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いくひ誌。【3431~3440】

※日々、流れの外にいる、つもりで見えない流れの中にいる。


3431:【2022/02/14*いくひしさんはね、本当はいくびしって言うんだよ】
なんも思いつかん、と声なき声で喚きながら、もうなんでもいいや、の諦めの心地で、じぶんなる器のなかにこびりついたカスを指先でこそげとるようにして、雲った窓ガラスにイタズラ描きをするような心境で、なんとかかたちになーれ、の祈りを捧げつつ、丸描いてちょん丸描いてちょんのリズムで、大きな丸が一つに小さな丸を三つ描いたなら、なんかかってに顔に見えるんですけどー、の奇跡にもならぬ有り触れた偶然の神秘に寄りかかって、ただただ知っている数少ない言葉を並べて並べて並び替えて、判子遊びのごとく隙間を埋めて、積み木遊びよろしく枠組みを整えると、なんでかはわからんのだけれども、かってに、それとなく、なんとなしに意味の読み取れそうな、物語っぽい何かができあがっている。ふしぎだね。いくひしさん。(新作掌編:「トトトの帰還」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860196368762


3432:【2022/02/14*権威はなくてもいいが、ないと困る環境が放置されている】
権威がなければ成り立たない分野とは、おそらく知識の共有や、学習システムが充分に機能していない、いわば不公平な環境が野放しになっている分野と言えるだろう。誰の言っていることが正しく、何が間違っているのかの区別をつけられない。区別をつけるための手段が確立されていない。機能しない。そういう分野は権威によって、集権的に大多数を束縛し、支配下におかないと無法化する。言い換えるならば、無法化しても問題ない環境をいかに築いていけるのかが、焦点となってくる。分野の発展とはすなわち、いかにすくないルールで新しいことを生みだしていけるか、環境に即した変化を帯びていけるのか。これが、分野にしろ文化にしろ、文明にしろ社会にしろ、最も根源的な問題となってくるだろう。そのためには、どんな衝突を許容し、どこまでなら自由と自由がぶつかり合っても大惨事とならないか。発展に寄与する摩擦と、そうでない摩擦とをいかに早い段階で見抜けるか(競争と闘争と戦争はいずれも対立構造による摩擦で起きるが、文明を破壊するか発展させるかの違いが著しい。単なる競争とて、裏で戦争を誘発させていないとは限らない)。見抜けたあとで、どのように紐解くか。知能の介在はここにこそ有効になってくると言えそうだ。(定かではありません)(いつになく底の浅い所感ですね。幼稚園児かな?)(幼稚園児や赤ちゃんのほうがまだ適応能力が高いという意味で、優れているのでは?)(あぎゃー)(新作掌編:「世界は愛と結びつく」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860236752015


3433:【2022/02/15*ショーック】
二年前の自作小説をちらっと読み返してみたら、読めたもんじゃなくって、うわーん、の気持ちになったけれども、四万五千字くらいの分量のなかで、ああこの物語はここに辿り着くための物語だったのだな、と的確に浮きあがって読めたので、そこだけはよいな、と思えた。分量で言うと、四万五千字のなかの二千字だから、二十二分の一くらいだ。ただべつにそれを並べたいから物語にしたわけじゃなく、おそらくは自動的に立ちあがってきたのだろう。ああこの物語はこのためのものだったのだな、と自力で辿り着いた感じがして、よくできました、とパチパチと手を打ちたくなったけれども、そのほかがてんでダメなので、もっとちゃんとしよ?の気分だ。おもしろいかおもしろくないかで言えば、うーん……言わんとこ、となる。自虐はよくないよ、とはよく聞くことだけれども、自作くらいはまっとうに批評できるようになりましょうよ、とも思います。とはいえ、なんというタイトルの自作かは明かさぬが。うひひ。(いや、うひひちゃうよきみぃ)(すまんね)(新作掌編:「テプラは拡張する」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860260662113


