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いくひ誌。【3071~3080】

※日々、因果応報したくなる、本当は受け流すのが利口なのに。


3071:【2021/07/10*未熟が熟すと何になる?】
下手なことがよくないことだと思っているひともいるかもしれないけれど、下手なことは楽しいの種だよ。下手なことほど楽しむ余地があるし、可能性に満ち満ちているよ。未熟であることは宝だよ。研ぎ澄まされた刃のような上手なる極致も得難いけれども、型持たぬ不定の揺らぎも大事だよ。何かを試さないことには、下手も未熟も見つからないから、下手で未熟なのはそれだけで大樹の種となり得るよ。枝葉豊かな未来の大樹の種たるよ。(下手が上手になることもある。成長するという意味ではなく、観測者の価値観が変わるだけで、下手を基準にすれば、上手もまた下手なのだ。果たして表現に完成形なんてものがあるのかな。下手だし未熟なので、そんなことすらよくは分からないのだ)


3072:【2021/07/10*ないものはない】
何回でも言うけれども、いくひしさんは才能が端からないので、枯渇することがない。ないもはないので、なくなることもない。常に枯渇しているし衰えつづけているので、このままその変化を楽しむだけだ。成長は努力なしには成し得ないけれど、衰えるだけなら何もせずともかってに得られる。その日その時にしか並べることのできない偶然の配列を写し取るだけだし、その日その時にしか表れない変化を掴み取るだけだ。すでにこの世にある上手なるものと比べて、下手だなぁ、と自作を振り返って思うことはつねだけれども、下手だなぁ、と思ったからといってそれがやめる理由にはならないし、なりようがない。下手でも楽しいならすればいいし、つづけたらいい。飽きたらやめればいい。そしてまたしたくなったらすればいい。単純な話だ。なぜならこれは趣味なので。趣を味わい、変化を楽しむ、それが粋というものであり、生きるということではあるまいか(粋と生きをかけてみたかっただけ)。


3073:【2021/07/10*なんでー】
目に情景が浮かぶような、映画を観ているような、じっさいにじぶんが体験しているような、文章を読んでいることを忘れるような物語を、紋様を刻むように、文字を置いてくる感じでつむぎたいのに、ぜんぜんそれとはかけ離れた文字の並びになるのは、どないしてなの?


3074:【2021/07/10*ゴミの墓場】
 小学生のころの記憶だ。本当にあったことなのかはいまになっては定かではなく、確かめようもない。
 当時私は低所得者の住まう県営住宅にて暮らしており、遊ぶ同年代の子たちもみなそこの住人だった。
 近場には山があり、谷にはよく粗大ごみが沢となって捨てられていた。ゴミの墓場だ。そこが私たちの遊び場だった。
 夏には肝試しが開かれた。ゴミの墓場で体験した誰のものともつかない怪談がいくつも囁かれた。
 なかでも多かったのは、ゴミが魂を持ってかってに動き回るといった系譜の怪談だった。人形のようなものがじっと見つめているとか、足首を掴まれてゴミの山に引きずり込まれるなんて話も聞いた。
 私はその年、幾人かの同年代の友人たちと肝試しに向かった。名前の知らない者も交っていたし、顔だけ知っている者もすくなくなかった。十人はいたように記憶している。年齢は一から三歳ほどのばらつきがあり、私は真ん中の年代として、年下の世話をしぜんと押しつけられた。
 ゴミの墓場に明かりはなく、木々の隙間から差しこむ月光のみが闇の中に人工物の陰影を浮かべていた。
 肝試しのルールは単純だ。
 谷のうえに立ち、一人ずつゴミの墓場へと下りる。各々、ゴミの墓場から何かしらのゴミを持ち帰ってくる。それだけだ。
 最初はお手本を兼ねて年長者の少年が鬱蒼と群れた草を掻き分け、闇のなかに姿を消した。五分ほどで少年は戻ってきた。手には剣に見立てるのに手ごろなパイプが握られていた。
 私の目にはそれが秘宝に見えた。恐怖心が薄まるのを感じた。
 私たちはつぎつぎにゴミの墓場へと降り立った。みな、まえを行く者と距離を開けぬようにと列をなした。むろんそれは怖いからだが、単純に谷のうえに取り残されることのほうを避けたかったのだろう。
 年長の少年だけはその場に残ったようだが、ひょっとしたらいっしょになってもういちどゴミの墓場に下りたのかもしれない。
 ゴミの墓場は度重なる不法投棄により、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816452221200824944


