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いくひ誌。【3251~3260】

※日々、本当のじぶんを認めてもらいたいと望みながら、本当のじぶんを知られる未来に怯えている、本当のじぶんなんてものがあるのかすら定かではないのに。


3251:【2021/10/09*積み木、クジ、偶然】
書くことなんかなんもないんじゃい、と思いながらも、文字を並べればなんとなく読み取れる文字の羅列になるので、ふしぎだな、の気持ちで、いつも文字を並べています。たとえば機械だろうと、ハムスターだろうと、リスだろうと、バッタだろうと、キィボードの上で跳ねて、キィを打てれば文字は並べられるわけですね。それでいて偶然読める並びで文字が打たれると、打った当人の意思に関係なく、それは読み取れる文字の羅列になるわけです。似た理屈の思考実験で有名な話に、中国語の部屋というのがありますね。言語を操る側の人間が真実に任意の言語を理解できずとも、何らかの意味を内包して映る文字の羅列を並べることはできるのです。何らかの文章があったとき、それが果たして文章の中身を理解しているから並べられているのか、それとも統計的にこういう場合はこう返しておけばいい、と一種マニュアル化されて出力されているのかは疑問の余地があります。いくひしさんの出力する文字の並びはどれも統計的に、こういう場合はこう、こうきたらこう、とマニュアル化されたある種の回路に従っているだけの、意味を理解しておらずとも並べられるほうの型です。意味は理解できておりません。意味があるのかも定かではないのです。何らかの発想を言葉に詰めようとすることはあるのですが往々にして失敗していますし、並べているうちに新たに発想が広がり、変質していくということもすくなくありません。何かを書こうと思って書くのではなく、文字を並べているうちに偶然現れた文字の羅列を目にして、そこに現れた「じぶんでは込めていないはずの意味」を幻視し、そこでようやくこれはこういう文章だったのか、との発見があるのです。この文章もそうなのですが、最初はまったくこんなことを並べようとは思っていませんでした。何も書くことなんかないよー、とぼやいちゃえ、と思って文字を並べていただけです。それなのにしぜんと、偶然に、こうして何らかのもうすこし広く、細やかな紋様を成した意味なるものの宿っていそうな文字の羅列になるのですから、ふしぎなものですね。ふしぎな気持ちになれると人は楽しいと感じるようです。ときにそうした未知は恐怖を喚起することもありますが、いまのところいくひしさんは、ふしぎだな、と思いたいがために、こうして偶然に意味らしきものを宿す文字の羅列を、積み木遊びの感覚で並べているのですね。クジみたいなものです。引いてみるまでは何がでてくるのかが分からない、ときには当たりを引くこともある、そのわくわくもまた楽しいの一つになっているのかな、と妄想して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


