• 異世界ファンタジー
  • 現代ファンタジー

いくひ誌。【3271~3280】

※日々、衝き動かされている、操り人形のごとく視えない糸に繋がれている。


3271:【2021/10/25*誰かの苦渋のたまもの】
コンビニで購入していたペットボトルのカフェラテが、ドラッグストアやスーパーだと五十円も安くて、なんでもっと早く気づかんかったんや、の気分になって落ち込んでいる。というのは嘘で、ラッキーこっちで買ったらこんなに安いやん、の気分でうれちー。そうだよね、だってコンビニで買ったら百四十円のが九十円で買えてしまうわけでしょ。そうそう。二本買うだけでもう一本買えるだけの節約ができてしまうわけよ。コンビニが高いのではなく、ほかが安すぎるってことかな。じゃないかな。いつも思うんだけど、こんなに安くて利益がでるのかな。百円均一の店舗を覗いても思うんだよね。わかるわかる。ユニクロとかの服飾量販店も、質のよい冬着が安くて、こんなに安くて利益がでるのだろうか、とかきのう行ってきて思ったもん。心配になるよね。なるなる。基本的に企業がコストを削減するには、材料費か人件費を下げるのが定石だ。いまはそこに流通網にかかる経費の削減も入るのだろうし、当然税金対策も入るはずだ。そこにきて削りやすいのはどこかって言ったらやっぱり人件費と材料費じゃないかな。うん、だと思うよ。思うに――ここ数年は全体的に材料費は世界的に見て高騰している。流通にかかる経費もあがっているようだし、人件費も、労働者の人権問題が俎上に載りはじめて久しいので、これもなかなかコストを下げにくいはずだ。なのにどうして値段がこうまでも安いままなのだろうね。国ごとの貨幣価値の差がなせるマジックとも言えるのかも。でも世界的に同時に値上がりしつつあるわけでしょう。実体経済に反映されるまでに時間差があるのかも。それともほかに削られている費用があったりさ。あるとすれば、おそらくセキュリティや安全性の維持にかかるコストではないかな。とすれば一時的には現状維持がつづくにしろ、どこかで世界的に経済の立て直しがなされなければ――つまりたとえ商品の価格があがろうとも国民の懐が痛まない世の中になっていなければ――これからは企業の不正や、安全でない商品による事故が多発するようになるのかもしれない。いちがいに値段が安いままでいいわけではないはずだ。それはそうかもだけど、かといって高くなられても困るし。まあね。ま、疫病の蔓延を機に減退した経済の流れを何の改善もなしに元に戻そうとすれば高い確率でどこかに負担が集中して、仕組みの一部は破綻するだろう。そうすれば否応なく改善せざるを得なくなる。大きな痛手を被るか否かの違いがあるだけで、辿るべき道はそう変わらない気もするけどね。他人事ぶってんじゃねぇよ。痛手被るのはあたしらでもあるんだぞ。そのときはお任せしますので、どうにか急場を凌いでください。嫌なことだけ押しつけんな、その前になんかしてくれ。無茶をおっしゃる。ささ、まずはカフェラテでも飲んで落ち着きましょう。ごくごくぷはぁー。こんなのが九十円で飲めちゃうなんて、うれちオイチー。搾取構造のたまものですね。なんてこと言うの企業努力と言いなさいよ。努力の方向によります。みなさん見てください、役立たずが何か言ってるー。


3272:【2021/10/26*ぼく、スカスカ】
いくひしさんは比較的よくこの日誌でも小説内でも、遺伝子とかDNAとかそういう単語を使うけれど、じゃあ遺伝子ってなぁに、DNAってなぁに、どうやったら遺伝して、どんな仕組みで成り立っているの、と説明しようとしたら、穴ぼこだらけのスカスカのシャボン玉みたいに中身のない説明にもなっていない説明しかできない。というか説明ができない。要するになんも理解していないのですね。これは何にでも言えることであって、いくひしさんが理解していることって何か一つでもあるのかなぁ、と考えてみたら、そこそこまあまあ表現については話せる気がする。と思ったけど、そうでもなかったかもしれない。表現とはなんぞや、をいまから説明してみせよう、と妄想のなかで万人に教鞭を揮ってみると、どうにもやはりスカスカのシャボン玉みたいな説明にもなっていない説明しかできないのだ。いやいや待て待てそんなことってある。これまでの人生いったい何してたの。ちょっとショックだよね。そのことに朝おふとんのなかでモゾモゾ起きたくないよー、の葛藤をしつつ気づいてしまって、二度寝してやる、のきぶんになってしまった。妄想を並べるだけなら簡単なのに、説明をしましょう、となるとむつかしい。調べて比べて検証しなくとも並べられるのが妄想で、調べて比べて検証しながら並べるのが説明なのかもしれない。要するに、明らかにしている部分があるかないかの違いだ。でもいくひしさんはいつでも、定かではない、の妄想だらけのシャボン玉なので、いつでもゆびでつつくと割れてしまう。シャボン玉さんには失礼な物言いになってしまったかもしれない。ごめんなさい。何か一つでいいから一から十まで説明できるようになってみたいな、と目標を一つ掲げて、でもいましばらくはその何かを見つけるべく、のほほんとシャボン玉のごとくふよふよと世の中を漂って、ときおり割れたりして、屋根までのぼって弾けて消えるを繰り返そうと思います。いくひしさんといっしょ、いっしょ、の扱いをしてしまったシャボン玉さんには失礼な物言いになってしまったかもしれませんが、そこは光栄に思ってほしいところです。嘘です。調子乗りました。ごめんなさい。