3075:【2021/07/11*だーらんぺれん】
とくにこれといっていまは日々のノルマとか目標を決めていないのだけれど、なんだかんだ毎日ショートショートをつくらなあかんよ、みたいな圧をほかのいくひしさんたちから感じるので、そんなん知らんわぁ、の気持ちでサボるようにしちゃう。この日誌もどきもなんで毎日のように並べて揃えて晒してやんよ、みたいな感じで掲載しているのかもわからんので、並べることない日はなんも並べないようにしちゃう。と思うけど、そうしたら一日も並べなくなっちゃいそうだから、なぜってだって並べることがある日なんかないからで、ここにあるのは本当にびっくりしちゃうくらいに中身のない並べても並べんくともどっちもでいいですよー、のつくつくてんてんなんですね。積み木遊びや判子遊びと同じなのだ。とにかくまずはつくりかけのが一週間に一つずつ増えていくみたいな、一作つむいで三作溜まるみたいな感じなので、なんとかせんといかん、というか、なんとかしたいなぁ、全部つくっちゃいたいなぁ、時間も手足も脳みちょも足りんし、いちばんはやる気というか体力というか知識もだし好奇心もだし、もうもう色々な能力がカツカツのピンピンなのだね。カツカツのピンピンってなぁに? 勢いで並べているだけなのでいちいち気にしないでください。いくひしさんのオノマトペは、ほへほへのだーらんぺれん、なので、本当に本当に、ほへほへのだーらんぺれん、なので、気にしたら負けです。わっちゃか、わっちゃか、もへもへです。すごい見て。いっぱいサボっちゃうってことと、能力不足でだーらんぺれんってだけでもうこんなに文字の判子が並んでしまった。積み木ならちょっとしたお家くらいはつくれる。ドミノにしたら、三回は止まっちゃうくらいの長さはありそう。きょうはとくにオチはないです。いつもないけど、きょうは、と言ってみました。見栄っぱりなのです。さいきんすぐに眠たくなっちゃうので、あんまり無理せず、しばらくのあいだは、つるつるできることだけするようにします。さいきん、とか並べちゃったけど、これもいつもです。寝ます。おやすみなさい。


3076:【2021/07/11*ざっくばらんにわがまま】
好きな表現を生みだしてくれるひとたちが苦しんでいたり、困っていたり、悩んでいたりしていても、何もできないし、何かしらできるようになろうと努力するわけでもないのだけれど、かといっていまのままがいいとは思わなくて、何もできないのだけれど、非力だし、無力なのだけれども、どうにか好きな表現を生みだしてくれるひとたちには、そのひとにとっての好ましい日々を送ってほしいとの思いは、つねに、いつでも、心のどこかしらにはあるのだよね。祈りというほど投げやりではなく、望みというほど意欲的でもなく、それでいて絶対そうあってほしい、そうあることこそがじぶんにとって好ましい環境だとのわがままにちかい直感を抱きながら。何がというわけではないにしろ、よくなるといいな、とわがままに思っています。(わたしはなにもしないけれどかってによくなるといいね、という中身のスカスカで、角度によってはトゲトゲしていることを、当たり障りなく言い換えるだけで、なんだか立派に聞こえるから、言葉って本当に信用ならないな)(正直に言えばいいってもんじゃないし、嘘を言えばいいってもんでもない)(言うだけ、書くだけなら簡単なのだよね)


