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いくひ誌。【3241~3250】

※日々、知らない世界が多すぎる、世界はまだまだ果てなく、底知れない。


3241:【2021/09/30*きょうの閃き】
天才の表現やら成果物やらパフォーマンスを見かけるたびに、じぶんの才能のなさをつくづく、しみじみと実感するのだが、そのときに抱く諦めの気持ちは晴れ晴れしさに似ており、それでも、それゆえにかじぶんの内側の世界にじんわりと広がる波紋の、ぬわん、ぬわん、の響きが心地よい。とりもなおさず、真実に内側の世界が広がっているのかもしれず、諦めるからこそ新たにゼロから積みあげていける何も持たないがゆえの気軽さが、どことなく風の奔放さにも似ていて、やはりよいな、の感情が湧く。昼間に思いついたことなのだけれど、死にちかいものはかわいい、という言葉をさいきん知ったのだけれど、どちらかと言えば自由なものはかわいい、のほうがしっくりくる気がする。死も、どちらかと言えば自由にちかい。同時に、自由にちかくない死もある。ひるがえって、どんなものにでもかわいい側面があるのにかわいくない側面もあることの理由の一つが、すなわち、自由にちかいか否かなのではないか、と自転車を引きながら坂をのぼりつつ思った。でもかわいくない自由もまたあり、ひょっとしたらかわいくない自由は、自由ではなく不自由にちかいのかもしれない。たとえば暴力の伴なう自由はかわいくない。でもかわいい暴力もあるので、なかなか匙加減がむつかしい。ひとはなぜ何かを観測したときに、かわいい、と思うのだろう。かわいいは、それほしい、と似ている。じぶんの中に取りこみたいもの、それでいてじぶんと同化しきれないもの、それとも愛でていたいもの、じぶんのものにしたいけれどもじぶんのものにはならないでほしいもの。そういうのが、かわいい、なのかもしれない。支配したいけれど、したくない。自由であってほしい。そのままでいてほしい。そういうのを見ると、かわいい、と思う。かわいいって何ですか?


3242:【2021/10/01*じゅ、じゅうがつ】
公園には池がある。一週間のうちに何回か公園に散歩に行くのだけれど、いまの季節はヤゴの抜け殻を見つけることができる。池の周りに張られた進入禁止のロープやその支柱にヤゴの抜け殻が数十匹ほどしがみついている。大きさは小指の爪ほどだ。けっこう小さい。赤とんぼが飛んでいるので、きっとそれだ。でも赤とんぼというトンボはいないそうなので、なんという種類のトンボかは分からない。ヤゴの抜け殻にはどれも、背中の割れ目から糸が飛び出ている。時限爆弾のコードみたいに糸の先端は見えずに、折れ曲がって、コの字を描いている。中身と繋がっていた何かしらの血管だろうか。だとしたら脱皮したときに千切れそうなものだのに、千切れていない。ふしぎだ。あと、けっこう抜け殻は硬いのだ。指でつまんだ程度ではつぶれない。つぶすぞ、と意気込んだらつぶれる。つぶさないけど。ヤゴ自体はそんなに硬くなかった気がするのだが、だとすれば脱皮に備えて徐々に硬化していくのだろうか。ヤゴは蛹になることはないけれども、蛹と同じような変態をじつは行っているのかもしれない。皮膚の構造を調べたら、ヤゴと脱皮間際とトンボではすべて異なった形質を帯びているのかも(単に抜け殻になったあとで乾いて硬くなるだけの可能性もある)。話は変わりますが、池の周りはブロックで固められており、綱渡りのようにしてその上を歩くことができる。子どもはみなそこを歩くのが好きだ。示し合わせたようにみなそこを歩きたがる。親は子どもが池に落ちたら困るので、何段も低い外側を歩きながら子どもの手を引いて歩く。どの親子も似たことをするので、どの親子も同じだなぁ、と人間の習性をおもしろく思う。それともこれもまた文化なのだろうか。本能ではなく文化的に育まれた何かかもしれない。きょうは雨なので公園には寄らない。雨音は好きだ。濡れず、凍えずに済む場所にいるならば、の話だけれども。これもまたきっと文化的に育まれた感性に違いない。本来雨は畏怖すべき存在だ。しかし家を築けるほどに豊かになると、安全が身に染みるためにか無意識の内から安心を実感できるので、きっと雨音に安らぎを見出せるのだろう。贅沢なものですね、と我が身を振り返り、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おしまい。(ネットで検索してみたところ、虫に血管はないそうです。抜け殻の白い糸はどうやら気管のようです。なにゆえ内臓たる気管まで脱皮するのか、ふしぎな感じがしますね。臍の緒みたいな感じなのでしょうか。生き物の構造はすごいですね)


