※日々、おちこぼれ、おきざりにされ、おとしめられ、おちぶれる、しかしそれでも楽しめる日々の至福の分厚さよ、求める自由の無尽さよ、生きていられる豊かさよ、こうして詠える不確かよ。
3421:【2022/02/05*世界はツギハギでできている】
いくひしさんが幼稚園に押し込まれていたころの話だ。運動会とか遠足とか、或いは単に幼稚園の行事ごとだったり、とかく人間たちがわいわいがやがやしているときに、足元の花壇のはじっこのほうで、誰に知られることなく歩いている蟻を見詰めていると、幼いながらにいくひしさんはそのとき、世界がいくつもの断片のツギハギでできているようなふしぎな感覚に浸った。まるでモザイクのような、貼り絵のような。人間の世界と蟻の世界が、重複しつつも、すっかりは重なっていないようなそんな妙な感覚を抱いたのである。それはいまでもときどき感じることで、たとえば一匹の蟻を観察するとき、蟻は頭上のいくひしさんに観測されていることを認識していなかったりする。蟻の世界に、いくひしさんは、干渉するまで存在しないのだ。しかしいくひしさんのほうでは一匹の蟻を認識し、意識下に置き、我が世界の一部分として見做している。いくひしさんが指先で蟻の進路をふさぐと、ようやく蟻は焦ったように取り乱し、逃げ惑い、ときに進路を変え、立ち止まる。蟻といくひしさんの世界が繋がった瞬間だ。しかし干渉するかしないかに関わらず、いくひしさんと蟻は同じ世界に内包されているはずだ。しかしいくひしさんにはどうにも、そうとは感じられないのだ。それはちょうど、景色が、立体的に重複して見えているだけであり、偶然に視界に納まっているにすぎない虚像であることと似ている。風景は本来、写真のように面となって一つの絵を描いているわけではない。目をつぶったら何も見えないが、かといっていくひしさんの認識に関わらず世界は相も変わらずそこにある。寄り目をしても、世界が二つに分かれるわけではない。しかし、それでもいくひしさんの認識は大きく変わり、世界が見えなければ、自由は制限され、世界が二重のままでは、距離感が掴めない。物理世界があり、私がおり、認知世界があり、私がありつづけることのできる余地が広がる。物理世界は揺るぎないが、数多の認知世界が重複しあうことで、物理世界そのものの変遷の流れが大きく変わることもある。そういうことを、直感として、幼少期から、ふしぎに思いながら生きてきた。おそらくは、いくひしさんの物心とはこれである。いくひしさんの根幹をなす世界観と言えそうだ。(世界はツギハギでできているが、接点はおそろしく少なく、何を一区切りと見做すかによって、一つの視点のなかにも無数の認知世界――解釈――干渉の余地が表れる)(雨を雨と見做すのは、人間の主観であり、本来、現象としては、雨も川も海も人も、水分という意味では同じ事象の範疇だ。連続した流れのなかの一変化にすぎない)(物質の枠組みを規定するとき、そこには時間経過の区切りが無意識に組み込まれている。百年を一区切りにしてみれば、おそらく物質の示す枠組みはおのずといまとは違ったものになるだろう。千年、一万年、一億年、と期間を伸ばしていくだけで、物質と呼ばれるものの輪郭はおのずと大きくなっていく――あべこべに、一秒、ナノ秒、ピコ秒、と期間を縮めていけば、物質と呼ばれるものの輪郭はおのずと小さくなっていく。そのとき、物質の状態変化――すなわち気体、液体、個体といった区切りは意味を消失し、もっとほかの枠組みが立ち表れるだろう。現時点において、物質の輪郭を定めているのは、人類の主観だ。任意の結晶構造が安定して見えるのは、人類に扱いやすい時間スパンの都合でしかない)(定かではありません)(思いつきによる単なる妄想ですので、真に受けないように注意してください)
3422:【2022/02/06*手を加えない勇気】
まったくの専門外の分野を眺めていると、素人ゆえに見えてしまう「美」なるものがある。おそらく専門家や玄人からすると、それを放置してしまうのはよくないのだろうが、しかし放置されたままのほうが美しく思えることがあるのだ。未完の美、の概念にちかい。敢えて手を加えない勇気というか、直感を信じて、そのままにしておく判断をいつでも行えるか否か。詰まるところ、技術力を誇示することよりも、いかに素朴な美を優先できるか、の話になってくる。一流と呼ばれる人たちは、この素人の目というか、直感的な美をいつでも最優先にできる価値判断を保てているのだろう。言うは易しであり、おそらくこれは奥義にちかい。実践できている人をほとんど見たことがないし、いま思いだせる範囲には一人もいない(単に見抜けていないだけの話だろうが)。それゆえに、編集者やプロデューサー――ともすれば単なる読者や受動者の存在が――第三の目として働き、ただの専門家や玄人を、一流に昇華せしめるのかもしれない。定かではない。(ただし、いちど手を加えてみて、やっぱりそのままのほうがいいな、と気づければ、つぎからは一つの技法として、この場合は手を加えないほうがよいな、との判断を行えるようになる)(やはりというべきか、いかに失敗し、それをつぎに活かせるかの話になってくる)(新作掌編:「蘇る者たち」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860068671937)
