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いくひ誌。【3281~3290】

※日々、小説がつくれても何にもならない、自己満足すら果たせない、その気軽さが心地よいときもある。


3281:【2021/11/01*アホウでごめんなさい】
社会が発展していくにつれて人類は徐々にアホウになっていく。そのうえ社会の発展は、仕組みの複雑さを招くので、三歳児に車の運転をさせるような危うさがつきまとう。だが技術が進歩すれば自動車のほうで何不自由なく三歳児を目的地まで連れて行ってくれるようになるだろう。だがそのおかげで余計に三歳児は、じぶんがいかに愚かで無知で未熟な存在であるのかを知る機会を失くし、ますます愚かしさに磨きをかけていく。そうしたなかで、これまで個人に許されていた自由は、さまざまな新しい社会問題の出現によって、倫理や道徳や規制や法律の改正によって妨げられざるを得なくなると言える。現状すでにそうした社会の複雑さと、社会の発展がもたらした個々人の未熟さの発露が引き起こす社会問題が目立ちはじめている。他方、「社会が発展したので、人々に余裕ができ、ゆえにこれまで可視化されてこなかった問題がようやく俎上に載りはじめただけだ」という指摘は一側面では妥当である。が、それだけではなく、これまでは無視できていたくらいに滅多に発生し得なかった個々人の問題行動が、広く同時多発的に発生し得る土壌がぷくぷくと肥えていることもまた一側面では妥当であるように思われる。つまり先にも述べたように、人類はみなある一面においてアホウになっているのだ。その分、ある一面では過去の人類よりも秀でている面がある。が、どんな能力が秀でるのかは個々人によって千差万別な傾向にあるのに対し、どのようにアホウになるのかについては、みな案外共通しているように概観できる。ここに、「個々の問題」の創発現象が起きる余地がでてきてしまう。みな似たような問題行動を、広く同時多発的に行うので、本来ならば個々人のあいだで済んだトラブルの影響が途切れることなく、広く波及し、社会問題として顕現する。インターネットがその波及に一役買ってしまっていることもまた、加速度的に人類の愚かしさが目立ちはじめて映る要因でもあるだろう。みないまいちど、他者を責めてばかりいないで、じぶんはアホウなのだと認めてみてはいかがだろう。言い方がわるく、機嫌を損なわれてしまったなら申しわけない。しかし安心したまえ。きみもアホウだが、私もアホウだ。彼らも、彼女らも、あなたがたも、みな等しくアホウなのである。アホウはアホウらしく、互いの欠点を補いあいつつ、アホウであることを受け入れて、ときに嘆いてみちゃったりもして、どうにかならんものかなぁ、とみなで願望を述べあって、けっきょくはアホウのまま、のほほんと生きていこうではありませんか――と、本日未明、特大のアホウがそうのたまいておったそうな(まぁたそんなアホウなことを言っちゃって。いくひしさんってばお茶目さんなんだから)。


3282:【2021/11/02*勉強不足です】
たとえば民主主義国家が国民投票の結果に独裁政治のごとく内容の憲法を新たに認めた場合――或いは単純に独裁国家(または専制政治)を認めた場合、それは果たして民主主義国家と言えるのか問題に関して、憲法学者や哲学者の見解はどのようなものがあるのだろう(単純に民主主義国家から独裁国家に変わるだけでは?)(どこからどこまでが民主主義国家で、どこからどう変わったら独裁国家になるの?)(明確な分岐点はどこからどこで、どこからどこがグレーなの?)(じつはすでにかなりグレーだったりするのか?)(というかじつは歴史上、完全なる民主主義国家は未だ誕生していないとか?)(代議制である以上は、そうとも言えるのかもね)(かといって瞬時に国民投票が行える仕組みができたとしても、なんでもかでも多数決で決めりゃいいってもんじゃないし、むつかしいよね)(そうだよねぇ。そもそも合理的かつ論理的に正しいことが必ずしも人間にとって好ましいわけでもない点も見逃しがたいし、やはりむつかしい問題かと思います)(なんかいい案ありませんかね)(あったら教えてほしいです)(他力本願かよ、投げっぱなしかよ)(だってわからんのだもの)(考えてくれよそこはさぁ)(考えてるでしょ、もううるさい構わないで)(はいはい)。