3243:【2021/10/02*んが】
人生を変えられるくらいに衝撃的な事物との出会いは、それのもたらす変化の善し悪しにかかわらず、ひどく個人的すぎるがゆえに、絶賛も酷評もできない。これは表現物であれ同様で、じぶんにとって真実嘘偽りなく掛け替えのない表現物であるほど、絶賛も酷評もできないのだ。絶賛し酷評できる時点で、ある種、じぶんの中に取り込めきれなかった異物であることの告白と同義とも言える。ただし、時間経過によってしだいに異物が消化され、じぶんにとって掛け替えのない事物に変質することもある。言い換えるならば、最初は絶賛したりこき下ろしたりしていた事物であれ、往々にして時間が経つと冷めていくものだが、その冷め方にも大別して二種類あり、一つは「もうまったく関心が湧かなくなって気にも留めなくなる事物」と、あべこべに「意識の底深くに沈み、根を張り、いつでもその影響を延々と受けつづける自我との同化を体現する事物」とに分けられる。人生を変えられるくらいの衝撃を受けた事物は後者に属し、もちろんじわじわとした影響だけでなく、一発で進路変更を余儀なくされるくらいの衝撃をもらうこともある。いずれにしろそうした自我と同化するくらいにまで融和された事物については、人は絶賛も酷評もしなくなる。人は、真実に生きる上で手放せないものほど、言及しないのだ。水にしろ、空気にしろ、重力にしろ、米にしろ、言葉にしろ、本懐にしろ。真実に必要なものほど、のほほんと感受し、そこにあって当然のように振る舞う。だがひとたび欠けると、大騒ぎをする。ふしぎな現象である。何か目から鱗が落ちそうなことを並べようと思ったけれど、思った以上に底の浅い所感が漏れてしまった。水や空気ってふだん意識してないけどなくなるとたいへんだよね、というさっこん小学生でも言わなそうなあたりまえの話である。でも、じつは小説やマンガだってそれくらいの存在になることもあるんですよ、という着眼点は、小学生が言ったらすこしは、おっ、となりそうだ。そこにきて、いくひしさんが言っただけでは、またまんちゃんがなんか言ってら、くらいの扱いになりそうなので、なんでや、の気持ちが湧いてしまうな。子どもがしてすごいことは、おとながしてもすごいと思います。でも、いくひしさんはおとなにすらなりきれなかった、子どもでもない者なので、もっとすごいのである。二重にすごいのである。子どもでもおとなでもないならしょうがない、諦めよ、ではなく、すごいのである。崇めたてまつるがよろしい。