3423:【2022/02/07*じぶんを棚上げしてごめんなさい】
割と自覚しているじぶんの欠点として、身内に厳しい、というのがある。最低限のルールは共有していて欲しいし、そこから逸脱しないで欲しい、と無意識に過干渉してしまうのだ。それでいてじぶんには甘いので性質がわるい。自覚はしているが、これがなかなかつねに制御できるわけではないのでむつかしい。たぶん、いくひしさんが権力を持ったり、集団を率いる立場になったりしたら、かなり無自覚に独裁体制を築いてしまうだろう。そうならないように、根っこからの安全対策を敷くと、けっきょくは孤独でいるように努めるよりないのだ。みな自由にすればいい。自由であろうとすればいい。それでも団結しなければならないときでも、小指で結びつくくらいの繋がりでよいのではないか。小指で繋がれるのなら、残りはあと九本も残っている。それぞれにほかの者たちと同時に団結する真似だってできるはずだ。直接に繋がらなくたっていい。いまはどこまでも伸びる波打つ糸が無数に世に張り巡らされている。なぜ団結しなければならないのか、についてもよくよく考えを深めておきたい。闘うべきは人ではなく、奪うべきは立場ではない。不公平を生みだしている構図を崩し、傷つけあう余地をこそ奪うのだ。そのためにまとまるのであれば、おそらくいちどは敵と見做した相手とすら繋がることができるだろう。それはけして友達になるということではない。ただ、共に広い世界を生きることである。同じ社会を、ではなく。そこここに覗く深淵を感じながら。個々の世界を生きることである。(定かではありません)(胡散臭い文章を並べてしまったな)(いやじゃいやじゃ、いくひしさんはこんなキャラじゃないんじゃい)(イヤーーーー!)
3424:【2022/02/08*わがはい、ポンコツの巻】
さいきんはちょっと、いっぱいサボってやる!の気分なので、読書は同じ小説本の上下巻を寝る前にちょこちょこっと繰り返し読みつづけている日々である。何回読み返してもおもしろい小説というのがあり、そうでない小説もあり、その違いってなんじゃろな、と疑問に思う。もちろん個々人によってその小説がなんであるのかには偏りというか、バラツキがあって、端的に相性の問題になってくるが、毎夜つまみ読みしても面白い小説ってあるのだよなぁ。ふしぎ。無駄がないのだ。どこを省いてもよいように作られているのに、どこを取りだしても、何かしらの奥行きを感じられ、ほかの場面との密接な関係を幻視できる。幾重にも層になって重なっており、一枚二枚を抜いたくらいでは、感じられる奥行きや物語の厚みは損なわれない。むしろ穴あきチーズのように欠けた状態であっても、読めば読むほど、厚みや深みや色合いが増す。ちょっと言いすぎの気もするけれど、そういう小説ってあるよなぁ、と思います。というか二回目に読み返したときに、全然最後のほうの展開を憶えてなくって、こんな場面あったっけ、と肝心要の終わり方というかオチを憶えておらず、たびたび思うことであるが、記憶力がないとお得だな、と思います。読書をするうえでは、との但し書きがつきますが。もちろん記憶力がよいからこそ深まる読み味もあると思います。どちらか一方しか味わえないのか、それとも同時に適うのか。どちらなんでしょうね。いずれにせよ、読書をつづけていけばおのずと判明することのようにあてずっぽうに妄想して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おやすみなさい。(新作掌編:「紛い物抹消装置」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860079839133)
3425:【2022/02/09*眠いです】
