※日々、じぶんの上位互換が多すぎる、いつでもじぶんが偽物のきぶん。
3391:【2022/01/16*無に帰す】
誤解されそうなので記しておきますが、いくひしさんはいま郁菱万の小説を千作以上つくろうとしていますが、べつにそれが目的で小説をつくっているわけではありませんし、それを達成したところで何がどうなるとも思っていません。むしろ知らないだけで千作以上つくっている小説家さんはアマチュアだけでも最低でも百人以上はいると思っています。小説をたくさんつくったからといって高く評価されるわけではありません。それはそうでしょう。おもしろい小説をつくるから、それがたくさんだとうれしいね、という話であって、重点は量ではなく質にあるのですね。いくひしさんはちょっと妄想が激しいので、千作つくったらさすがにちょっと目立っちゃいそうだなと怖さを感じてしまうので(目立つのにも時間は相応にかかるでしょうが)、郁菱万は引退してほかの名前でまたゼロから小説を世に放っていこうと考えています。関係ないのですが、いつもじぶんのしていることを思い描くと連想する漫画があり、それが何かと言うと、ブラックジャックなんですね。その中に、ブラックジャックがメスを研ぎに行く話があり、その研ぎ師の方が、依頼料としてせっかく手に入れた札束を火にくべて燃やすシーンがあり、なんだかいまいくひしさんがしていることも似たようなことなのかもな、と思うときがあります。どこが共通しているのかは謎なのですが、ウヒヒ、と笑いたくなるところが似ているのかもしれません。いくひしさんのつむぐ物語に価値はありません。仮に価値を生むとすればそれはいくひしさんではなく、おしなべて読者の方なんですね。ありがたいことです。ちょっときょうは趣向を変えてみましたが、あまりこれまでと変わらずでしたでしょうか。これもまたきょうのいくひしさんがそう思った、という以上の意味合いはありませんので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(新作掌編:「ふしぎな世のお話」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859482592229)
3392:【2022/01/17*ぐらぐらのぶれぶれ】
直近のじぶんの表現を見直すと、未熟の極み、としか思えないのに、半年前のじぶんの表現を見直してみると、いまよりよくないか?と評価がすこし高くなり、一年前のじぶんの表現を振り返ってみると、まだまだだな、と粗が目立ち、さらに過去のじぶんの表現を見直すと、いいところもあるしわるいところもあるな、と冷静に長所と改善点を見つめることができる。そして大昔のじぶんの表現を見直すと、これは時と場合によるが、大絶賛か酷評、みたいに、極端な印象になる。要するに、そのときどきで、評価する側も、表現する側も、正確ではないのだ。一人の人間のなかであってもこれだけ鑑識眼にしろ表現の仕方にしろ、不安定なのだから、その他大勢からの評価や表現がいかにじぶんの理想と離れているのか、なんてことは吟味する以前に、合致することのほうが奇跡的と呼べる。たとえ合致したところで、それもいっときの同調であって、ずっと重なり合いつづけるなんてことは考えにくい。けっきょくのところ、そのときどきにできることをするしかないし、そのときどきに得た評価なんてものも、さしてじぶんの指針にすべきものではないのだ。参考程度でいい。ときには敢えて見向きもしない無謀さもいるだろうし、敢えて直視し、真っ向から受け止めてみる無謀さもあってよさそうだ。それすら、そのときどきの変化を帯びるための契機にすぎず、実験に加えるちょっとした工夫でしかない。表現にしろ評価にしろ、じぶんがする分には、まずはしてみるしかないのだろう。まずはしてみる。そのさきにようやく、ではどうするか、の思考の筋道が現れる。いかに人生を豊かにするか、選択肢を増やせるか、楽しいの気持ちを色合いのごとく多彩に揃えていけるのか。そうした工夫の余地を導くためにも、いますでに示された過去の表現や評価に気を取られずに、まずは始点となる点を打ってみることである。それがじぶんの表現や評価の支点(支軸)になるかどうかは分からない。それを見極めるためには過去や未来を含めた多様な視点があると便利だろうし、そうした視点を揃えるためにもやはり、まずはじぶんの過去を振り返り、未来を思い描けるように、点を打ち、線に結びつけていくよりないのだろう。不毛なことである。それゆえに、無数に打った点を結び引いた線を以って、理想を描くじぶんだけの筆を編みだしていくしかないのだろう。むつかしいことである。また、やはりというべきか、定かではないのだ。(新作掌編:「心の断面図はガラクタで」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859511603635)