3077:【2021/07/11*届けこの想い】
 ポストのなかに手紙が入っていた。消印はなく、封筒も使われていない。
 折り紙に拙い文字で、愛の告白じみたことが書かれている。ミミズの這ったような筆致だ。
 わたしは文面を黙読した。だいすきです、大きくなったらぼくのおよめさんになってください。微笑ましい内容だ。
 差出人の名はない。四つ折りにした折り紙をただポストに投じただけの素朴な恋文だった。おそらく家を間違えたのだろう。まさか本当にわたしへの恋文だとは思わない。
 手紙の扱いにしばし悩んだが、差出人のほうでも家を間違えたことには遠からず気づくだろうと思い、見て見ぬふりをした。
 しかし三日後、また同じように折り紙の手紙が入っていた。こんどは、近所の公園の名前と、そこで待っています、といった旨が短い言葉で綴られている。筆致は前のものと同じだ。
 時刻は夕暮れに差し掛かっている。ひょっとして待っているのだろうか。子どもが首を長くし、いまかいまかと想い人を待ちわびている姿を想像すると胸が詰まった。かといってわたしが行ったところでしょうがない。そもそもいまから行っても遅いだろう。
 近所の公園は、ちいさな神社と繋がっている。年中薄暗い場所で、子どもはおろかおとなですら利用しない。いつまえを通っても無人で、神木のような古い樹が、敷地のなかにいくつも生えている。柳のように葉を垂らしている姿はうつくしいが、さわさわと無人の空間で延々と揺れつづける様子は、巨大な生き物をまえにしたときのような圧迫感を覚え、やはり近寄りがたかった。
 やめておこう。
 想い人が現れなかった程度のことで諦める恋ならその程度の想いだったのだ。そもそも大事なラブレターを間違っても赤の他人に渡すべきではない。
 間違いを指摘しにいまから公園に向かうこともできたが、見知らぬ手紙の差出人のために費やす労力としては見合わないと判断した。
 どの道相手は子どもだろう。
 初恋は叶わないと相場は決まっている。早めに傷心を負っておけば傷は浅くて済む。幼少期のそうした経験は却って心をつよくする。自己弁護の論理を見繕い、わたしはこの日も見て見ぬふりをした。
 この日を境に手紙は毎日のごとく届くようになった。差出人の名前はおろか、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816452221319774785


3078:【2021/07/12*ぐにゅり】
創作や表現を好きでしているし、楽しいからしているけれど、それはけっして、ひゃっふー、みたいな感じの楽しさではなく、どちらかと言うとロッククライミングとか綱渡りとか、もっと言えば単なる登山みたいな感じにちかい。どれもほとんどしたことはないが、きっとそんな感じなのだろうな、といった感応がある。ただし、達成感とは違うのだ。否、達成感もあるにはあるが、それを得たいからしているわけではない。もっとこう、なんだ、中心からずれたところでもたらされる予期せぬ収穫みたいなのがあるわけで、それを得たいがためにするような、どこか棚から牡丹餅を期待するようなところがある。たとえば創作や表現では、それをする以前に、何かしらのビジョンがあって、理想があって、それを出力するために、様々な技巧や工夫を総動員してそれらを実現するわけであるが、ではそのビジョンや理想を具現化することが目的なのか、と問われると、必ずしもそうではない。それらを実現させようとするときに生じる予期せぬ収穫があるのだ。たとえばそれは、スライムの核を掴もうとしたときに、ぐにゅりと指の合間からはみでる余分そのものであり、その余分こそがじつは最も得難い報酬だったりする。もちろん本来は、核を得ることのほうが成果であるし、目的なのだけれども、いざ掴んでしまうと、そうでない余分なもの、掴もうとしたことで身に着けた様々な雑念や失敗の来歴、網の目に張り巡らされた工夫の筋道など、そうした余白の蓄えそのものが、楽しいの源泉であったりする。それはたとえば、登山は山頂に辿り着くためにするが、山頂に辿り着かずとも得られるものはある。途中で引き返したとて、それまでに費やした準備や、目にした風景、嗅いだ空気、一瞬たりとも同じでない足場の感触や、どういったルートで道を辿るのかといった思考の軌跡そのものが、登山の醍醐味と言える。これは登山に限らず、あらゆる行動に言えることである。創作や表現にも言えることだ。創作の結果に生じた成果物も得難いが、それがすべてではない。表現した作品も得難いが、それを得られるからつづけるわけでもない。うまく言えないが、達成感ではないのだ。それはそれで得られたらうれしいが、それよりもずっと原動力となるエネルギィそのものが、創作や表現からは得られる。それは、それを得た者にしか分からない。形にできない。表現できない。そうした不可視の余白が築かれるのである。ときにそれは回路としても機能し、再現性のない再現性を顕現させる基盤ともなり得る。定かではない。


