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いくひ誌。【3381~3390】

※日々、優しくありたいし弱いままでありたい、厳しさも強さも人を虐げるチカラだ、優しくありつづけるには知恵がいる、弱いままでいるには孤独でいられる環境がいる。


3381:【2022/01/07*雑記詰め合わせ】
「小説の構造を考えるときは、溝の刻まれたルービックキューブをいじくるのに似た感覚が湧く。てんでバラバラに曲がりくねった溝が、ルービックキューブの表面にも内部にも、とかくブロックのすべてに刻まれていて、カチカチ回したり配列を変えたりすることで、偶然すべての溝が繋がる瞬間が訪れる。小説の構造を思いつくときはこんな具合に、ぴたりとはまった感覚がある。掌編や短編の場合は、ルービックキューブの表面だけの溝を合わせればよく、長編や中編は内部の溝まで合わせなくてはならない、みたいな感覚だ。伝わっただろうか」「強権派と思われていた人物が実は穏健派だったという事例は案外に多いのかもしれないな、と考えを修正しつつある。弱者に都合のよい仕組みを築くと第三勢力にとって都合がわるいので、そうなるとぐわーと圧力がかかってしまうので、そうならないように、本当は弱者側の味方でありたいのに、そうできずに、板挟みのまま弱者側の盾になりつつ、弱者側からも強者側からも非難される、みたいな構図は、企業回りの動きを見ているとほどよく観測できる。みなさん、本当にたいへんそうです。お疲れさまでございます」「いくひしさんはちょろちょろのちょろ助なので、いくひしさんのつむいだ物語を読んでくださった方には漏れなく、わーいだいしゅき、と抱きついてほっぺたスリスリこすりつけたくなります。その姿があまりに破廉恥なので、人の目に触れないように隠れて乱舞しているだけなのです。いくひしさんは、読者さんに対して怒ることはおそらくないですし、読者さんであるというだけで、わーいだいしゅき、となります。ですがあまりにだらけきった顔になるので、全身がドロドロなので、見られたものではないので、なるべく、わーいだいしゅき、の感情は隠そうと思っています」「たとえば出版業界と言ったときに、それを購読者や出版社、商業作家、それから書店や取次、印刷会社など、いわゆる直接にお金を回す者たちのみに絞って語るようでは、規模は縮小していくいっぽうであろう。出版業界を支えているのは、そういった分かりやすいお金を動かす者たちだけではない。その他大勢の、本や物語を嗜好し、生活に取り入れている者たちこそが、出版業界を根底から支えている。そういった大勢の嗜好者たちを度外視して、いないものとして粗末に扱うようでは、出版業界は、いまとは別の機構に舞台を移して新しい繁栄の礎を築いていくこととなるだろう。プランクトンとクジラに位の上下はない。ただし、クジラがいなくともプランクトンは生存できるが、プランクトンがいなくなればクジラは生きてはいけないのだ――クジラの死骸によってプランクトンが増殖しやすい環境が築かれる点を考慮にいれるとしても、クジラがいなくなっても数は減るだろうが、プランクトンは生きていける。だがその逆はない。そこをまずは忘れないことである」「受動者は虚構を通して、こんなひどい世界はけしからん、と怒ればいいし、現実世界の理不尽さに傷ついた人がいたならば、みんな知らんぷりしているけれど現実にはこんなひどい面もあるんですよ、と虚構を通して描きだしてもいい。もちろん、こんなひどいことをしてみたいんですよ、という願望を垂れ流してもいいし、それをみなは批判してもいい。ただしそれを、表現そのものを排除する方便に使わないほうが私にとっては好ましいし、社会にとっても好ましい作用を及ぼす割合のほうがそうでない割合よりもいまのところはどうやら高いらしいと言えるのではなかろうか」「上記すべて妄想なので、定かではないんです。すみません」(新作掌編:「降り積もった雨のうえで」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859248076834


