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いくひ誌。【321~330】

※ひじよりさきが切り離されても、ひじよりさきには痛みを感じる器官がない、それはたいへんさびしい砂糖醤油で、痛みを感じる器官こそが私であるという懐かしい間隙が宴をひらく。


321:【多様化】
インターネットの普及により、世のなかの仕組みが、主として需要の在り方が多様化するのではないか、という見方が一時期支持され、そして現状、それは間違いだったという方向へシフトしはじめている。しかし、それこそ誤った見方だろうといくひしは考える。話は逸れるが、現状、広く話題に上った、いわゆる流行した作品が、長くそのジャンルのスターとして君臨する「ヒーローシステム」がネット社会での主流となりつつある。一部のヒーローが市場を独占する現象がより強固に顕在化しつづけている。だがあべこべに、需要の在り方は、細分化し、多様性を極めているのではないかといくひしは感じている。つまり、かつて唱えられていた趣向の多様化が根元の部分では従来の予測どおりに進んでいるのではないか、という指摘だ。ネット社会が到来したとき、人々はその情報の波に触れることで社会がより多様化し、あらゆる個性の混在したモザイク状の社会が到来するのではないかと予測した。だが現状は、インターネットがもたらしたのは、情報の自動販売機だ。あらゆる銘柄の情報が並んではいるが、けっきょくは購入者がコーヒー一択でありつづければ、そこに多様性は生じない。言い換えれば、一辺倒な情報に触れつづける機会を増やし、より無自覚により偏向した情報に満たされた葡萄のフサを量産する大樹をインターネットは育んだ。見逃しがたいのは、自動販売機で情報を入手する者たちは一様に、みずからがその情報を選んだという、歪んだ認識を持っている点だ。入手した情報が偏向している事実に気づけないだけでなく、みずからの手で選択の幅を狭めていることにも盲目している。しかし、内心では飽きと、現状からの脱却への欲望に満ちている。毎朝缶コーヒーを購入する日常に嫌気がさし、せめて朝だけは非日常的な、異なった刺激を味わいたい。だが冒険がしたいわけではない。失敗はしたくない。だからこそ、現状、多様な潜在的需要に溢れていながらも、社会には「大衆の支持」という実体のない情報――ランキングやSNSなどでのバズデータに選択の余地を預けている。ビッグデータ解析はこれからますます精度を増し、一人一人に見合った型の情報の提供システムが構築されていく。それはたとえば、オススメの作品を提示し、それが気に入ったか気に入らなかったのか、いいねボタンを押すのか押さないのか、視聴するのかしないのか、途中で切るのか、それとも繰り返し観るのか、類似の作品に興味を示すのか、それともその作品を構成する要素――たとえば作者に興味があったのか、ちがう要素なのか、そういった情報が、極めて貴重な材料として見做されるようになっていき、そしてそれらを元にした個人データが、需要者みずからシステムに望んで提供する時代の到来を予感させる。すでになっている、という指摘は大いに的を得ている。だが、まだそれに依存する需要者にその自覚がない。これからは、自覚的に情報を提供する時代になっていく。プライバシーを保護する時代はブロックチェーンなど新しい技術の普及に伴い、セキュリティが向上し、しずかに終焉を迎える。並行して、プライバシーをいかに社会に繁栄させるかの時代になっていく。それは一見すれば画一的な情報の波が表層を覆う社会に映る。なぜなら、個々人を結びつける「糸」の代わりとなる共通の話題が今まで以上に必要とされるからだ。個々人の違いがはっきりと浮き彫りになればなるほど、一見、社会は多様性を失って見えるようになる。だが、常識や良識が、けっきょくのところ、禁止事項への深い欲動の反動でしかないのと同様に、これからさき到来する画一的な社会は、多様性のある社会の裏返しだと呼べる。表層の情報に踊らされてはならない。核心はすでに社会に根を深く張り巡らせている。


322:【自信というより鬼神】
ぼくは年に三回くらい人から、もったいない、とか、自信持ちなよ、とか、どういう意図が込められているにせよ、現状で満足しているなんてバカじゃないの、みたいな言葉を向けられる。どうもぼくの起伏のすくない行動の軌跡を示し、彼らはそのような感想を持つらしい。誤解だ。ぼくは誰より自信家だし、誰より、じぶんを買い被っている。今こうしているすべての行動に意味があり、そして必ずや狙った結果が訪れると確信している。数字にはけっして表れない影響を、ぼくはすでに世界に色濃く刻んでいる。知っているよ。彼らがそれに怯えていることを。彼らはぼくが恐ろしいんだ。


323:【はいはい】
だれからも相手にされなくってさびしいんでちゅね~。よしよし。


324:【あのさぁ……】
せっかくかっこいいこと言ったのにダイナシにするのやめてくれない?


325:【悲境】
卑怯さと賢さを勘違いしている人間がいる。勘違いしているとき、ほんとうの賢さとは愚かしさのほうにこそある。また、ほんとうの意味で賢い人からすると、仮初の賢さは愚かしさを伴なっており、どうあっても賢さとは愚かしさを含有する。かなしい。


