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いくひ誌。【3291~3300】

※日々、時間軸がごちゃごちゃ、未来も過去も現在を限定する枠組みであり、現在も未来も過去を蓄積する媒体であり、過去も現在も未来を構築する無数の波紋の干渉である。


3291:【2021/11/08*そんなんだからでは?】
いくひしさんの性格のわるさは筋金入りである。あまりの筋金の入りようゆえ、包丁の代わりにもなるし、ダイヤモンドとて切断できる。この性格のわるさは並大抵のものではなく、ゆえにもちろんみなには性格が鬼のごとくわるいとは思わせない程度に、そこはかとなく性格がわるいなと思わせている。また、どれほど性格がわるいのかが詳らかにならぬ程度に偽装を施しつつ、性格のわるさを発揮してもいる。いくひしさんが本気を出せば全人類を魅了し、ウハウハのモテモテだぜ、を実現するなどお茶の子さいさいなのであるが、そんなことになったら七面倒くさいので、なぜってだっていくひしさんの身体は一つしかないので、全人類を相手に暴虐の限りを尽くすのには少々骨が折れるし、なるべくそうならないように大多数の者たちからは無視され、そこそこの者たちからは忌み嫌われ、極々少数の扱いやすい者たちからのみ好かれるように、敢えて鬼をも手懐けるアハンウフンの魅力を振りまかぬように、手を抜いてやっているのである。感謝するがよいでござる。(意訳:クッソなんでモテねぇんだ)


3292:【2021/11/09*雲のように風のごとく】
なんかいずれ誤解されそうなので明記しておきますね。いくひしさんはこそこそするほうが好きですが、それがかっこいいとか、上等だとか、世の中の正解だ、なんてことはこれっぽっちも思っておりません。どんなによいものでも人目につかなければ存在を認知はされません。そんなのは未だに新種の生物が発見されることを思えば何のふしぎもないことです。どんなノーベル賞級の研究成果とて、やはり発見されなければそれは未だに誰も知り得ず、たとえ発見されたところで、発見しましたよー、とみなに知らしめなければ(つまりしかるべき手法で発表しなければ)、人々の認知の外をたゆたう白雲となんら変わりない忘却すらされない自然現象にしかならないわけであります(或いは、ほかのひとが同じようなことを発見し、発表すれば、いずれはみなが知ることにはなるのかもしれませんが)。それがよいのかわるいのか、は何を基準にするのかによります。存在するものは存在しますから、大勢からの認知がなければ存在しなくなる、という類のものではありません。新種の生物は(小石でもいいですが)人類に発見される以前から存在しますし、発見されたからといって瞬時にどうなることもありません(中長期的には、発見されたことで乱獲されて滅んでしまうこともあれば、あべこべに保護されて繁栄することもあるでしょう)。いずれにせよ、人々への影響力を得たいのならば、広報(意思表示)をするのが合理的な判断と言えるでしょう。影響力を得たくないのならば、こそこそすればよいですし、固有のずばりここ、という影響力が欲しいのならば、然るべき人たちに届きやすい手法で、広報活動をしていくのが好ましいのではないでしょうか。宣伝も広報も発表も意思表示も、それをすること自体はわるいことではありません(かといって必ずしもよいこととも限りませんが)。宣伝も広報も発表も意思表示も、やり方次第で効果を発揮しますし、やり方が拙ければ効果はそれなりにしか得られないでしょう。ただし、どんな宣伝であれ広報であれ発表であれ意思表示であれ、それは他者への干渉となります。想定外の影響力を帯びてしまう懸念は常につきまといます。できるだけ想定外を失くすためにも、或る程度のこそこそする技術は磨いておいて損はないように個人的には思えますが、これもまたいつものように定かではありませんので、真に受けないように注意してください。本日の新作報告:おととい掌編を更新しました。「割引券(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427320560968)」


