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いくひ誌。【3411~3420】

※日々、理由もなくただしたいだけ、をしていたい、たいがい法で禁じられている、妄想だけが許される。


3411:【2022/01/28*自信があっていいことってある?】
自信を持てないことに悩んでます、と相談されることが稀にある。なんで自信を持てないとダメだと感じるのかがよく分からないので、ひとまず、べつにそのままでよくないですか、と言うのだが、おそらく突き放されたと受け取られそうなので、自信がないからあなたは上達早いのでは、と所感をつけ加えるようにしている。だいいちに、自信が持てないのは、何かが欠けていると悩めるくらいに真剣に理想を追い求めているからで、自信のなさはその裏返しでもあるのだから、むしろ自信は持てないほうがしぜんなのでは、と考えてしまう。自信を持った状態とは、満足している状態だ。したがって、改善点を見繕うのに有利という意味で、じぶんの成果物にいつでも不安を感じているくらいがちょうどよいのではないか、と思ってしまう。しかしプロほどそうした不安を他者に伝えない工夫をとっているから、傍から見ると自信に溢れて見えるだけなのでは、との仮説がここに成り立つ。自信のなさとは不安の別名だ。その手の不安は、前進することで生じる風のようなものであり、みなには感じられない。じぶんだけの風だ。加速すればするほど風はつよくなる。その強まる不安を受け止めるために必要なのは、自信ではない。認識だ。その風が、自身が駆けているからこそ生じる反作用である事実をただそのまま認識することである。不安はあってしぜんだ。自信があるのは、挑戦していないからだ。自信がなくなるくらいの挑戦をしているという意味で、人生を楽しむうえでは、自信がないことはむしろよろこばしい境遇と言える。不安の裏には必ず改善点がある。せっかく悩むのならば、不安がなぜ生じるかについてではなく、その不安をどうしたら解きほぐせるか、工夫の仕方に割きたいものである。(新作掌編:「麺と毛糸」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859798187832


3412:【2022/01/29*あんぽんたんでーす】
浮力が、自身よりも密度の高い物質が落下することで、自身が押し退けられることで生じるチカラだとするならば、重力とは、あべこべに、何かが自身から遠ざかろうとするがゆえに生じるチカラと解釈することはできないか。つまり、私が地球に引っ張られているのは、私の周囲をとりまく未だ認知されていないナニカシラが、私を押し退け遠ざかるために、我が肉体は地球に押しつけられるのではないか。下品な比喩で申し訳ないが、無重力空間でたえず放屁すれば真逆の方向に推進力が生じることと原理的には同じだ。重力は互いに引きつけあっているのではなくむしろ、ナニカシラを遠ざけ合っているがゆえに生じている可能性はないのだろうか。とすれば、ひょっとすると、ダークエネルギィとはこの、重力を生じさせる反発エネルギィのことと解釈することも可能だ。重力があれば空間の膨張はいずれブレーキがかかり、収縮に転じるはずだ(しかし現実には宇宙は膨張しつづけていると推定されるため、未だ観測できていない謎のエネルギィ―ーダークエネルギィがあるのではないか、との仮説が2022年現在は有力視されている。なぜ重力を打ち消すほどのエネルギィが湧きつづけるのか、それがなければ宇宙は膨張しつづける真似はできないはずだ)、との予測は、上記の仮説を元にすれば矛盾しない。なぜなら重力にはそもそも、外向きに未だ観測されていないナニカシラを反発させることで生じているがゆえに、むしろトータルでは宇宙膨張のチカラを発生させていると解釈できるからだ。以上は単なる妄想なので、真に受けないように注意してください。(新作掌編:「仮想の現実へようこそ」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859824784016


3413:【2022/01/30*底を突かないサボりっぷり】
今年に入ってからどうにも毎日腑抜けておりますいくひしまんです、おはようございます。さいきんはずっと、こんなにサボっていていいのかな、と不安になる日々なのですが、たとえばきょうは日曜日で、起きたのが夜の八時でした。ほぼ一日寝てました。きのうも、おとといも、日課だった趣味の活動をサボっており、一週間のうち三日活動すればいいほうかな、みたいな毎日で、さすがにマズいな、と思いつつも、無理はいかんしな、とじぶんに言い聞かせてサボりまくりの甘栗ちゃんの日々なんですね。小説はというと、こちらはいまは熟成期間中というか、いちおう毎日掌編を手掛けてはいるものの、そこまで本気でオラー!!!みたいな感じではなく、ひとまず今年を乗り切るために、まずは散歩感覚でやっていきますか、といった塩梅であり、早々に燃え尽きないようにリズムを整える感じで、まずは手探りから、といった日々なんでござるよ。ちゅちゅ。読書にしても、ちょっと一冊読みきれない日々がつづいており、つまみ食いのように本をたらい回しじゃないですが、一人回し読みをしている具合で、集中力がなくなってきたなぁ、と思いきや、過去におもしろかった本を手に取ってみるとそれはするする読み進められるので、単にいまは波長の合う本と出会えていないだけなのかもしれません。ちょっと背伸びをした読書をしすぎなのかも、と肩の力を抜いてみようかと思います。これだけサボっておいてまだサボる余地があることに驚きつつ、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おやすみなさい。(新作掌編:「ナットウマン」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859853106341


