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いくひ誌。【3101~3110】

※日々、日々がどうこうと言いながら、日々なるものの輪郭に触れたことすらない、日々はない、きょうが、いまが、或いはあすが、きのうが、過去が、未来が、この瞬間瞬間に押し寄せ、錯誤し、視ている夢は物語、虚構ゆえに予感するのべつ幕なしの希望と失望を、日々と呼ぶ、日々と呼ぶ者が、ここにある、ここにあったそれだけが日々の役割、日々の意義、それともやはりこれもまた虚無か、はたまたこれこそゆえに現実か、それともこれが現在(原罪)か。


3101:【2021/07/22*語る者は騙る】
日々、虐げ、支配し、優位し、昇りつめるさきに待ち受けるのが、いったい何であるかを想像したことはあるか、得た境地のさきに開かれる無数の絶望を足場に立っている自覚はあるのか、偶像として信仰され、崇め、称揚されることの虚しさを知っているか、いったい何から目を背けているのかを知っているのか、知っていてなお追い求める者の語る善に、夢に、希望に、いったい何が宿るというのか、きみはそれを知っているのか、教えてくれ、教えてくれ、きみに視えているきみの景色を教えてくれ、そこに善は、夢は、希望は、本当にあるのかい。


3102:【2021/07/22*死滅する細胞分裂】
日々、見ないようにしている、見えないことを自覚せずにいる、見えないことの恩恵を受けている、都合のわるいことはないものとして見做し、じぶんが善なるものだと思いこむことなく思いこむことに必死になっている、悪であることの自覚はあるか、悪であることを受け入れる覚悟はあるか、弱きは悪か、悪は存在を許されぬのか、ゆえにみなは、私は、見ず触れず或るものをないものとして扱う業ばかりを磨いていく、特化していく、慣れていく、しかし弱くなければ見ることも、見て見ぬふりをしている自覚も持ち合えない、否、直視し、受け入れ、自覚することが弱さの証だ、弱さは悪か、悪は存在すら許されないのか、私は悪か、あなたは悪か、我々は悪なしに存在し得るのか、目を逸らすな、偽るな、偽っていることを誤魔化すな、善であると自負することは偽りなしには成し得ない、善は悪なしには善足り得ない、悪はしかし悪それそのものでも存在し得るがゆえに、悪であることを善しとするのもまた悪である、悪は悪だ、忌避し、是正し、薄めていくのが人間だ、善とはただその輪廻のたゆまぬ絶え間ない研磨の軌跡であり、悪はときにたゆみ絶え得る錆びのごとく、いつでも、どこまでも、どこにでも蔓延り、生じ、我々に善に傾く余地を与える。善とはその傾きにこそ表出し、傾きすぎれば反転し、転覆し、それそのものが悪果と化す。善はただ善である限り、是正すら叶わぬ最悪である。私は悪か、あなたは悪か、我々は悪なしに存在し得るのか。定かではない。


3103:【2021/07/22*動画配信者の追憶】
(未推敲)
 怖い話とはすこし違うのかもしれませんが、ぼくにはお気に入りの動画配信者がいて、毎日楽しみに観ていました。毎日更新してくれるのです。
 配信者は若そうな女性で、でも顔は映らないので、ただ彼女の手元の映った画面を見ながら彼女の話を聞いているだけです。彼女の話はたいがいが妄想らしくて、これは妄想なんですけど、からいつもはじまるので、話の内容もそれに負けず劣らずの突飛な内容のものがほとんどでした。
 要は、即興創作のようなものなんだと思います。
 思いついた空想をただ勢いにまかせてしゃべっているだけで、ときどきと言わずしてたいがいは、前半と後半で話が矛盾していたり、前半で死んだはずの登場人物がゾンビとなって現れ、主人公たちの窮地を救ったりするので、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054881060371/episodes/16816700425922808338


