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いくひ誌。【3261~3270】

※日々、抑圧を抑圧され、抑圧すら抑圧され、ぎゅうぎゅうに押し固められたそれが爆発しなきゃいいけれど。


3261:【2021/10/17*飽きちゃった】
眠気マックスでした。久々に、起きたくないよ、の葛藤をしました。朝は焼きそばを作って、トロトロふんわり卵焼きを上からかけて食べました。まだ残っているので夕食もおそらくこれになります。さいきんはまた紅茶ばかりを飲んでおり、外にでたときだけコンビニでBOSSのカフェラテを買って飲みます。さいきんのペットボトルさんはふにふにでやわらかくて、慣れないと蓋を開けたときに中身が溢れてしまいます。そんなのはいくひしさんだけですよ、というご意見はごもっともなのですが、いくひしさんは精神年齢が一八〇歳なので、一周回ってほとんど赤ちゃんなので、エスカレーターのまえでも、おっとおっと、となかなか足を踏みだせないくらいなので、致し方ないことである。さいきんは完全に文芸に飽きてきちゃったので、またやりたくなるまでほかのことで遊んじゃおの期間です。同じことだけしていたらやっぱり人間飽きちゃいます。飽きずにずっと延々しつづけられる人がいわゆる天才なのでしょう。いくひしさんは天才ではないので、才能はからっきしなので、なっしんぐおぶキングなので、なんとなくの印象でそれっぽい英語を使ってみましたけれども、意味は通じていますでしょうか。ともかく飽きたら休んでほかのことで遊んでまた飽きたらほかのことをして、そうしてまた文字でぱちぱち判子遊びをしたいなぁ、となったら文芸で遊べばよろしいのではないでしょうか。よろしいと思います。なのでいくひしさんはそうします。その点、プロの物書きさんはすごいですよね。天才しかいないんじゃないかと思います。すばらしいです。憧れます。あ、紅茶が切れたのでお代わりを淹れようと思います。ほどよい文字数になりましたでしょうか。ではきょうはこの辺で。本日のいくひしまんでした。


3262:【2021/10/18*自転車こぎこぎの日】
人には不幸になる権利がある、なる言葉をさいきん目にして、確かになぁ、と思うと共に、でもそれって主観と客観がごっちゃになってないか、という気持ちにもなり、しばらく自転車をこぎこぎしながら考えた。人間はどうあってもしあわせを求めているのではないか。不幸になりたくて不幸になったとしたら、それはその不幸がその人にとってのしあわせだからであって、不幸ではないのではないか。もうすこし言えば、じぶんではしあわせを求めているつもりでも、他人から見たら不幸になりにいっているように見えることもある。だから冒頭の「人には不幸になる権利がある」というのはいささかおこがましい考えであり、他人の幸不幸をじぶんから見た尺度で測ろうとしているがゆえにでてくる価値観なのではないか、と一つ考えの結び目ができた。言い換えるなら、「人にはしあわせになる権利しかない」と言うこともでき、しかしそのしあわせになる権利を行使したところで必ずしもしあわせになれるとは限らず、仮になれたとしても他者から見てそれがしあわせに見えるとも限らないのだ。ゆえに、しあわせになる権利を行使した他者の選択を尊重しつつも、死や苦痛や不自由や理不尽などの奇禍なるものをできるだけ遠のけておける環境をみなで築いていくことはできるわけで、人の幸不幸は千差万別ではあるものの、奇禍なるものはあんがい共通しているわけでして、「人にはしあわせになる権利」があるのと同じように、「人には他者のしあわせの追求を応援する権利」もまたあるようにいくひしさんはひとまず、自転車で百漕ぎするくらいのあいだに思ったのだそうな。おしまい。(人には自由に生きる権利だけでなく自由に死ぬ権利もある、という意見が存在するが、仮にそれが妥当だった場合に、やむにやまれず死を選択した人に対して、じぶんで選んだ死だからよかったよね、と無関心を貫いてしまい兼ねないし、自己責任で済ましてしまい兼ねない。本来ならば、死なずに済むように環境や技術を発展させていくことも可能なはずだ。そういう視点が、死ぬ権利を認めることで損なわれる懸念がある。なぜ死にたいと思ったのか、死にたいと思う理由がなくなれば生きたいと思うのではないか。どうにもならないから死ぬという道しか選べないのではないか。本当に、自由に生きられる道と死ぬ道を選べた上での死の選択なのか、それともただ死ぬ以外に楽になる道がないから、やむにやまれずそれを選ぶしかなかったがゆえの選択なのか。前者と後者とでは話がまったく違ってくる。不幸になる権利にも似たところがないだろうか、とやはり自転車をこぎこぎして疑問に思ったのだそうな)