3414:【2022/01/31*よわよわのよわちゃんの戯言】
さいきん分かってきたのが、周囲と自身を比べて苦しくなる人、というのは、視点が「いま」しかないのかもしれない。たとえば現時点でとんでもなく身体能力が高い人がいたとしても、あと何十年もすればみな衰えて、五十歩百歩になる。むしろ一流アスリートは若いときに無茶をした分、ほかの人たちよりも衰えているかもしれない。しかしこうした理屈を唱えても、そんな先のことを言いだしたら、いずれみんな死ぬからいまは無駄だ、みたいな極論になるじゃん、と反論を投じられそうだ。その通りだ。極論である。ただよく考えてもみて欲しい。相手の得意なこととのみじぶんを比較するのだって同じくらい極論に思えるのだが、そうは思わないのだろうか。オリンピック選手と何を比べるのかによっては、あなたのほうが秀でていることなどいくらでもでてくる。一流の芸術家よりも、あなたのお母さんやお父さん、妹や弟のほうが優れている点だって全然ある。むしろ例外なくある、とこればかりは断言できる。なぜみなは、一つのことだけに固執して比べ、それで以ってじぶんが劣っていると嘆くのだろう。大勢がその「ナニカ」をこぞって競っているからだろうか。たとえばその「ナニカ」が、ゴキブリをたくさん捕まえてくること、であってもあなたはそこまでしょげたり、ひねくれたり、絶望するのだろうか。それとも、じぶんが大事にしたい、極めたい、一生それをつづけていくんだ、と決意していることだから、誰にも負けたくない、と意固地になるのだろうか。しかし、それくらいの覚悟があるのならばそも、他者からの評価で揺らぐ必要はないのでは? ここまで並べて、そうそう、と思いだした。いくひしさんは「べつに弱くてもよくね?」とは思うし、そういう文章を並べるけれども、けして「強いこと」が嫌いなわけではない。むしろ「強いこと」は好きだ。強い人も好きだ。しかし、強くなりたいんだ強くなければ意味がないんだみな強さを求めよ強くなれ、と意気込んでいる人に限って大して強さを求めてないし、強くもないので、なんだかなぁ、と思うことはある。べつに弱くてよくないですか、だってあなた弱いじゃん、と思ってしまう。ちょっと言葉がきつかったかもしれません。すみません。何が言いたかったのかと申しますと、とくに何かを主張したかったわけではありません。ただ、人と比較するときは、どうせなら徹底的に比べたらよいのではありませんか、とは思います。比べなくてもいいし、比べてもいいです。ただ、比べるなら、とことん、あらゆることを比べてみたらよろしいのではないでしょうか、とのこれは妄言です。髪の毛の長さでならあなたのほうが上かもしれないし、友達の数ではあなたのほうが上かもしれない。嫌いな食べ物の数はあなたのほうが少ないかもしれないし、テスト勉強ならあなたのほうができるかもしれない。そんなことで勝ってもうれしくない、との意見も当然でてくるでしょうが、そもそも誰かに勝ってうれしいことってありますか? よく考えてみて欲しいです。本当にあなたは、勝つことがうれしいのか、それとも比較や勝負をすることで、じぶんの限界を超えたり、じぶん一人では得られない変化を得られるから、好きなのか。もし後者であるのならば、それってこれといって勝つことが必須ではありませんよね。負けてもいいし、比べたり、競ったりせずともできることではありませんか? もちろん勝負をしたり競争をしたりしてもよいですけど、それをして苦しくなるくらいなら、わざわざしなくてもよいことのように思えます。せっかく勝負や競争をするなら楽しめばいいじゃないですか。楽しめないなら、放棄してもよい気がします。大勢から承認を集めることもそうです。それって本当にあなたにとって欠かせないことなんですか?(どうでもいい、と思うからこそ、気軽に勝負ができるようになることだってあるように思います)(何に怯えているのかを自覚できるといいですね)(とはいえ、ビジネス上、どうしても避けられない勝負や比較もあるでしょう。しかしなぜそれがビジネス上不可欠なのかを考えてみましょう。そういう風潮はどうしてできているのでしょうか。みなはいったい、なぜそれに価値を見出しているのか。よくよく観察してみましょう)(勝負を避けられない時点で、相当弱い立場だ、とも言えます。勝負は自ら挑むものでしょう。競争にしてもそうですね。したくもない勝負を強いられた時点でそれは奴隷と変わらないのでは?)


