。けっきょくのところ、学問が苦手なのだなぁ、としみじみ納得するものだ。苦手なものからは距離を置きたい。その反面、舐めくさっていたものがじつはめっちゃおもしろい、となることの楽しさも知っているので、ときおり、ホントに苦手なままなのかい? と目を向けることからは避けないでいようと心掛けている。だからこの「いくひ誌。」に並べてあるもののほとんどは、いくひしが好きなことではなく、むしろ苦手だったもの、好きではなかったものだ。苦手だったけども、一口食べてみたら、おいちー、となったものを、並べている。とはいえ、基本的には、どんなものでも苦手で、好きではないから、最初から好きなものなんてないがゆえに、けっきょくすべてが好きになるんでしょ、と言われてしまうと、んー、そうかもしれない、と苦い顔をしながら認めるよりないのかもしれない。まとめると、いくひしさんは食わず嫌いが多いですよ、という親告なのでした。


1839:【感謝は何を謝ってるの?】
この「いくひ誌。」はカクヨムさんの近況ノートとpixivFANBOXさんのほうで同時に掲載しています。連載のつもりはなく、もとから日誌のつもりで並べています。pixivFANBOXさんのほうでは月額でクリエイターさんへ支援できるサービスがあります。郁菱万も利用してはおりますが、いまのところご支援いただいている方は一人もおりません。電子書籍のほうも36冊ほど販売しておりますが、収益は去年一年間でおおよそ5000円でした(電子書籍のページにも月ごとの収益を載せています)。儲けてはいません。ただ、ときどき数名の方が電子書籍を購入してくださっているようで、ありがたく思っております(基本的にはすべての作品はWEB上で無料公開しています。「カクヨム」さん「pixiv」さん「note」さん「ブクログ」さんにて、それぞれ、どなたでも無料でお読みいただけます)。いっぽうでは、お金をいただけないからといってとくに何かを思うことはありません。郁菱万のつむいだ文章を読んでくださっている方がいらっしゃって、そのことで何か、読まずにいたときにはなかったものが、読者さまのなかに生じてくだされば、費やした時間を無駄だったと断じずにすみます。無駄であることを忌み嫌ってはおりませんが、意味が生じることにはまた格別のよろこびが湧きます。孤独に創作するだけでも得るものはあるのですが、読者さまに読み解かれることで、二重に得をするので、これはもう、ありがたいなぁ、としか思いようがありません。読まれることですでに対価はいただいておりますので、余分に金銭としていただけるのは、ただただ恐縮しきりでございます。心よりお礼申しあげます。


1840:【失敗日】
寝すぎた。はやく寝てはやく起きるつもりだったのが、ふつうにぐっすりだった。きのうは失敗つづきで、よろしくない日だった。今月中に済まさなきゃならない振込用紙を間違って破り捨ててしまったり、はやとちりして相手のひとのめいわくになることをしてしまったり、左足が意味もわからず痛くなるし、小説は進まないし、でも寝る前におふとんにくるまりながら中田永一さんの小説「わたしは存在が空気」を読みはじめたらおもしろくて、うれしくなったから、よい日だった。「わたしは存在が空気」は短編集だ。中田永一さんの短編はハズれがないからすごい。ぜんぶおもしろい。ホントは先月に購入してたのだけど、冒頭の数行を読んで、なんだかなーと思っていったん放置してしまった。でもやっぱりおもしろかった。すごい。あと、ツイッターやnoteでよく見にいってるアカウントのひとたちの小説や文章もたのしくてうれしい。長編小説をつくれないと小説家じゃない、みたいな風潮があるけど、そんなのはもう時代にそぐわない気がする。短編でも掌編でも、なんだったら小説でなくてもいいから、もっといっぱい発表してほしい。機会があれば、好きなアカウントをまとめて載せていきたい。でもめいわくかも、と思うとなかなか踏ん切りがつかない。なんて言いながらときどき載せちゃってるけど、こういうとき、拡散力がないと得だなぁ、と思う。へんなことを並べてもめいわくになるリスクがないのはよいと思う。新作はおわりまでの流れがわかりきってるから、なかなか進まない。わかってることを並べるのはつまんない。わかってないから文字にするのではないのかな、と思うのだけど、そんなことないんじゃないかな、とすぐに反論が飛んでくるので、そっかぁ、となる。きょうはすこしかわいさを意識して文章を並べてみたけど、そうでもないかもしれない。インターネットのなかには小説でなくともお手本になる文章がたくさんある。うつくしいひと、かわいいひと、くるしんでるひと、くるしんでいることから目をそらしているひと、本当にいろいろなひとがいて、いろいろな文章がある。いいなぁ、と思う。ほしいなぁ、となる。じぶんの文体なんかほしくない。もっともっと吸収して、文字の雪だるまになりたい。きょうのいくひしはそう思った。


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参照:いくひ誌。【441~450】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883045527

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