3263:【2021/10/19*無精卑下】
じぶんを棚に上げてえっらそーな文章をつむぐことで定評のあるいくひしさんですが、もちろん棚に上げているのでいくひしさん自身はまったくえらくもなんともなく、どちらかと言えば歩くガラクタの二つ名で呼ばれても文句を呈するのに躊躇するくらいにはただそこにあるだけで何かしら他者の自由を圧迫するような存在であるが、それでもいくひしさんを構成する成分全体の百兆分の一くらいは、善良でありたーい、の純粋な欲求を保有するいくひしさんもおるらしく、その貴重な天然資源のごとくいくひしさんの協力を経て、その他の百兆にちかいほぼ全身ガラクタのいくひしさんは、じぶんを棚に上げつつえっらそーな文章をつむぐべくちまちまと文字の判子を並べているのである。つまり全身ガラクタにちかい百兆にちかいいくひしさんをせっせと棚に上げているのは、百兆分の一の天然資源のごとく稀少ないくひしさんであるから、文句はぜひとも、善良でありたーい、などとおこがましくも高望みする身の程知らずのいくひしさんに向けてください。歩くガラクタの二つ名を欲しいままにしているほぼ百兆のいくひしさんはかように、善良でありたーい、などとおこがましい考えは持っていないので、どちらかと言えば、いくひしさん以外の全人類が善良であーれ、の極悪非道な呪文を唱えつつも、その極悪非道具合を自覚しているじつに謙虚なおりこうさんであるので、いかような文句であろうともぜひとも呑み込んでいただきたい。胃潰瘍にならないように注意してね。以上、これにてきょうの分の「いくひ誌。」とする。おわり。


3264:【2021/10/20*まんし苦しい、ばん苦しい】
集合。みなさん、しゅーごー。いいですかみなさん。いまから反省会を開きたいと思います。はいな。なんじゃいよ。どうぞ。まずはそこのいくひしさん。はいな。きみはあれだね。自転車をこぎこぎしつつ考え事にうつつを抜かしていて、ついつい、小学校のまえの信号機が赤だったのにそのまま横断しちゃったね。しかも小学生の目のまえで。万死に値すると思うのですが、釈明の弁はございますか。だってだって気づかなかったんだもん。はい処刑。ぎゃー。つぎはそっちのいくひしさん。なんじゃいよ。きみはあれだね。学校帰りや犬の散歩をしている子どもたちに、こんにちは、と挨拶をされても咄嗟のことで反応できずに無視しましたね。万死に値すると思うのですが、釈明の弁はございますか。あるよあるある、だって急に声かけられたら誰だって反応できんべや。こちとら自転車乗ってんよ。ん、って気づいたときにゃもうお子さまらは遥か彼方よ。だいたい昨今、かってに子どもに声かけるほうが危ないやんけ、向こうさんとて、防犯の意味合いで挨拶しましょう運動してるんと違いますか。却下です。なんでやなんでや。問答無用です、はい処刑。ギャー。つぎはこっちのいくひしさん。どうぞ。あら、きみはあれですね。とくに何もないようです、裁くべき罪過がありません。なぜ反省会に参加されたのですか。呼ばれたからだ。それはすみませんでした。手違いだったようなので、どうぞお引き取りください。そうもいかないようだ。なぜですか。なぜなら裁くべき罪過はここにあるからだ。どこですか。ここに。わたくしですか。そう、あなただ――まるでじぶんには罪がまったくないかのように、誤りを犯したことがないかのように、清く正しいフリをして、いいや清く正しいと思いこむことなく思いこみ、いつでもほかのいくひしさんたちを裁く立場にいると思いあがっているその性根がまず以って万死に値するように僕には見えるが、いかがだろう。訂正いたしますね、罪過はありました。いまの暴言を以ってきみも、はい処刑。却下だ。ダメですあなたは悪です。裁かれるに値する極悪そのものです。わたくしの決定に異を唱えるなど言語道断、釈明の弁はありますか。ないな。する必要がない。反省会など必要ない。省みるならきみ一人でもできるだろう。まずはじぶん自身と向き合い、じぶん自身の行いの是非を天秤に載せてみたらどうだろう。却下です。あなたは万死に値します。いかにも僕は万氏だ――いくびしまんだけに。くだらないジョークは聞きたくありません、万回あの世に行ってください。地獄に落ちてください。落ちるのはオチだけにしてほしいものだがね。最低のオチですね、万死に値します。最低なオチなのはまあ否定しないが。え、本当にこのまま終わる気なんですか。すまんね。ダメです却下です。集合。みなさん、しゅーごー。いまから反省会を開きたいと思います。あいよ。へい。議題はなんなんよ。このオチが、万氏に値するか、です。うまいことまとめるのやめなさいよ。