3104:【2021/07/23*英語もからっきし】
たぶんいちどくらいは誰かに心のなかでツッコまれていそうなので、並べておくけれど、いくひしさんには謎のキャッチコピーみたいなのがついていて、「MAN IS IBUKI. NAMISIBUKI.」がそれにあたる。まんいずいぶき、なみしぶき、と書かれているが、とくに意味はないです。本当にない。郁菱万は波しぶきのローマ字を逆から読んだだけのアナグラムで、波しぶきのローマ字を分割して読むと、NAM IS IBUKIとなるので、冒頭のNAMを反転させれば、MANになって意味が通るのにな、と思っただけのダジャレです。人間は息吹です、の意味を持たせたくて採用してみたけれど、人間は息吹です、というのもだいぶ意味がわからんな。そもそもいまどきMANを人間の意味で使う者のほうがすくないだろうから、つまりいわゆるポリティカルコレクトネスというやつで、MANは男を意味するから、それをして人間というくくりにするのはだいぶおおざっぱだし、性差別ではないか、との意見があがるからなのだろうが、ともかくいまどき人間の意味を示したいときにはMANを使わないようだ。サラリーマンもいまではビジネスパーソンと呼ぶのが一般的だ。だから「MAN IS IBUKI.」は割とというか、一般通念上だいぶズレた、現代では不適切な、倫理的にあまり好ましくのない表現になるのだろうな、と思いつつも、そんなのNAMISIBUKIに言ってください、としか言いようがないので、そのままにしている。だってただ裏返しただけだもの。NAMがMANに似ていただけなのだもの。「人は息吹である、波しぶきのように」くらいの漠然とした意味合いを持たせたくて、「MAN IS IBUKI. NAMISIBUKI.」なんてかっこうをつけてみたけれども、人は息吹ではないし、波しぶきのようでもありません。ちなみにどうして波しぶきを名前の由来にしたかと申しますと、これもとくに意味はなくて、強いて言うなら、複雑系の現象のなかで、フラクタルであり同時に、一つとして同じ型はなく、しかしある枠組みでカタチや変化が限定されている事象、もしくは一つの素子の在り様の集合が全体の振る舞いを規定し、全体もまた任意の巨大な構造の一部である、みたいな存在の象徴として波しぶきを抜擢してみたのかもしれないけれども、これはこれで後付けの解釈です。誤解されているかもしれないけれどもけして、男は息吹です、と言いたいわけではありません。その旨、ご理解くださるとうれしいものの、これといってご理解くださらなくとも構いません。そもそも、「え、そんなキャッチコピーなんてあった?」となる方のほうが多いだろうし、郁菱万なる物書きがいるなんて知らない人のほうが大部分だ。というか、いるのか、そんな、神のようなお人が。ひょっとしたら世界の因果のすべてを把握し得るラプラスの悪魔というやつかもしれない。しかしラプラスの悪魔は存在しないとすでに証明されているらしいので、いくひしさんのこんな文章を読んでいる者もまたいないのだ。でもいくひしさん自身はこれを読みながら打っているので、世界でゆいいつの読者として、贅沢なひとときを満喫するのである。現れては消えゆくひとしずくのように、砕け、散り、舞う、波のように。「MAN IS IBUKI. NAMISIBUKI.」うーん。やっぱり絶妙なダサさやね。たまらん。


3106:【2021/07/23*足りないスイッチ】
(未推敲)
 かれこれ二十日は経ったろうか。大布(だいふ)郷(ごう)は真っ白い空間で寝返りを打った。唇はかさつき、全身に力が入らない。
 いったいなぜじぶんのような社会的成功者がこのような目に遭わねばならぬのか。どんな企業も鶴の一声で経営方針を変えざるを得ないほどの権力を有し、世界資産の三十パーセントを保有するほどの男なのだぞ私は。
 大布郷は自らをここに閉じ込めた者たちを思い、怒りに震えるたびに、衰弱した身体がふたたびの活力を帯びるのを感じた。
 だがもう二十日も飲まず食わずにいる。
 じぶんの糞尿すら口にした。
 だが却って体調を崩すと判ってからは、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700425947287133


