※日々、きょうをきょうと認め、もうにどと同じ日は巡ってこない尊い時間だと胸に刻んで生きるのがむつかしい、たったこれだけのことがむつかしい。
3081:【2021/07/14*凡庸】
いっぱい寝てしまった。以前からたびたび並べているけれど、ときどき十二時間とか、ときには二十四時間まるまる寝てしまうことがある。そうするつもりがあって寝るのではなく、気づいたら一日経っていたりする。さすがに二十四時間寝てしまうことは稀だが、まったくないわけではない。ただ、寝て起きたあとはスッキリしているのでよい。身体はバキバキだけれど、シュッと引き締まって感じられる。水分補給をしていないので脱水症状なだけかもしれない。食べてもいないので痩せただけとも言える。ただなぜかいつも顔がムクれているので、何むっつりしているの、と鏡を見るたびに思ってしまう。もっとにこやかで、誰からも愛されるかわいらしいお顔がよかった。極悪人みたいな顔である。真実に極悪人なのかもしれないが、それはそれ、これはこれ。なんの話だ。とはいえ、他人から見たらじぶんの顔なんて特徴のない顔だし、性格にしたところで、誰からも関心を向けられないような、どこにでもある性格だ。凡人なのである。凡人以下かもしれないが、それを含めて凡庸だ。すばらしい。さいきんはあまり出歩かないからか、すこし動くだけでも足の甲が痛くなる。足の甲が筋肉痛になるひとなんているー?と思うけど、ここにいます。いくひしさんだけかもしれないけれど、いっぱい寝ると知らぬ間に作品が増えていたりつづきが進んでいたりするのでラッキーだ。小人さんや妖精さんがいるのかもしれない。寝過ごした、と思ってもちゃんとその日の予定はこなしてくれているので、それもラッキーだ。こういう話をすると、何言ってんの、みたいな顔で見られてしまうけれど、ほかのひとにはそういう体験がすくないらしい。気づいていないだけなのではないか、と思うのだけれど違うのだろうか。あまり人としゃべらないので、本当のところが判らない。子どものころから覚えつづけている疑問で、性行為って本当にあるんですか、みたいな話だ。でもそちらは動画で確認できるので認めるよりない。世の人々は裸で他人と触れあったりするのだ。よく我慢できるな、とふしぎに思う。なんてすこし、じぶんちょっと異常なんですよ、みたいなことを醸してみると、じぶんの凡庸さを自覚できて心地よい。こういう妄想が発想の種になることもあるし、ならないこともある。他人に話して聞かせることでもないので、こうして日誌モドキに並べておくくらいがちょうどよい。
3082【2021/07/14*寝て覚める】
(未推敲)
起きたら十二時間が経っていた。ときどきあることで、起きると身体が筋肉痛になっている。手のひらが汚れていることもあり、皮膚も汗でべったりしていたりして戸惑う。
いつもいつも嫌な想像を巡らせてしまうけれど、これといって実害はないので、確かめようもないし、ほったらかしにしている。
メディア端末にメッセージが届いている。知らない相手だ。
きのうは楽しかったね、とある。
何のことだろう。
新しいメッセージが届く。つぎは女の子がいいな、と書かれており、私はその相手を拒否設定にした。
肌がべたべたして気持ちわるい。
汗を流そうとシャワーを浴びる。身体の表面をお湯が流れ、じぶんがここにいることを否応なく意識させる。存在していることに安堵とやはりどこかしら違和感を覚える。まだ夢の中にいるかのような浮遊感だ。
手のひらの汚れがなかなか落ちない。
床には、黒い汚れがゆわりと滲む。
3083:【2021/07/15*人間の中身】
初めて論語について書かれた本を読んだ。ずいぶん古い本で、新書なのに230円の値がついていた。本一冊がそのくらいの値段のときがあったのだ。論語は孔子という人の日々の会話を、その弟子たちが覚書きとして記して、のちに集めて編まれたものだ。紀元前の人だったんですね。人々がこぞってお金や地位を求めていた時代に生きた人らしく、そうした人間の欲求や社会の風潮に対して疑念を呈していた人でもあるようだ。お金や権力はだいじだけれどもっとだいじなものがあるのではないか、という価値観は現代にも通じている。と共に、何千年も前の人の価値観が現代に通じてしまうなんて、ほとほと人類は進歩していないのだな、と物哀しくもなる。