3244:【2021/10/03*なんじゃらほい】
七月からスマホに替えたけれど、ガラケーだったころよりも使用頻度が減ったので、もうほとんどいらんな、の気持ちだ。でもいくひしさんが困らずともいくひしさんに連絡をとりたいほかのひとたちが困るらしいので、まだ使いつづけようとは思っている。あ、でももろもろのネットサイトにログインするときにメディア端末がないと、送られてくる暗証番号を入力できなくてログインできないので、スマホないと不便だ。いまの世の中、何でもスマホと関連付けられてしまって、スマホを使用できなくなった途端に利用不能となるサービスが多すぎないだろうか。とはいえそれ以前では、そもそもサービスすらなかったのだから、単純に便利なサービスを受けられるようになったことの弊害と言えるだろう。セキュリティを強固に保持しておくにはスマホとかそういったある程度個人を同定可能な道具を介すことはそれなりに有効だ。とはいえこれからは、生体認証やモノAIの普及で、どんな端末を使おうとその都度じぶん専用の端末として使えるようになると予測できるので、端末を乗り換える、という行為そのものが淘汰されていくのではないか、と妄想している。言い換えるなら端末は飽くまで窓口でしかなく、端末の中にデータが保存されることはなくなっていくだろう。ネット上のクラウドに常時バックアップされていくようになるはずだ。そして生体認証によって、どんな端末を使用しようと瞬時にそれら専用の個人クラウドにアクセスされるので、そもそも自分用の専用端末を持つ必要がなくなる。買い物カゴみたいにその都度、好きなときに利用できるようになるだろうし、大量に市場に普及するためそれそのものに商品価値がなくなるので、個人データの価値が相対的にいまよりもあがると妄想できる。何か言ったようで何も言っていない文章を並べてしまったけれども、きょうはもう何も思いつかない日なので、こんなのでもきょうの「いくひ誌。」にしてよいだろか。いいよいいよ、許しちゃう。ありがとうれし。


3245:【2021/10/05*かつんかつんでごじゃるよ】
レパートリーがすくないの意味で、引き出しがすくない、という言い方をするけれど、いままさにいくひしさんはそれなのだね。引き出しがすくない。同じことの繰り返しばかりしている。でも分かっちゃいるけれども、じゃあどうやって引き出しを増やせるの、というと、それはもうしたことのない型だの流れだのをひとまず手当たりしだいに、できるところから試していくしかないのだよね。でもこれがまたどうにも、最初はまったく身体に馴染んでいないから見るからにぐねんぐねんのガタガタで、わがはい下手でござる、の発表会なのかとじぶんでじぶんにピタコンと、あなたは下手でござるよ、の判子を捺さざるを得なくなってしまって、つねに「わがはいを崇めよ!」の大合唱を一人で唱えているいくひしさんにとっては、これ以上ないほどの屈辱なのだよね。でもそこのところを耐えて、見て見ぬふりをして、わがはいは下手でござる、と胸を張って、もろもろのいまここにはない流れに身を浸してみないことには、引き出しというものは増えないようなのだ。ガラクタをまずは増やさないことには、材料も増えないので、作れるお料理の品数も限られてしまう。ガラクタがガラクタなのは、何の一部にもなっていないからであって、何かの流れだの、仕組みだの、構造だのの一部に組み込まれ、部品になってしまえばもう、ガラクタはガラクタではないのだ。いくひしさんの底が浅いのは分かりきっているので、引き出しを増やすためにも、まずは箪笥の材料となる大樹を育むべく、土壌から耕していかねばならない時期にいまは足を突っ込んでいる気がする。ガラクタをただ揃えるだけでなく、ガラクタを生みだす種々の木々を育むために、ガラクタですらない、堆肥の素となるウンチさんからまずはこさえていきたい時期なのだね。なんだそりゃ、のいろいろなダメダメを、まずはうんと取り揃えていきたいな、と本日のいくひしさんは思ったんだそうな。おちまい。