3265:【2021/10/21*風】
信号待ちをしているあいだに風景を眺めていて思ったのは、街路樹がなければ現代では比較的「風」を視覚することはないのかもしれない、ということだ。旗なんかがあれば別だが、風によって揺らぐものが、街中であればあるほど見当たらない。落ち葉やちり紙などが転がっていれば風に煽られ転がることで視覚可能だろうが、そうでなければ風が吹いているか否かを、目だけで判断することはむつかしい。水溜まりがあればその揺れで判断は可能かもしれないが。あとは音だ。風の音は、どこであっても耳にすることができる。ひるがえって開けた場所では、音だけして風を肌で感じることはない、という逆転の現象を体感することもある。絵で風を表現することがむつかしいのはきっと風が間接的にしか知覚できない人間の根本的な構造に関係しており、或いは触覚を可視化できれば風そのものを表現することは可能なのかもしれない。人は風を肌で感じているが、風がつよいときにはただ寒いと感じるし、危険を感じるときは、触覚よりさきにじぶん以外の物体が煽られるのを知覚することで危険を感じるように思う。風そのものを、風だ、と感じるときには、往々にして人は音や風景の変化で判断しており、より直接的な知覚であるはずの触覚での認識を、風に対してはそこまで重視していないようだ。あべこべに、そよ風だけはなぜか触覚優先のように知覚している節があり、そこら辺の微妙な匙加減はなんなのだろう、とふしぎに思った。まったく関係ないが不気味の谷現象を彷彿とする。人間には刺激の多寡に応じて、同じ事象に対してであれ、どの五感による知覚を優先すべきかを選り分ける性質があるのかもしれない。定かではない。


3266:【2021/10/21*好ましくありません】
現実に存在する人間を被害者にしないために法整備をしたい、被害者をださないための社会的合意を築いていきたい、というのならば提案すべきはまず特定の表現規制ではなく、現在すでにある法律の厳罰化であり、かつ教育や仕組みの工夫ではないでしょうか。表現の自由および思想の自由は基本的人権です。いち政党の思惑や政府の一存でそれらを規制(排除)しようという方針は、人権を重んじる民主主義国家にあってはならないことだといくひしさんは考えます。ましてや国民を扇動して恣意的な流れを構築すれば、特定の表現を抹消できるだろう、なんて考え方は乱暴にすぎると言わざるを得ません。それが独裁でなくなんなのでしょう(迫害や弾圧との区別がつきません)。児童を傷つけたら終身刑にしましょう、という提案のほうがまだ議論の題材としては有意義である、と言えそうです。現実の人間を被害者にしないために、児童を傷つける描写のある表現は規制しましょう、というのは論理が破綻しています。手段が目的に結びつきません(殺人描写のある表現をこの世からなくしても殺人がなくなるわけではありません。殺人を肯定的に描いている虚構作品はこの世に数多ありますが、それを規制したら現実の被害者が減るのでしょうか――仮に減ったとして、そうした社会が大多数の幸福に寄与するのでしょうか――たとえば完全に個々人が管理された社会では殺人は起こらないでしょう――しかしそのような社会が理想でしょうか。ただしプロパガンダや洗脳のように、虚構を用い、情報を制限して与えることで個人を犯罪行為に走らせることは可能です。過去、人類はそうした術を用いて戦争や国家的犯罪行為を犯してきました。それを防ぎたいならば優先すべき施策は表現規制ではなく、触れられる情報の種類を増やし、自由に情報を選べる環境を築くことであるはずです)。また、すでにこの国では過激だと定められた表現はゾーニングによって児童の目に触れない工夫がされています。いわゆる18禁などの年齢指定です。そのうえで配慮が充分でない、というなら、そういう言い方をすべきではないでしょうか。表現の規制をこれ以上強化せずとも可能な工夫はあるはずです(それを考えていきましょう、というのがまず挙げるべき提案ではないでしょうか)。規制ありきの提案は、議論のための問題提起とは言いません。いくひしさんは政治に疎いので、政党の是非は判断できませんが、すくなくとも現実の人間を被害者にしないために、という理由での、表現規制を推進しようとする主張には、異を唱えます。現在の規制(ゾーニング)では充分でない、というのなら、漠然とした印象論ではなく、因果関係を指摘したうえで、再度問題提起するのが筋ではないでしょうか。基本的人権を侵犯する類の問題提起を政党や権力者が呈する場合には、それくらいの責任を最低でも果たしてからにしてほしいものです。仮に特定の思想や指向性を有した個人から、「そうした思想や指向性をもとにした表現をする権利を奪う」というのならば、それはいくひしさんの基準では、かなり上位の看過できない考え方です(本当にそれって正しいの、と反論せざるを得ない、という意味です。そういう考え方もあってよいでしょうし、個人が述べる分には構いません。しかし、政党や権力組織は別です)。国民に議論を持ち掛ける前に、まずはいまいちど考えを煮詰めて、じぶんたちがしようとしていることの悪影響(リスク)の面にも目を向けてほしいものです。定かではないからこそ、権力を保有する者たちには重々吟味したうえでの発言や考えを述べてほしいと望みます。繰り返しますが、政党の是非は判りません。どの政党にも同じように、異を唱えたい方針が多々ありますが、基本的人権を揺るがすような方針は、さすがに看過できませんでした(いくひしさんの自由の根幹にかかわる問題でもあるからです)。ゆえにいくひしさんの考えを並べましたが、いつものように定かではありませんので、真に受けないように注意してください。(ひょっとしたら特定の表現があるために特定の犯罪が増加することもあるのかもしれません。そういった因果関係および相関関係が認められたときには、公共の福祉と基本的人権を鑑みて、どのように判断すべきかが改めて問われることになるでしょう。ですがすくなくともそれは、いま、ではないように思います)