3106:【2021/07/24*打ちのめされている】
幼いころからスポーツ競技も文学も苦手だったので、いわゆる体育会系や文化系と呼ばれるコミュニティからは距離を置いていた。ときには交じることもあるが、たいがい馴染むことができずに距離を置くようになる(孤独が好きなので、望むところではあるが、もうすこしいくひしさんにも馴染みやすいコミュニティがあると楽ができてよいのになぁ、との我がままな欲求を抱いてはいます)。第三者的な立場から眺めていて思うのは、やはりというべきか、体育会系も文化系もどっちもどっちだな、ということで、体育会系と呼ばれる者たちは文化系を無意識に軽んじているし、文化系も体育会系を無意識に野蛮視しているし、その両方はいくひしさんをいない者扱いしているし、いくひしさんはそうした同族以外を見下すひとたちを、なんだかなぁ、と思っているので、まあまあみなさん、似た者同士なのですね。他者をいちいち属性でくくって、上とか下とか、仲間とか部外者とか、評価付けをするだけにとどまらず、その評価を絶対視して、敵味方にくくっていたら、そりゃあ生きづらくもなるでしょう。そうした無意識の整理整頓(差別)を控えたほうが生きやすいと思うのですが、いかがでしょう。(体育会系や文化系といった属性でひとくくりにして物事を捉えることが有効だったのは、もう過去のことであり、現代では通用しない偏見そのものと言えるのではないでしょうか)(社会に形成される各コミュニティから傾向を抽出するにしても、せめて一時的かつ表面的な、かなり大雑把な分類である自覚は持っていたほうが大多数の者にとっては好ましいのではないか、と疑問に思います)(そういう意味では、スポーツ競技につきまとうある種の勝者絶対主義を批判しがちな文学の世界において、成果物の熟練度や、生産性の高さ、権威や大勢からの承認の高さ――ともすれば売上げ――によって創作者の価値が規定され得る流れを無抵抗に肯定するプロ作家がすくなくない点には、何かしらの自家撞着を幻視せずにはいられません。マッチョイズムを批判する者がマッチョイズムに染まっていたり、権威主義を批判している者が権力志向を有していたりと、なかなか愉快な個人、ともすればプロが多くて、おもしろい世のなかだなぁ、と思っています)(人間はどこに属していようとけっきょくは人間なんですね)(だからといって、それでよし、としていたら、社会はどんどん勝者や強者の都合のよい仕組みに変えられていってしまうように思います。虐げられている人たちや、理不尽な目に遭っていることすら認識されていない人たちが、じぶんたちの手で足で、考えで、自由や幸福を追求する環境を築いていくには、どうすればよいのでしょうね。それはけして、自らが勝者となり、強者となることで果たされる変革ではないように思うのですが、あなたはどう思われるでしょう)(もちろん、誰が勝者となり、強者になったとしても、誰もが自由に幸福を追求していける世の中であると好ましいのは、言を俟つまでもありません)(問題は、勝者と敗者、強者と弱者のあいだに、権威勾配が著しく生じてしまうことにあり、もっと言えば、その権力を誰のために使うのか、の視点が現代であってもだいぶ蔑ろにされ、吟味されず、見逃されている点にあるのではないか、といまは推し量っています)(みな、身内や同属に対してのみ目を向けすぎているように思えます)(むろん、いくひしさんもその限りではありません。じぶんの視点の至らなさに打ちのめされている日々です)(視野を拡張しつづけ、ときに凝視し、それと共に多角的にかつ多層的に、物事を認識し、考えるというのは、本当にむつかしいものです)(考えるだけでなく、考えをもとに行動に移し、ときには行動を抑止し、変質させていかないことには、社会のしわ寄せの向かう対象が変わるだけで、理不尽そのものは減らないようにも思えます)(社会がいくら発展し、進歩したところで、そのしわ寄せが一部に集中したのでは、どれほど技術が高まっても、虐げられる人は出てくるものではないでしょうか)(発展すればいい、という考えは、その点が見落とされているように思えます)(かといって、いまある環境を捨て去り、他者に譲る勇気もないのですが)


3107:【2021/07/24*齧る者】
(未推敲)
 窓から入り込んだ蝉が数秒もしないうちに畳の上に落ちた。虫も死ぬほどの暑さである。
 連日のように真夏日を更新している。そのうえ、冷房機器が壊れているため、部屋にこもる熱気で陽炎が見える。
 部屋のなかだというのに、プラスチック製のカップが融けて曲がり、ペットボトル飲料がお湯になっている。サウナのほうがまだ湿気がある分、人間の住まう環境にふさわしい。
 このままでは燻製になってしまう。
 冷蔵庫を全開にして冷房機器の代わりとした。バケツに水を張って足を浸けてはいるものの、効果は薄い。冷蔵庫の中身は早急に腐ってダメになるだろうし、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700425990214056