3246:【2021/10/05*伝わりますか?】
じぶんの表現を眺めてみるに、いつも違和感しか湧かない。どこかしら引っかかりを覚える。うーんなんか違うんだよな、そうじゃないんだよ、というのは漠然と判るのだが、では具体的にどこがどうよろしくなくて、どこをどうすればよくなるのかは、まったく以って藪の中だ。方向性のようなものが見えればいいほうで、たいがいは、なんか違う、の違和感しかない。この違和感は、理想と現実のギャップなのだろうが、その理想というものがそもそもにおいて抽象的であるので、なんか違う、としか感じようがない。さいきんになってこの、なんか違う、と思うときの共通項のようなものが見えてきた。勘違いかもしれないが、ひょっとしたら限定的に妥当な解釈かもしれないので備忘録代わりに並べておくとする。さて。じぶんの表現に違和感を覚えるときはたいがい、二つの問題点がある。一つは、流れが淀んでいること。もう一つが、立体ではないことだ。裏から言えば、流れをなめらかにできれば改善できたことになるのだろうし、奥行きを感じられるくらいに立体を顕現できれば好ましいのだろう。流れに関しては、緩急のリズムと言い換えてもよいかもしれない。緩急をつけるだけでは足りず、緩急を構成する「線と点」で編まれるリズムが心地よいと、どうやらいくひしさんは違和感を覚えずに済むようだ。立体の有無に関しては、その緩急のリズムとも相関するのだが、違和感を覚えるときは往々にしてそれは「地上から見たときの星座」なのだ。描かれるのは夜空に浮かぶ平面の輪郭であって、そこに奥行きは感じられない。だが本来星座をなす星々は、それぞれに地球からの距離が異なっている。地上から見ると、夜空という黒板に描かれた点々でしかないのだが、真実に星と星を線で結ぶとなると、そのじつはジグザグと立体的な軌跡を描くこととなる。地上からの視点でありながら、そのジグザグまで感じられるように緩急にリズムをつけられると、いくひしさんは違和感をより抱かずにじぶんの表現を感受できるようだ。言い換えるなら、より理想にちかいカタチで表現を行える。とはいえ、緩急のつけ方が変わればリズムが変わり、そうなれば立体感の出し方も変わってくる。緩急は線を引く作業と言えるし、リズムは濃淡と言い換えることもできそうだ。そこにきて立体感は何かといえば、ピカソのキュビスムよろしく、多視点から編まれた緩急の履歴と言えそうだ。つまり、流れをいくつかの視点から捉え、切り貼りし、それそのもので以って一つの像を浮き彫りにする。それはたとえば、三次元プラス時間からなる四次元においてまずはそれら四次元をいくつかに裁断し、断面をつくって、その断面で以ってちぎり絵よろしく任意の像の輪郭を錬成し、最後にその状態で時間の経過が切れ目なく流れるように調整する作業、と言えるかもしれない(エッシャーの騙し絵に似ている)。時間の流れはつつがなく滑らかに(ときには渦を巻いたり、停止したりしながら)移ろい、それでいて時系列そのものは必ずしも一方通行ではなく、ツギハギであり、ときに断裂している。飛び飛びなのだ。あたかも四次元の断面にて滝ができているかのように、過去と未来が同列であり、現在と未来が過去であるような、そういった錯綜を宿す。そうした錯綜が、緩急やリズムを生みだす「線や点」の役割を果たし、当初予定していたよりも立体感のある緩急のリズムが生まれる。うまく言えないが、このような複合的で、ところどころ飛躍しつつも、全体として淀みない流れが立体的な回路を伴なって表れたとき、どうやらいくひしさんは、心地よい、と感じるようだ。それを、美しい、と言い換えても、ここではあながち的外れではないし、かわいい、としても、それほどお門違いな言い換えとはならないだろう、とおおざっぱに覚え書きよろしく備忘録なる妄想をまき散らして、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