3252:【2021/10/10*正しさに底はないのかも】
さいきんの関心事は、ある一つの問題に対しての解釈を共有できない者同士で共存していくには、どのような手法が最適なのだろうか、についてです。より正しいほうの解釈に合わせられればよいのですが、何が正しいのかを理解するには、相応に知識や学習が不可欠で、それらはその人物の触れてきた文化とも密接に関わっており、個々の生き方によってはどうあっても受け入れられない正しさもあるように思うのです。畢竟、価値とは人間が定めるものであり、より正しい解釈のほうに高い価値があるという価値観そのものを、より正しいと判断する基準は、すくなくとも人類にはまだ編みだせていないわけであります。ひとまず、より正しいことを求めると上手くいきやすいよね、という傾向を人類が長い歴史のなかで培ってきただけ、とも言えるかもしれません。そういう意味では、極限に向かって突き詰めていける正しさもあれば、無数に正しさを内包する正しさもあるように思うのです。善悪や美醜にはそもそもそういった性質が備わっているようです。真実や現実となると、もうすこし幅が狭く、より一つの揺るぎない解を編みだしやすいのかもしれませんが、それもまた絶対ではなく、或る程度の揺らぎを帯びるものであるようです。正しさとは何かを考えると決まって、まるで世界のほうでひとつに定まることを拒んでいるような、そういったピントのズレたぼやけた感覚を抱きます。現代ではいささか、たった一つの揺るぎない解釈を共有しなければならない、との姿勢をみな無意識から「正しい」と見做しているように概観できます。しかし必ずしも揺るぎない解釈を共有できずとも、他者と互いに共存していくことは可能であるように思うのです。そもそもが、揺るぎない解釈など人類はいまのところ一つも見出せてはいないはずです。太陽はどこから昇るのか。西からなのか東からなのか。観測者のいる場所によって変わってきますし、厳密には太陽は昇っても沈んでもいません。地球が自転しているからそう地上にいる人類には解釈できる、というだけの話なのです。ですがその解釈は間違っているわけではありません。言い換えるならば、解釈とは常に、どこかしらに誤謬や例外を含んでいる、と言えるでしょう。そうした誤謬や例外を認めあいながら、許容しあいつつも、共存のためのよりよい仕組みを築けていけると、いくひしさんにとっては好ましいのになぁ、という人類が何千年も前から繰り返し考えてきただろう底の浅い疑問を、さいきんはよく妄想しております、とおのれの未熟さを白状して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(正しさとは求めつづけるものであり、求めつづける行いそのものを言うのかもしれず、それゆえに割りきったり、これが絶対に正しい、と例外の存在から目を背けた時点で、消え失せる類の儚い存在、陽炎のようなものなのかもしれませんね)