3434:【2022/02/15*自己評価高めでごめんなさい】
これをしたら高く評価される、といった術を割とすぐ見抜けるし、実践できると自己評価高めに見積もっているいくひしさんであるが、しかしその術をとろうにもとれないひとがいる場合に、じゃあわいも使わんどこ、と思ってしまうので、使わんままでいることが多い。とくに、持てる者が使えるカードをどうあっても使えない者がいるならば、それを使わぬままにどうやったら、そのカードを使っている者と同等かそれ以上の利を得られる道をつくれるのか、のほうに尽力したくなる。人脈とか、経歴とか、評価対象以外での特技とか、いわゆる付加価値をつけないままであっても、よいものがよいと評価される舞台をつくるにはどうすればよいのか。或いは、それぞれに相性のよい受動者と出会える場をどうしたら築いていけるのか。高く評価された上位層のみに目を配っていれば済むような舞台は、相乗効果で、どこまでも、上部層だけ肥えればいいという流れが強化されやすい。下部層にも目を配るようにしてもらうには、下部層にもあなたにとって目を向ける価値のある宝物がありますよ、と示すのが効果的だ。そのためには、実際に宝物が埋もれていることを証明しなければいけないし、宝物ですら、付加価値がつかなければ埋もれますよ、と示さねばならない。そのためにできることはなんだろう、と考えると、けっきょく、いまのいくひしさんみたいな振る舞いをとるしかなくなるのだ。本当に実力があったり、能力があるのなら、そもそも出版社という権威を利用せずとも済むはずだし、巨大な資本の後押しなどなくとも、世界に旅立てるはずだ。とどのつまり、本当に能力のある小説家が、現代にはまだいないのだ(もしくは能力を発揮できる環境がないのかもしれない)。いくひしさんは、本物よりも、偽物であることに傷ついているがゆえに本物であろうとする偽物のほうが好きだけれども、でも、本当に本物がいるのなら、それを見てみたい気もする。本物とか偽物といった評価の仕方そのものが好きではないけれど、でも本当にいるのなら、本物の小説家のつむぐ物語を読んでみたい。そのためなら、養分の養分になるくらい、なんてことはないのだ。郁菱万は今年か来年で終わる予定なので、すこしずつこういった、いままで敢えて並べてこなかった方面の文字の羅列も並べていこうと思います。


3435:【2022/02/16*性格最悪にして最弱ですみません】
わいがわいなりの、うひひ、をするのだから、ほかの人たちはわがはいになんの遠慮をすることなく、使えるカードを思う存分に使ったらええがな、と思いつつも、作品世界の魅力以外の何かしらの能力やら付加価値やらを無駄にピコピコとこれみよがしに誇示する場合にはせめて、ざこざこのざこ、よわよわのよわな、わがはい以上の能力を叩きだしてから誇ってほしいものだね、とは思います。届くか分からんけれども、プロのみなみなさまに向けてその旨、記し残しておきますね。うひひ。(我ながらこんなこと並べちゃうなんてクソかっこわる、と思いながらも、並べておくよ)(未来のじぶんへの戒めも籠めて)(新作掌編:「ウゴゴを縛るもの」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860287041093


3436:【2022/02/16*ぽわわわ~ん】
わがはい、自己評価は高いけれども、自己肯定感がゼロである。まんちゃんそれ矛盾してるー、と思った方もいらっしゃるかもしれんけれども、ちっちっち。そうじゃないんよ。自己評価が高いので、本当は本気だしたらこれくらいできるんだけれども、でもなんでかできないので、なんでじゃなんでじゃ、となるから、現状の等身大のそのまんまの自己を受け入れられなくて、なんじゃいくしょー、となっちゃうので、わいはほんとうはこんなんじゃないもん、と自己肯定感がゼロを記録するのですね。だっていくひしさん、本気だしたら空だって飛べちゃうし、お月さまだって盗めちゃうけれども、そんなことしたら注目の的だし、わーわーきゃーきゃー、モテモテのウハウハだぜ、になってしまうので、そんなのってすっごく楽しそうではあるけれども、たまには静かに過ごしたくもなっちゃうし、そうなったときに、みんなさんに、ごめんよごめんよー、って謝って休むのもめんどうくちゃいので、そうならぬように本当はお空だって飛べちゃうし、お月さまだって盗めちゃうけれども、えっ待って、お月さま盗めちゃうの? いくひしさん、お月さま盗めちゃうのー、えーっっっ!!! それって重罪じゃないですか、即刻死刑じゃないですか。ダメですよ、ダメですよ。まんちゃんそんなことしちゃあかんよチミぃ、みたいな感じで、いくひしさんは本気をだしちゃいやん、なので、いつでも自己肯定感がゼロなんじゃ。と、思いこんでいたらひとまず、ざこざこのざこでも、よわよわのよわでも、毎日楽しく過ごせちゃうし、うふふ、とみんなさんにも、あたたかーい眼差しをそそげちゃうのですね。だってみんなさんがしゅわわせーな毎日を送っていられるのも、さびちい夜にお月さまを見あげて慰められちゃうのも、全部が全部、いくひしさんが本気をださないからで、いくひしさんの自己肯定感がゼロだからなんよ。ありがたーいでしょ? むひひ。いつもより気持ち傲慢に磨きをかけて、本日の「いくひ誌。」にしちゃってもいいじゃろか。いいよー。やったぜ。