3273:【2021/10/27*よくわからん】
さいきんよく目にする言説のなかで、「それって本当かなぁ」と思うのが、「税金は国の財源ではない」という主張で、ちょっときょうはそれをトイレに入っているあいだに考えてみた。税金は国の財源ではない、との考え方はつぎのとおりだ。そもそも国が成立したときには企業も国民もまだ何も儲けていない。その国のお金を使ってもいない。だから税金もないはずで、じゃあ財源もないのだからおかしなことになる。財源がないのならではどうやって国は最初に企業や国民にお金を配分したのか。答えは、銀行でみなに借金をしてもらうことで、お金を概念上で発行し、貨幣価値を生みだした、という理屈だ。つまり銀行はただみなの通帳に、借金分のお金を書きこめば、財源がなくともお金を刷ったのと同じことができる。これが、借金と財源が同じ(≒税金は財源ではない)、という考え方の概要だ(いわゆる銀行の起源の説明として比較的よく目にする言説ですね)。ただしここでいくひしさんは、うーん、と思ってしまうのだ。仮に一国のなかで独立して経済が回るのならばそれでもいいだろうけれども、国はほかの国とも取引きをしている。じゃあそこでの貨幣価値はどうやって生まれるの、担保されるの、というと、それはけして借金ではないのだね。国の信用というか、世界経済における立ち位置が、その国の貨幣価値を、世界共通の価値として決めているのだ。ゆえに、世界経済を視野に入れると、上記の「税金は国の財源ではない」という考え方は、理に合わなくなってしまうのではないか、との疑問を覚える。これはいわゆる「国はいくらでも国債を発行してもいい」「紙幣をばんばん刷ればいい」というさっこん流行りの考え方にも言えることで、一国の中だけで完結する経済の話であれば、そういった政策も有効になってくるのだろうが、世界経済においては、そうもいかない、というのがいくひしさんのいまのところの見立てである。ただし、経済の仕組みのケの字も知らないいくひしさんのおおざっぱな印象論でしかないので、真実のところがどうなのかは判らない。ただ、税金は財源ではない、という主張には、本当にそうなの、と疑ってはいる(じゃあ年貢はどうだったの、という話とこれは地続きのはずだ)。税金とは、国民の生み出した利益を可視化した数値であり、どれくらいの税金を集められるのか、によって国際的に国の評価が規定されてしまうのではないか。ただし無理くり税金を集めても、国民の生活が貧しくなれば、国内の経済は鈍化し、やはり税金を集めることができなくなる。そこで無理くりお金をばら撒いたとしても、そもそも国としての利益があがらないので、お金の価値が減っていく。いわゆる、わるいインフレだ(例外的に、世界同時に経済が鈍化するならば、まずは国民の生活を維持するために、お金を概念上であっても増やしましょう、その結果国の利益がでなくともまずは良しとしましょう、との理屈は成立しそうです)。税金は必ずしも財源ではないのかもしれないが、税金の総額が国際的に正しく評価されたとき、おそらく国としての地位が確立されるのだろう。国際的に国の地位が高くなればなるほど自国の通貨の価値が国際的に高くなる。ただし出る杭は打たれるので、昇りつめるよりかは、ほどほどの地位でいたい、というのがこの国の本音なのではないか。そういう意味では、税率を上げ、国民生活を締めつけることで、敢えて無闇に発展させないように操作することも可能なのだろう。ひょっとするとこの国は、国民の生活のことよりも、国際関係のなかで、いかに他国と軋轢を生まずにいられるのかに注力しているのかもしれない。その良し悪しについては、税金とはまた別の考え方がいりそうだ。(おトイレに入っているあいだに巡らせた考察にも満たない底の浅い妄想ですので、真に受けないでください)


