※日々、無数のあなたに片想いをする。
3491:【2022/03/13*楽しい】
小説つくれないなぁ、つくり方忘れちゃったなぁ、とか思っていたけれども、そう言えばここ半月あまり、小説読んでなくね?と思いだしてしまったな。小説、読んでおりませんでした。いや、ちょくちょく読んではいたけれども、一ページ読んでは閉じ、ほかの本を開いて一ページを読んでは閉じ、とそんな具合なのであった。なのであった、ではないです。もっと真面目に生きよ? 好きなことくらい全力投球しよ? そうしたいのは山々なのだけれどもね。だってちょっと考えてもみてよ。ひょっとしたらそれって逆説かもしれなくってさ、全力投球ができたらそれが好きってことで、全力投球できなきゃ好きじゃないって言えるのでは? じゃあ辞めたら? 冷た! このひとなんて冷たいこと言うんだろああびっくりしたなあもう。小説さんはあんたなんか嫌いだってさ。なんてこと言うのこのひと! ひどいんですけど。いくひしさんは小説さんのこと好きだよ。ひどいこと言うあなたのことも好きだよ。嘘おっしゃい。じゃあうそでいいです。ほーらやっぱり。その程度の気持ちで好きとか言わないでくれません? わがままでは!?(という妄想であった)
3492:【2022/03/13*借り物】
借り物の言葉、なる批判を目にすることがある。さいきんすこし増えてきた気もする。以前に比べて意識して批評を読むようになったからかもしれないが(ほとんど読んでいないようなものだけれども)、よく分からないのだよな。借り物ではない言葉とは何か、がまず以ってよくわからん。言語そのものがすでに借り物なのでは?とどうしても思ってしまうからだ。もちろんそんな根本的な大前提を言いだしたら批評なんてできなくなるので、そういうことではないのは百も承知だ。けれども、たとえばいくひしさんはじぶんでじぶんの文章を、借り物のツギハギだと思っている。いろいろなひとの文章を目にして、この組み合わせはおもしろいな、とか、このリズムはいいな、とか、こういうふうにするとおもしろく感じるのか、とか、かわいくなるのか、とか、まあまあたいがいが借り物のツギハギなのである。それをしかしひとは、学ぶ、と呼ぶのでは? 要するに、借り物だと丸分かりだとよくないってことなのだろう。借り物であるにしろ、せめて分からないくらいに咀嚼して、じぶんの血肉にして使いなさい、ということなのだろう、とひとまずは解釈している。その点、フレーズをそのまま使うとか、そういうのは、よほどリスペクトしているとか、誰が読んでもそれがオマージュだと判るとかでない限り、借り物の言葉、として批判されてしまうのかもしれない。でもけっこうつねにいくひしさんの並べる文字の羅列は、どっかで読んだことあるなあこの並び、とか、この響き、とか、リズム、とか思ってしまうのだよなぁ。借り物でない言葉、誰か教えてほしいです。(ほじゅぎゅぴぬぬん、とかは借り物じゃない気がする)(そういうことではない?)