技術ばかり進歩して、人間が進歩していない(進歩せずとも、人間の未熟さが暴走しないようにと仕組みが強化された面はすなおに高く評価できるにしろ)。技術とは違って、そうした人間の在り様のようなものは、蓄積されにくく、ゆえに次世代に継承されにくいものなのだろう。それでも現代にまで書物として引き継がれ、残っている事実には、何かしら生命の根強さ、ともすれば絶やさぬようにしようとしてきた者たちの執念を感じずにはいられない。残そうと抗った者たちがすくなからずいたからこそ、こうして現代にまで残ってきたのだろう。それとも、そうした個人がおらずとも広く人々に膾炙するようなものが自然淘汰のすえに残っただけなのだろうか。どちらもあるように思う。いずれにせよ、人間の内面の進歩のしなさはなんなのだろう。おそらくは、ある種の限界を突破した個は、死を選ぶ以外に自我を守ることはできなくなるのではないか、との予感がある。凡庸であることはある種の生存戦略であり、防衛反応でもあるのだろう。自己保存の戦略に優位な適応そのものと言える。人間は人間を極めすぎては生きてはいけない。いち動物であり、野蛮であることから逃れては生きてはいけないのだ。人間は神にはなれない。まずはそのことを認め、受け入れるしかないのかもしれない。だがそこに甘んじてしまえば、人間としての生は、動物に傾いていく一方である予感も湧く手前、そこはつねに手綱を握り、綱引きよろしく張り詰めているしかないのかもしれない。つねに希望を求め、絶望しつづけることで、綱渡りをする道化師のごとく。定かではない。
3084:【2021/07/15*開かない金庫】
(未推敲)
その家は、亡くなった祖母から譲り受けた。人里離れた山中にあり、相続手続きそのものは祖母が入院しているあいだに済ませていた。生前贈与というらしい。
祖母には孫が私以外にいなかったので、何かを遺したいとつよく希望していた。私としては固定資産税だとか維持費だとか諸々のお金がかかってしまいそうなので、本当なら二束三文でも売り払って処分してしまいたかったが、祖母のたっての願いともなれば無下にはできない。
せめて街のなかにあればよかったものの、山のなかでは買い物にでかけるだけで一大事だ。交通の便がはなはだ不便で、電気ですら自家発電を使う。石油で動く仕掛けで、祖母は家にいるあいだほとんど電化製品を使っていなかった節がある。夜ですらランプの明かりを頼りに過ごしていたようだ。
人の住む場所ちゃうよ、と私はいまは亡き祖母に嘆く。
売るにしても、人に貸すにしても、放置するにしたところで、まずは片付けをしなくてはならない。私はなけなしの長期休暇に加え、有給休暇をとれるだけとって、祖母の家でしばらくのあいだ暮らした。
思ったほど物がなく、すっきりした家だった。
本来ならばこうした仕事は父や母の役割なはずだが、もらったのはあなたなのだからあなたがやりなさい、とにべもなく押しつけられた。
祖母の家にはやたらと絵画が多かった。作者不明のものばかりだ。どれも壁に飾られている。絵にはふしぎな魅力があり、(つづきはこちら:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816452221359522109)
3085:【2021/07/16*遺伝子と環境】
仮に、知能が高い人間ほど生殖行為を回避する傾向にあったとする。そのとき、知能の高い人間たちが子孫を残せず、知能の低い者たちばかり繁殖したのでは、人類の損だ、と感じるなら、それは優勢思想に染まっている何よりの傍証と言える。どんな遺伝子を残すのか、は問題ではない。どんな遺伝子であろうとも、環境のほうが変われば、その優位性はそのつど変わっていくのだ。優れた遺伝子というものはない。たとえあるように視えても、それは限定的な環境の範囲内での極々短期間の優位性であり、それが生物として、ひいては人間としての最適解ではないのだ。極限ではない。学者やオリンピック選手の遺伝子を残さないなんて損だ、みたいな価値観が未だに社会に根強く漂って映るので、だいじょうぶですか、と欠伸をしたくもなる。仮に何かを残すことに意味があるのだとしたらそれは、特定の遺伝子ではなく、環境そのものだと言える。