3393:【2022/01/18*個別に開かれている】
いまはすくなからずの人々はじぶんの存在意義のよりどころをどこに求めていいのかわからなくなってしまっているのかな、と感じる。だからいちどこれ、と思うと、なかなかそこから抜けられずに、さっさとやめればいいのに、と思うようなコトや場にいつまでも縋りつづけて苦しんでいる。だいいちに思うのが、存在意義は何かの許しがなければ得られないものではない、ということだ。この共有認識が乏しい社会がずっとつづいてきたのだろう。いまが最も共有認識の高い社会と言い換えてもよい。マシになってきているのだ、これでまだ。べつに誰からの許可がなくとも私は存在していいし、あなたも存在していい。べつに誰の役に立たずともいいし、誰かの役に立ってもいい。それが基本的人権の中枢にある思想のはずだ。大前提のはずなのだ。けれどなぜかそこが忘れられてしまって、誰かしらからの許容や承認がなければ存在する意味がない、存在してはいけないのだ、みたいな強迫観念を抱えている人たちの言動をまま見かける(それはそういうふうに誘導しようとする者たちがすくなからずいるからで、みなが存在意義を他者に委ねてくれたほうが得をして生きやすい者たちがやはりすくなからずいるからなのだろう)。もちろん現代社会では仕事をしなければ生きていけない。対価にお金をもらわねばやっていけない。だがそれと存在意義は別の話だ。ここを同一視してしまうと、息苦しさを抱えて生きていくことになるし、その息苦しさを他者にも押しつけてしまうことになる。金持ちと貧乏人のあいだに本来は差はない(もしくは、どんな人間であれ異なるのだから、等しく差だらけとも言える。人間であるという共通点があるばかりだ)。同じ人間でしかないのだから。にもかかわらず、より多くの承認を集め、金を集め、権力を行使できる者のほうが存在意義があり、価値があり、存在すべく存在として規定されるような流れが漫然と世を漂っている。そんなことはないよ、という者もあるが、そんなことはあるのだからきっとそのことに無自覚なのだろう。世の中には、ノアの箱舟に乗れる人間と乗れない人間が曖昧ながらも区別されている。この曖昧な基準は、みなの無意識に染みこんだ共通認識によって成立している。つまりが偏見だ。貴重な知識や技術のある者が尊ばれる。権力のある者、地位のある者が尊ばれる。言い換えるならば、みなの役に立つ者が尊ばれる。だがそれと存在意義は別物だ。社会の役に立つかどうかと、個人の存在意義は別物なのだ。仮に同じだというのなら、赤子はおおむね存在意義がないことになる。しかし人は赤子を尊ぶではないか。なぜかこれが、大人に対してだと適用されなくなる。忘れ去られてしまう(たほう、時代によってはまっさきに赤子が間引きされてきた歴史がある。存在意義と社会的意義が同義にされ、直接に役に立たないから負担を軽減するために赤子の命を奪ってしまった過去が人類にはあるのだ)。役に立つかどうかではないのだ。存在意義は個々のなかに、別個の評価軸を以って、個別に開かれている。それを他者と共有できなくてもいい。あなたの存在意義を、他者に理解されなくてもいいし、許容されなくてもいい。人はただそこに存在していてよいのだ。ただし、他者の存在意義を損なったり排除しようとしたりすれば、それは法律という共通ルールのもとで裁かれ得る。そして人と人とが関われば、大なり小なり、相手の存在意義とじぶんの存在意義とのあいだで、相容れぬ場面が訪れ、そのときにどちらがその場を離れるか、相手に場を譲るのか、で衝突することになる。そのときは、どちらがより多くの味方を身につけられるのかによって勝敗がついてしまうことが多くなる。するとそれは、公共の福祉という建前で、みなから支持されたほうの存在意義が場に残り、そうでないほうが引くこととなる。だが本来はどちらの存在意義も損なわれるべきではないし、現に損なわれることはない――本来であれば――基本的人権を前提とするならば。別の場所でまた、こっそりと存在意義を噛みしめればよいのだ(しかし場を明け渡すことで生きていかれなくなる流れが現代社会では根強い。なぜかを考えてみよう)。基本的に存在意義は、じぶんだけのものである。誰かの許しも、承認もいらない。この世に、じぶん一人きりであるならば。しかし世の中には多くの人々がいる。みな個別にじぶんだけの存在意義を持っている。泡と泡とがぶつかって割れてしまわぬように、ときどきは相手の泡と部分的に結合しながら、それとも弾力を以って接しながら、うまく全体で巨大な泡を築いていられれば、おそらく社会そのものの巨大な泡(社会意義)が、すなわちじぶんの存在意義の安定した継続に結びついていくのではないか。