3293:【2021/11/10*わがはい、物申さずにはいられない病かも】
何も並べることがないのが常なので、無理やりにでも話題を探そうとすると、いかに世に物申せるか、みたいな批評的な姿勢で世界に目を向けてしまう。それが好ましく作用するときもあるが、たいがいは、バイアスというか、物申すぞ、と意気込んで視野を一点にしぼってしまうので、それが習慣づいてしまうと、少々困った癖がついてしまいそうだな、との予感を抱いている。だが自覚できてもなかなかこの習性からは逃れがたい。ではあべこべに称賛の視点で世を眺めて、何事にも利点がないだろうかと探ればいいのか、と言えば、これもまた好ましく作用するときもあれば審美眼を曇らせる要因にもなってしまう。なぜなら利点と美点は必ずしも一致しないためだ。批判するに値する欠点が、しかし美点にもなり得ることがある。ゆえになんでもかでも長所ばかりに目を向けようとする姿勢もまた目を曇らせると言えそうだ。ではどうすればよいのか。やはりというべきか、そのときどきで使い分けるしかないのだろう。もうすこし欲を張れば、利点と欠点と美点のそれぞれを重複して、幾重にも角度を変えながら、重ねる順番を変えながら、同時に比較しながら、これぞ、という紋様の見えるような焦点にしぼれるようになれると好ましいのではないか。牛を見て何を思うのかが人によって、日によって、そのときどきの気分によって変わり得るように、何を観測対象にするにしても、利点と欠点と美点の折り重なった複眼で、じぶんなりに好ましい紋様がどのようなものかをそのつど取捨選択しながら、その選別作業そのものを新しい焦点を見繕うための成分としつつ、そのときどきの思索の枠組みを規定できたなら、おそらく話題は事欠かないのではないか、と妄想するしだいである。この場合、話題が事欠かないだけでなく、これらの習性によって、著しく偏った癖がつかない効能も得られるのではないか、と期待できるが、期待は裏切られるのが常であるので、あまり期待せずにいたほうがよいのかもしれない。定かではない。(何かを言ったようで、何も言っていない、中身のない文章の見本です。どうぞお手本にしてください)本日の新作報告:きのう掌編を更新しました。「アパートの管理人(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427320580866)」


3294:【2021/11/11*フォロワー数】
いくひしさんもSNSを利用しております。現時点でのフォロワー数を記録しておこうと思います。まずはtwitterさんからです。twitterさんではアカウントが複数あります。そのうち郁菱万関連のアカウントは二つです。2018年~2021年現在までおおよそ三年のあいだ毎日のように利用しておりますが、現在一つは10フォロワーで、もう一つが23フォロワーです。いっぱいではないですが、いくひしさんにとっては多すぎるくらいです。孤独が好きと言えなくなってしまいそうなくらいの、なかなかな人数ではないでしょうか。それから小説を載せているカクヨムさんでは現在9名の方にフォローしていただいております。ありがとうございます。でもフォローせずとも小説やら日誌やらは読めますので、これといってフォローしていただかなくとも構いません。お好きになさってください。いくひしさんは好きにします。ひとまず記録して、きょうの分の日誌はつぎにつづきます。(あ、noteさんもSNSですね。あちらは現時点で28名の方がフォローしてくださっています。気にかけてくださってありがとうございます)