3415:【2022/02/01*いろんな失敗を揃えよう】
道とはすなわち、先例だ。すでに誰かが通ったあとゆえ、そこを通ってもだいじょうぶだとみなが見做し、通るようになる。安心して最短距離で辿り着く道ほどみなが通るため、王道となっていく。王道をつくりたければ、影響力のある者ほど先例をつくっていけると好ましい。本来は、プロほど新しいことをどんどんやるほうが好ましいのだが、なぜだかプロほど安定路線を選びたがる。先人が挑戦しなければ、いったい誰が挑戦するだろう。いまは挑戦しつづけるプロがたくさんいていい時代だな、と思う。どんどん先例をつくっていってほしいものだ。それはけして楽をするためではない。挑戦そのものを楽しむためである。(定かではありません)(新作掌編:「異端の名探偵」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859906864210


3416:【2022/02/01*わがはいは虎である】
がおーっ、となってしまいました。内なる虎さんが暴れたようです。申し訳ありません。手綱をしっかり握っていたいと思います。それから首輪をはめて鎖で以って、地面に打った杭に繋いでおきますね。ことしは寅年だからか、どうにも虎さんがお元気なようです。しかしそれを差し引いてもわがはいは傲慢さんでござるから、いつも通りと言えばいつも通りなんでござるな。うは。わがはいの内なる虎さんはしゃべるんでござるよ。人語を介するでござる。世にも珍しい虎さんなんでござるね。あまりに珍しいからか、林を歩いているだけで、おや、と声をかけられるでござる。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」わがはいは答えるでござる。「いいえ、わがはいはいくひしさんでござる。わがはいにお友達はいないんでござるよ。さびしー」「さようでござったか」声の主はさっさと去っていったでござる。いくひしさんは、えーん、と泣くでござるよ。ふつう、友達いなくてさびちー、って言ったひといたら、そっかぁ、って慰めてくれるんじゃないんでござるか。いくひしさんがしゃべる虎さんだからダメなんでござるか。うえーん。泣きじゃくっていると、そこへ、やはり誰も寄りつかないのであった。なんでや。がおーっ!!! わがはいは吠えるんでござるよ。威嚇してやるでござる。がおー、がおー。「お、あんなところに猫がおる」「猫ちゃうし!」わがはいは虎である。しかし、たまにはお猫さんみたいに撫で撫でむぎゅむぎゅされたくなる日もあるのである。ごろにゃーん。


3417:【2022/02/02*わからんのよね】
おわらーん、と泣きそうになりながら文字を並べつつ思うのが、小説つくる楽しさって、ひゃっほほーいやったぜぇ、みたいな感じではなく、どちらかと言えばマラソンとかサウナとか登山にちかくって、忍耐に次ぐ忍耐を越えたところで吐くひと心地というか、解放感というか、はっきり言ってつーか、マゾくね? げふん、げふん。すみません、素がでました。あのですね、正直ね、楽しくないっす。小説つくるの、楽しくないっす。でもなんかやめらんない。たとえばそれは、旅の最中というか、まんま旅なわけですよ。苦難もあれば苦労もある。災難もあれば不運もある。そうしたなかであっても、なんだかんだ数年後に振り返ってみると、あの旅もわるかなかったな、と思える、そんな感じで、でもそれって振り返るときの「いま」が比較的しあわせだから思えるのであって、旅の途中で大怪我して、それによって人生狂っちゃったら、いくらあとになって回顧しようが、ふじゃけんじゃないわよ、ってならんかな。いくひしさんはなると思います。まあ、それでも小説というか、思いついた物語の世界に降り立って、旅をしちゃって、それを文字に置き換えちゃったりするんですけどね。やめらんない。なんでじゃろ。楽しいか、楽しくないかと言われたら、楽しいのだけど、やっぱりそれって、うっひょひょーい、みたいな楽しさではないし、つらいかつらくないか、と言われたら、つらい気もするなぁ?みたいな具合で、どっちなんだい、はっきりしておくれ、と言いたくもなります。楽しくはないのかもしれないけれど、なんか楽しそう、と思えちゃうんだよね。いつも物語を閉じ終えたときにはすでに、じゃあつぎはあっちね、とつぎなる予感に満ちている。なんか掴めそう、と思って、ああだこうだ苦戦しつつ、いざ終わってみると何も掴めておらず、やっぱあっちだったかも、みたいに、なんかまた掴めそう、のわくわくを辿って、誘われて、物語の舞台に降り立つのだ、みたいな、そんな感じがするのですが、じっさいにはまったくそんなことはないのかもしれず、ちょっとよくわからんな、と思いながらも、思いつくがままにつれづれと、文字を並べて、積んで、よじって、編んで、旅で見聞きしたあれやこれやを、じぶんではない誰かの視点で、言葉で、かたどるのだ。じぶんの言葉なんかではない。ここではない、しかしどこかにはいるだろうあなたの言葉で、いくひしさんはもうしばし、物語を歩んでいこうと思います。以上、本日の駄文こと「いくひ誌。」でした。(新作掌編:「巨大な、亀と水溜まり」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859940913339