3437:【2022/02/17*毎日弱くなる練習をしても弱くなるだけ】
毎日継続することで得られるメリットは、大別すれば三つある。一つは継続する能力が鍛えられること。継続する能力は、継続しようと工夫することでしか鍛えられない。二つ目は、毎日継続することで行う作業が最適化されること。意識せずにこなせるくらいにまで、身体が作業を記憶するし、肉体のほうでも作業に適したつくりになる。つまりは適応する。そして最後に、継続することで得られるメリットの三つ目は、予期せぬ変化を得やすいことだ。単純な話として、試行回数が多いほうが、予期せぬ失敗や思いもよらぬ成果を得やすいだろう。では、デメリットはないのか、と言えば、じつはこれがかなりある。このデメリットを無視して、毎日継続をしても、メリットよりもデメリットのほうが多くなると、個人的には思っている。デメリットを大別すれば二つだ。一つは身体の消耗。二つ目は、好ましくない学習の固定化だ。身体の消耗についてはとくに説明はいらないだろう。毎日身体を酷使すれば、それだけダメージが蓄積される。高負荷の鍛錬をつづけても、短期的には成果を得られるかもしれないが、十年後二十年後には身体を壊す確率が高くなる。二つ目の学習の固定化については、基本的に毎日継続できることには限度がある。毎日すこしずつ違うことに挑戦できていればよいが、毎日継続することを目的にしてしまうと、ひとまずつづけられる範囲のこじんまりとした似たような作業ばかりを繰り返してしまう。短期的にはそれにより身体が最適化されるが、それをずっと行ってしまえば、ほかのことを行うのに不利になるくらいに身体(能力)が固定化してしまう。知識や視点が偏ってしまうのもこの範疇だ。もうすこし言えば、毎日継続するときに、長期的に見て大きな絵柄を描こうとするのか、それとも小さな絵を毎日描きつづけるのかによって、身に着く能力が変わってくる。一日で完成に漕ぎつける程度の絵ばかりを描いていれば必然、それを仕上げるための能力が最適化されるが、かといってではそれによって大きな絵を描けるようになるのか、と言えば、否である。基本的に毎日継続して身に着くのは、毎日継続して発揮した能力の範囲内だ。もうすこし言えば、同じことばかりを繰り返していれば、いちど最適化された技能ですら、意識できない内に衰えていく。衰えに気づけない点も、毎日同じことばかり継続することの弊害と言えるだろう。ときには変化を与えたり、何か大きな絵を描くために毎日コツコツ作業を進める、といった目的そのものの変化を工夫してみると、すこしは飽きずに毎日何かで遊びつづけていられるのではないだろうか。(定かではありません)(毎日継続することそれ自体が目的だったならば、どのようなデメリットがあろうとも継続すればよいだろうし、そうではなく、何かほかに目的があったならば、やはりデメリットが際立ってきたところで毎日継続をやめてみたり、毎日こなしている作業の内容を変えてみたりと、毎日継続そのものが形骸化しないように工夫の工夫を試みてもよいのではないだろうか)(でたー。じぶんにできないこと偉そうに言うひとー)(ごめーんちゃい)(うひひ)(新作掌編:「雪男はなぜ山にでるのか」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860318246170