3274:【2021/10/28*潜る】
注目を集めたら、いくひしさんはたぶん文章を並べることができなくなる。そうと前以って判るので、できるだけ注目されずに、それでいて波長の合う読者さんに届く余地を残しつつ創作ができないだろうか、との試行錯誤をしている。フォロワーが欲しいと思わないのもそこに通じている。ただし、それだけでなく、フォロワーの多さが作家の評価に直結するような世の風潮に、それってどうなの、という意思表示をしている意味合いもある。ただやっぱり中心にある考え方としては、いっぱいの人の目に触れるようになったらいくひしさんはいまと同じようには文字を並べることはできないし、きっと逃げだしてしまうだろう、と予測できるので、それを避ける意味合いがつよい。潰れたくはない。この日誌だってそうだ。つづけるだけでいっぱいいっぱいになるに決まっている。なんも書くことなんてないよー、なんてくだらないことすら並べられなくなりそうで、怖い。いつでもどこでも人の目を気にせずにいられるひとならそれでもいいのだろうけれども、いくひしさんは人一倍他者からどう見られるか、を気にする虚栄心の塊でござるので、人の目を気にせずにいるには、人の目のない場所で活動するのが手っ取り早いのだ。その癖、密かに、意中のひとたちには読んでほしい、見つけてほしい、わいはここにおるで、と自己顕示したがりでもあるので、ほとほとめんどくさいやつめ、といくひしさんはいくひしさんのことをぼやいております。まるで子どもが人に見られるのは嫌だけれど、母親には、見ててね見ててね、と命じてブランコを漕ぐような幼児性が内面化して見えますね。かっこうよさの欠片もないので、余計にかっこうをつけてしまうのでしょう。かっこうをつけてかっこうがよろしくなればまだ救いがあるものの、そうではないというのですから、同情したくもなります。家の中の姿見のまえでは堂々たるキメポーズも人前ですると途端に恥ずかしい、そういう臆病な自尊心と尊大な羞恥心の権化なのですね。それとも、傲慢な理想像と尊大な虚栄心のなせる痴態なのかもしれません。ともかくとして、一人でいるあいだは、ふだんできないことでも堂々とできるようなので、それはしかしけして孤高の道を行くといった勇猛果敢な態度ではなく、恥ずかしがり屋の臆病者の心理であり、かっこうのよさの欠片もないのですが、それはそれとして本人は至っていまの環境を気に入っているようですので、わざわざ岩を持ちあげて陽に晒すような真似などせずに、放っておくのがよろしいように思います。とはいえ、では注目を集めることができるのか、わざわざ孤独に引きこもる必要があるのか、については疑問の余地がありますので、引きこもろうとしなければわいだっていっぱい注目されるんだい、というほとんどないような可能性を潰さずにいられる余地を、これまたなけなしの矜持のごとく懸命に守っているだけなのかもしれません。ほとほと情けないひとですね。いくひしさん、あなたのことですよ。以上、事実を突きつけて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


3275:【2021/10/29*脱皮したい】
きのう、ほかのいくひしさんに突きつけられた事実が思いのほか胸に突き刺さって抜けんくなっている。言っていいこととわるいことがあるんじゃないかな、というか、言うなら言い方に気をつけよ、の気分だ。もっとやんわりがよかった。いくひしさん、涙目よ。自業自得です、ってああた。ちょいちょいサディスティックな面をお見せでないよ。いいですいいです。見なかったことにしよ。閑話休題。細かく切ったリンゴをホットケーキに混ぜて焼いたら美味しかった。きょうの朝食です。さいきんは二日動いたら一日休むのリズムで生きている。うんとこしょどっこいしょするのは連続で二日が限度じゃ。のほほんと生きていたい。とはいえ、うんとこしょどっこいしょの内訳を見てみると、完全に隅から隅まで趣味なので、もっとうんとこしょどっこいしょしたほうがよくないか、とたじたじになる。このままだとマズい気がするけれども、のほほんとしたいんじゃ。いやじゃ、いやじゃ。のほほんとさしてたも。さいきんは新作の構想を練りつつ、新しい筆名も考えていて、なかなかいいのが思いつかないな、と考えていたら、そう言えば小説の中にでてくるキャラにちゃんとしたお名前つけたのっていつだっけ、のおそろしい事実に思い至って、ちょいちょいいくひしさんや手抜きしすぎでは、の心境に陥って、ふて寝してやろ、になった。新しい筆名ではないけれど、割と、木舞師(きぶし)三名(さんめい)という字面は気に入っている。これも郁菱万とおなじでアナグラムだ。漢字のまま逆から読むとナミシブキになる。でも郁菱万ほど多重に意味合いがあるわけではないのでひとまず却下だ。トリプルミーニグならぬテンミーニングくらいあってほしい。わがはい、欲張りさんなのである。予定としてはたぶん五年後にはもう郁菱万は活動していないので、そのときにいまよりすこしでも頭のなかの物語を理想どおりに自在につむぎだせるようになっているといいな。さっさといくひしさんを脱皮して新しくなりたいとの思いを募らせ、きょうの「いくひ誌。」にしちゃお。