326:【なにもんだこやつ】
書店さんで気になる本を買ってきた。気にならない本は買わないのがふつうなのでべつだん特筆すべきことがらではないのだが、しかし購入した本を一読しておどろいた。「あれ? いくひしいつこんな本書いたっけなぁ?」いっしゅんすっとんきょうになった。すっとん、てのはいったいどこの神さまだ、なんて妄想の翼を広げつつ、本気でじぶんが書いた本かと錯誤した。作者は「外山 滋比古」である。購入したのは二冊で、「思考の整理学」「ものの見方、考え方」という本だ。思考の整理学は主として閃きについて語られている。独創性がどこからくるのか、といったテーマに主眼が置かれているように感じた。いくひしと似た考えを展開していたのにびっくりしつつも、まあ、閃きとはなんぞや、いずこよりやってくるのか、をいちどでも考えたことのある暇人ならば、必然、そこに行き着くようなぁ、といった着眼点ではあった。むろん、いくひしが説明するよりもよほど解りやすくまとめられている。むしろだからここで言いたいのは、「ものの見方、考え方」のほうだ。物語の多重構造(圧縮化)を推しているいくひしとしてはぜひとも、多くの編集者の方々に、「エディターシップ」と「フィナーレの思想」の項を一読していただきたい。時代は繰りかえす。繰りかえしながら進んでいる。ころがるにつれ、事物はだんだん丸くなる。


327:【食わず嫌い】
むかしから苦手なものが多かった。食べ物はとくにひどく、基本的に一品料理しか受け付けられない。三角食べなんてもってのほかだし、海鮮、キノコ類は今でも苦手だ。騙されたと思って食べてみなさい、というおとなたちの言葉の意味もよく解らず、騙されたと思って食べてみたらほんとうに騙された、としか思ったことがなく、それはどこか、いたずらに殴りつけてくる相手から「殴られたと思って怒ってごらん」と言われるのと同じくらいピンとこない言葉だった。旅行でも同じで、じっさいに足を運んで見たときの風景よりも、写真や映像で見たときの偽物の風景のほうが、よりすばらしく感じる。言い換えれば、本物を見てがっくりくることがすくなくない。ほとんどそうだと言ってしまっていい。偽物の、虚構のほうがうつくしく感じる。むかしからそうだった。考えてみればそれは当然のことで、醜いところを排除し、うつくしいところだけを切り取られたものが、写真や映像として残る傾向にある。そうでなければ商品価値がない。スクープ写真はあべこべに醜い部分をクローズアップするので、受ける印象ほどには、あれらも本物は醜くないのだろうと推し量るものだ。むかしから食わず嫌いではあったが、齧ってみても苦手なままのもののほうが多かった。ほとんどそうだと言ってしまっていい。しかし、小説だけはちがった。不味そうだなぁ、と思っておそるおそる舌のうえに載せてみると、信じられないくらい美味なのだ。苦手だなぁと思っていたのが、じっさいに触れてみると、なんとすばらしいものだ、と世界観を一変されてしまう。あらゆる事物が食わず嫌いにはならずいつまで経っても「食べても嫌い」だった。しかし、小説と出会い、それが変わった。刷新とは、まっさらな状態にされることではなく、「私」という世界に新たな言葉が書き加えられることなのだ。(もっとも小説は端から虚構ではあるのだが)


328:【視覚と死角】
ある分野に長く身を置きつづけていると、途端に見えなくなってくるものがある。それは一本の道にも似ていて、数回程度の往復ならば、通るたびに新しい発見があるが、毎日のように足を運ぶ馴染みの道となってしまうと途端に、目新しいものが見えなくなってしまう。これは、脳がそのような処理の仕方を覚えてしまうからで、言うなれば、処理済のハンコを捺されてしまっている状態だ。何が問題で、何が問題でないのか、未知の領域を未知のままで放置していてもだいじょうぶだとする線引きを完了させること、これがすなわち、素人と玄人のちがいになる。素人は、何がだいじで、何がだいじでないのかの区別がつかない。ゆえに、先人である玄人から学ぶか、或いは、自ら、手当たり次第に確かめていくほかない。先人から学ぶ者のほうが成長は遥かにはやい。言うまでもない。無駄なことをせずに済むのだからそうなる。しかし、先人が無駄と断じ、切り捨てた未知のなかに、新たな発見がないとも限らない。それを掘り起こすのは、素人にしかできないことなのだ。玄人は、道を極めつづける存在だ。道のありようを根本からひんまげるような真似はできない。ある分野に身を置きつづけていると、途端に見えなくなるものがある。それは、本来、消えることなく増殖しつづける未知の領域だ。新たな知見を得れば、新たな道が切り開かれる。しかし、細分化しつづける未知にいつまでも付き合いつづけてはいられない。道は進まねば意味がない。いっぽう、素人には、そうした道草を食う余裕がある。道草を食うことが素人の専売特許と言ってみてもいい。何かを極める資格は誰にでもある。未知を見据える視覚さえあれば、たとえ足が止まって映ろうが、その者は進んでいるのである。だいじなのは、資格でも視覚でもない。死角の有無に気づくことである。


329:【安心感は麻痺の別名】
人と関われば関わるほどダメになっていく。朱に交われば赤くなる。ダメになればなるほどじぶんの輝きが解ってくる。じぶんの価値など一生解らないままでいい。元の世界に戻ることにする。(2017年02/16)


330:【新人類】
2017年5月の時点で未就学の子どもたちと、それより上の世代の者たち、ここにひとつの明確な線が引ける。2018年以降に小学校へあがることとなる幼児たちは、産まれたときからスマホが玩具のひとつとして馴染みあり、そして東日本大震災以後に生まれている。我々へ劇的な変化を及ぼした体験を経ずに、彼らはそれが当然そうあることとして生きていく世代の第一段目となる。我々からするとそこに開かれる差異は、一世紀ほどの隔たりがあると言って大げさでない。彼らが社会に羽ばたくとき、我々は自身が築き上げてきた価値観を打ち砕かれる覚悟を今からひっそりと固めておかねばならない。彼らは我々より遥かに優秀な未来人である。我々は、我々より一回りも二回りもちいさな巨人たちに、従来よりもずっとはやい段階での「活躍の場の譲渡」を決行せねばならなくなるだろう。そのとき、我々にでき得るさいだいの社会貢献は、無駄な抵抗をしないことである。

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