3493:【2022/03/13*SFとは?】
じつはいくひしさん、SF小説の知識がほぼないに等しい。SF小説をほとんど読んでこなかった。伊藤計劃さんの「ハーモニー」とか森博嗣さんの「ウォーカロンシリーズ」とかそういうのだけだ(あ、京極夏彦さんの「ルー=ガルー」も読みました)(円城塔さんのも読んでましたね)(思いだせば当然、もっとあるでしょう。ですが、SF好きと言えるほどには読んでいませんし、何がSFなのかも正直、判別つきません)(むしろSFでないものを探すほうがむつかしいのかも)。古典作品に馴染みがない。ということを念頭に置いて述べるが――以前にも並べたが、漫画「とある科学の超電磁砲(レールガン)」がなんでSF大賞にノミネートされないのかが分からない。レールガンがノミネートされないSF大賞に意味ある?と割とずっと思っている。それからさいきんは女の子同士の感情のゆらぎをテーマにした作品、いわゆる百合作品が増えてきたが、明らかにその素養を社会に広めたハブの役割を担ったのがレールガンだろう。本当にふしぎに思っている。とはいえ、SF大賞にノミネートされている作品をいくひしさんが読んでいるのか、観ているのか、と問われると、いいえ、と首を横に振ってしまうので、単純に相性の問題なのかもしれませんね。ただ、レールガンは未だに新刊を楽しみにしている漫画です。たとえ登場人物たちが全員男の子でも楽しいと思える作品なのがまた、いいなぁ、と思っています。(参照:948:【Gぺんましゅまろレールガン】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884536906)
3494:【2022/03/13*優しくありたいだけで、優しくはない】
誤解されそうだし、誠実じゃないな、と思うので明かしておくと、いくひしさんの率直な感情としては、戦争が絶対ダメだ、とは思っていません。というかいくひしさんは基本的に、「相手のルールに合わせてあげましょう」のスタンスなので、相手が殺しにくるのならそのルールに倣ってあげましょう、と思ってしまうタイプの生き物です。なので、どうあってもいくひしさんみたいな人間の多い社会では、戦争はなくなりません。誰か一人でも戦争を仕掛ければ雪だるま式に戦争が勃発してしまうからです。ゆえに、戦争すんな、と言いたいわけです。基本、人間は戦争をしてしまう生き物だといくひしさんは思っています。禁止しなければ人を殺してしまう生き物です。禁止しなくてはしてしまうからこそ、殺人は法律で禁じられているのです。法律がなくともしないのなら、そもそも禁じる必要はないわけです。なので、いくひしさんの理屈としては、戦争は、それ自体の良し悪しどうこうではなく、戦争すんな、としか言いようがないのですね。これは人殺しでも同じです。殺していいよ、と仮になっても、人殺しすんな、としか言いようがないのです。でないと、いくひしさんは人を殺してしまう生き物だからです。自覚しているのですね。むしろ常に心の奥のほうでは、「は? 潰すぞ」と思っているのかもしれません。危ない人だと思います。どうぞ心を許さずにいてください。(なるべくここには怖いことを並べたくはないのですが、今回は例外として正直に並べました)(かなり迷ったけれども、載せておきます)
3495:【2022/03/14*強い弱いは相対的】
上記、を受けての補足というか、妄想です。どうして戦争や人殺しは、国際法や法律で禁止もしくは制限されるのに、「弱い者いじめ」は禁止されないのか。これは、戦争や人殺しは起きた事象を表す名詞であるのに対し、弱い者いじめの場合は、関係性を示す名詞だからなのでしょうね。しあわせとか、正義とか、そういうのにちかいです。つまりが、相対的であり、視点によって何が弱い者いじめになるのかが変わります。定まっていません。したがって、たとえば弱い者いじめをしてはいけません、という禁止を法律で定めたとして、そうすると法律は大勢にそれを命じることのできる強者側の弁になるわけですから、すでにここに弱い者いじめの構図ができてしまいます。権力を揮い相手の自由を奪うことそのものがすでに弱い者いじめになり得るのですね。したがって、弱い者いじめをしただけで罰せられるなんて、それこそ弱い者いじめだ、という理屈が成立してしまいます。ですが、やはり弱い者いじめは見逃せません。ないほうがよい関係性と言えるでしょう。そのために、しあわせとか正義とか、そういったあやふやな抽象概念で十把一絡げに取り締まるのではなく、具体的な事例を定めて、たくさんの小さな枠組みをつくって、この網にかかったものは制限しますね、となるべく大勢の自由を侵害しないように法律は修正されてきたのではないか、と妄想できます。