3253:【2021/10/11*魂、意識、人格】
我思うゆえに我あり、とは言いますが、果たしてこのじぶんをじぶんと見做す意識は、たった一つの揺るぎない「私」なる意識なのでしょうか。我とは果たして本当に、我、なのでしょうか。人間に意識と呼ばれるものが果たして本当にあるのかすらいくひしさんには解りません。人間には魂が存在する、と考えている現代人は、魂は存在しない、と考えている現代人よりも総数は少ないように思います。しかし、人間の生死を考えるうえでは意識の有無を引き合いにだして解釈する現代人はまだまだ多いように思われます(いくひしさんもそう考えてしまう者の一人です)。しかし魂と意識の違いに、そう差はないように思えます。身体から抜けでることが可能なものを魂と呼び、そうでない身体と癒着したもの、切っても切れないものを意識と呼んでいるだけではないのでしょうか。では、意識と人格はどう違うのでしょう。意識が人格を生むのでしょうか。では意識があっても人格がない場合もあり得るのでしょうか。それはあり得るでしょう。酔っぱらっていたり、寝ていれば人格は一時的に消失して映ります。しかし揺さぶられれば目覚め、酔いが覚めれば人格は復元されます。そういう意味では、泥酔していようが熟睡していようが意識はあるわけです。それを生体反応がある、と言い換えてもよいかもしれません。意識の有無と人格の有無はイコールではないようです。では人格とは何でしょう。我思うゆえに我ありの、我とは果たして人格のことなのでしょうか。いくひしさんにはそうは思えません。人格を生みだす機構、身体、意識、それらの総体の生みだす、幻影のようなもののように思えます。我とは、身体を含めたそれを機能させるために必要なあらゆる要素の総体のことであり、そこには自然や社会や他者や過去や概念や言葉、もろもろが含まれるように思うのです。我とは世界と同義なのではないでしょうか。私を私と認識するためには、私だけでは足りません。私を私と規定しているのは、私以外の多くの外部要素です(或いは身体とそれを維持する環境そのものです)。私がきょう朝ごはんにパンを食べたのは、それを食べるのが最も好ましいからであり(本当はステーキが食べたかったのですが)、そこに蕎麦しかなければ蕎麦を食べたでしょう。こうした峻別が過去幾多も繰り返され、私なる人格が形成されてきたのです。私は、私が思う以上に、私ではありません。私とは、我から零れ落ちた砂塵の一かけらでしかないのです。我からはたくさんの私が零れ落ちています。たくさんの人格が生みだされては消えています。私が認識できる人格もあれば、そうでない人格もあり、中には過去存在した数多の人類や、親兄妹、あなたの人格も含まれるでしょう。我を思うのは私ではありません。我が思うゆえに、私があるのです。我があるからこそ私があるのです。我とは神ではありません。そこここにただ流れる、あらゆる存在のことです。世界そのものです。私は世界によって形作られています。金型でくりぬかれるクッキーのように、或いは両手で握られるおにぎりのごとく。金型や両手のカタチ一つ、力加減一つで、私はいとも容易く私から脱し、またべつの私へと変容するのです。現に私は変容しつづけ、変質しつづけ、いまこうして一時的にいまの私であるだけにすぎません。この肉体に、揺るぎない人格など宿ってはいないのです。一つきりである保障もないのです。過去に変容した数多の私たちの来歴が、いまの私をあるカタチに限定しているにすぎません。過去の私たちの来歴が薄まれば、容易に私はその限定から脱するでしょう。魂も意識も人格も、本来そこにあるはずのそれそのものからはほど遠い、影のようなものです。我という光によって照らされているのは、魂でも意識でも人格でもなく、もっとほかの、未だ認識されていない何かなのです。私は、私だけでは私足り得ず、私は私だけであるのならば、誰にもなれないのです。どんなに強固な部屋に閉じこもったところで、私が私だけになることはできません。世界に内包されている以上、私はある限界を以って私に規定されるのです。我に思われている以上、私は私をやめることはできず、たとえやめようと試みたところで、ほかの私へと移ろい、ときに引き継がれるだけなのです。では人類がいなくなったらどうでしょう。それでも我は、世界は、そのつどほかの私を見繕うでしょう。魂でもなく、意識でもなく、人格でもない、本来そこにあるはずのそれそのものを生みだしつづけるのです。流れにできる渦のように、毛糸にできる結び目のごとく、何かを阻害し、淀ませることで、何かと何かを絡ませ、結ぶことで、それともかたどり、崩すことで。(それはいったい何という宗教ですか?)(宗教ではありません)(信じてもないから信仰でもないんよ)(じゃあただの妄想じゃんね)(何を言いたのかさっぱり解りませんでしたが)(天才っぽさを演出してみたかっただけです)(天才っぽかったか?)(イメージが貧困なんよ)(ぷぷぷー言われてやんの)(だーうっさい)


3254:【2021/10/12*なんかすみませんの気分】
おはようございます。きょうはゆっくり起床の日です。なんもしなくても誰からも何も言われない素晴らしい日であります。いつもでは? いまからわがはいの一日がはじまります。雨が降っております。おなかが空いております。食べるものがないので、あとで買ってこようと思います。話変わって、きのうは久々に人としゃべりました。まったく知らない人です。ときどき見知らぬ人に話しかけられることがあります。今回は一時間半くらいしゃべって、ばいばいしました。アメリカ国籍の黒人の方でした。日本語がカタコトであってもお達者であられて、どうやら中学校や高校で英語を教えているALTの方だったようです。また会いましょう、と言って別れたので、またいつか会うことがあるかもしれません。所作が上品で、かわいらしい方でした。マスクが猫ちゃん柄なのもキュートでした。話しているあいだ日が傾き気温が下がってしまったので、寒いのを我慢させてしまったかもしれません。申し訳なく思います。家に帰ってきてから会話を振り返って、どうしてあんなにはしゃいでしまったのだ、とじぶんの至らない言動に枕の下に頭を突っ込んで悶えてしまいましたが、寝て起きたいまならば、まんちゃんうっさい、の一言で黙っていただけるのでよろしいと思います。人としゃべるのはむつかしいですし、疲れます。楽しいだけに、ブレーキが壊れてしまうのですね。周りが見えなくなってしまうので、TPOを守るには、いくひしさんは誰ともしゃべらないでいるのがよいのであります。それはそれとして、六日勤務で休日が日曜日だけ、というのはびっくりしました。チョーたいへん、とおっしゃっておりました。それはそうでしょう。土曜日にもいまは授業があるのですね。午前中だけらしいのですが、コロナの影響なのでしょうか。公立ではなく私立の学校なのかな、とも想像します。いまこの国(に限りませんが、比較的裕福な国々)では外国人労働者を理不尽に扱って、安い労働力として酷使している、といった問題点がありますので、もちろんそれは外国人労働者に限らない話ではあるのですが、とかく労働者の――というよりもどんな人であっても生きていくうえでの――待遇は一刻も早く改善されていってほしいな、とお寝坊さんの怠け者は思ったそうなのであります。本日の日誌は以上です。お読みくださり、ありがとうございました。