ここ数日、ASMRを聴きながら寝ているのですが、ぜんぜん寝た感じがせず、スッキリした目覚めにならないので、やーめた、の気分です。ASMRがASMRと呼ばれる以前にも、2010年とかそこらに、似たような音源にハマっていた時期があり、懐かしいなぁ、と思いながら、やっぱりいいですね、と再認識しつつ、それでもたぶんむかしのほうが心地よく聴けていたのになぁ、と現在のじぶんの情報処理能力の衰えを感じずにはいられません。長時間というほどの長時間ではなくとも、聴いていると、ああもううるさい、とイヤホンを外したくなってきます。思えば音楽すらいまは以前のようには聴きません。六年くらい前は、ほぼ十時間くらいは音楽を聴きっぱなしでした。それもどうかと思うのですが、耳を塞いでいたかったのでしょう。創作活動にはあまり寄与せず、むしろどちらかと言えば負担になっていたような気がします。ただ、それくらいの負担があっても不快にならないくらいには、情報処理能力がいまよりも高かったと言えそうです。いまはもう、静寂であればあるほど深く集中できます。とはいえ、以前がいまと比べてノイズの多い環境であっただけのことかもしれません。いまは比較的、耳を塞ぎたくなる場面がすくなくなった気がします。それも充分ではなく、なるべく静かでありたいな、と思いつつ、睡眠不足にならぬよう、ASMRは聴きっぱなしではなく、寝る前の読書の時間程度の短さで活用していこうと思います。(いつも以上にきょうは並べることがありませんでした)(妄想の余地すらないとはこれいかに)(静寂に包まれるよりも、音楽を聴きながらのほうが出力が高まる活動もあり、あたりまえの話ですが、ケースバイケースと言えそうです(新作掌編:「オーバーなほどにゲーム」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860113237683)
3426:【2022/02/10*真面目じゃなくってごめんなさい】
眠かったので、寝るを優先しました。いまは02/11の13:00です。おはようございます。久しぶりに大昔、授業中にたびたび訪れていた、「こっくんこっくんビクーーーっ!?」を経験しました。抗えぬ大魔王級の睡魔でした。あ、いま、とってもおもしろいダジャレを思いついたのですが、くふふ。それはたとえば、「ものすごい睡魔ですいません」みたいな感じですが、あ、思ったよりおもしろくなかったですね、言わずにおいてよかった。なんかもう、さいきんは、僅かにでもこれまでと違った変化を帯びれたらラッキーだな、みたいな激甘くんの心境で文字を並べています。すこしでも新しい何かが掴めたら御の字だわよ、の気分なんですね。むしろ、失敗してやる!みたいな気概でないと、新しい変化ってなかなか得られなくなっていくんですね。モザイクの色を揃えていくにしても、最初は適当に小石を投げただけでも見つかる新しさが、モザイクのドットを揃えていくにつれて、あそこもここも、とっくのむかしに揃えちゃった色だなぁ、みたいになってしまって、どこに小石を投げても新しさに行き当たらない、みたいな時間を過ごすはめになるんですね。これはおそらく、何かを継続して突き詰めようとしている人は誰しもが経験する「凪」ではないでしょうか。もうそうなったら、かつては見向きもしなかったガラクタのほうこそが輝いて見えてきちゃったりもして。いっそのこと、小石を放るのではなく、勢いよく叩きつけて、モザイクにめり込ませて、表層の下に埋もれている土の色を見てやる、みたいになってきたりもします。そうするとあとはもう、なんかでてこないかな、とひたすらに掘り進めたり、或いはもうモザイクの材料ならなんでもいいや、とまったくべつの方向に、たとえば空を仰いでみたりするんですね。すこしでも新しさに触れられたら、「わ、ラッキー!」みたいになるので、本当になんというか、傍からすれば真面目には見えないのでしょう。でも、そういう見境のなさというか、なんでもええよ見たことないものだったら、みたいな不真面目さは、楽しさに飽きずに日々を過ごすうえでは、真面目さと同じくらいに欠かせない成分のようであるような気も致しますが、えーっと、なんでかいつの間にか真面目な文章になっているな。なんでだ? もはや文章形態を統一することすら面倒になってきてしまった、自堕落ないくひしさんなのであった。おしまい。(新作掌編:「腐れ縁のサファイヤ」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860146020194)
3427:【2022/02/11*詳しい話は知りませんが】