理想論であるが、まずはそこを目指しても損はない気がするが、あなたはいかが思われるだろう。私見だが、全体主義も個人主義も、滞りなく進めばどちらも同じ場所に行き着く。人体は細胞の連なりが機能してできている。社会も同じである。個々の存在意義が泡のように寄り集まり、社会全体を機能させている。身体は細胞の一粒一粒に気を払うことはない。細胞たちも一粒一粒が全身のことなど考えて動いているわけではない。しかし互いに、崩れ去っては困る自らの一部として、そこに偶然存在している。漫画「鋼の錬金術師」でも出てきた言葉だが、「全は一で、一は全」なのだ。そこに本来、優劣はない。どちらも同じだけの存在意義を抱え、そこにただ存在している。そのときどきで、どちらをより優先すべきか、の判断は立ち現れるだろうが、それはけして、どちらがより価値があるのか、存在意義があるのか、には結びつかない。どちらにもそれぞれの価値があり、それぞれの存在意義がある。それは独立しているがゆえに、比較の対象にそも載らないのである。ゾウと蟻を比べても致し方ない。銀河と地球を比べても仕方がない。どちらも相応に、ただそこに存在している。だがゾウと蟻は生態系の一部を築いているし、銀河と地球は宇宙の構成要素の一部である。意義はあってないようなものであり、あると思う主格のなかに漫然と漂う、関係の連なりなのである。(定かではありません)(鋼の錬金術師はおもしろいです。好きな漫画です)
3394:【2022/01/18*一は点、全は集合】
上の記事についての補足です。鋼の錬金術師ででてきた言葉を正しく引用すれば、「一は全、全は一」となります。敢えて逆に記しました。全には集合でありひと塊である、という意味があるのに対し、一には一や最初以外の意味が内包されていないためです。そのため、より限定されていない全のほうを先にしましたが、どちらが先でも同じことを意味します。とはいえ、仮に宇宙の始まりが点ではなく、無であったとすれば、そもそもどちらも間違っていると言えるのかもしれませんが。
3395:【2022/01/19*サボりつづけるには?】
わがはい、サボる天才である。一日のなかでぎっしり予定を組むことはないし、毎日の習慣にしたところで、無理そうならサボるようにしている。たとえば毎日どこかに行って何かをしなくちゃいけない、と決めていたとしても、忙しくなれば当然、時間はずれる。この時間帯にこれが終わらなければ、じゃあこれは無理だから諦めよう。こう考えてすぐ諦めるようにしている。そのためにはあらかじめ、この時間帯はここに行ってこれをしよう、と予定を組んでおかねばならない。決めておかねばならない。拡張して考えれば、サボるためにはまず、サボるための予定や作業を組んでおかねばならないのだ。つまりサボる天才とは、日々サボれるだけの予定を組んでいる者であると呼べる。しかしわがはいはべつにそこまでぎっしり予定を組んでいるわけではないし、一つの予定を組んでおいて、それをサボって寝て過ごす、なんてこともある。さらに言えば、寝ることすらサボってきょうは徹夜して遊んじゃお、みたいな日もあり、もうもう予定調和でなければそれは総じてサボりになるんですね。なんでも順調と言っていれば順調だし、なんでもサボりだと言っていればサボりになる。遊びと思えば遊びだし、拷問だと思えば拷問になる。これはもちろん主観の心証の話であって、客観的にはそれぞれ区別可能な定義がある。順調でないことを無理くり順調だと思いこんだところでそれは順調ではない。むしろ現実から目を逸らしている時点でより悪化していると呼べる。だが現実を承知したうえで、ひとまず苦痛を緩和する意味合いでは、順調じゃないけど、まあひとまず順調と思っておくか、といった姑息な現実逃避は、手術中の麻酔みたいに、ときどきは用途に応じて使い分けられると、日々の予定が狂っても、また次の日から、予定をこなそうとする姿勢を維持できるのではなかろうか。いくひしさんはいま、日々充実しており、順調である。しかし客観的にはおちこぼれの、ひきこもりである。サボりつづけてきた者の末路であるが、サボることも極めればそれはそれで粋である。予定調和ではない偶然の神秘を噛みしめて日々を生きていきましょう。わがはいは生きていくでござるよ。サボるの権化、本日のいくひしまんでした。(新作掌編:「ナマズの姿が目に浮かぶ」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859536936252)
3396:【2022/01/20*何の話題というわけでもないにしろ】