3255:【2021/10/13*ズタボロ】
過去を振り返ったときに見えるじぶんの変化の軌跡は、ただそれだけを見ると結構な進歩に見えることもあるけれども、いま見えている大量の改善点や遥か彼方にぼんやり見えている理想の距離の遠さと比べてしまうと、なんも変わっとらんやん、の気持ちになって、あばー、となってしまうな。まだまだあんなに遠いんですか、あばー、の、あばー、ではなく、まだまだこんなに遊べちゃうんですか、あばー、の、あばー、です。でもときどきは、遠いよーやだやだー、の、やだー、も交じるので、いくひしさんてば欲張りさんなんだな。――ここまで文字を並べて、つづきが思い浮かばなくて、もうかれこれ一時間半くらい経つのですが、こういうときは無理をせずにまずはひと眠りするのが好ましいので、ひと眠りしちゃいます。起きたらきょうの分とつづきの日の分を並べようと思います。と思ったけど、もうここまで並べたら終わらせてしまったほうが楽な気もするので、もうすこしつづけますが、なんでじゃなんでじゃ、どうせならぜんぶ載せてたもー、いくひしさんにバトンタッチなんかせんでたもー。いくひしさん思うんですけど、ときたま真面目ぶって登場するあなたなんなんじゃ、雑用係でしょあなた、管理人とは名ばかりの雑用さんざましょ、どうしてそうでしゃばりさんのくせして中途半端なのかなぁ。いくひしさんまいっちゃう。やんだくなっちゃうな。ノルマばっかしいくひしさんに投げて、横から口だして、やいのやいの言うだけのひとなんていらんのだけど。でも手伝ってくれるのは助かるます、感謝してます、ホントです。という一人二役をすれば文字数も二倍でお手軽に終わるので楽でごわす。小説も台詞で進めると楽でごわす。でもさいきんはずっと、シュッとさせたいので、会話文は少なめを意識しておりますの貴重な情報を披歴して、きょうの「いくひ誌。」にしちゃってもよいだろか。ダメですやり直し。イヤです!