3418:【2022/02/03*称号と権威は相性がいい】
いくひしさんも他人のことは言えないんですけど、権力批判や権威主義批判をしている人が、いざじぶんの権威や権力を脅かされると、過剰防衛かと思うほどに反撃してしまう現象には名前がついているんでしょうかね。割と身の周りでも比較的よく観測できる現象なので、もちろんいくひしさん自身にも身に覚えがありますが、なんというか、権力や権威って、案外に心地がよくて、いざ損なわれると抵抗したくなっちゃいますよね。それでいて、じぶんが権力や権威を有していると自覚できているだけまだマシだ、みたいなことも多々あり、往々にして人はじぶんの権力や権威に無自覚だ、と言ってしまってもいいのかもしれません。でもそこでいざ批判されたときに、はいはいいいですよー、この権威も権力も放棄しましょう、なんだったらあなたに差し上げます、と言えるくらいなら、まあまあ権力批判や権威主義批判をしている人としては道理に合っているのかな、と思います(それが責任の取り方として筋が通っているか否かはさておいて)。言論や物書きのプロの方々はいったいどこまで権威や権力に抵抗できるんでしょうね。これからが見物です。うひひ。(権力や権威を適切に用いるなら、それを有しても問題はないでしょう。そもそも権力や権威とはそういう性質のものでしょうからね。問題を紐解くためのちから、とも言えそうです。それゆえ、問題が生じつづけた時点で、適切な使い方をしていない、とも言えます。権力や権威が問題の種そのものとなっていたら、いちどその影響力を薄めてしまったほうがいい、とすら言えてしまえるのかもしれません)(定かではありません)(新作掌編:「おねしょの跡と宝の地図」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859967892921


3419:【2022/02/04*語彙力がなくてごめんなさい】
けっこう前から小説をつくっているときにたびたび悩んでしまうのが、いくひしさんに語彙力がないことなんですね。ただそれは語彙力がないことが悩みの中心にあるのではなく、語彙力がないので、たとえば新しい言葉を覚えても、「いや、わし元々これ知らんかったしな。小説内で使っても過去のいくひしさんに伝わらんのでは?」と思ってしまって、使うのに躊躇してしまうのですね。いくひしさんは傲慢さんなので、じぶんがみんなさんよりもすこしだけ能力が低いと思っていて、本当はもんすごく低いのかもしれませんけれども、傲慢なので、ほんのちょっと低いだけです、と思っているのですが、というかむしろみんなさんが高いだけでは?と思っているくらいなので、えーっと、そう、なんだっけ。そうそう、いっぱいむつかしいご本を読んで語彙力いっぱいにしたろ、と思っても、その結果に「ごいりょくー!!!」みたいな文章をつむいだところで、小説のおもしろさと出会う前のいくひしさんには伝わらんし、手に取ってすらもらえんのではないか、と気になってしまって、あんまり難しい言葉は使いたくないなぁ、になってしまうのですよね。あんぽんたんでーすならではの悩みなんですね。解決策は、背伸びせんでもええんやで、とあたたかーい眼差しと、あまっちょろーい投げやり感で、ひとまずあさっての方向に悩みを投げ捨てて、しーらんぴ、と忘却してしまうことです。えーっと、そう、なんだっけ? 本日の「いくひ誌。」でした。(新作掌編:「びびっとイートシステム」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860020487677


3420:【2022/02/05*すごごごご】
文芸とはべつのことなんですけど、いやべつに文芸も含めてもいいんですけど、さいきん、じぶんのことじゃないんですけど、立てつづけに、すごごごごごご、とスゴイスゴイの気分になっていて、みんなすごいねやったぜ、になってる。みんなすごいのに、いくひしさんはなんでこんなにすごくないんや?と思いつつも、すごくなりたくはないので、いやだって絶対あんなにすごくなったらたいへんでしょ、みたいな気持ちにもなりつつ、みんなすごいけど無理はしないでね、の気持ちにもなる。ちゃんと休みながら、ながく、楽しく、過ごしていってほしいです。というか、ホント、みんなすごくないですか? いつの間に、の気分である。やったぜ。(新作掌編:「クレッシェンド・ダ・ヴァーニーなる小説家について」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860037719314


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参照:いくひ誌。【711~720】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883985238

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