3248:【2021/10/06*根が他力本願なのである】
何かを遺そうとか、人類のためにとか、そういう壮大な夢を思い描いているわけではない。自由に生きて、その結果に僅かなりとも周りの人間たちや次世代の人々にとって好ましい影響を残せたらよいなぁ、という方向性があるだけで、べつに好ましい影響を及ぼせなくとも、いくひしさん自身が好きに自由に、より自在に、日々好ましい感情の起伏を抱けて生きていけたならば、それで構わないと思っている。ただし現代社会では他者を損なうとじぶんの自由も侵害される確率が高くなってしまうので、なるべく他人の自由を損ないたくはないよね、というこれまた方向性をいまのところはじぶんの選択の指針にしているだけのことだ。インターネット上に載せている小説とて、いつ消してしまってもいいと思っているし、どの道、百年は残らないだろう、と見立てている(サイトがなくなれば消えるのが道理だ)。いくひしさんのいまこうして及ぼしている影響は微々たるものであり、蝶の羽ばたきほどもない。すくなくとも蝶は花々の受粉を手伝ったり、死後、ほかの生き物の糧となっている。いくひしさん自身とて生きているあいだに及ぼす影響は、ほかの動植物種と同等だと評価するものだが、こうした創作や表現に限定して述べれば、ほとんどないに等しい。あったとしてもそれはいくひしさんが及ぼした影響ではなく、誰かほかの人に掬い取ってもらったからこそ生まれた恩恵でしかない。すなわち、いくひしさんは影響を及ぼされている側であり、贈り物をされている側なのだ。もちろん作用反作用の法則よろしく、影響というのは単独で成立する概念ではない。相互に働きあうからこそ、影響は影響としてその輪郭を維持する。風のようなものだ。風は、大気の移動であり、言い換えるならば、動きがにぶい大気と動きの活発な大気があるからこそ生じる現象と呼べる。動くものがあり、動かないものがある。すべてが同等に均質に動いていれば、それは何も動いていないのと区別はつかない。地上にいる人間が地球の公転を体感として知覚できないのと同じことである。だが人間は星や雲を眺めることで、地球が動いているかもしれない可能性を閃ける。差があるからこそ、変化を知覚できる。影響とて同じだ。いくひしさんはいまこうして文字を並べているが、これによって影響を及ぼす相手がいまのところこの瞬間にはいない。じぶん以外にはいない。だがいつの日にかこの文章を目にした者が現れれば、いくひしさんの無為な時間に意味が生じる。意味を与えているのはいくひしさんではなく、これを読んでいるあなたである。いくひしさんが与えているのではない。与えられているのはいくひしさんのほうなのだ。ほかの表現者や物書きがじぶんの文章の価値についてどう考えているかは知らないが、すくなくともいくひしさんの並べる文章には価値がない。読者がおらず、吐きだすことですでに役目を終えているからだ。これらはもはや役目を終えた灰である。しかし、こうした灰を目にして、新たに芽を生みだしてくれる者もある。影響を生みだす者もある。すなわち読者であり、あなたである。これはただここにあるだけでは何の価値もないただの文字のかたちをなした汚れにすぎない。その汚れに何かしらの意味を見出し、影響を生むのは、いくひしさんではないのだ。いくひしさんは何も遺せないし、役に立たない。灰を、汚れを、役に立ててくれるあなたがいるばかりである。(この考え方の危ういところは、悪口や誹謗中傷もまた、読み手が勝手に傷ついているだけだ、という暴論と構図が同じ点にある。しかし悪口や誹謗中傷というものは特定の個人に向けられるものであり、対象が限定されている。その点、いくひしさんのこれら文字の並びには、特定の個人が想定されていない。とはいえ、それはヘイトも同じなので、この考え方は、あまり理に適ってはいないのだろうと自己分析するしだいである)