あたりまえの話ですけれど、人によって何を大事にしているのかは違うわけですね。たまに同じものを大事にしていたりすることもあり、そういうときにはいっしょになって大事にし合ったり、奪い合ったりしてしまうものですが。たとえばいくひしさんは、メンツというものを、くだらないし、いらないな、とあまり大事に思っていない個人ですが、それでもメンツを大事にしている人に対してまで、そんなものはくだらない、とは言いませんし、言いたくはありません。その人が大事にしているものなら、なんであれ、大事にしてほしいし、損なわれてほしくないな、と望みます。また、何かを大事に思っていて、それが絶対に手元に欲しいんだ、所有したいんだ、じぶんの手で大事にしたいんだ、と強く望む者があった場合、それが量産可能なモノとか概念とか、要するに代替可能な代物であったならば、欲しい人にあげたらよいのではないかな、とも思います。欲しい人にあげたほうが、あげるほうも、そうでない人にあげるよりかはうれしいでしょう。大事にしてくれると判っているわけですからね。それによって何かを得て望みを叶えた人がいたら、言葉にするかどうかはさておいて、周りの人たちは、よかったですね、と拍手の一つでもしてあげたらいいと思います。たとえば賞とか勝負とか昇級とか、そういうのは、欲しい人、勝ちたい人、位を高めたい人に、どうぞ、と言ってあげたらよいのではないかな、と思ってしまいます。もちろんそれぞれに基準となる何かしらの、ここを越えたら(満たしたら)あげられますよ、みたいな関門はあるものでしょう。それを乗り越えていたら、欲しい人にはみなにあげたらよいのでは、とやはり思ってしまいます。稀少なモノだとか人権に関わるコトであると、そうもいかないのかもしれませんが、何が損なわれるわけでもない賞とか、勝負とか、昇級とか、そういうのはもう、欲しい人にあげて、よろこんでもらって、周りの人たちもよかったねぇ、と微笑ましく拍手を一つして、それでよいではないですか、と思ってしまうのですよね。誰が一番になったとか、優勝したとか、受賞したとか、それってそんなにひがんだり、無視したり、批判したりするようなことなんでしょうかね。仮に批判しなくちゃいけない局面が訪れたとしたらそれは、賞とか勝負とか昇級の仕組みどうこうではなく、それによって著しく影響を受けてしまう周囲の者たちの心構えというか、考え方が、ちょっと一面的すぎることに要因があるように思えます。幼稚園のかけっこで一等賞になりたいコが一等賞になったら、よかったね、よくがんばったね、と言ってあげればよいでしょうし、それが幼稚園でなくたって、よかったね、よくがんばったね、と言葉にしないにしろ、思えばよいのではないでしょうか。もちろん、何も思わずともよいとは思いますが、同じくらい、いちいち不快に思う必要もないように思います。(何の話題かも定かではない戯言ですので、真に受けないように注意してください)
3397:【2022/01/20*くだらないは未知の宝庫】
いくひしさんは、くだらないことのなかに愉快なことがたくさん詰まっていることを経験的に知っているので、くだらないことがわるいとは思っていない。ただし、何が面白いのかいまはまだよく分からない、ということが往々にしてあり、だからはまずは距離を置いたり、時間を置いてからもういちど観察し直してみよう、と保留する癖がある。それゆえに、いくひしさんにとってくだらないことを大事にしている人がいると、いくひしさんの分まで、それを大事にして何が面白いのか、素晴らしいのかを知る道しるべを築いてほしいな、と望んでいる。くだらない、といったんは目を背けるけれども、だからといってそれに消えて欲しいわけではないのだ。教えて欲しい。それのどこがどう面白くて素晴らしく、何がきみの心を掴んで離さないのか。それはときにきみを苦しめる根源になっているのかもしれないし、苦痛から逃れる触媒になっているのかもしれない。ひょっとしたらきみをきみとして形作る核になっているのかもしれないし、きみが自覚していないだけで、きみそのものを輝かせる光源になっているのかもしれない。定かではないけれど、それを知るには、いくひしさんだけでは無理なのだ。どうか、いくひしさんにとってくだらないことを、それでもあなたは大事にしてください。(新作掌編:「魔王、去る」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859566435475)
3398:【2022/01/21*もう諦めてもいいじゃろか】