3382:【2022/01/08*星空のごとくスターがたくさん】
どんな分野でもそうですが、分野と分野の交流が盛んでない場合、基本その分野のスターであろうと、ほかの分野からしたら、「誰それ?」くらいの知名度です。いくひしさんには文芸以外にも趣味があるのですが(誰にだって趣味の一つや二つあるのでことさら注釈を挿すようなことでもないのですが)、その分野では、京極夏彦も宮部みゆきももちろんスティーブンキングの名前すら知らないし興味がない方がたくさんいらっしゃいます。小説家は現代でもその程度の知名度なんですね。かろうじて東野圭吾や星新一が通じるくらいでしょうか。ハリーポッターの作者は誰?と訊いても答えられる方のほうがすくない気がします。あべこべに、その分野の有名人の名前を、文芸を趣味にしている方に言ってもほぼ通じないでしょう。それでいてみなさん、狭いコミュニティの中だけで生きているので、そのことに無自覚ですし、困らないようです。まとめれば、誰にでも死角はあるし、往々にして人は、他者からすれば無関心なことに熱中しているものだ、と言えそうですね。定かではありません。(新作掌編:「いい湯を皮切りに」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859271991202


3383:【2022/01/09*抽象と具体はフラクタル?】
寝正月で衰えた肉体が重たすぎて、地上に帰還した宇宙飛行士の気分である。天と地ほどに実態が異なるのに、生じる問題点が似てしまところに面白味がある。共通点がほとんど同じでありながら、その他はまったく別物、なるものに人は面白さを感じるのではないか、との仮説がここに成り立つ。たとえば比喩もそうだ。類推もそうだし、物語もそういう意味では、壮大な題材であってもそれを読者は自分事としてあてはめて共感を覚えたりする。人間は具体的に物事を考えているようで、その根底にあるのは抽象思考なのではないか。印象というのも、抽象の結果だろう。なんとなく、あれと似てると感じるがゆえに、印象として意識の表層に浮かんでくるのではないか。具体なる事象というものはおそらく存在しない。或いは、どんなものですら具体なのだ。それをほかの何かに結び付けて思考するとき、そこには抽象が生ずる。とすれば、抽象化した事象そのものもまた、独立して扱うのならば、それで一つの具体となる。数字は抽象そのものだが現代では具体的に考える際には数字が不可欠だ。人間は抽象化によって、本来は具体的に扱えない事象を、ひとくくりにシステムとして総体として或いは体系として、群として、集合として、一つの具体と見做し扱えるように進化している。つまり、誰であっても具体化して思考している。そこに新しい視点や考え方を取り入れたり、組み込んだりするには、抽象的な思考の仕方が有効なのだろう。抽象とは、全く異なる事象同士を結びつける働きそのものだ。共通点を見繕い、本来は当てはまらないはずの法則を、この角度で差しこめば奇跡的に成り立ちますね、と発見する営みそのものと言えそうだ。定かではありません。(いい加減なことを並べました、すみません)(新作掌編:「仮面の美少年」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859297098817


3384:【2022/01/10*許せる人でありたいね(願望)】
世の中には自動車を運転しないほうがよい人間がいるし、同じように権力を持たないほうがよい人間もいる。どちらもいくひしさんのことです。(注意散漫で許せないことがハッキリしているため)(新作掌編:「檻に囚われて」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859329380625


3385:【2022/01/10*どこまでも落ちてブレる】
風化とか退化とか老化とか衰退とか、そういうものを怖れているうちはおそらく何かお手本を完成形として目指しているのではないか、との疑念が湧く。風化も退化も老化も衰退も、世の理の流れのなかの一つの変化にすぎないのだ、と認めてしまえば、そのときどきの変化を楽しむしかないのだな、と諦めてしまえるのではないか。延々ずっと成長しつづけたい、極めつづけたい、上達しつづけたい、との思いも理解できるが、それはむしろ、ある境地を境に、自由とは真逆の性質を宿すように思えるが、いかがだろう。最初のうちは、向上心は追い風となって背中を押してくれることもあるだろうが、それでは風に身体を操られているようなものだ。いや、それを言ってしまうと、世の理の流れに身を任せてそのつどそのつどの変化を楽しむこととて、自由とは言い難い。ときに反発できる余地をいつでも持てるようにしておく。その余裕こそが大事なのかもしれない。おおむねはそのときどきの変化をつど楽しみ、ほんの時々、僅かな抵抗を以って、己が理想の指針へと歩みの矛先を定める。そのためには、世の理の流れを掴めるくらいに、見る目を肥やさねばならないのだろう。見る目とはいえど、それは視力のことではない。五感を駆使して世界を感じ取る能力そのものだ。いちど流れに乗ってしまえば、あとは思うがままに抵抗すればいい。抵抗することにも抵抗できるようになれば、ある種の達人と呼べるのではないか。何かを言ったようで何も言っていないに等しい文字の羅列を以って、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