3283:【2021/11/02*いっぱい失敗できる環境があればいいのにね】
基本的に人類はいちど失敗してみないことには新しい知見を学ばない。それを、痛い目に遭わなければ、と言い換えてもよいだろう。そのため今後の課題としては、いかに現実社会に実害の及ばない範囲で、あらゆる社会問題の施策を試し、失敗できる環境を築いていけるのかが、発展する社会とそうでない社会の分かれ道となるだろう。失敗できる環境にはいくつか候補がある。たとえば実験都市や、仮想現実内でのシミュレーションが挙げられる。現実ではない場所で現実社会並みのカオスを再現できるのならば、そうした現実に即したカオスを通じてシミュレーションを活用できると好ましい。現実ではない仮想世界において、いちど思いつく限りの施策を試してみて、どれがどの程度悪影響を及ぼし、成果をあげるのかを詳らかにしてみればいい。けっきょくのところ、いかに仮想世界を現実に近づけられるのか、シミュレーションの精度をあげられるのかが問われている(実験都市を仮想現実内で築いてしまうのもアリだ。都市環境だけを仮想で構築し、アバターを介して現実の人間がそこで疑似的な生活を送る。これは2021年現在の技術でも可能な策である)。しかし問題がないわけではない。現実はカオスだ。ゆえにちょっとの変化が予想もし得ない結果を生むことがある。畢竟、いつどの施策を試すのか、時間がズレるだけでも現実の結果とズレる可能性がある。したがってシミュレーションは飽くまで判断材料に留めておくべきであり、いかに精度高く現実を再現できたとしても、それはけして現実ではなく、また現実の社会問題を打破するための正解でもない。だがシミュレーションの結果を参考にすれば、明らかな失策を避ける確率はいまよりもあげられる。いずれにせよ、シミュレーション技術の向上が、今後の人類社会のいく末を左右すると言って、大げさではないだろう、とここに妄想しておくものである(そんなのはちょっと考えれば小学生でも思いつくことでしょ。高性能のAIがあれば天気予報を精度高く予測できるよね、と同じレベルの発想だと思うんですけど)(えーい、黙らっしゃい)。


3284:【2021/11/03*たまには素直】
割とさいきんはこの日誌を並べるだけでもヒーヒー言ってるので(ホントは言ってないけど、それくらいめんどい、という婉曲表現です)、けっこう踏ん張りながら、よっしゃやったるで、と気合を入れつつ、暖簾すら微動だにしないようなチカラの抜け具合で、要するにとっても、さっさと終わらせよ、の気分で文字を並べております。いつも思うのが、日誌に費やした文字数を小説に費やしてたら二十冊分は新作をつくれていたのにな、ということで、もちろん日誌を並べていたからこそつむげた物語もあるだろうし、これはいちがいに言えることではないけれども、日誌分の文章を毎日小説に充てていたら単純に、三千作を超えていたわけであります。日誌並べたからきょうはもうイイっしょ、の気持ちで、もうもう日々サボりまくりの甘栗ちゃんなんですね。この日誌は二〇一六年からはじめたのでもう五年も経っているというね。びっくりです。五年つづけてこの程度、たしか小説を読みはじめたのが二〇〇八で、つくりはじめたのが二〇〇九年だったと記憶しておりますから(ひょっとしたら一年くらいズレているかもしれませんが)、気づいたらもう十二年が経ちます。十年以上つづけても何も成せずに、これといった実りもなく、ただただ小説と日誌だけが残っておりますが、その間に、ちょこちょことではありますが、読者さんに読んでいただけて、すこしばかりよい思いをしたのも事実なのであります。自慢になりそうなことはあんまり言いたくないのであれですけど(読むほうもおもしろくないでしょうし)、ともかくとして、いくひしさんはよい読者さんに恵まれているなぁ、とよくよく思います。お読みくださり、ありがとうございます。読んでいただけるだけで充分にうれしいので、対価を戴いておりますので、もうもうありがとうございます。恐縮です。恐縮すぎて、あわわどうしよう、となるので、やっぱり細々としていたい(細々というか、こそこそ、というか。細々には、こっそりの意味ってあるんですかね。ネットの辞書には載っていないという)。あと関係ないですけど、掌編「生え換わり(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427320545779)」を更新しました。新作つくったよぉ、の報告にわざわざ記事を一つつくるのもなぁ、と思ったので、掌編の場合はこうして日誌に付け加えて報告するスタイルにします。報告する必要があるのか、については、いつつくった小説なのかが判っていたほうが何かと便利かな、と未来のいくひしさんに宛てた一種のサービスだと見做してくださるとうれしいです。以上です。本日のいくひしまんでした。