3295:【2021/11/11*嫉妬と憧れの関係】
嫉妬するのがよくないことだ、みたいな感覚のひとが意外と多いことにさいきん気づきはじめたのですが、嫉妬しないひとはいないのですから(どんな感情を嫉妬と呼ぶのか分からない、というのはあり得ますが、嫉妬は欲求の一種なので、何かを「それいいね」と評価できるひとは大なり小なり嫉妬と呼ぶに値する感情の働きを帯びていると言えるでしょう。それを自覚できるか否かは別問題です。いずれにせよ誰もが嫉妬をするものなのですから)、考えるべきはその嫉妬なる欲求の一種をどのように活用するのか、にあると言えるのではないでしょうか。以前にも並べたことのある考え方ですが、嫉妬と憧れはほとんど同じです。その対象となる人物をふだんからどのように評価しているのか、じぶんより下か上か、によって嫉妬になるか憧れになるかが決まる、と言えます。どちらもじぶんにはない長所を相手が持っていたときに、それいいね、と思うのです。その欲求に、相手への評価が加味されると、とたんに嫉妬や憧れと呼ばれる感情の波が生まれます。相手をじぶんよりも下だと評価していれば、本当ならじぶんのほうが先に手に入れていたはずだ、じぶんだって手に入れられるはずだ、と損をしたような気持ちになり、反対にじぶんより上だと評価していた相手ならば、じぶんもああなればああした長所や利を得られるのだ、と報酬系を刺激されます。出し抜かれたと思うか、展望と見做すかの違いですね。どちらも、それいいね、と思う感情から派生しています。嫉妬が分からない、というひとはたいがい、嫉妬から起こす行動が理解できない、と言っていることが多いように思えます。嫉妬は、じぶんが出し抜かれた、と感じるがために、その損を取り戻そうとします。ですから相手を貶めたり、相手から利を奪おうとします。ですが憧れであれば、じぶんを磨いたり、鍛錬したり、相手から学んだりします。この行動の違いが顕著なために、嫉妬と憧れが同じ欲求から生じている点を多くの者たちは見落としてしまっているように概観できます。いくひしさんからすればどちらも同じです。ですからいくひしさんは、嫉妬をするのが嫌いではありませんし、すぐに人に憧れます。すごいな、いいね、と思ってしまうのですが、この時点ですでにそこには、嫉妬があり、憧れがあります。なぜならある一面では、相手を下に見ており、ある一面では仰いでもいるからです。下に見るを別の言い方で表現すれば、欠点が見える、となるでしょう。この理屈からすれば、仰ぐは、長所が見える、となります。ですから嫉妬への対処方は単純で、じぶんは嫉妬している相手に憧れているのだ、と認めてしまえばよいわけです。同時に、憧れているとき、そこには嫉妬の感情があります。それを無視しているか否か、自覚できているか否かの違いがあるだけであり、ひるがえって、それいいね、の感情に衝き動かされて行動に移したときに、その対象へと干渉しない方法をとるならば、それはどうあっても他者からは嫉妬と見做されないのかもしれません。観測や解釈の仕方が異なるだけで、けっきょくのところ、それもまた嫉妬を内包していると言えるのですが(なぜならじぶんにも手に入いれられるかもしれない手が届くかもしれない、と見做す時点で、憧れの対象をじぶんと同等かそれ以下のものとして見做しているからです。お近づきになれるかも、と思ったならば、それはけしてその人を仰いではいませんよね)(かといってでは仰ぎつづけていればよいのか、と言えばいちがいにそうとは言えず、相手を神聖視することで、じぶんの未熟さの言い訳に無意識のうちで使ってしまうこともあるようです。才能や神を言い訳にして努力をしない、という行動原理はその一端と言えるでしょう。一方では、環境要因というじぶんのちからではどうしようもない明らかな差というのもあります。坂道をのぼるのに、相手は自動車でこちらは徒歩、くらいの差が、ときとして目のまえに立ちふさがります。この差をたいらにならせない場合は、言い訳の余地は多分にあると言えるでしょう)。まとめましょう。嫉妬も憧れも元を辿れば同じものなんですよ、と考えられれば、すこしは嫉妬さんのこともかわいがってあげられるようになるのではないでしょうか。定かではありません。(あくまでこういう解釈ができる、という考えの一つでしかありませんので、真に受けないように注意してください)


3296:【2021/11/12*文章と声】
文章を読むときには、その文章形態に見合った音声が頭のなかに流れます。そのため文章形態を変えたいときは、その音声からまず変えてみる、ということをいくひしさんはたびたび試みます。いっぽうで、文章形態を変えても音声が同じ、ということもあり、これはどうしてなのか、未だによく分かりません。ただ同じ文章であれ、読む時期や体調によっては、これまで聴こえていたはずの音声と違う、ということもあり、これもまたふしぎに思っています。疲れているときほど、すべて似通った音声になり、温かみも抑揚も感じられなくなります。おそらく文章ごとに音声をそれぞれ聴き分けるだけでも、けっこうな脳内リソースを使っているのではないか、と妄想できます。いちおうこの日誌でも、音声を変えながらつむいでいるつもりなのですが、いまざっと過去の日誌をぱらぱらと適当に読み返してみたのですが、それほど音声が変わらないな、という印象なので、その文章を並べていたときのじぶんが思っていたほどには、文章形態を書き分けられていなかった模様です。ただそれを踏まえたうえで、ほかの読者さんからはいくひしさんの並べた文章からはどのような音声が聴こえているのか、すこし気になるところです。もうすこし言えば、どのような人物像を幻視されているのか、と妄想の翼が、ばさばさと羽ばたくための予備動作をはじめてしまいますが、これもあと数年ほど寝かせてから読めば、そのときのいくひしさんはいまのいくひしさんとはほとんど別人でしょうから、赤の他人からの視点で、いまいちど文章から音声やら作者の人物像やらを幻視できるのではないか、と考えられます。いまから楽しみです。以上、本日の「いくひ誌。」でした。