3386:【2022/01/11*首輪には連絡先を書いておいてください】
無視するには気を揉むような落し物を年に、二、三回拾うので、交番にはそのつど足を運ぶことになる。きょうは初めて犬を拾った。拾ったというか、犬小屋から脱走したのだろう、道路を一匹でトコトコトコトコひたすら歩きつづけていたので、飼い主らしき人物も見当たらないし、しょうがないので捕まえた。出かける途中だったのだが、このことにより予定の変更を余儀なくされた。しょうがない。犬には首輪もリードもついており、リードは千切れていた。やはり犬小屋から脱走してきたのだろう。交番までは一キロの道のりだ。しょうがないので自転車を引きながら、犬をつれて歩いた。おとなしい犬で、しかも賢い。自動車を怖がって歩道側を歩くし、こちらが立ち止まると、どしたの、とこちらの顔色を窺う。暴れることもなく、リードの導くとおりについて歩く。よほど心細かったのか、元からの気質なのか。雑種で、柴犬よりも大きい。交番に届けたが、飼い主が見つかるかは分からない。首輪に名前も連絡先も書かれていなかった。飼い主が警察か保健所に連絡してくれることを祈るばかりだ。いちおうSNSをチェックしてみたけれど、それらしい情報は見当たらない。警察は、気軽に飼い主がチェックできるように、迷子のペットの情報を載せるSNSを開設してもいいように思うが、個人情報の扱いでそれもできないのだろうか。飼い主の見つからない迷い犬や猫は、保健所でおそらくは数日のあいだ保護されたのちに、飼い主が見つからなければ処分されるはずだ。可哀そうなことである。(とか文字を並べながらジュースを飲みつつ、暖かい部屋でぬくぬくしている我が身を思うと、ひどい人間ですね、と思ってしまうな。これもまた、しょうがないのである)(新作掌編:「秒読みをはじめます」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859355669861


3387:【2022/01/12*虚言詰め合わせ】
「企業も、研究機関も、出版社も、審査員も、教師も、師も、先輩も、国民も、何が一番問題をこじれさせるかと言えば、見る目がないことだと思います。二番目は、見る目がないことに無自覚な点かと思います」「どんな人間でも他者を自在に操れる権力を手にすれば知らず知らずのうちに傲慢になるし、何でも買えるくらいに資本を持てばやはり知らず知らずのうちに他者の労力を軽んじるようになる」「同じ環境に他人がいるだけで思考に制限がかかる。自由にものを考えるには孤独でないとむつかしい」「教科書のおもしろさがわかるようになってきてしまったので、いくひしさんはもうダメです。妄想家としてはもうおしまいだぁ、の気分である」「どうやったら人に好かれるかは分からないけれども、どうやったら人に嫌われるのかは割と簡単に分かるのだよね。仮にいくひしさんが他者を利用して何かをなそうとしたら、じぶんを好いてくれる人を利用するのではなく、じぶんを嫌う人をこそ利用します。そのほうが相手の動きを操作しやすいですし、予想もしやすいでしょうからね。最大の攻撃は防御ではなく、往々にしてカウンターなんですね。相手の攻撃を利用しましょう。損を得にするのです。嘘です。話し合いをもとに平和を目指しましょう。(どちらに転んでも得をするように計画は練っておきましょう。というよりも、計画とはどのような事態になっても得をするように対策を練っておくことだと思います)(そして絶対にカウンターを受けないようにしておけば最大の攻撃を受けることはなくなるので、つまり誰のことも攻撃せずにいることが最も合理的な防衛策となり得ます。誰も攻撃せずにかつ無事でいるためには、いつでもカウンターを放てますよ、と周囲から見做されるだけの実力がいるので、なかなかに矛盾した境地と言えるのかもしれません)」「性格がわるくて申しわけありません」「仮にこの【いくひ誌。】を現在進行形で読みつづけている方がいらっしゃるとしたら、そろそろいくひしさんが予知者か何かのように錯覚しかけてしまう人もでてくるころではないか、と危惧してしまうので、万が一のために、念のために、杞憂だとは重々承知のうえで、そんなことはまったくありませんよ、と述べておきますね。数年単位で答え合わせができる程度のことは予知の範疇ではありません。物理学や数学など、科学の世界では数百年単位での予言性を発揮している研究者がたくさんいらっしゃいます。それに比べたら、いくひしさんの妄想は、まさしく妄想であり、煙が立っているのを目にして、きっとあそこの下には火があるぞ、と指摘する程度の底の浅さなんですね。どうぞ、惑わされぬようにお願いいたします」「ちゃっかり、数年単位の未来予測なら的中してますよ、と匂わせている点がずるっこですね。うそっこもたいがいにしましょう」「うひひ」「今後何かの間違えで訊きたくなるかもしれない人がでてくるとも限らないので先にお答えしておきますが、いつからそれ考えてたの、との質問には、最初からですよ、と応じます。最初からですよ」「可能性を確率の高さごとに虱潰しに考えておけば、そのうちのどれかは当たるし、可能な限り対策を打っておけばやはり致命傷を避けられる。むしろ負った傷すら利用可能だ」「どっちに転んでも得をするように考えるのがコツです」「最悪、死んでも利になるように方針を考えておけばよいわけです」「大事なことなので同じことを繰り返してねじ込みましたが、お気づきになられたでしょうか」「上記、いつものように妄想ですので、どうぞ真に受けないようにしてください」(「霊魔怪シリーズ【マキトリ木の使い道】」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859378106895