法律には詳しくないので、あてずっぽうですが。弱い者いじめはないほうがよいですし、しないでほしいけれども、それを他者に無理強いして相手の自由を奪うこともまた弱い者いじめになり得ます。そのために、法律の細かな事例を参照しつつ、互いに落としどころを探っていくのが合理的なのでしょう。問題は、法律が必ずしも正しいわけではなく、また、速やかに問題を解決できるわけでもない点です。法律違反でないのなら、弱い者いじめが許容されてしまう場面も多々でてくるでしょう。しかしやはりここでも、弱い者いじめを理由に、他者の自由を侵害する行為は、褒められたものではないのでしょうね。弱い者いじめをしない、とのルールは、じぶんを律するためには有効なのかもしれませんが、他者の悪行を諫めるには、充分ではないようです。なぜなら、他者の行動を変えることそのものが、強者でなければできないからです(裏から言うならば、他者の行動をじぶんに優位に変えることができたなら、それは強者の属性を帯びていると言えるでしょう)。つまり、弱い者いじめをやめさせることそのものが、ある種の弱い者いじめになってしまうのですね。むつかしい話だと思います。以上は、やっぴーおもしろいこと閃いた、とおしりをフリフリしながら現在進行形でこれを打鍵しているいくひしさんの妄想ですので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おしまい。
3496:【2022/03/15*共有知の効能】
弱い者いじめは楽しい。だからこそ、じぶんが他者との関わりの中で「楽しい」と感じているときに、それが弱い者いじめになっていないか、と考えられると、すこしだけ弱い者いじめをしないで済むようになるのではないか。ただし、苦しい思いをしていながらそれが結果的に弱い者いじめになっている場合もあるので、事はそう単純でもないようだ。なぜ弱い者いじめをしてはいけないのか、についてもよくよく考えられるとよさそうだ。いじめられるのが好きなひとはきっと、なぜ弱い者いじめがいけないなのかが分からないだろう。じぶんがそれをされてうれしいから相手にもしてしまう、といった弱い者いじめもあるはずだ。シゴキとかパワハラとか、根っこのほうには、この手の認識の錯誤があるのではないか、と疑っている。差別やハラスメントや弱い者いじめは、往々にして、それをする当人には、それをしている自覚がない。指摘したところで、これは差別ではないしハラスメントではないし弱い者いじめではない、と否定しがちだ。もちろん自覚しながら開き直ってしまういくひしさんのような者もいるので、やはり事はそう単純ではないようだ。人の悲しむ顔、苦しむ顔が好き、という者もいるかもしれない。そういう嗜好もあってよいが、それを行動に移し、誰かを故意に悲しめたり苦しめたりすれば、それは直球で弱い者いじめと言えるだろう。とはいえここでも、その相手がいじめられるのが好きな人物であった場合は、そういったお遊びとして成立してしまうのでむつかしい。そうでなくとも合意の上で、ルール内で行うなら、それは一種のスポーツになり得るので、やはり一概に言えることではないようだ。弱い者いじめをしない、と口で言うのは簡単だが、その実よくよく考えてもみれば、弱い者いじめをしていない人間などいないのだ、と気づくはずだ。まずはその自覚を持てるか否か。やはりそここそが肝要なのだろう。そうは言ってもすべての人間にその自覚を持て、というのは現実的ではない。だからこそ、大勢がどうあっても認識できない類の弱い者いじめが蔓延するようなら、仕組みをつくり、社会のほうから変わっていくしかないのかもしれない。社会を変えていくにはしかし、大勢の協力がいる。そのためには、自覚を知識へと変換し、他者と共有していく過程からはじめるのが定石と言えるはずだ。知識の共有とはすなわち、弱い者いじめを減らすための第一関門と言えそうだ。定かではありません。(自覚はつねに働かせなければならないが、知識であればそのつど展開することで、瞬間瞬間の働きを可能とする)
3497:【2022/03/16*ルール】