3276:【2021/10/30*遺薫】
(未推敲)
 十年間放置した水槽のような、濁った色をしている。腐った水草がゼリーの層をなし、表面に気泡を浮かべる。匂いはふしぎなほどなく、それは乾いた表層の膜が臭いを閉じ込めていたからだが、それゆえにひとたび混ぜ返せば、肺を侵すような刺激臭が充満する。市販のマスクを三重にしたところで臭いの粒子を濾すことはできない。
 特殊清掃員という名称は、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427318900620


3277:【2021/10/30*労力と出来の関係】
七月からチマチマ進めていた短編をようやく一つ閉じ終えた。上記の「遺薫」だ。短編にしてはずいぶん手こずった。たぶん、過去作の焼き増しのツギハギだからだろう。郁菱万の作品群のなかで最もオーソドックスでスタンダードな、サンプル品みたいな短編になりそうだったので、なんとかそうならないようにと抗ううちに時間だけが経ってしまった。苦労した割に愛着がないのが、なんだかな、と思うけれど、過去作には総じて愛着がないので、そんなもんかな、とも思う。一つ終わってもまだ閉じていないつくりかけの手こずっている物語が十個ちかくあるので、探せばもっとあるのだろうけれど、それはそうだろう何年も手をつけていない十万字以上をつむいでそのままのが何個もある、そういうのをちゃんと閉じていきたい。結んでしまいたい。どれも頭のなかに完成形がある分、なかなか着手しようという気にはならないのだ。よくない癖である。息抜きにまた短い物語をつむぎつつ、またチマチマとやっていこうと思う。裁縫みたいだな、といま思った。上記「遺薫」の推敲はまだなので、時間を置いてからしようと思います。


3278:【2021/10/30*現実と虚構は混然一体】
前からときおり繰り返し述べておりますけれども、いくひしさんは基本、読書が好きではありません。元々、読書なんか大っ嫌いだ、の人でした。小学生のころは泣きながら読書感想文を書いていましたし(本を読みたくなさすぎて泣いていました)、知恵がついてくるとこんどは映画を観てその感想を読書感想文にしたためたりしていました(姑息ですね)。教科書だって読みたくありませんでしたし、本なんかこの世になくてもいいものランキングの上位五本の指に入っていたくらいの毛嫌いようでした。暗殺者のほうがまだ何かしら世のため人のためになっているのではないか、と考えていたくらいですから、よっぽど教養がなくて浅はかだったのですね。いまも教養がなくて浅はかという意味では五十歩百歩ではありますが、やはり五十歩と百歩では違うと思うのであります。いまも本は苦手です。文章よりも映像や実体験のほうがすんなり頭のなかに入ってきます。学習の効率にしたところで、いくひしさんにとっては文章がいちばん低いようです。けれどもときどき、そうした現実にちかい表現形式よりも、ずっとたくさんのリアルを感じることのできる文章や文字表現に出会うことがあります。そういうときには読書を通して、苦手意識を補って余りある、情報の海に繋がることができます。凌駕する、とはまさにこのことだと思います。いまでもきっと本や文章や小説そのものを好きではないのだと思います。ただ、苦手なはずのもののなかに、とんでもなく好みの、世界そのものの幅を否応なく広げてくれる、別の世界を見せてくれる、もう一つの人生をぎゅっと凝縮して、美味しいところだけを安全な場所にいながらにして歩ませてくれる、そういった文章や文字表現に出会うことがあります。そういうときには、大嫌いなはずの文章や本をまえにしてとんでもなく好ましい感情で溢れかえります。もちろん、いくひしさんにとって好ましい本や文章が、ほかの誰かにとっても好ましいとは限らず、またいくひしさんの琴線に触れない本や文章が、ほかの誰かにとってはもう一つの人生を体感させるくらいの運命そのものであることもあるでしょう。これはいくひしさん自身にも言えることであり、いまのじぶんの口に合わないだけで、未来のいくひしさんにとってはやはり運命と言っていいくらいの体験をもたらしてくれる本や文章もあるかと思います。これはなにも本や文章に限らず、人との出会いや、そのときどきの体験にも言えることであるはずです。まとまりがなくなってきて何を言いたいのかさっぱりわからない文字の羅列になってしまいましたが、本や文章が苦手でも、そこに仕舞われた「いまここにはない、しかしどこかにはあるだろう世界の断片」に触れることは、読書を苦手としている人にとっても、そうわるいものではないですよ、という個人的な体験を以って、過度に一般化はしないようにしつつも、ここに記しておきますね。旅が好きな方なら、旅をすることで得られる体験と似た刺激を、読書を通して感じることができます。同じようにきっと、読書の好きな方なら、読書を通して得られる体験と似た刺激を、現実を通して得られることでしょう。そこに明確な差異はないように思います、と述べて、とくになにかを伝えたいわけではない、あってもなくてもどちらでもいい、くだらない日誌を終えようと思います。お読みくださりありがとうございました。よい夢をご覧ください。おやすみなさいませ。