日雇い労働者や派遣社員において、現在流行中の疫病による被害への補償が足りていない問題について、もっとメディアは取りあげてもよいのではないでしょうか。疫病によって現場仕事がなくなり、さらには濃厚接触者の濃厚接触者であるだけで待機期間を言い渡され、仕事をさせてもらえないなど、明らかに被害を受けているにも拘わらず、その間の補償がもらえないといったケースを耳に挟みます。たとえ補償があるとしても、職場で教えてもらえないなど、必要な人々への広報が充分でないようです。政府には、国民の声にみずから耳を欹ててほしい、と望みます。マスメディアの方々にも、その方面での報道をもうすこし増やしたり、困っている人たちの声が広く届くような工夫をしてもバチは当たらないのでは、と思っています。(新作掌編:「父の波紋」)
3428:【2022/02/11*知能=結びつけるための工夫】
知能なる能力の示す内訳は多岐にわたる。一概にこれこれこういうものが知能ですよ、とは言い表しにくいが、それでもここ数日で急激に、そうかもしれないな、と思いついた知能の重要な働きの一つに、「概念を共有するための工夫をとれるか否か」がある。言い換えるならば、交渉や説得や説明がそれにあたる。もうすこし詳しく言うなれば、知識や習慣の異なる他文化同士で、争うことなくどれほど互いに歩み寄れるのか。存在を許容し合えるのか。そのための段取りをどのように整えていけるのか。知能と呼ばれるものの重要な働きの一つに、このような異質なモノ同士を結びつける働きがあるのではないか、と思い至った。以前にも並べたことがあるが、人間の生みだす価値のなかでより普遍性のある価値とは、結びつけることだと思っている。これは宇宙の根源を考えても同じことが言える。時空や物質ができるためには、異質なモノ同士が結びつく必要がある。結びつく前の段階では、崩壊したり、何かと何かを妨げ、異質化させる段階が入用だ。それを含めて結びつけることは、人間の生みだす価値のなかで、より本質であり普遍的な営みだと言えるだろう。そこにきて、知能は、そうした価値を最大化するための能力と定義できる。とりわけ、人間同士において、未知の習慣や文化は、畏怖の対象となりがちだ。未知そのものが恐ろしいというよりも、奇禍なのか否かの判断がつかないことが恐ろしいのだ。危なくないとさえ分かっていれば、未知はさほどに恐ろしくはない。またそれゆえに無知が蔓延る要因にもなる。話が逸れたが、たとえば壁に穴が開いていたとして、その穴の奥がどこに繋がっているのかが分からずとも、ひとまずそこを出入りしている人間がいれば、まあ安全なのだな、と判断できる。そうなれば穴の正体が分からずとも、ひとまずは看過できるし、知ろうとせずとも大過ない。しかし、ひとたびそこに入った者が二度とでてこない穴であったならば、人はそれゆえ単なる穴ですら畏怖の対象と見做す。こうした、奇禍に繋がるか否かの判断のつかない未知は、人を不安にさせる。また、ときに忌避させ、差別感情を高めたりする。これは異文化同士でも言えることだ。お互いに、これをしたら許されない、罰せられる、といった領域があることは理解できる。しかし何を侵せば相手から危害を加えられるのかが分からない。ひょっとしたら声をかけただけでも殺されるかもしれない。握手を求めるだけで処刑されるかもしれない。文化のなかには高確率で身分なるものがあるし、上下関係がある。そもそも文化の外の人間であるというだけで、家畜同然に見做されることもある。そうなると、危険を冒してまで異文化を知ろうとするよりかは、ひとまず避けてしまったほうが楽であり、安全だ。こうした短期的な損得勘定により、人は、異文化に対して排他的になる。こうなってしまうと、異文化同士での交流はなかなか進まない。そうしたときに、互いに反発しあう仲であろうとも、文化同士の共通点を模索し、なんとか対話可能な段取りを築いていけると、衝突のリスクを下げられるし、長期的には文化そのものが発展する確率を高めることに繋がる。だが異質なモノ同士を結びつける作業は、じつにむつかしく、仮にできたとしても、予期せぬ反発を生むこともある。それを、エネルギィを、と言い換えてもよい。無理やりにくっつけると、大爆発してしまうことも往々にしてあるものだ。それゆえに、慎重に結びつけていく段取りがやはり欠かせない。そうした工夫を行える能力こそ、知能と呼ばれるものの重大な仕事なのではないか、と大雑把に閃いたので、それを以って本日の妄想あらため「いくひ誌。」とさせてください。(定かではありません)
3429:【2022/02/12*ポーズ】