先天的な資質よりも遥かに、後天的にかつ文化的に育まれ、発揮される能力のほうが、人間の可能性というものを飛躍的に高め、規定している。どんなに優れた人間とて、コンピューターを使った人間よりかは演算能力は低い。同時に、そうした道具を活殺自在に操れるような教育を受けられたか否かによっても、個人の発揮できる能力の多寡は著しく増減する。どんなに足の速い人間とて、自動車には適わない。空だって飛べない。海底にだって潜れない。運動能力にしろ知能にしろ、どのような環境で学べるのかが、その者の能力の向上に大きく作用する。限定する、とそれを言い換えてもよい。特定の血筋なる遺伝子の継承は、環境に蓄えられていく文化の来歴に比べれば遥かに些事だ。べつに「私」の遺伝子が残る必要はない。それよりも重視すべきは、「私」の残した影響が、いかに環境を拡張し、維持し、発展させ、蓄積され、保持されていくのかにある(寝たきりの人であれ、そういった属性の人間が生きていられる余地――ときに工夫――を社会に与える。どんな属性を有した人間であれ、しあわせに生きてもらえるだけで、その者の影響が社会に反映され得ると言える)。赤の他人の子とて、我が子のように慈しみ、或いはほかのどんな子どもたちであっても「連綿と蓄積されていく文化の恩恵」を享受できることのほうが遥かに意義がある。人としてはむろんのこと、生命としての意義がある。極論、その意義とて、必ずしも人間が果たしていく必要もない。いずれ人類は滅亡する。そのときに残した環境への影響が、また新たに繁栄する生命へと何かしら作用し、ときにこの世界そのものに刻まれる。発展することがいずれ破滅に結びつくのであれば、こうした意義とて、果たして本当に意義があるのかは疑問だ。人間のような文化を育まずとも、細菌や動植物は死滅を繰り返し、進化しつづけている。果たして、より人間らしくあろうとすることにいかほどの意義があるのか。とはいえ、いまのところ人間以外に人間らしく生きることはできない。目指すことはできない。可能性を広げていくことはできないのだ。善悪ではない。ただ、意義のみが残る。影響だけが残る。作用を働かせた来歴のみが、この世界に刻まれ、薄れ、虚無となって引き継がれていく。遺伝子はそう遠くない未来に失われるが、環境への作用だけは、たとえ生命が滅んだとしても、この世界そのものに漂いつづける。可能性の揺らぎとして、ふたたび同様の環境が生じ得る余地を残す。人間らしくあろうとすることが、結果として、その可能性を最大化するのではないか、との期待があるが、果たしてそれもどこまで正しいのかは定かではない。人間らしい、の人間とは何なのか、によっても変わっていく話である。可能性を最大化することにどんな意味があるのかも解らないが、すくなくともいまのところ、特定の遺伝子を残そうとすることよりかは、どんな環境を残していくか、のほうを重視するほうが、より人間らしい在り方だ、と言えそうだ。遺伝子の継承よりも、個の至福を優先する。そうした環境を築き、拡張し、改善していくその循環を保持しようとする働きこそが、人間を人間足らしめるのではないか、との直感がある。もちろん、遺伝子の交配――すなわち生殖を以って至福と見做す個がいてもいいし、そうした個が増えるためにはやはり、それ以前に、個が個として豊かに、至福をより自由に追求できる環境が築かれていることが求められるのではないだろうか。定かではない(本当にそうなのかなぁ、なんか釈然としないなぁ、と首をひねりながら並べた文章ですので、真に受けないでください)
3086:【2021/07/16*夜の鳴き声】
(未推敲)
繁殖期なのか、夜な夜な猫の鳴き声がうるさい。
ナギャー、ナギャー、とお盛んである。
音は遮蔽物のない上空に逃げる傾向にあるため、アパートの二階に住んでいたこともあり、余計に響いて感じられた。昼は昼で隣の部屋の新婚夫婦の口喧嘩が煩わしい。
だいじな試験も迫っており、勉強が妨げられて怒りが募った。
猫ですら交尾しているというのに、我が身の色恋のなさはなんであろう。
ある日、ついに堪忍袋の緒が切れた。夜食に食べようとしていたカップラーメンのために沸かしていた湯を、窓のそとから眼下の闇にぶちまけた。
ひと際大きく、ナギャー、と聞こえる。
続いてなぜか子どもの名を叫ぶ女の悲鳴が、闇夜にとどろく。
3087:【2021/07/16*逃避者はモクする】