3267:【2021/10/22*ばぶー】
現状、人類の進化の方向としては、全員が赤ちゃんになっても何不自由なく生きていける環境をいかに築いていけるか、なのではないか、とぼんやりと妄想している。技術力が高まり、社会が発展すれば必然、人間は生きていくうえで過去の人類よりも苦労せずに済むようになる。衣食住の心配をせずに済むようになり、黙っていても好きなときに好きな食事を好きなだけとれるようになる。社会が発展しつづけるならば、いま生活するうえで嫌々こなしていることも徐々にしないで済むようになっていくはずだ。反面、そうなると人間の生存能力は育まれることなく、環境に依存するように修正されていくので、たとえば現代人がスマホがなくては生活していけなくなりつつあるように、かなりの部分をじぶんの能力ではなく、周囲に介在する外部装置に頼るようになる。人間は徐々に苦労をせずに済み、ゆえに思考せずに済むようになる。ただし、専門分野に関しては、好きなだけ突き詰めていける環境もまた築かれていくので、積極的に学んでいく者とそうでない者とのあいだで、二極化していくことが予想される。しかし社会が発展しているので、それが直結して貧富の差には繋がらないだろうし、仮に繋がるようならば、それは社会が衰退している証左であるので、どこかで社会構造が破綻するだろう。いずれにせよ、社会が発展すればするほどに、特定の分野に関しては天才的だが、それ以外はからっきしの赤ちゃんのような個が大多数を占める世の中になっていくのではないか、と妄想できる。現状すでにそういった傾向はでてきているだろう。じぶんがどのような状況にあると赤ちゃんになっているのかを自覚できるか否かが、これから先の社会では、人間の外郭を維持しつづけるために不可欠な素養となるのかもしれない。定かではない。おぎゃー。


3268:【2021/10/23*客観視】
じぶんを客観視するには、自己同一性を一時的に破棄しなければできないことなのかもしれない。ある種の自己の断裂を以って、なめらかな変化ではなく急激な、隔たりのある変化を以ってのみ成し得る自己の履歴の編纂作業と呼べるのではないか。それはたとえば映画のフィルムを切り離して、最初と最後を結んでしまうような、予告編のごとく編集作業であり、またはまったく異なる映画を繋ぎ合わせた破綻を帯びた編集作業と呼べるかも分からない。どんなものにでも言えることであるが、比較するからこそ差異が浮き彫りになる。それそのものの異質さや本質を幻視するには比較が有効だ。映画でたとえるならば、タイタニックがどういう作品であるのかを客観視したければ、となりのトトロの世界にいちど身を浸し、その映画内からタイタニックを眺めたほうが、タイタニックの類似作品と比較するよりもより本質に迫れるのではないか。これは自己の客観視でも同様であり、じぶんを客観視したければ、できるだけじぶんからは遠い、異質な自己からの視点で分析してみるのがよさそうだ。それはまったくの赤の他人でもよいし、或いは幼少期や思春期、もしくは何か人生のうちで体験した大きな出来事を経る前のじぶんでもよいかもしれない。どんな人物であれ転換期はあるものだ。それは所属する組織や生活する環境が変化するだけでも訪れる。人との出会いとてそうだろう。あの体験や出会いがなければいまのじぶんはいなかった。そういう体験や出会いが訪れていなかったころのじぶんに戻ってみることで、現在の自己を客観視することも可能なのかもしれない。ひるがえって、客観視してみる習慣は、そのつど新たな変化を自己へと及ぼし、新しい人格へと変遷する契機を与える。そうなれば雪だるま式に自己のなかに無数の自己が生みだされ、どの人格とどの人格を消し、或いはどの人格とどの人格を際立たせるかで、総体としての自己を客観視するための自己を――視点を――見繕えるようになるのかもしれない。とはいえ、あくまでそれは自己を客観視しているように錯覚できているにすぎず、どこまでいっても人はじぶんを自己の外側から眺めることはできないのだが。カメラや鏡を駆使したところでそれもまた自己に投影された内世界での仮初なのである。定かではない。