3256:【2021/10/14*技術に仕組みがついていけていない】
思うに、付加価値を増やすために稀少性を高めようとする手法は、時間経過にしたがい社会全体の発展を阻害する、と言えるのではないか。たとえばいまはどんな成果物であれデータにすれば基本的にはコピーが容易い。設計図にしろ文章にしろ絵にしろ動画にしろ、大勢に廉価版を低コストで提供することができる。だがそれをすると個々のオリジナル成果物の貨幣価値が下がるので――なぜならほとんど似たものがコピーとして巷に氾濫するからだ、水が飲み放題の場所では水の貨幣価値は低下するのと同じ理屈である、そのため――コピーを禁止したり、廉価版の流通を制限したりして、オリジナルの貨幣価値を底上げしようとする手法が多用される(ダイヤモンドや金とてそれが砂同様にそこらに溢れていたら貨幣価値は下がるが、裏から言えば砂とて、ダイヤモンドや金並みに絶対量が少なければ、宝石のごとく貨幣価値が高まる)。だがそれは、情報社会における技術力の発展した現代において、従来の古いビジネスの手法を前提としているからそうせざるを得ないだけであり、ハッキリ言ってしまえば企業や生産者側の怠慢であろう(或いは政府の)。大量にコピーされても利益がでるように仕組みを整えていくのが正攻法のはずだ。なぜなら需要者にとってそちらのほうが便利だからだ。コピーを誰もが受動できたほうが、幸福の総量が増す。成果物を食べ物に言い換えて考えてみればいい。一個のパンをつくるだけで、百万人にそれを無償で配れるとして、パンの貨幣価値は下がるかもしれないが、それによって大勢の生活が豊かになる。経済の上では一時的に打撃を受ける人々はでてくるだろうが、それは従来の仕組みが、新しい技術についていけていないだけだ。パンの貨幣価値が下がるからと言って、パンの生産量を限定して、流通を制限し、コピーを禁止するのは合理的とは言い難い。すくなくとも未来からすれば、反社会的行為だと言わざるを得ないのではないか。いまはデータであってもコピー不可な細工を施し、オリジナルの付加価値を高めて売買する手法が確立されてきている。おそらくその手法は流行るだろう。稀少性を高めるほうがお金儲けをするには楽だからだ。だがそうした公共の利便性を阻むことで稀少性を高める手法は、時間経過にしたがって社会の発展を阻害するだろう。オリジナルにはオリジナルの価値があるが、コピーにもコピーの価値がある。どちらが上とか下とかそうした考え方は、いささか理に合わないと言えそうだ。もしそれが妥当であるならば、子はいつまでも親を超えることはできない。しかし子は親の劣化版ではない。そこにきて、生物の進化と人間の生みだす成果物は違うし、「オリジナルとコピーの関係」と「親子の関係」も違う、という指摘はその通りだが、商品はつねに使用者によってその役割をまっとうすることもまた事実だ。オリジナルであろうとコピーであろうと、役割を果たすことは充分可能だ。問題は、現行の仕組みのうえでは大量に無制限に誰もが他者の成果物をコピー可能であると、損をしてしまう作り手が多数でてきてしまう点にある。だがそれは仕組みが技術の進歩についていけていないからなのではないか。繰り返すが、公共の利便性を阻むカタチで稀少性を増やそうとする手法は、時間経過にしたがって社会の発展を阻害するだろう、と妄想を逞しくして、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(まったく関係ないですが、転売に関する問題においても、転売によって得た利益を作り手側に還元できる仕組みがあれば、大方の問題は解決されるように思います。倫理観の問題だ、という意見を見かけますが、仕組みの問題であるようにいくひしさんには思えます。言ってしまえば出版社のしていることも広義の転売ではないでしょうか。ただし、でた利益を作者に還元している点が異なる、と言えそうです)(定かではありませんので、真に受けないように注意してください)