(未推敲)
仕事帰りに、夜道でパジャマ姿の女の子とすれ違った。女の子は小柄で、中学生にも、高校生にも見えた。
小走りで去っていったので、なんだろう、と気になったが、追って理由を訊きだすわけにもいかず、ふたたび歩きだす。
すると数分もしないうちに前方から、二人組の若い男が駆けてきた。こちらに目を留めると進路を塞ぎ、いまパジャマを着た女の子がきませんでしたか、と息も絶え絶えに言った。
丁寧な口調で、必死そうな表情だったこともあり、ついつい女の子の去った方向を教えてしまった。男たちは短く礼を述べ、私の指し示した方向へ駆け去った。
私は帰宅後、しばらくもやもやした。
ひょっとしたら女の子はあの男たちから逃げていたのではないか。
私の懸念は的中したらしい。
後日、私の住まう地域で女性の死体が発見された。まだ若く、バイトに出かけたきり帰らずに、(つづきはこちら:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816452221381307723)
3088:【2021/07/17*足裏マッサージ】
足の甲と裏がガチガチに固まってしまって、歩くだけでも痛くなった。打撲やねん挫をしたわけでもなさそうで、ひょっとして凝っているのでは?と思い立ち、マッサージを試みた。指圧をするにも足の裏さんが冷凍保存したササミですか、くらいに固すぎて、却っておててが凝ってしまいそうなので、折衷案としてダンベルを踏むことにした。一キロくらいの軽いダンベルがあり、両端にまるこい突起物がついているから、それを踏んでみたわけである。激痛である。乗れない。ぜんぜん乗れない。一秒も保たない。壁に手を添えて、体重を三分の一くらい減にして乗ってみたらそこそこ耐えられるけど、やっぱり痛い。こんなに痛いもんなのかな。アイタタ、アイタタタ、となりながらとりあえず三十回ふみふみした。降りてみると、たったこれだけでも足が楽になって感じられた。三回繰りかえして、お終いにしたのだが、翌日に再度試みると、きのうよりも痛くない。こころなし身体全体が膨らんで、血液が巡っている感じがする。ほんとにー?とじぶんでも疑ってしまうけれども、全身がむくんでいる感じがする。寝すぎただけでは?とも思うけれども、あーでも、そうかも。寝すぎただけかも。ただ、足の甲の痛みはとれたので、ダンベルふみふみは無駄ではありませんでした(ほんとか?)。しばらくつづけたいと思います(いいのか?)。なんとなくのノリで日々を生きている本日のいくひしさんでした。
3089:【2021/07/17*痛覚転移装置】
(未推敲)
背に腹は代えられなかった。借金で首が回らなくなり、それならしょうがないと取り立てにきた相手から紹介されたのが、治験だった。
「半年のあいだ、これを肌身離さずつけてりゃいい。使うも使わぬもおまえしだいだ」
まるで治験の依頼元と通じているかのようにその男は言った。
渡されたのは腕時計だった。いまどき流行りのメディア端末の亜種だろうか。
「本当にこれをつけているだけで借金がチャラになるんでしょうか」
「なる。そのうえ余った報酬まで払ってやる」
「そんな美味い話があるわけないですよね。教えてください、どんな危険があるんですか」
「それを知りたいからおまえに使ってもらうんだ。その腕時計にボタンがついているだろ」
「あ、側面のこれですかね」
「押すとレーザーみたいな光線がでる」
「あ、ほんとですね」赤い光線がどこまでも伸び、壁に赤い点を浮かべた。
「それを人に当てると、その相手におまえ自身の痛みを移すことができる」
「はぁ、へぇ、そんなことが」半信半疑なのが伝わってしまったのか、男は渋面を浮かべた。「使って見りゃわかる。おまえちょっと立て」
「へい」
「いまから軽く殴るからよけんな。そのあとで痛みをおれに寄越せ」
「え、でも」
不平を鳴らす前に頬を殴られた。「どうだ、痛いか」
「ほれはもう」
「なら時計のボタンを押して、おれに痛みを移せ」
「こうですか」
言われた通り、腕時計型の機器を操り、光線を男に当てた。見る間に頬の痛みが薄れていく。あべこべに男が頬を手で押さえ、もういいもういい、と手を振った。「めっちゃ痛ぇなこのやろう」
「そんなぁ」
殴ったのも、痛みを寄越せと言ったのも彼のほうだ。