3108:【2021/07/25*翻訳機能】
煽り耐性(悪口耐性)が低いため、割とすぐに感情的になってしまったり、傷ついてしまったりする。そういったときの対処法は心得たもので、よく妄想するシチュエーションがある。精神が波打ちそうなときは、そのシチュエーションにいちど置き換えて考えてみるとたいがいの悪口や耳に痛い批判の言葉も、そっか、と喉ごし爽やかに呑み込み、消化できる。たとえば何かしらの批判の文脈で、死ねバカ、と言われてしまったとする。傷ついて当然の言葉だが、それをいちど宇宙人の言葉に変換してみるとよい。たとえば、「バジョジョベーニヒヒ」といった具合だ。まったく意味が分からない。そこで脳内のなかにだけ存在する賢い人工知能(仮)にそれを翻訳してもらう。翻訳の役割は、あくまで齟齬のないコミュニケーションを成立させることにある。単語をそのまま変換するだけでなく、意訳してみせることも含まれる。なぜ相手が刺激のつよい言葉を使って非難したのかを考慮して翻訳すれば、単なる「死ねバカ」の言葉も、「私はいまとても怒っています、このままではあなたに存在ごと消えて欲しいと願ってしまうほどに、困っているのですが、どうにか問題を解決するように考えを改めてもらえないでしょうか」といった具合に翻訳できる。いくひしさんはよくこの段取りを挟む。宇宙人と対話するにはまず言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく、翻訳する段階が必要だ。多様性の叫ばれて久しい社会である。同じ言語でさえ、そこに含まれる意味や文脈は異なる。単なる「バカ」という言葉一つとっても、親愛を意味することもあれば拒絶を意味することもある。悪意の一言で片づけるのは簡単だが、これからの社会ではよりいっそう、翻訳という行為が重要度を増していくだろう。それは同じ言語ですら例外ではない。額面通りに受け取ることも大事だが、それだけではコミュニケーションはとれないものだ。否、コミュニケーションとは額面通りに受けとらないことだと言ってしまってもいいかもしれない。それゆえに、正しい文章や表現で考えを伝える技術もまた同時に重要度を増していくと考えられるが、日常生活のなかでは、この手の正しさはうまく機能しない。なぜならひとはそこまで正しさを求めてはいないからだ。正確さや、論理性を重視してはいない。扱ってはいない。磨こうとしてはいない。それよりも人々は、できるだけ不快にならずに、頭を使わず、手間も時間もかからない手法を先鋭化させていく。礼儀や雑談(内輪ノリ)というものは、だいたいこの手の先鋭化したコミュニケーション技術と言える。考えずとも、決まったフレーズをやりとりするだけで、コミュニケーションがとれてしまう。円滑に意思を疎通できる(と錯誤できる)。そして多くの場合、敵意がなく友好関係を築きたいとの意思が伝わればそれでいいのだ。だが、これからの社会では、それだけでは対処できない問題が、イチ市民間でも多発することが予期される。前述したように多様性の保持が推進され、社会全体に細かな衝突の種が許容されていくからだ。誰もが宇宙人の介在する社会に生き、同時に自分自身も誰かにとっては宇宙人になる。そういう社会が到来する。否、すでに半分そうなっている。だからこそ、これからは同じ言語であれ、翻訳作業を一段階挟む余裕が求められていく。むろん、誹謗中傷は即座に法の下に罰せられ得るが、多様性が許容された社会にあっては、ある程度のそうした乱暴な言葉使いが氾濫すると予想できる。言い換えるならば、罵詈雑言や誹謗中傷の仕方も先鋭化し、法の抜け穴を通じて、多種多様化していくと想像できる。ここでも翻訳作業の必然性が増す。ただし、基本的には文章や言葉というのは額面通りに受け取るのが前提だ。しかし現実では往々にして額面通りに解釈しないし、すくなからずの者たちは裏の意味を持たせて言動を行っている。そうすると、額面通りに言動を受け取らないように翻訳することが、無用な衝突を避けることに繋がるが、しかしこの場合、翻訳と妄想の区別は必ずしもつかない。単なる被害妄想や拡大解釈にならない保障はない。ゆえに、翻訳の精度をあげる訓練が欠かせない。それはたとえば小説を通じて得られる他者視点での世界への解釈の仕方や、批評を通じて得られる他者視点での解釈そのものであったりする。単なる意見ではなく、なぜその言葉をそのタイミングで発したのか、といった内面描写と同時に意見を観測する言語体験が、日常生活のなかでは得られにくい。その点、虚構の物語や批評では、なぜそれが発言されたのか、行動として表されたのか、を他者の視点で知ることができる。解釈そのものを他者の視点で追体験できる(同時に、自分自身ですら気づかなかった、裏の意味を持たせた過去の言動の真意を、自覚できるようにもなる)。これは、虚構の物語の持つ利点であると共に、これからさきの社会において増していく大きな効能の一つとなっていくだろう。まとめると、虚構の物語は、人間の持つ翻訳機能を鍛えるよき道具(アイテム)なのである。(適当なことを並べました。比較的よく聞かれる類の、ポジショントークですね。小説や漫画や映画やゲームに社会的意味があると嘯きたいだけなのかもしれません。定かではない妄想ですので、上記、真に受けないでください)