3269:【2021/10/24*水のごとく】
現代社会におかれては、水の貨幣価値は低いが、水の価値は高いと呼べる。水がなくなれば人は生きてはいけない。だが仮にそうでなくとも水は生活用水として様々な人間の営みに不可欠な要素だ。ゆえに貨幣価値が低くとも、水は、人々の生活のなかでどれくらい活用されているのか、人々の生活にどれほど介在しているのか、支えているのか、によってその価値を増す。ただしそれが直結して貨幣価値に繋がるわけではない。だが水の生みだす経済効果は、全人類規模に及ぶので、市場で見ると巨大な利益を生むことになる(巨額の貨幣価値だけでなく社会資本もまた増える)。この原理は基本的にはどんな商品にも当てはまる。商品一つ一つの貨幣価値が低くとも、商品そのものの価値をあげることはできる。たとえば小説であれば、まずは小説が人々の生活に水のごとく浸透する導線を築いていけるとよさそうだ。つぎに、水のごとく様々な生活用品に活用されるとよいだろう。商品単体での貨幣価値は高くなくともよい。人々に、生活のうえでなくてはならないと思われることなくしぜんとそうなるような存在になればよいのだ。水は生きていくうえで必要不可欠だが、現代人が日常を過ごすうえで水の重要性を意識する瞬間はそう多くはない。同様に、魂の食べ物と謳われることもある物語であれ、水のように、人々の生活を豊かにし、支え、そこここに介在することはできるはずだ。小説の価値を高めたければ、いかに小説の貨幣価値を高めるかではなく、いかに人々の生活を支えるのかを考えればいい。大量消費されればいい、という意味ではない。生活を支える存在になればいい、という意味だ。依存させればいい、という意味ではない。活用の余地を広げていきましょう、という意味だ。ビジネスとはそういうものだといくひしさんは考える。最初から稀少性のある鉱物のごとく商品に関してはまた別途の理屈がいるかもしれないが。(定かではありません)


3270:【2021/10/24*じれったい】
じぶんの表現についてであるけれど、自由度が足りない。部品が足りない。選択肢が足りない。数えられる程度の型の組み合わせだけで、自在だなんだ、と絵空事を言っている。てんでなっちゃいないのだ。構造の複雑さが足りないのだが、かといって複雑にしすぎてしまえば些細な変化ですら途端に絡まってしまい、流れが滞り、回路として機能しなくなる。かといって最初から回路としてあるのではなく、なめらかに移ろい、点と点を繋いで表れる緩急の軌跡が結果的に回路のごとく全体像を浮き彫りにさせ、表現として顕現するような、なんらかの循環を起動させるために行っているはずが、行っているあいだにそれは見えず、はっと我に返り、振り返ってみたときにだけ現れる幻想のごとく、過去のごとく、歴史のごとく、記憶のなかに蓄積され一瞬で回顧可能な物語のごとく総体としての概念としてのそれそのものを、そのときどきで、あたかも百年を費やして削りだしたかのごとく造形の美を宿しつつも、瞬間瞬間の取捨選択の妙によって現れる極致を、自由自在に、好きなときに好きなように好きなだけつむぎだせたら楽しいだろうなぁ。何回お風呂を掻き混ぜても腕時計ができる、みたいな。ときには冷蔵庫が扇風機がPCが人工知能が核融合炉ができちゃう、みたいな。伝わりそうにない比喩だが。それってつまり神になりたいってことでは? そこまで傲慢ではないけれど。じゃあ自然になりたいってことでは? そこまで投げやりでもないけれど。じゃあなんなんよ。なんなのだろうね。わからんのよ。定かではない? それよそれそれ。じれったいよね。


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参照:いくひ誌。【2291~2300】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054891455752

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