「まあいい。使い方は分かったろ。半年後にまた連絡する」
男が踵を返したので、あの、と呼び止める。
「なんだ」苛立たし気な声だ。
「確認なんですが、ひょっとして期限がきたときに、ぼくの移した痛みがまるごと返ってきたりはしないですよね。そういう副作用みたいなのがあるなら知っておきたいので」
「それはない。他人に移した痛みは基本そのままだ。その機器を使わなきゃおまえに戻せない」
「ぼくに痛みを戻したりは」
「しねぇよ。だいたい、同じ相手ばっかに移す気か。四方八方、老若男女に使われたんじゃ、その全員を集めなきゃなんねぇだろ。そんな七面倒なことはしない。あくまでおまえがそれをどう使うのかを見たいだけだ」
「監視するということですか」
「いや」男は面倒そうに頭を掻きむしった。「記録に残るんだ。痛みの数値と、使用回数だな」
「ぼくに損はないと?」
「何を損と見るかだ。それを使えば痛みを他人に移せる。使うも使わぬもおまえしだい。強制はしない。半年後に回収し、借金をさっぴぃて残った報酬を支払う。おれがするのはそれだけだ」
「わかりました。こんなチャンスをくださってありがとうございます」
「まったくだ」
男は店をでていった。
喫茶店だというのにほかに客はなく、店員も男がでていくまで現れなかった。そういう場所なのだ、とぼくは見抜く。巨大な権力のなせる業だ。
ぼくはその日から腕時計型痛覚転移装置を身に着けてすごした。
痛覚転移装置を使用したのは、男から説明を受けたあと、治験開始から三日後だった。本当ならずっと使わずに終えようと思っていたのに、誤って釘で太ももを傷つけてしまった。
バイトに遅れると思って近道をしようと思ったのが裏目にでた。柵の支柱から飛び出ていた古い釘に足を引っかけ、(つづきはこちら:
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816452221410025361)
3090:【2021/07/18*青空の妖精】
飛蚊症と言えば、だいたいのひとには通じるはずだ。視界のなかに半透明のひも状の像が映り込み、目で追おうとすると、するすると逃げるあれである。反発する磁石のように逃げるので、おもしろい。ところが、ブルーフィールド内視現象と言うと、これはたぶんほとんどのひとには通じない(現時点ではまだ知名度が低い)。光の粒みたいなものが視界に無数に蠢いて見えるのだ。天気のよい日に原っぱなどにいくと高確率で視えた。いまでも視える。そういうことを言っても、飛蚊症でしょ、とか、どうせまた嘘でしょ、とか、そういうことを言われてきたけれども、個人的には、毛細血管内の赤血球や白血球が視えているのではないか、と疑っていた。実際に、光の粒はそれぞれに通り道があり、同じ場所を通って視えるからだ。十何年も経ってから、それらがブルーフィールド内視現象と呼ばれていることを知った。というかきょう知った。やっぱりあるんじゃん、と思った。そして睨んでいた通り、毛細血管内の白血球が影となって視えているそうだ。本当かは知らないが、理屈としては妥当に思える。むかしからこういうことが多かった。言っても信じてもらえない。あるのかどうかを簡単には証明できない。でもいくひしさんにはそれが感じられるのだ。錯覚かもしれないが、錯覚を起こしている仕組みはあるはずだ。幽霊が真実におらずとも、幽霊のようなものを視たと感じることはあり得る。寄り目をすれば世界は二重に視えるが、だからといって真実に世界が二重になっているわけではない。人間の主観は信用ならない。だからといって、二重に視えていることそのものを否定する論拠にはならない。単純な理屈のはずだが、なかなか共有されにくい。他人の言説を無闇に無下にしないほうが好ましいように述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください(ブルーフィールド内視現象は原理的に誰にでも視えるらしい。気づいているか否かの違いと言えよう)
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参照:いくひ誌。【2671~2680】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054895249835