3388:【2022/01/13*わるいおとなムーブ】
一か月に数回顔を合わせるくらいのほとんど赤の他人と言えるレベルの中学生の男の子がいるのだが、あまりによい子すぎて、きみみたいな先輩がほしかったな、とついつい本音が零れ落ちてしまった。そのままでいてくれ、とわるいおとなの言動をとってしまったが、思ってしまうのだから仕方がない。そのままでいてくれ。とはいえ、それは心の芯の話であって、彼はこのさき、私なんかが比較対象になるのもおこがましいほどに、いろいろなことを学んで、いろいろな体験を積み、いろいろな出会いがあって、いろいろな失敗を重ね、ときに乗り越え、ときに挫折し、さまざまな知識や技術を身に着けて、あっという間に私が教えてあげられることなど何もない存在になってしまうのだよね。むしろいまですら私のほうが彼のような十代の子たちの所作とか、立ち振る舞いから学ぶことのほうが多いのだ。謙遜とかでなく、本当にそう思うし、それが事実だと揺るぎなく実感するのだが、この本心すらうまく言葉にできないし、言ったところで伝わらないのがもどかしい。きみは素晴らしいよ素晴らしいですよ、という言葉は、それを口にした途端、お世辞とか社交辞令とか、そういう空虚な響きとなって、冬空のしたで吐く息のように一瞬の濁りを見せたあとは、儚く消えるのだ。どこにも留まらず、それそのものが届くこともなく、無闇に。若いから素晴らしいのではない。きみがきみであることが、ただそれしきのことが素晴らしいのだ。解かってほしい、とやはりわるいおとなの欲がでてしまうな。(わがはいに言われてもな、という話なのだね)(言葉に重みがないし、それでいいし、それがいい、とも思う自家撞着)(新作掌編:「イタズラもほどほどに」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859425986874