3258:【2021/11/04*会話と対話の違いは何?】
以上です、とか言って更新した瞬間に日付が変わってしまったので、勢いをそのままにきょうの分の日誌も並べちゃお。なんだろな。なんもないな。そりゃそうだ、きょうになったばかりだもの。思えば日誌とか日記って、その日の終わりのほうで書くものであって、こうしてきょうになりましたよぉ、の矢先に並べるものちゃうよね。ちゃうよね、とかたまにいくひしさん似非関西弁を使いますけど、日常生活ではほとんど使ったことがありません。というかあんまり人としゃべらないので、使いどころがないだけなのですが。そうそう、さいきんここ半年くらいで実感したのが、異なる言語を使う相手のほうがコミュニケーションを取りやすい、ということで。もちろん相手が友好的である場合に限り、という但し書きがつきますが、スラスラしゃべったり聞き取れたりしない間柄のほうが、しっかりコミュニケーションをとろうとする姿勢を互いにそそぎあえるので、いくひしさんにとってはそちらのほうが好ましいな、と思う機会が思えばむかしから多かった気がします(もちろんずっと意思疎通に障害が残りつづけたら不便ではあります。ときどきは翻訳機が使えたり、互いの言語の解釈の度合いが向上したりするとなお好ましいです。なぜなら誤解の余地はすくないほうがよいからです)。言語の違いだけでなく、じぶんより何十歳も年上とか年下とか、共通の話題がないほうがむしろしゃべりやすかったりします。しゃべりやすい、というか、相手もちゃんとこちらに伝わるように話を咀嚼してから話そうとしてくれるので、聞いていて心地よいというだけのことなのかもしれません。子ども相手でもそうですね。何かを一生懸命に伝えようとしてくれるので、時間をかけてでも耳を傾けあえるという意味で、いくひしさんには好ましいです。もちろんまったく相手にしてもらえないことのほうが本当のところは多いのかもしれませんが(相手にされなければ接点はないので、知る機会も訪れないのが道理です)。インターネット上でのやりとりもそうですが、いまは何かと瞬間瞬間の接点が氾濫しており、時間をかけてじっくり耳を傾けあう、伝えあう努力をそそぎあう、ということが原理的にむつかしい時代なのかもしれません。敢えて障害を挟んだほうが、深い縁を繋げたりできることもあるのかな、と知らぬ間に体感していたようです、と自覚して、本日早めの「いくひ誌。」とさせてください。おやすみなさい。


3286:【2021/11/05*欠落はなくならないし、なくさなくともよい】
誤解の余地はすくないほうがよいが、かといってでは誤解がよくないことか、というと必ずしもそうではない。基本的に人間は何かを完全に理解することはできない。誤解や誤謬はつきものだ。そうでなくとも、想像力を働かせるには、誤解の余地がなくてはならない、とも言える。ゆえに誤解の余地が多すぎるときにはむしろ、想像の余地しかない、とも言える。だが想像だけに頼っていては欠落が埋まっているのかどうかが分からない。その欠落が現実に開いた穴であるならば、現実を見失うことに繋がるし、対人関係におけるコミュニケーションならば、相手との齟齬は広がるばかりで、理解を深めるどころか何かの合意を結ぶことすらむつかしい。深まった誤解のせいで縁そのものが失われることもあるだろう。ゆえに誤解の余地はすくないほうがよいが、先にも述べたように誤解の余地は想像の余地でもある。ある程度の想像の余地を残しておかねば、わくわくもウキウキもできなくなってしまうし、もうすこし言えば見たくないものから目を背ける真似もできなくなる。いつでも真実が判ればいいというものではない。相手の心がなんでもかでも解かってしまったら、それはそれでコミュニケーションがとれないだろう。互いに想像を働かせる余地があるからこそ結べる縁もある。コミュニケーションとはつねにそうした欠落を埋める努力をしつづけることでしか成し得ず、想像力をそそぎ合うことでしか継続する真似ができないものなのかもしれない。ただし、欠落がどこに開いているのかくらいは把握しておきたいものだ。そのためにも、誤解の余地はすくないほうがよい。すべて闇では人は影を見ることはできないのだ(定かではありません)。


3287:【2021/11/05*所属と群れの違い】
群れているか群れていないかが問題なのではない。じぶんたちの身内とそれ以外とで明らかな壁をつくるのが問題なのだ。傍から見て、交流関係が限定されて見えたらそれは(自由を基準に考えるのならば)危険信号だと思っていたほうがよい(同じ理屈で、ゆえに孤立は危ういのだ。反面、孤独は流動的でより不安定である、と言える)(限定されているという点で、派閥と孤立は似ていると言えよう)(ただし孤立は限定されたうえで不安定なので、より劣悪だと言えそうだ)。