3438:【2022/02/17*見逃した瑕疵がたまたま致命傷でなかっただけでは?】
陰謀論を規制しなければ社会的な害がでるので、死者がでるなどの損害の著しいデマや陰謀論は規制できるようにしましょう、といった論調が一部SNS上で際立ってきて観測される。まず思うのが、果たして本当に陰謀論やデマが要因で社会的な害が生じているのか、についてだ。たとえば陰謀論に染まりやすい人とそうでない人たちのあいだに何か経済格差や環境要因がないかを調査してもよいのではないか。陰謀論に染まるからいけないのか、それとも、より正しいとされる情報を享受できない環境が問題なのか。陰謀論そのものが問題なのか、それとも仕組みがついていけていないのか、については厳密に分けて議論したほうが好ましいのではないか。両方が相互に関連して問題をこじれさせていることもあるだろう。その点は念入りな調査が入用に思える。そこを省いて、言論統制をしましょう、というのは乱暴にすぎるように思います。そもそも本当に陰謀論とされている主張が陰謀論なのかどうかは、一定期間の経過観察が必要だし、やはり念入りな事実確認が欠かせない。偶然に、たまたま陰謀論やデマとされた論調が、陰謀論やデマだったからよいものを、そうでなければ、それは過去人類が繰り返してきた過ちをふたたび犯すことになる。他方、正しい主張をしてきた、と言い張る人物たちとて、細かな点では見逃していた瑕疵があるはずだ。その点が、たまたま偶然に、そのときは大事に至らなかっただけだろう。自己正当化に必死なのか、それともよりよい仕組みを築いていきたいのか。人命を最優先するのはその通りだが、いささか視野が狭くなっていませんか、と欠伸をしてしまう本日のいくひしさんであった。(どんなことであれ、何かを規制する場合は、それが正しい選択だから規制が許容されるのではない点は忘れないほうがよろしいのでは、と思います。規制とはあまねく、誰かしらの自由を奪い、抑圧し、何らかの枷を他者へと強制する手段です。必要に駆られて規制するにしても、あくまで致し方なくなのだ、との認識は持っていてほしいと望みます。規制は一種の危害でもあることを忘れないでいたほうが、いざじぶんたちの大事なものを規制されそうなときに反論の余地を残すという意味でも、好ましいのではないでしょうか)(定かではありません)


3439:【2022/02/18*いつ読まれるのか。いまなの?】
小説は発表してから読者のもとに辿り着くまでに、数年とかときには数十年かかるなんてことはざらにあります。世に発表してから、数日とか数か月のうちに、いっぱい読まれなかった、と悩むことそのものが徒爾(とじ)というか、ちょっと見立てが甘くないですか、と思うことがあります。読まれないのはおつらいかもしれませんが、もうすこし気長に構えてもよくないですかね、といくひしさんは思うのですが、これは突き放したような冷たい意見でしょうか。ビジネスモデルが小説の耐久年数に対して近視眼的すぎる問題もあるのかもしれません。その問題を考慮するにしても、そうしたビジネスモデルに乗っかるほうも乗っかるほうですし、作者や出版社の都合は、読者には関係ないですよね、とやっぱり思ってしまいます。短期間にいっぱい読まれなきゃ採算のとれないビジネスモデルこそを変えていこうとするほうが正攻法のはずですし、そもそも現状、小説に商品価値があるのかがまず以って疑問の余地があると思います。読書人口(需要)を増やしていく工夫をとったり、小説そのものの社会的価値を高める工夫をとるのも一つでしょう。これまでは、小説本を売るために、小説の価値を下げるような付加価値のつけ方をされてきたように概観できるので、これからはそうでなく、小説が日常生活に欠かせない存在となるように、みなが各々にとれる工夫をそれぞれにとっていくのが遠回りなようでいて、一番の近道のような気がしますが、そうでもないのでしょうか。よく分かりません。ともかくとして、いますぐに読まれなくてもそう焦ったり、絶望したりしなくてもよいようにいくひしさんは思いますよ、と無責任な独白を以って、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おやすみなさい。(新作掌編:「殻の中」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860346776303


3440:【2022/02/19*至福の欠片をもらったよ】
商業作家ではないけれど、好みの物語を読ませてくれる小説家が幾人かおり、しかしそれぞれにいろいろな理由があるにしろ、段々とみなさん新作を投稿しなくなってきている。そういうのを目にしていると、きっとその方々が商業作家になれていたら、いまごろいくひしさんは新作をいまよりも多く読めていたのだろうな、と思って、もしもの世界を想像しては、はらわたが煮えくり返るくらいに悔しくなる。誰がわるいわけではないけれど、誰であっても好きなときに好きなだけ好きなように小説をつくれるくらいに余裕のある世の中に早くなってほしいです。みんなたいへんなんじゃ。誰かなんとかしちょくれ~。お願いします。にゃむにゃむ。


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参照:いくひ誌。【601~610】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883501660

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