3079:【2021/07/12*そんなの頼んでない】
(未推敲)
 友人から相談を受けた。なんでも恋人がストーカーにつきまとわれているという。しかし恋人がいたとは初耳で、打ち明けられたことに驚いた。
「言ってなかったっけ?」
「聞いてないよ」
「付き合いはじめてかれこれ半年になる」
「めっちゃ長いじゃん。なんで言ってくれなかったの」
「言うまでもないかなって。だってべつに、ねぇ」
「ねぇってなに。小学校からの腐れ縁なのにいまさら隠し事はなしじゃんよ」
「隠してたわけじゃないって。恋人がいようがいなかろうが、あたしらの関係は変わらんじゃん」
「そりゃそうだけど」溜め息を吐き、で、と相談とやらを聞くことにする。「ストーカーされてるって、どういうこと。恋人って男の人なわけでしょ。女の子に寝取られそうってそういうこと?」
 暗に嫉妬深いだけちゃうの、と指摘したが、友人はそこで、ちゃうちゃう、と手を振った。コーラをストローで吸い、「女の子なんよ相手のコ」と言った。
「男のひとのストーカーなんだからそうでしょうよ」何がちゃうのよ、と大袈裟に顔をしかめてみせる。
「付き合ってるコが女の子ってことで、まあ、つまりそういうことなんですな」
「おどけて煙に巻こうとすな」友人の性的指向が同性愛ぎみだったことには気づいていた。おそらくはどちらでもよいのだろう。好きになった相手をすなおに好きになることのできる人間なのである。「よく分からんからまとめちゃうけど、いまあなたは同性の女の子と付き合っていて、そのコがストーカーにつきまとわれていて困っていると」
「そうそう」
「ふつうに警察に言ったらいいんじゃないの」
「実害がないんだよね。だから言っても動いてくれない」
「実害ないってじゃあなんでストーカーがいるって分かるのさ」
「そりゃあ愛しい人のことだもの。ずっと見てたらわかるでしょ」
 何の気ないセリフだが、わたしはそこに友人の狂気を垣間見た気がした。
「勘違いじゃないの」
「いや、絶対あれはストーカーに怯えてるやつだった」
「そうじゃなくて」
 友人がきょとんとしたので、言ってしまってよいものか、と心苦しくなる。わたしは意を決して言った。
「本当にそのコ、あなたの恋人なの」
 友人とはそこからいくつかの言葉の応酬をして、最後は友人のほうが不機嫌になった。わたしを店に残して友人は帰ってしまう。怒らせるつもりはなかった。否、そうなるかもしれないと予期はできたが、言わずにはおられなかった。
 友人が怒るのも無理はない。
 わたしは友人に、わたしの憶測を話して聞かせたのだ。あなたはそのコと付き合ってはおらず、あなたこそストーカーなんじゃないの、と。
 付き合っている気になっているだけで、あなたの存在がそのコを怯えさせているのではないの、とわたしはあり得なくはない推量を、申し訳なさを醸しつつ、真剣に心配しているのだと伝わるような声音で投げかけた。それを、揺さぶりをかけた、と言い換えてもよい。
 友人は最初こそ鼻で笑って聞き流したが、わたしが証拠はあるのか、と問うと、いまはないけど、と表情を曇らせ、そんな言い方しなくてもいいじゃんか、と怒気を孕んだ物言いをした。友人は恋人の画像も持っていなかったのだ。或いは、人に見せられないような画像しかなかったのかもしれない。
 けっきょく友人は、おまえに相談したのがバカだった、と吐き捨てて、どこか傷ついた面持ちで去っていった。
 窓のそとの雑踏に、肩をいからせた背中を見つける。その背に揺れる長髪が視界から消えるまでわたしは彼女の姿を目で追った。
 胸が痛む。
 しかしこれはわたしにとっても、友人にとって必要な傷だった。冷や水をかけてでも目を覚まさせておく必要があった。長年彼女のそばにいたわたしのそれが役目であり、使命である。
 彼女が取り返しのつかない真似をしでかしてしまう前に、止めなくてはならない。
 それが彼女の友であるわたしがかけてあげられるなけなしの誠意だ。
 わたしはメディア端末を取りだし、地図を起動する。市販の追跡アプリだ。ボタン状のちいさな発信機を忍ばせるだけで、任意の対象の居場所を割りだせる。
 友人をたぶらかす悪魔の現在地を把握し、わたしは席を立つ。
 友人にはもっとふさわしい相手がいる。あんな下品な女は似つかわしくない。
 わたしが認める相手でなければダメだ。友人を堕落させるような相手はすこしくらい痛い目に遭ったほうがよい。
 せめてわたしより友人のことを理解している相手であればよかったものの、そうでなければうまくいくわけがない。身の程を弁えず、我が友を誘惑するような野良猫には、相応の罰がいる。痛みがいる。教育が必要だ。
 学ばせなければならない。
 わたしのたいせつなひとを毒で侵すような相手には、恐怖では足りない。痛みを、つらみを、苦しみを以って、償わせなければならない。
 わたしから友人を奪った罪は、死を以ってしても贖いきれぬが、心優しい友に免じて、そこまではしない。
 人として。
 店のそとにでる。
 ビルの合間に夕日がかかっており、わたしは友人の悲痛そうな顔を思いだし、待っててね、と誓う。
 いま、助けてあげるから。