本当に思っていることや考えていることをここに並べたことはいちどもない。並べきれるようなものではないからだ。というこれもまた本音ではない。文字に変換できる程度のことなどたかが知れている。ただし、物語にするとすこしだけ変換できる枠組みが広がる。表現できる事柄が増える。扱える概念が深まる。ただそれも充分ではなく、多くはやはり、言葉にした時点で零れ落ちていく。私の存在が感じていることの0,0000000000000000000000001%も表現できない。耳の捉える雑音、律動、旋律、振動。目の捉える陰影と起伏の紋様。肌の感じる熱の揺らぎ、重力、存在の輪郭。舌はつねにピリピリと体調の良しあしを判断し、鼻は息吹の濃淡を嗅ぎ分ける。何より、チョコレイトがどんな音を立て、カタチを保ち、幾層の風味を宿し、移ろい、香るのか。それを感じたままに記述し、伝えることすら満足に適わない。嘘を並べるしか術はない。どこかで投げやりにならねば文字はいつまでも並びつづけ、世界を文字で埋め尽くす。チョコレイトが何であるのか、なぜあるのか、なぜ人はそれを食し、どんな味がし、なにゆえ味を感じるのか。原理を紐解くだけでも、人生すべてを捧げてもまだ足りない。人間を一から作りだし、再現し、解明せずには、その謎をすっかり解くことも適わない。言葉は欠落でできている。かろうじて残った蜘蛛の糸のごとく骨組みによって、なんとなくの輪郭を感じとっているにすぎない。何も得ていないにも拘わらず、何かを得たと錯誤する。錯誤していても困らない階層に、我々が生きているだけのことであり、言葉はともすれば、現実の欠片ですらない。言葉よりさきに世界がある。言葉を読むより、読み解ける世界がある。文字は、言葉は、けして世界に先行して在るものではなく、ましてや優先すべき代物でもない。言い換えるのならば、世界は言葉で溢れている。しかしそれを言葉と見做せぬ者が大勢いるだけのことであり、世界を読み解ける者が未だ一人もいないだけのことである。定かではない。定かにできるのかすら解らない。(なんもわからへん、というだけのことをよくもまあ、こうもへにょへにょと書けますね)(かっこいいじゃろう?)(精一杯にかっこうをつけていることは、はい。たいへんによく伝わりました。それがかっこいいかどうかはさておいて)(かっこいいって言って!)(言うだけでいいんですか)(思って! 惚れて! 褒めそやして!)(すごいですね。とってもすごく、かっこうわるいです)(ぴぎゃー)
3430:【2022/02/13*へそまがりのコンコンチキ】
古典が好きなのは時代を生き残ってきたがゆえに普遍性があるからだ、みたいな意見を目にする機会がある。そういう意見もまああるよね、と思うと同時に、芸術好きがそれを言っちゃう?みたいな違和感も湧く。なぜかと言えば、生き残ったモノに高い価値があると見做す価値観は、強者の理屈だと感じてしまうからだ。ああいくひしさんは、芸術(愛好)家たちには強者の理屈を掲げてほしくはないのだな、とじぶんの偏った価値観を幻視してしまって、渋い顔をしてしまう。じぶんの偏りを自覚すると、平らにならしたくなってしまって、対をなす人格をじぶんのなかに生みだしたくなる。穴を埋めたくなるんですね。話は戻りますが、古典は時代を生き残ったから良い物だ、という理屈は無理筋だな、と感じます。なぜならその理屈では、生き残らなかったモノのなかにじぶんにとって素晴らしい作品があったかもしれない可能性が加味されていないからです。生き残れるかどうかは環境によります。劣悪な環境下で生き残ったモノが必ずしも良い物であるとは限りません(普遍性があるものが良い物とも限りませんしね)。いくひしさんはできるだけ、じぶんにとって素晴らしい表現に出会いたいよ、と望んでいます。それはけして、時代に残ったからとか、古典だからとか、そういう基準では測れないと考えます。古典の話題になるといつも思うのが、古典好きな人が果たして古典がまだ新作でしかない時代に生きていたとして、その古典の作品をいまと同じように良い物として見做せたのか、ということで、おそらくこれは否じゃないかな、と疑ってしまいます。たとえばいま世に出ている比較的新しい作品たちのなかで、いったいどれが古典となっていくのか。それを見抜けている人がどれだけいるでしょうか。生き残るか否かは、偶然と環境に左右されるものですから、ほとんど見抜くのは至難だと言えましょう。すくなくとも現代であっても、今後古典となっていく作品はあるはずです。古典を重要視する人たちからは、そうした視点がごっそり抜け落ちて感じることがすくなくありません。あなたが好きなのは、古典という付加価値であって、作品から受ける刺激そのものではないんじゃないんですか、と疑ってしまうのですね。これはややひがみが含有されているので、イラっときてしまった方がいらっしゃったらすみません。敢えて、イラっとさせるように表現しました。いくひしさんがわるいです。以後、言い方に気をつけるだけで、たぶんあんまり変わらないと思います。うひひ。(古典のおもしろさが、さいきんようやく分かってきたかもしれないへそまがりのコンコンチキ、でした)