3257:【2021/10/15*ぽかぽか陽気】
ここ二週間あまり、涼しくなってから暖くなるを繰り返すからか、アゲハチョウを見かける。夏と勘違いして羽化してしまったのではないか。蝶を目にして、エネルギィ切れをよく起こさないな、と感心した。蝶に限らないが、昆虫類の持久力には目を瞠るものがある。それを省エネ能力と言い換えてもよいかもしれない。身体に対してあんなに大きな翅を動かし舞いつづけても蝶はすぐに力尽きたりはしない。どころか目的の花へとつぎつぎに移ろうのだ。自在なのである。自己を操れている。翅を動かし、目的を達成する。何がどう作用してそんな真似を可能としているのか。高次の知性を持った宇宙人から見たら人間と蝶の違いを見分けるのは困難かもしれない。意識があるように見えるし、どちらともにも高次の宇宙人にとっての意識は宿っていない。極めて本能に忠実に、そういう構造物としての能力をただ発揮しているだけ、と解釈されるかも分からない。プログラミングされた機械との区別はつかないだろう。だが蝶は誰かにつくられたのではなく、偶然にただ発生したのだ。進化の末にいまの構造に行き着いた。自然環境がそれを形作ったのだ。本当にふしぎだと思う。そういえばカナヘビも見かけた。こちらも小指よりも小さい幼体で、やはりいったん寒くなってから暖かい日がつづいたので春と間違えて卵が孵化してしまったのではないか、と想像したくもなる(卵は越冬する?)。寒くなれば卵を産む前に死ぬだろう(幼体であっても冬眠できるのだろうか?)。もしそういう個体が多くなれば、気候変動の影響は、季節によって産卵や孵化のタイミングが決まる生物種にとって致命的な悪影響と化すだろう。絶滅する種もでてくるのではないか、と懸念を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(とはいえ中には季節の移ろいに鈍感な個体もあるでしょうから、そうした個体が繁栄しやすくなり、すっかり絶滅してしまう、ということはすぐには起こらないのかもしれません。多様な進化が加速的に促されつつあるいまは時期なのかもしれませんね)


3258:【2021/10/16*無の日じゃった】
寒いが。早起きしておでかけしよ、の予定がさっそく狂った。寝すぎて足が、シュっとしてしまって足腰よわよわマンに逆戻りである。これじゃあいっぱい動き回れないのでおうちでごろごろ過ごしなさいの啓示と見做して、きょうはおうちでごろごろしちゃった。さいきんはぜんぜんご本を読めておらず、小説もつくれておらず、ぜんぜんダメダメのだめちゃんなんじゃ。でもダメダメのだめちゃんでなかったことがないのでいつも通りと言えばいつも通りでおじゃる。ダメダメでも生きていける世の中に感謝でごじゃるな。はぁ、ダメダメでよかった。よっくなーい、とおかんむりのいくひしさんもいらっしゃるようですが、そのおかんむりは王様にお返しし、ときに王妃様に献上し、あるいはお姫様に差しあげて、王子様にはコビを売りつつ小金を稼いでウハウハだぜ。話変わって、さいきんはヒトラーの本を二冊読んでいるのだけれどまったくわからん。何がどうなって何がよくなくて、けっきょく何がどうなったらよかったの、というのが見えてこない。むつかしい。ヒトラーって元々はドイツ人ではなかったんだよー、くらいがせいぜい読み解けたくらいで、最初はユダヤ人たちにお世話になったりしてたんだよー、というのもギリギリ読み解けました。勘違いしているだけかもしれません。歴史はむつかしい。二冊目はまだ百ページも読めてないのでちまちま読み進めていくだが。


3259:【2021/10/17*非実在キャラクター】
実在しないキャラクターにも生身の人間同様の社会規範や法律が適用され得るなら、おねショタもおねロリも不倫モノも学生冒険譚もSFも殺人ミステリもエログロも何もかもがダメでない? 虚構の影響は無ではないが、それに影響されない環境や教育を目指していくほうが人類の未来の在り方としてより妥当なのでは?(極論、デマやプロパガンダは虚構を用いて行われるが、それを禁じるよりも、そうした偏向した虚構に人々が著しく影響されない環境や教育を築いていくほうが、社会の在り方としてより長期に亘って「寛容さと公平性」を維持できるのではないでしょうか)


3260:【2021/10/17*他者の尊厳を守るためにほかの者たちの尊厳を奪わないでほしい】
同性愛者に人権があるように小児性愛者にも人権がある。誰にだってそれはある。ある、としていかなくてはならない。そうでなければ社会に参加する意味がない。そうではないのでしょうか。(実在(現実)と非実在(虚構)の境界はそうそう容易く踏み越えないほうが好ましいのでは、との考えです)



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参照:いくひ誌。【891~90

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