3109:【2021/07/25*追い縋る者】
(未推敲)
 橋島ツルマはその日、友人を家に招いた。大学生時代に交流のあった多田城マキである。数日前に連絡があり、相談したいことがあり会えないか、と求められたのだ。
 怪しい誘いゆえになんと言って断ろうかと悩んだが、多田島マキの声がひっ迫していたこともあり、お金の催促じゃないよね、と冗談めかし釘を打ったところ、そういうんじゃないからだいじょうぶ、とそのときだけはふっとやわらいだ声に、橋島ツルマはかつての友人と会うことにした。
 大学を卒業して以来いちども会っていない。もうじき十年が経つ。
 橋島ツルマは数年前に結婚し、いまは五歳の子どもの母親だ。子どもは娘で、暇さえあれば親のメディア端末をいじくろうとする。いつの間にか増えている画像を就寝前にチェックするのは、橋島ツルマのひそやかな楽しみの一つだ。
 共働きだが、橋島ツルマは育休をとり、在宅でも仕事ができるように環境を整えた。夫は休日であっても昼間は留守だ。中間管理職ゆえに、残業続きで、休日出勤も珍しくない。まともな労働環境とは思えないが、夫の稼ぎが増えるのはすなおに家計の助けになっている。子どもの養育費もこれからますます嵩んでいく。稼げるうちに稼いでおきたいとの思いは、橋島ツルマにもあった。
 インタホーンが鳴る。
 多田城マキが訪問したようだ。玄関扉を開け、家のなかに招き入れる。
 子どもを紹介し、お茶を淹れるあいだ、短くじぶんの近況を話した。
 多田城マキは大学のころの印象のままだった。疲れた顔をしていることを抜きにすれば、いまでも大学生で通る見た目をしている。端的に若々しい。いまは何をしているのか、と訊こうとしてやめた。社会人には見えなかったからだ。
 カラフルなフルーツ饅頭と茶を運び、橋島ツルマは席に着く。
「相談ってなに」
 しょうじき力になれるとは思えないけど、と心の中で唱え、「聞くだけならできるから」と水を向けた。
 多田城マキは語った。
 ひとしきり話し終えるのに三十分はかかった。要点をまとめれば、心霊現象に困っている、という他愛ない話だった。
 多田城マキの口ぶりは真剣そのもので、仮に初対面の人間から同じ話をされたら即座にその場を辞しただろうと予感させる口吻だった。
「つまり、写真を撮るごとに妙なものが映ると」まずは相槌を打った。
「うん。最初は気のせいだと思ったし、虫か何かが写りこんだだけと思った。でも、撮るたびにどんどん近づいてきているみたいで。動画にも映ってて、それ観たらもう怖くて、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700425990263420


3110:【2021/07/26*百年残れば何でも古典】
古典を読みましょう、といったプロ作家の意見を見かけるたびに、現代の小説で、これからの五十年後、百年後に残る作品ってあるのかな、と考える。古典を読みましょう、さいきんの作家の作品は下手なうえに個性がない、とのたまくプロ作家の小説が、果たして五十年後、百年後に残るのだろうか、と考える。現代に五十年、百年残った古典作品が仮に現代に初めて登場したとして、それが五十年後百年後に残るか否かを考える。むかしから残ってきたからとりあえず残しましょう、という勢力がつよいだけではないのか、と考えてみる。高値がついたからきっとこれはいいものだ、と見做される美術品との相違を考える。現代に残されなかったが、残った作品よりも私にとって素晴らしいと思える小説がなかったか否かを考える。果たして、後世に残ることにいかほどの価値があるのかないのか、を考える。後世に残るとはどういうことか、を考える。すくなからずそれを好む読者のいる小説を、下手だとか個性がない、と述べる作家の言動がどれほど妥当かを考える。一部のプロ作家に、下手で個性がないと批判された小説の著者が果たして真実に古典を読んでいないのか否か、を考える。五十年百年とは言うものの、人類史を基準にすれば、一年も百年もほとんど同じ一瞬にすぎない事実を考える。考えることはたくさんある。暇な時間のあるひとはそれぞれに湧く疑問を考えていきましょう。


______
参照:いくひ誌。【1911~1920】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054888683213

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