3297:【2021/11/13*幼稚でごめんなさい】
幼稚な人間でも歳はとれるし、黙っていても歳下は増えていく。特定の芸ごとや学問や仕事を長くつづけていればそれだけ知識や体験が蓄えられるので、才能のある若手よりも、それなりに高度な技術を体得することも可能だろう。そこにきて、若い世代のほうは、ただ先達であるというだけで、幼稚な人間にも礼儀を尽くしてくれる。そうした態度が幼稚な人間の幼稚さをさらに熟成させてしまうのだが、このところ本当に切実に思うのが、若い世代はどうかそういう先達から上手に距離を置く技術を磨いてほしいということで、これはそう望んでしまう我々上の世代の責任でしかなく、申し訳ない限りなのだが、もうもうどうか見限って、じぶんたちの理想を追い求めてほしいと思うのだ。ただし幼稚な人間は、距離を置いた若手に不満を募らせるし、その苛立ちからかますます横暴さに磨きをかけるので、手に負えないな、と思う。もちろんいくひしさんもそうした幼稚な人間の筆頭であるが、なるべく害のない反面教師でありたいとは思っているのだ。いくひしさんのような幼稚な人間同士で、互いに注意しあえればよいのだが、幼稚な人間は、なぜか同属からたしなめられることを極端に嫌うのでそれもむつかしい。火に油をそそぐようなものなのだ。なぜなら幼稚な人間は、だいたい同じような力量でしかない相手を格下と見做しているので、ムシケラから暴言を吐かれた、とばかりに全身からトゲトゲを生やすのだ。赤ちゃんみたいに、よちよちしてあげなければ話もまっとうに交わせない。勘弁してほしい。さいわいなことに若い世代は我々の世代よりも視野の広い子が多い。ただそれだけが救いである(素直でいい子すぎるのがすこし心配だが)。たいへん申し訳ないな、と思うことが日に日に多くなっていく。三つ子の魂百までではないが、人の中身はそうそう変わるものではないようだ、と痛感するきょうこのごろである。小説と出会えていなかったらいまごろこうなっていたのかな、とじぶんの分身のような相手をまえにして、すこしばかりせつなくなってしまったいくひしさんなのであった(相手からすれば、いくひしさんには言われたくないだろうし、いくひしさんのような人から憐れまれるなんて屈辱にしか映らないのだろうけれど)。(人を憐れむなんてずいぶん偉くなったものですね)(偉くはなってないよ。でも歳はとったよ。周りの人間も同じようにね)(身体は黙っていても成長するけれど、人はただ生きているだけでは変われないのだ)(ともすれば、人にすらなれぬままなのかもしれない)(いくひしさんは人になりたいよ。人に、なってみたいです)(愚痴っぽくなってしまいました。すみません)


3298:【2021/11/13*あははー】
きょう久々に大昔に消えたはずの人格に身体の主導権とられてびっくりした。ぺらぺらとずっとしゃべりつづけてて、おまえはどこの三歳児だ、みたいな感じだったな。あははー、あははー、とちびまるこちゃんの山田みたいになってた。いくひしさんの奥底のずっとずっと彼方に近い真ん中のほうには、ぺらぺらといちどしゃべりだすと止まらない、うわーいうわーいなんかわからんけどあははー、みたいなキャラがおる。三歳までいくひしさんはほとんどしゃべらない子だったらしいのだが、三歳を超えてから急におしゃべりになったんだよ、と大昔のいくひしさんを知るひとがいつか言っていたのを憶えている。いくひしさんはいま百八十歳なので、体感三百歳くらいだけれども、二周回ってまた赤ちゃんになってしまったのかもしれない。知ってた。いくひしさんが赤ちゃんなのは知ってたよ。それでも三年分の齢(弱い)を重ねて、あははーあははー、のいくひしさんが表面にまで浮上してこられるまでに浮力を高めてしまったのかもしれない。ずっと沈んでいてほしいものの、最もいくひしさんの支配力をものともしない自由奔放にして最悪のいくひしさんなので、せめて無邪気にただ、あははーあははー、としててほしい。それいいね、いいね、すごいすごい、とただはしゃいでいてほしい。変な知恵をつけずにあるがままをそのままに、ただ好きと楽しいだけを、あははー、に載せていてくださると、その他大勢のいくひしさんはうれしく思います。