3080:【2021/07/13*あーん】
高校生くらいのときからたびたび定期的に妄想するのが、そのときどきの今を起点にして、十年後、二十年後、三十年後……の全盛期のじぶんを目のまえにしたときに、なんだこんなもんか、と思ってしまうのかどうか、ということで、おそらくはそう思ってしまうのだろう、というのをずっと繰り返している。これは逆にも言えることで、いまのじぶんのままで過去のそのときどきのじぶんに会ったとして、どう思ってもらえるかというと、まあまあふつうに、なんだそんなもんか、と思われるだろうな、というのを毎回のように思うのである。ただ、それはけしてわるいことではないとも思っている。未来のじぶんを見て、なんだこんなもんか、と思えたならきっとそのじぶんにはならないように現在の在り方を工夫するだろうし、過去のじぶんに、なんだこんなもんか、と思われたらきっとその過去のじぶんはいまのじぶんとは違った未来を辿るだろうと、そう思うのだ。ただ、全盛期のじぶんに会う、とは言うものの、なんの全盛期にかによってその年齢は変わっていくだろうから一概に言えないし、なんだこんなもんか、と思うような未来のじぶんがひょっとしたら、見えない部分で、とんでもない資質を開花させているかもしれない。これはじぶんにだけではなく、他者にも言えることだ。なんだこんなものか、と思ったなら、じぶんが変わる機会だと思って、どんどん変化していけばいいし、なんだこんなものか、と他人に思われても、そのひとに変わる機会を与えたと思って、そのままでいたらいい。或いは、なんだこんなものか、と思われたところで、見えない部分では相手を凌駕しているかもしれないし、あべこべに、なんだこんなものか、と思うような相手が、じぶんよりも優れていることも往々にしてあるものだ。けっきょくのところ、他者と比較することの意味は、じぶんの在り様をたしかめる以上のものではなく、それによって優劣が決まるわけでもない。もし決まるのだとしても、それは極々短期間のうちの極々一部の能力についてであり、そんなことに拘って、変化の機会――無数の選択肢――或いは可能性そのものを狭めるくらいならば、比較なんかしないほうがよい。もちろん拘らずにいられるのであれば、いろいろな人やモノと比較して、じぶんの足場をより精度高く見据え、どの方向にどのように進めば、理想のじぶんにちかづけるかを修正する習慣は、できればあったほうが好ましいが、あくまでそれはできるだけ失敗しないで済む道を見繕いたい、という効率化という名の怠慢でもあり、けっきょくのところそれもまた選択肢を狭め、可能性を限定する行為であることには留意しておいたほうがよいかもしれない。何が言いたかったかと言えば、過去や未来のじぶんにさえ胸を張って会うことのできないいまのじぶんが、ふがいなくて、情けなくて、へにょへにょになってしまうなぁ、という愚痴なのでした。(こんなはずじゃなかったんだけどなぁ、と思いつつも、まあこんなもんだろ、と思いもし、あーあ、とくよくよしたからといってこれといって奮起するわけでもなく、芝生のうえに大の字になって雲の流れをただ漫然と眺める日々を送れたら、それはそれでまあまあよろしいのでは、と思ってしまうくらいには、一貫して、自堕落街道を極めているのだよね。このままずっと苦労知らずで生きていけたらよいなぁ)


______
参照:いくひ誌。【2231~2240】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054890967891

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