3279:【2021/10/31*知恵の価値】
より多くの支持を集めたり、人気を集めたりすることの価値が高まるにつれて、本質や知恵の価値は一時的に下がるが、ある瞬間から徐々に盛り返し、おそらくはやがて人気や支持を集めることの価値を抜くようになる。というのも、人気や支持を集めたところで、ではその人気や支持を保つにはどうすればよいのか、人々へどのように影響力を行使すればよいのか、についてはやはり本質や知恵が欠かせない。他者の人権を損なうような影響力の使い方をすればどうなるのかは、歴史を紐解けば瞭然だろう。もちろん、私利私欲を満たすために人気や支持を集め、その影響力をぞんぶんに揮っても、権力を保持したままで人生を謳歌し、往生できる者もあるだろう。だがそのときに蓄えた負の影響は、身内へと引き継がれる。権力というのはそういうものだ。いつまでも所有できるものではない。また、私利私欲の方向性が大多数の利益に結びつくならば、負の影響を限りなく薄くすることもできる。他者の至福がじぶんの至福である、と思える者であるならば、私利私欲に走ったところで多くの者のためにその影響力を使うだろう。だがやはりここでも、ではより多くの者を至福にするにはどうすればよいのか、については本質や知恵が欠かせない。けっきょくのところ、人気や支持というのは、あくまで調理器具のようなものであり、そんなものがなくとも料理はできる。裏から言えば、料理をするためのレシピや知恵がなければ、カレーライス一つまともにつくれない。かといってでは、火がなかったらどうか、と言えばやはり、火があったほうが料理の幅は広がる。調理器具や道具は種類が豊富なほうが何かと便利だ。人気や支持というのはそういうものだろう。あったら便利だが、それは飽くまで料理をするための下準備にすぎない。それらを揃えて、では何をするのか。本質や知恵の有効性はまさにここにこそある。もうすこし言えば、どれほどの人気者であろうとも、首根っこを掴まれたらお終いだ。知恵を悪用する者にとっては、人気を苦労して集めるよりも、人気者を傀儡と化したほうが楽である。百万人と競い合ってトップに立った人物を、一回倒し掌握すれば、それだけで済む話だ。わざわざ何度も戦い、競う必要はない(戦闘を介さずとも、単に味方になってもらうだけでもいい)。巨悪とはそういうものだ。一度の勝利で、他者のすべてを掌握し、道具とする。ゆえに本質や知恵の価値は、いかに人気や支持を集めるかの価値が高まるほど、その真価を発揮しやすくなる。かといってでは、そうした巨悪にどんな本質があるのか、についてはやはりよくよく吟味しておきたいところだ。ここでも知恵が欠かせない。どうあっても現代においては、本質や知恵の価値は揺るがないようである。人気や支持の高さで右往左往しているようでは、知恵が足りない、と言えそうだ。(定かではありません)


3280:【2021/11/01*素粒子ビーム】
ビームは直線する。そして地球は球体だ。ゆえに地上に対して水平にビームを投射しても、数百キロ先では地上の遥か上を通過することになる。北海道にある建物から沖縄の建物へとビームを届けるためには、地表下に数度ほど傾けてビームを投射できると好ましい。素粒子は物質に干渉しにくい性質がある。透過しやすいのだ。地球を二百個並べてようやく反応を示す程度だという。ゆえに素粒子をビームにして投射する際には、地表を無視して、まっすぐ地表のA地点とB地点を結ぶことができる。極論、南極と北極を直線で結ぶことも可能なのだろう。ふしぎな話である。


______
参照:いくひ誌。【621~630】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883561585

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する