ルールは基本、一つしか守れない。たとえば憲法も法律も、数多の細かな条件や規律で分けられるが、根元を掘り下げれば、人間の幸福を担保するためのものだろう。そこにあるルールを一つだけ守れ、と言われたなら、あなたのしあわせを守りましょう、となるはずだ。たとえば小説の新人賞ならどうなるだろう。応募要項が正しく記されているかがルールになるのだろうか。それとも作者の来歴や側面像だろうか。いくひしさんはそうは思わない。原稿のおもしろさ以外に基準となるルールはないのではないか、と思っているし、現に、「おもしろければそれでいい」と謳っている新人賞があるのならば、やはりそれこそが守るべきルールになるはずだ。世の中にはさまざまなルールがある。勝てばいいとか、他者を圧倒すればいいとか、お金を儲ければいい、とか、そういったルールもあるところにはある。だがどうやら人間社会は、そういったルールのもとでは長い期間を安全に過ごしていけるようにはできてはいないようだ。もちろんそういった場があってもよいが、蛾の集まる火のように、そうした場は多くの命を火種として轟々と燃え盛ったあとは、火種がなくなり消えてしまう。これは歴史を振り返れば幾度となく繰り返されてきた人間の業だと判るはずだ。他方、人間社会に火が不可欠なように、そうした「火の場」によって生き残ってきた背景もやはりある。だが人類は、そうした「火の場」に頼るのではなく、それ以外の場を築くことで、ここまで文明を発展させ、あなたのしあわせを守りましょう、とのルールを掲げられるまでに豊かになった。人間は日々多くのルールに晒されている。じぶんだけのルールを相手に強いることも珍しくない。往々にしてそうだと言ってしまってもいい。そうしたとき、いったいどんなルールなら互いに、じぶんのしあわせを守れるようになるだろう。基本、人間は、ルールをいくつも守れるようにはできていない。ルールはすくなければすくないほどいい。相手がいれば、それだけでルールが二つできる。しかし、もし互いにルールを共有できるなら、一つだけで済む。ではどうしたらルールを共有できるだろう。どんなルールならあなたは、相手とルールを共有できるだろう。答えは一つとは限らない。直接でなくていい、いつの日にか、あなたの答えを聞かせてほしい。
3498:【2022/03/16*閃きはあてずっぽう】
原子はおおざっぱに分解すれば、原子核と電子に分けられる。原子核の周囲を電子が覆っている。髪の毛の断面の大きさが原子核だとすると、教室の真ん中にそれを置いたとき、教室の周囲を回っているのが電子――くらいに原子核と電子には距離があるそうだ。ふしぎなのは、原子に加わるエネルギィによって(言い換えるなら原子の置かれる環境によって)、電子が微妙に軌道を変えることだ。原子核に近づいたり、遠ざかったりする。しかしその軌道には規則性がある。絶対にここにはいられないし、この場合はここ、この場合はここ、と決まっているそうだ。とはいえ、電子は惑星のように点として存在しておらず、モヤのように定まっていない。原子核の表層を確率的に覆っているそうだ。つまりが量子なのですね。その点、恒星を公転する惑星の距離には、規則性がない。どんな大きさの恒星にしろ、どんな惑星がどのような軌道で公転するのかは、ほとんど偶然(環境)に作用されるようだ。原子核と電子の関係のような規則性は見られない(といまのところは考えられているようだ)。ここから先は妄想になるが、巨大化するごとに、変質の遅延(ラグ)が創発を起こして、秩序の枠組みは硬さを失っていくのではないか。小さければ小さいほど、相対的にそれを囲う存在の枠組みは強固になる。反して、大きくなればなるほど相対的に存在の枠組みはゴムのように弾性を帯びていく。人間にとって鉄は硬いが、巨人にとっては針金のようなものだ、といった感覚にちかい。しかし中にはきっと例外もある。たとえばブラックホールだ。ブラックホールは物質がぎゅっと圧縮され、どんな質量のものであっても同じ極小――特異点――にまで縮んでしまう。圧縮される物体の質量によらず、特異点の大きさはおそらく同じだ(妄想ですが)。代わりに、圧縮される質量に応じて、シュバルツシルト半径が規定される。そこには法則がある。規則性がある。原子核と電子の関係にちかくはないだろうか。ちなみにブラックホールは、特異点を囲うように、光の速度ですら脱出できない重力場が生じる(言い換えるなら、脱出速度が光速を超えた重力場だ)。それがいわゆる事象の地平面(シュバルツシルト面)と呼ばれる領域だ。ブラックホールは、物質が圧縮された点を言うのではなく、この光すら逃さない重力場のことを示す。つまりが、光(電磁波)を以ってどうあっても観測できない場所は総じてブラックホールなのだ。したがって、何かほかに電磁波の干渉を受けつけない場所や物体があるなら、それもまたブラックホールと言えるだろう。以上は、うろ覚えの体系的な知識を持っていないいくひしさんのあてずっぽうなので、真に受けないでください、と注意を促し、本日の「いくひ誌。」とします。
3499:【2022/03/17*こわいんですが】