3288:【2021/11/06*ごった煮っ誌】
「最弱が最強を越えてこそおもしろい。きみが強さの概念を変えれば(広げれば)いい。最弱であれ」「おもしろい物語を味わいたいし、おもしろい物語を編みだしたいんや。頼む、いくひしさん。おもしろい物語をつくっておくれ。いいよ~。やったぜ」「久々にミニどら焼き食べたらめっちゃ美味いなコレ。スーパーで三百いくらで売ってるやつだけどめっちゃ美味いなコレ」「ここ数日で物凄い更けた感覚がある。180歳だったのが196歳になったみたいな。16歳も更けてしまった。元々180歳なのであんま変わらんと言えば変わらんが」「あーん七月からずっとチマチマ進めてる短編がまだおわんなーい。毎日300字ずつくらいしか進めていないので当然と言えば当然じゃが」「SNSの普及によって人間関係が表層の部分であれ可視化された。そのためかつてはなんて広い世界なんだ、と思えた界隈も、思ったよりも狭いのだな、ということに気づきやすい土壌が築かれている」「Q。たかが小説家(任意の普通名詞)が権力持ちすぎなんだよ、とたまに思うことがある(〇か×かの二択)」「人間、たまには二十四時間一言もしゃべらない日があったほうが精神にも肉体にもよい気がするぞ。それがずっとだとさすがにまいってしまいそうだけれど、一週間に一日か二日か、三日か四日か五日くらいはそういう日があってもよくないかな。言い換えるならしゃべる日は一週間で一日くらいでもよいぞ。人間、一人でいるときだって頭のなかで無数にほかのたくさんのキャラとしゃべっていたりするのだから、わざわざ生身の他人としゃべる必要ってあるのだろうか(いや、ない)(あるでしょ)」「大技がすごいのは、難しい技だからではなく、難しい技を活殺自在に操れているからなのだ、というのはけっこうみな忘れがちな視点に思える。大技を行うためにほかの細かな所作が疎かになるくらいなら、難度が低くとも活殺自在により自由に扱える小技を取り入れたほうが流れは美しい。とはいえ、大技に挑んだ、という姿勢そのものが評価の対象になることもあるので、ケースバイケースだ。だが姿勢は作家への評価であり、本来は作品に結びつけて考えるのはいささか権威主義寄りに思える(もちろんそういう評価の仕方があってもよいが)。作家と作品は別個のものであるにしろ、それを評価する者によっては切り離して考えられなかったりする。これは人間に備わる性質なので、致し方ないことだ(いくひしさんも意識して切り離そうとしなければ作者への印象に引きずられて作品を評価してしまう)(やはり好きな人の作品は好きでいたいし、苦手な人の作品は多少なりとも評価がからくなりがちだ)(公平な態度ではありませんね。対策が欲しいところです)」「文芸にしろそれ以外の趣味にしろいくひしさんはただしたいからしているだけなのだが、それでもたまに人から、何か大会あるんですか、とか、プロ目指さないんですか、とか訊かれることがあり、そのつど、大会はありますがとくに出ません、と答えるし、プロは無理です、と答えている。べつに大会には出てもいいけれど勝ち負けにそれほどこだわりがないので、出る意味がそもそもないし(勝ってもとくにうれしくないので)、勝負の舞台で勝つための練習も鍛錬もしておりませんし(それとも単に才能がないだけなのかもしれませんが)、いずれにせよ、競い合えばふつうに負けます。文芸に限って言えばいくひしさんはこれまでに百数十作以上投稿していますが、ほぼ九割九分がた一次選考落ちなので、よほど才能がないのでしょう。プロを目指さないんですか、ではなく、プロにはなれませんでした。諦めなければいいじゃないですか、というご意見は、それはその通りなのですが、諦めてもべつによくないか、といまのところは考えております。諦めないで挑む価値があると思えたら、諦めずにプロを目指す道もあってよいと思います。いくひしさんは諦めました。それだけの話です。(言い換えるならば、いくひしさんは、いくひしさんであることしかできません)」「あ、嘘つきました。いくひしさんはいくひしさんであることすらできないかもしれません(そこはせめてありましょうよ)」「この日誌は並べても並べなくてもどうでもいい、気まぐれの気晴らしにもならない妄想のおトイレみたいな感じなのだけれど、ときどきこわいな、と思うこともあって、何かと言えば、このまま日誌を並べていったらいつかは死ぬ前日の日誌を並べることになるだろうし、たいせつな者やモノを亡くしてしまう日に行きあたることもあるだろうし、取り返しのつかない失敗をする前日の日誌も並べるだろうし、絶望に瀕してこれまでのすべてを擲ってしまうような恨みつらみを吐き連ねてしまうかもしれない。日誌を習慣にしてしまえば、やめない限り、いつかはそうした日が訪れるのだ。おそろしいな、と感じる。いま訪れていないだけで、この日誌の延長線上にはそれがほぼ確実に存在しているのだ。日誌を並べずとも遠からず訪れるし、逃れようがない。死がこわい、というのとはすこし違う。その日、そのときが訪れたあとに、この日誌を振り返れば、それまでの日々の履歴が、たとえそれが妄想であろうと残っており、もう絶対にその日々には戻れない、取り返せない、後戻りはできないのだ、という日がくるだろうことがおそろしいのだ。その瞬間が訪れてしまえば、こんななんでもないような文章を並べていた日々ですら宝物のように感じ、どうにか戻れないだろうか、と後悔してしまうのかもしれない」