3299:【2021/11/14*かわいい漬け】
かっこいいものはかっこいいのだが、かっこいいだけに目を向けていると疲れる。たほう、かわいいものはかわいく、かわいいだけに目を向けていても疲れない。これはすごいことだと思います。依存の底がないんですね。いくらでもかわいいかわいいしてられる。麻痺しない。むしろ脳みそがとろけすぎて、ますますかわいいかわいい、になる。でもかわいいものは弱い傾向にあるので、たとえば子猫とか赤ちゃんとか、お世話をするぞ、となるととたんに、かわいくない、になる。たいへん。なんでそんなことするの、の嵐に見舞われる。かわいいは、基本的には無責任なのだ。ノータッチでいられる距離にいるときに抱けるいっときの、かわいいにすぎないのである。安らぎみたいなものだ。危険から遠ざかるいっときに空く一瞬の息継ぎであり、癒しがそうであるように安らぎも、かわいいも、束の間の、ふぅ、なのかもしれない。かわいい、癒し、安らぎ、の順で、ふぅの継続時間が長くなる。維持できる。かわいいは一瞬ゆえに強烈で、癒しは長くなる分、希釈されており、安らぎは、凪のごとくうっすらと炭火のほんわかさながらに包みこんでくれるが、些細な横やりですぐに破れてしまうシャボン玉みたいな性質がある。ゆえにかわいいを連続して、ダダダダーと浴びると、点が線になりやがては面に、立体になるように、どこまでも凝縮して、かわいいの嵐に身を委ね、骨の髄まで漬物になれるのだ。かわいいの漬物である。かっこいいはなぜか疲れるな、と思いながら、かわいいに吸い寄せられる日々である。かわいいは麻薬である。魔法のオクスリである。用法容量を守って正しく浸かりましょう。(きょうはいつにもましてあんぽんたんですね)(いつでもあんぽんたんみたいにゆうな)


3300:【2021/11/15*才能がなくてごめんなさい】
才能がない、と悩む人は、じつは才能がないことに悩んでいるわけではないのである。なぜなら才能がないなんてそんなのは当然のことで、才能がある人なんて本当はどこにもいないからだ。才能がある、という状態は幻想なのである。ただし、才能があるように見えることはある。この理屈を知っていれば、才能がないよぉ、と嘆きつつ、まあしゃあないな、と開き直ることが可能だ。なぜ才能がある、という状態が幻想かと言うと、まずはあなたにとって、才能がある、と思う人を思い浮かべて欲しい。その人は果たして世界一でしょうか。世界一でなければ、その才能のある人以上に才能のある人がいるということになりますね。すこし極端な考え方をしますが、世界一の人を基準にしてしまえばそれ以外の者はみな才能がないことになります(もちろんそんなことはないわけですが、まずはここを前提にして話を進めます)。ではその世界一の人は果たして人類史上、過去未来を含めて一番なのでしょうか。そんなことはないはずです。世界一とはいえ、毎年のように世界大会が開かれるならばその都度世界一が決まります。ではその歴代世界一や未来における世界一の人たちと比べて、あなたの思い浮かべた世界一の人は、ずば抜けて一番でしょうか。そんなことはないはずです。上にはつねに上がいます。例外はありません。言い換えるならば、どんなに才能があるように見える人にもそれを凌駕する能力を発揮する個が存在します。例外的存在であれどつねにその者にとっての例外的存在もまた存在するのです。ちょっとややこしい言い方ですかね。いろいろな個性があったほうがいい、という多様性の重要性とはまさにここにも繋がっており、たったひとつの究極を目指すような分野は、人々が思うほどには多くはないのです。モザイクの柄を一つ一つ洗い出して、揃えていくような作業、このドットはこれまでなかったからじゃあ今回はこれを一番にしておこう。そういう取捨選択を人類は競争のうえで繰り返してきたと言えるでしょう。むかしの基準ではゴミ扱いされたドットも、現代の価値観では優勝級のドットと見做されることも往々にしてあります。ですから、才能がない、というのは単に、いま発揮した能力を特定の個人に(或いは大多数に)高く評価されていない、というだけのことなのですね。天才の称号がそうであるように、才能というものも、みなから「あの人は才能があるね」と言われているか否かのレッテル張りでしかなく、視野の狭い偏見でしかないわけです。もちろん現代社会はそうした偏見を与え合い、奪い合うような不毛のシステムのうえで成り立っている幻想郷でもありますから、いちがいにそれがわるいこととは限らないのですが、才能があるかないか、に拘って、わざわざじぶんの可能性を――好きや楽しいの気持ちを――蔑ろにする必要はまったくこれっぽっちもないのですね。才能なんて誰にもありません。ときどき、才能があるね、と他者に評価される者があるだけのことなのです。言い換えるならば、才能は誰にでもあります。ただし、それが他者から高く評価されるとは限りません。むろん、他者から高く評価されることを一つの能力と見做せば、その能力を高く発揮できる状態を才能がある、と呼ぶことはできるでしょう。とはいえ、他者から高く評価される、というのは数多あるうちの一つの能力でしかありませんから、やはりその能力を発揮できずとも、ほかの能力をより自在に発揮できたならば、その人には才能があると言えるでしょう。ゆえにもしくは、やはり才能なんてものは誰にもなく、誰にでもあるような、実体のない単なるまやかしであり、偏見であり、視野の狭い人類がために見てしまう幻想、単なる錯覚なのかもしれませんね。


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参照:いくひ誌。【41~50】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881262206

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