3389:【2022/01/14*THE記】
調子の良し悪しのバロメーターとして、日誌と小説、両方がスラスラいけるときは調子がよく、日誌がスラスラいかないときは精神が疲れており、小説がスラスラいかないときは肉体が疲れているように思えます。でもこれは本当は真実を反映しておらず、日誌も小説もスラスラいくときのほうが極限状態にちかいので、覚醒している分、身体にも脳みそにも負担をかけているため、本当に注意しておかなければいけないのは、日誌と小説の双方がスラスラいくときなのかな、と想像しております。うぎゃー、なんも並べることがないので真面目ぶって自己分析してみたけれども、うんじゃらみょーん、ですね。そうやってまんちゃんってばすーぐふざける。よくないと思います。だってしょうがないじゃんね、ふざけるといっぱい文字が並ぶんだもの。あるがまま、なすがまま、思考の赴くままに自由に文字を並べるときのこの快感、拙者、いいと思います。さいきんはねー、いくひしさんねー、めっちゃがんばってるフリして、めっちゃサボってるんですぜ。サボりすぎてて、いろいろな技術だの感性だのが鈍ってるの分かっちゃってるんですぜ。ズバリ見抜いたり。そしてそのまま見て見ぬふりをしたり。いっぱい錆びつかせて鈍らせれば、その分、いっぱい磨いて鋭くできるので、わーい、なんですね。ダイエットの達人はリバウンドの達人でもある、みたいな理屈ですね。失敗を乗り越える達人は、誰よりもいっぱい失敗している、みたいな理屈です。さいきんはコーラとかCCレモンとかがぶ飲みメロンソーダとか、身体にわるそうなジュースばっかりゴクゴク飲んでいます。美味しいです。いっぱい飲んじゃお。たまには意識的にとりとめもなく以上を持ちまして、本日の「いくひ誌。」でした。(これぞ雑記、を目指しました)(怪文書ともいう)(言うか?)(言うの)(新作掌編:「深く潜る世界に」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859400380565


3390:【2022/01/15*届く余地があるといいね】
じぶんが楽しいと思うことが必ずしも他人にとっても楽しく感じるとは限らない。これは価値に置き換えても同じことが言える。じぶんにとって価値が高くとも、他人にとってはそうでもない、ということはとりたてて珍しくない。自分自身に限定してみたところで、お腹が減っているときとお腹いっぱいのときとでは、食べ物の価値が変わる。価値とは相対的なものである。そこにきて、ではじぶんで楽しみながらつくった物語が、果たして他者も楽しめるのか、と言えばやはり必ずしもそうではないし、往々にしてそうではありません。ひょっとしたらじぶんですら、つむぐのが楽しいのであって、読むのは苦痛だ、となるかもしませんし、推敲きついな、と現に思うときがすくなくないことを思えば、さもありなんです。じぶんですらそうなのですから、他人は言うまでもないでしょう。全世界の人間のなかでそれを楽しいと思っているのは、それをつむいでいたときのじぶんだけであり、ほかには誰もいない、といった悲劇はあり触れているでしょう。かといってでは、この先の未来においても皆無なのか、と言えば、それはそうとも言いきれません。未来のじぶんなら楽しめるのかもしれないし、これから生まれてくる人間のなかに楽しんでくれる人がいるかもしれない。それは分かりませんが、皆無ではない、ということは断言できそうです(今後、地球や人類が滅ばなければ、との条件がつきますが)。そうした可能性――ともすれば希望が絶たれていない以上、まずはつむいだ物語、成果物、表現を、できるだけ後世の人たちの目にも触れる機会を残しておく選択は、どんな人物であれ、とっておいて損はないように思います。どんなにじぶんでつまらなく感じても、消してしまったり、隠してしまったりせずに、もう一人のじぶんにいつか届くかもしれないと夢見がちにふわふわと賭けをしつつ、その賭けに勝つかもしれない余地を奪わずにいることは、期待値がゼロの日々を過ごしていくよりも、心の隅っこだけでも元気でいられる余裕を与えてくれるように思えます。余裕が溜まってきたらこんどは、じぶんが他人のそうした物語、成果物、表現を、いまはここにいないだろうけれどもいつかは生まれくるかもしれないもう一人のじぶんたちに届く余地を築いていけると、すこしは張り合いのある時間を送れるようになる気がしますが、じっさいのところはどうなのでしょうね。ハッキリさせるためにも、いちどやってみなければわかりません。もちろん、誰にも届かなくていい、という物語、成果物、表現があってもよいと思います。心というのはおおむねそういうものでしょう。誰にも届かないことを前提として、ただ無為に垂れ流されており、ときおり表現を通して外部に僅かなりとも漏れることもある。しかしそれにしたところで、漏れたナニカシラが他者に伝わるとは限らない。しかしときどき奇跡のように届くこともある。伝わることもある。そう、この日誌のように。それともいくひしさんのつむぐ物語のように。定かではありません(新作掌編:「全身烏龍茶人間」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859427086404


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参照:いくひ誌。【3081~3090】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816700425971589901

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