3289:【2021/11/07*副反応】
なるべく言及しないようにしよう、どうせ大したことないだろうし、と思っていたモデルナ製ワクチン二回目接種をようやく済ませてきたのですが、副反応が思っていた以上にきついです。熱はいまのところ38度5分でそんなに高くはないのですが、全身の倦怠感と吐き気、悪寒、筋肉痛、頭痛がつらいです。むかしかかった肺炎一歩手前を思いだします。そのときはお医者さんから、なんでこんなになるまでほっといたの、と叱られました。痰を鼻からつまみだすと気管からずるずると引っ張りだせ、咳をするたびに粘土みたいな痰が飛びだしました。そのときほどの症状ではありませんし、つらさではありませんが、それを思いだすくらいには苦しいです。咳や痰がない分マシですが、人生で二番目につらい風邪の症状だと思えます(それだけいままで健康だった、大病と無縁だった、と解釈することは可能です)。完全に舐めておりましたし、こんなのいくら大丈夫だからって、OKで済ましちゃあかんくないか、と思います。大事の前の小事扱いされておりますけれども、もしこれが通常の段取りを挟んだ治験だったら認可されなかったのではないか、と想像したくもなります。いくらなんでも苦しすぎると思います。副反応は若い人に多いと言われておりますが、もしこれが八十歳、九十歳のご高齢の方に起こったらふつうに死んじゃうんじゃないかと思うのですけど、じっさいのところはどうなのでしょう。本当に高齢者にはこれくらいの副反応は起きないのでしょうか。そして仮に起こっても死には繋がらないのでしょうか。ちゃんと調査してほしいと思います。(ワクチンでこれくらいつらいのですから、大本のウィルスに本当にかかったらこのつらさの何倍もの苦しい思いをしてしまうのですね。ワクチン接種はだいじです。ですが、副反応のつらさを軽んじないほうがよいとも思います)


3290:【2021/11/08*クレームの是非】
市販の風邪薬を飲んだらすこし楽になり、食欲が戻ったので、辛子明太子を白ご飯に載せて食べ、お腹が満ちたら急激な睡魔に襲われ寝たのが深夜の午前一時ごろで、それまでは寝ていられないくらいの苦しさだったのですが、そのまま寝て起きたらだいぶ身体の調子が戻っていました。いまはほとんど支障はありません。つらくもありません。よかった。話は変わりますが、人類がここまで発展できた理由にはいくつかありますが、大別すれば「社会性の獲得」と「合理性の深化」があるように思えます。「社会性の獲得」には言語の発明や農工業および医療などのテクノロジィの発展が含まれます。「合理性の深化」に関しては、長期的な利を得るために目前の短期的な損を選べるように進化したことが挙げられるでしょう。ここには言語の獲得により、より細やかな技術や知識の継承が可能になったことが関係しています。いわゆる教育ですね。「社会性の獲得」が「合理性の深化」を促し、さらに社会性を高める、という好循環が生まれたのではないか、と妄想できます。とはいえ、今後はできるだけ目前の損すらも軽減できるようにテクノロジィはさらなる進歩を目指すでしょう。長期的には得だから、という理由で、わざわざ目前の損を放置する理由はないわけであります。目前の損をなんとか解消できないだろうか、と働きかけることもまた、長期的な利に繋がる「目前の損(負担)」と言えるのではないでしょうか。(定かではありません)(クレームを正当化したいだけの屁理屈に思えますが)(それの何がわるいの?)(開き直った!?)


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参照:いくひ誌。【3101~3110】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816700426128387374

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