大きな地震があった。震源地は6強だそうだ。いまは地震発生から2時間経過したところで、身の周りでは本棚から本が落下した程度の被害で済んでいる。さいわいにも津波は1メートルだとすぐに警報がだされたし、建物の倒壊といった被害も、いまのところは報道がない。震源地周辺地域や東京のほうで停電がつづいているようだが、断水などの影響は観測されていないようだ(追記3/18:断水している地域もあるようです。やはり正しい情報は遅れてやってくるのですね。慎重に見極めていく姿勢が大事なようです)。今回改めて思うのは、外国人への災害情報提供が疎かにすぎないか、との疑念だ。災害発生時では、数秒の判断の遅れが命取りになる。災害の被害は地域差が大きい。場所によっては被害の規模も桁違いになる。言語の違いによって得られる情報に偏りを生まないように、国籍や言語の違いによらない災害情報発信の仕組みがあると好ましい。ひょっとしたらすでにあるのかもしれないが、いくひしさんは知らないままだ。広報が充分でない傍証と言えよう。せめて、deeplで翻訳できますよ、と案内をだしながらの「英語での災害情報を載せる行政サービス」があってもよいのではないか。日本でそれができるのなら海外にも取り入れてもらえるだろう。便利な仕組みは万国で共有していってほしいと望むものだ。それはそれとして、これだけ大きな地震で倒壊の被害がほぼないこの国の建設技術および建築基準法の優秀さには、毎度のことながら驚嘆しますね。感謝の念でいっぱいです。素晴らしいの一言ですね。ありがたいです。(それを言いはじめたら、地震のたびに断裂しない下水道管や水道管の耐久性の高さもそうですし、ガスや電気のインフラ設備の耐震技術も並外れていますよね。たとえ何かあっても復旧が迅速ですし、病院とて、きっと地震のあるたびに真夜中でも駆けつける方々がいらっしゃるのでしょう。守られているのですね。ありがたいことです)(と念じながら、わがはいは寝るで!とおふとんに潜り込んで、散らばった本に埋もれながらスヤスヤしてしまう本日午前二時のいくひしさんなのであった)(寝て起きたらとんでもなく大きい被害が生じてたらどうしよう。やっぱこわいのですが)(でも並べちゃうし、寝てしまう)(おやすみなさい)(追記:NHKさんのサービスで言語ごとのニュースサイトがあるみたいです。ちゃんと在住外国人のひとにも認知されているのですかね。そうだといいな、と思います。
https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/multilingual_links/)
3500:【2022/03/17*立派な人が多いですね】
帰り際、書店さんに寄ったら閉まっていた。休業日らしいが、年中無休のお店なので変だな、と思ったら、店の脇にいっぱいゴミが積まれていたので、後片付けをしていたのだな、と察した。昨晩の地震の影響なのだろう。いくひしさんも家の本がたくさん落下した。書店さんならばなおさらだ。スーパーとかコンビニもたいへんだったはずなのに、お昼には営業していたので、朝から片付けた人たちがいたのだろう。雪が積もるときも思うけれども、みな誰の目のないところでせっせと雪かきや整理整頓をしているのだよね。しかもその姿を見せないのだ。立派なことである。しかし、たまにはそういう姿もちゃんと見せて、これくらいの苦労を重ねて日常を維持しておりますよ、と周知しないことには、みな無自覚に甘えてしまうので、どれくらいの仕事量があるのか、と外からでも見えるようにするのも、仕事の負担を減らすという意味では、大事な気がする。押しつけがましくないように工夫しつつも、これくらいの仕事をしています、と可視化し、情報共有することは、死角を失くす意味でも有効なはずだ。本当は死にそうなくらいたいへんなのに、平気な顔をするのを美徳だと思っている人たちもいるけれども、それは周りの人への甘えが入っていると言えよう。本当はたいへんだったんだね、とあとで知ったときに周りの人たちは傷つくはずだ。無自覚な危害を周囲の人たちへさせないためにも、最低限、どれくらいたいへんなのか、くらいの情報は共有しておいたほうが好ましい気がするが、これもまた仕事においては守秘義務や信用問題に関わるので、むつかしい話だな、と思います。とはいえ、仕事の内訳を言えないくらいたいへんな状態が常態化しているならそれは業務改善したほうがよい、と言えるだろう。余裕のある仕事ができてこそ、余裕のある暮らしができるはずだ。余裕を持って生きていきたいものですね。(言うだけなら簡単なことが世の中には多すぎですね。やっぱり誰の役にも立ちたくないな、の気持ちが日々募る本日のいくひしさんなのであった)(なのであった、ではないです)(うぇい)