3248:【2021/10/07*体力減退】
ここ数日、一年ぶりに片道八キロを自転車コギコギする日々を送っている。端的に言って体力が激減している。目的地に到着しただけで疲れきっているので何もしないうちから、早くおうち帰りた、になる。血が薄くなった感じがして、指先が微妙に痺れている感覚があるが、そう言えば以前はそうだったなぁ、と一年前のじぶんの体調を思いだす。せっかく蓄えたお腹のぷにぷにが寝て起きるたびに減っているので、おらの脂肪ちゃんが、とこの一年のあいだに蓄積してきた貯金のようなものが瞬く間に底を突く感覚を味わっている。人間ってこんなに簡単にげっそりしていいものなのだろうか。全身の細胞がふて寝しておる。とか言いながら水分をガブガブとるので、遠からず水っ腹になるだろう。二十一時には眠くなってしまって起きていられないので、寝てしまう。いつも思うけれど、じぶんのことを並べるとなんでこんなにつまらない文章になってしまうのだらう。いやだな。面白い人でいたかった。かといってむりやりキャラをつくってもイタイタしいので、どこかむなしくなってしまうな。全身の細胞たちが栄養寄越せ、とストライキを起こしているからか、文章までげっそりする。とか言いながら、好きなことしかしていない遊んでばかりの日々なので、真面目に働いている人からしたら、おまえ何言ってんのもっと苦労しろ、と叱られてしまいそうだし、どうせこのさき苦労するから好きなだけサボってたらいいんじゃないんですか好きにしたら、と匙を投げだされてしまいそうでもあり、遊ぶのだって疲れるんじゃい、と自棄を起こしたくもなる。起こさないけど。とにかく、一年ぶりなのだ。そう言えば以前はこういう生活だったなぁ、と否応なく忘れてしまっていた感覚を思いだしており、なかなか新鮮な心地だ。子どものころに戻ったらきっとこういう感覚になるのではないか、と疑似体験をした気になって、本日のやる気のない日誌こと「いくひ誌。」とさせてください。


3249:【2021/10/08*花咲く色は青白い】
(未推敲)
 ヨシダくんが別人のようになってしまってから半年が経った。以前は(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427294292237


3250:【2021/10/08*鈍化と過敏】
人間、痛いことはしたくないものだ。回避したくなる。その点、楽しいことは多少の痛みが伴うくらいならば率先して行おうとする。というよりも、痛みに気づきにくくなる。反面、楽しくないことは痛みに敏感になるということもあるかもしれない。なぜやるならば好きなことや楽しいことをしたほうがよいのかは、おそらくここのところにも通じており、楽しいことを行うときひとは痛みに鈍感になる。その分、ふだんならば身体が痛みを感じ怯むようなことでも平気でやり通すことができる。筋繊維の損傷や神経細胞の劣化をものともせずに行える。だが痛みの鈍化だけでなく、その損傷の仕方そのものが、怯みつつ行うのと率先して躊躇なく行うのとで異なるのだろう、と妄想できる。たとえば受け身でもそうだが、逡巡するときほど身体を痛めるよくない受け身になってしまう。いっそ大胆に思いきり転がったり、倒れにいったりしたほうがダメージが分散され、損傷をすくなくできたりする。これは受け身に限らず、あらゆるパフォーマンスに言えることかもしれない。躊躇によって好ましくない損傷の仕方をしてしまうのだ。ゆえに回復したとしても強化される部位が、好きなことをして行ったときとそうでないときで違ってくるのではないだろうか。この理屈から言えば、躊躇と手加減もまた違うはずだ。全体のちから加減の比率をそのままに出力を減らすのが手加減であり、躊躇はそもそも合理的でない身体の使い方や考え方をしている、と言えよう。ただし、必ずしもそうした躊躇が悪影響ばかりを生みだすわけではなく、バグによって進化が促されるように、躊躇したからこそ別の手法を試す契機になることもあるはずだ。無自覚で行うのではなく、いまじぶんは躊躇している、と自覚することで、悪影響を好ましい契機へと変えていくこともできるだろう。痛みに鈍感であったほうが全力をだせるが、些細な痛みを感じられればどこに負担がかかっているのかを細かく分析でき、全体の合理化に繋がる。たまには好きでないことや、躊躇してしまうことに挑戦してみるのも、そうわるくはないのかもしれない。(中身がなくてすみません)



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参照:いくひ誌。【321~330】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882559089

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