毎日掌編つくるの、さすがにヒーヒーいってきた。というかふつうにサボってるので毎日つくってるわけじゃないので、全然なんですね。口だけ星人と呼んでください。おっきな口でぱくりと何でも呑み込むよ。きょうの晩御飯はチャーハンです。コツを覚えました。アツアツに熱したフライパンに油を入れて、ご飯と具材を炒めて、このあとがコツだったんですね。フライパンの真ん中に卵を投入する空間を開けて、そこに卵を割って落とすのですが、このあとすぐにご飯と混ぜちゃわないようにしたほうがよいみたいです。スクランブルエッグを作るときみたいに卵だけを炒めつつ、掻き混ぜて、ほどよく水分が抜けてからご飯と混ぜると、パラパラ炒飯のできあがりです。炒飯を作りながら思いだしたのが、いくひしさんには子どものころに思い描いた叶えたい将来の目標がいくつかあったのですが、そのうちの一つはたとえばペットを飼ってみたい、だったりしますが、いまのところはまだ叶っていません。で、ほかにもスイカを丸ごと一個じぶんで食べてみたいとか、フルーチェをお腹いっぱい食べてみたいだとか、いまから思うと、そんなのお小遣い貯めて叶えなさいよ、と思わないでもないんですが、たぶん小学校にあがる前に思い描いた将来の目標なので、そこはなかなか具体的な計画には結びつかなかったんでしょう。で、いま振り返ってみると、フルーチェもスイカもどちらも叶えていないままなんですね。いやフルーチェは叶えた気もするけれど、それは叶えるぞ、と意気込んでのことではなく、たぶんふつうにフルーチェ食いて、となって買っただけなんでしょうが、まあまあふつうに歳のせいか、一袋分のフルーチェでお腹いっぱいになっちゃったような記憶があります。スイカはというと、これは別に丸ごと一個食べたいほどいまスイカ好物ちゃうしな、みたいな感じで、もうもう鉄は熱いうちに打てじゃないですけど、将来の目標は掲げたときに具体的に動け、とホントに思います。しかしあいにくといまのいくひしさんに将来の目標がこれといって見当たらないので、どないしよ、と思いつつも、いまがずっとつづけばいいなぁ、とわがままを唱えて、本日のずぼらな「いくひ誌。」とさせてくださいな。おやすみなさい。(新作掌編:「栞を宙に挿す」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859586993317)
3399:【2022/01/22*んが】
今後、もしかしたらこの「いくひ誌。」をいくひしさん以外で読む人がでてくるかもしれないと思うと、ちょっと誤解を招きそうだな、と思うので、注釈を挿しておきますが、この日誌はあくまで人類の滅んだ世界でいくひしさんが孤独を紛らわせるために、まだ人類の滅んでいないころの日常を思いだしつつ、寂しさを紛らわせるためにつむいでいる日誌ふうの妄想、のテイでつむいでいる、嘘っこというか、小説というか、ある種の壮大な物語なので、いくひしさんの中の人はこの「いくひ誌。」から感じ取れるような人物とはほとんど異なりますし、大きくかけ離れていると言えます。というこの言及そのものも人類のいなくなった世界で、もう嫌だ、現実なんて見とうない、と駄々をこねているいくひしさんの自己暗示みたいなものなので、といった具合で、入れ子式に現実と虚構がメタフィクションのごとく、ごちゃごちゃと入り混じっており、それゆえに過去も未来も時系列を超越しているのでございますね。全然関係ないのですけれど、文章を並べるときは呼吸が浅くなりがちで、なんだったらしばらく呼吸を止めているなんてこともあり、自覚している以上に肉体への負担が大きいのかな、と感じるきょうこのごろでございます。五千字前後の掌編ですら結び終えると、脳内に巡る血管の拍動が判るくらいに体液が行き渡っているというか、充満している感じがして、激しい運動をして筋肉がむちむちぱんぱんに張るような感覚を、脳みそにも感じます。何の話だっけ? そうそう、これはだから現実を反映した日誌にしろ、嘘っこの虚構にしろ、どちらにしてもいくひしさんの妄想であって、等身大のいくひしさんなんて滲みでてるくらいにしか叙述されていないのでありますね。まあ、おちこぼれのひきこもり、というのは本当なんでございますが。これは本当なので、うひひ、とは笑えません。笑わないでください。お願いします。うしし。
3400:【2022/01/22*フリーズ!】
芸術において、人の心を動かすような表現がよい作品の条件の一つらしい。いくひしさんには無理そうなのでじゃあわがはいは、心が止まるような物語、新しく心が生まれるような物語をつくるよ。
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参照:いくひ誌。【61~70】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881262233