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いくひ誌。【3111~3120】

※日々、思わぬ変化を目の当たりにする、気づかぬうちに萌ゆる芽もある。


3111:【2021/07/26*ふつう】
さいきん実感したのが、誰かに何かを贈る行為は、じぶんのためにもなり得るということで、何か美味しい食べ物を贈りたいな、と思ったときには、真実にそれが美味しいかどうかをじぶんでも試してみないことには分からないので、本来ならまず手に取らないような商品をじぶんでも購入する機会にもなって、ああこういう変化に繋がっていたのか、と発見した気分になる。選択肢が増える、と言い換えてもよいです。誰かのために何かをしようとした結果に、自分自身にとっての新しい刺激との出会いにもなり得るし、贈った相手にも、それが好ましく受け取られるか否かに拘わらず、変化のきっかけになり得るのだな、新しい出会いになり得るのだな、と思えばこそ、贈り物はできるだけ、真剣に選ぶのがよいのかもしれない、と思いました。(すごい。いつになくまっとうな感想では)


3112:【2021/07/26*議論をしましょう】
80億人が正義だと賛同するようなことに対して、それはどうなの、と異議を唱えた人がいるのなら、その意見を掬いあげるのが、作家に宿り得る役割の一つなのではないか、と思うのだけれど、違うのでしょうか。意見することすら封じようとする者の主張は、どんなに正しく見えても、それは正義とはかけ離れたナニカに思えます(作家において、悪と見做される覚悟すらないのなら正義のヒーローごっこなんてしないほうがよいのでは?)(こうした批判を見越したうえで、そう見られるように振る舞う者もあるかもしれない。しかしその場合、だからといって情状酌量の余地が生じるわけでもなく、意図して悪を演じた時点で、相応の罰を受け入れるのが筋だろう)(だからこそ、そうした悪を演じざるを得ない個人をださない社会をいかに築いていくのかが問われているし、そうした個人が現れた時点で、社会全体で取り組まねばならない根深い問題があるのだとの認識を持ったほうが好ましい)(本来であれば、そうした個人が現れる前の段階で何かしらの対策や改善を行えるとよいのだが、なかなかむつかしいのが実情だ)。異論の是非についてだが、たとえば、虐殺は絶対悪だ、という意見は現代社会では妥当であるが、そもそも人間は現代であってもウィルスや細菌を殲滅しようとしている。殲滅の対象が同属でないというだけで、人間という生き物はどこまでも無慈悲にかつ冷酷になる性質がある。人類の虐殺は絶対悪、という前提は、私たちの認めた者たちの虐殺は絶対悪、との規定に容易に塗り換えられ得る――言い換えれば、じぶんたちの認めない者は排除してもいいし、虐殺しても構わない、との曲解が成立し得る。解釈によっていとも容易く規範が変わるのは、歴史が証明しているはずだ。意図しない動植物の絶滅とて現在進行形で押し進められているし、それはなにも動植物だけではないはずだ。住める土地が減り滅んだ民族はすくなからずいるし、これからも出つづけるだろう。虐殺が真実に絶対悪ならば、そもそもいまのままでいいはずがないのに、それを是正しようとはしない。社会を損なってでも止めるべきことを止めようとしない。つまり絶対悪ではないからだ。誰も真剣に考えていない。認めていない。口だけだ。虐殺は絶対悪ではないし、絶対悪であるべきだという意見も広く人々に認められてはいない。言葉だけが虚しく響いている。中身が伴っていない。空虚だ。それをして、虐殺は絶対悪ではない、と主張することは無意義ではないと思うが、いかがだろう。(それはけして、虐殺を肯定していることとイコールではないはずだ)(たとえ無意義であったとしても、どんな人物からであれ異論を唱える余地を奪わないほうがいくひしさんにとっては望ましい)(定かではないがゆえに、議論を尽くすほうが好ましいのではありませんか)


3113:【2021/07/26*嫉妬の鬼】
(未推敲)
 わがはいは嫉妬をしやすい。じぶんにできないことを容易くこなす能力はなはだしい秀でたる者が世界中に蔓延りすぎて、何を見ても嫉妬する。
 大統領の権力をはじめ、アイドルの人気、アスリートの活躍、我がきょうだいの進学昇進結婚から、近所のガキンチョの青春事情まで嫉妬の種には事欠かない。いとこたちはいつの間にか医者や弁護士になっており、副業として商業作家デビューまで果たし、いまでは売れっ子作家の仲間入りだ。
 それに比べておまえときたら、と憐れむでもなく、おまえはおまえで好きに生きなさい、と温かく見守ってくれる親戚一同の深い慈愛には、嫉妬の乱れ撃ちを禁じえない。
 しまいにはわがはい、四角い形状を保てる豆腐さんの柔軟性や、ダイナマイトにも耐えうる金庫さんの頑丈さ、ほかにも、逆さにしてなお難なく直立を維持するペットボトルさんの軸の安定度の高さや、どんな体勢からでも回転できるコインさんの融通無碍さには、絶望するほどの越えがたい差を感じる。
 カエル、アリ、ムカデにヘビ、鳥にネコに、犬にシカ、挙げ連ねれば暇がない。嫉妬するなというほうが土台無茶というものだ。
 世の人々はいったいどうやって自己肯定感だの自信だの自尊心だのといったものを高く維持しつづけていられるのやら。疑問符で海を埋め尽くしてしまいそうである。
 このほど、十年前に旅に出た旧友がわがはいの街に帰ってきた。久闊を叙しがてら夕飯をたかろうと出迎えにはせ参じたが、わがはいの顔を見るなり旧友は回れ右をして去ろうとした。わがはいの掲げた右腕の行き場のなさといったらない。
 わがはいは旧友を追いかけ、進路を塞いだ。
「やい、旧友よ。おぬしはノコノコと性懲りもなく故郷に舞い戻ってきたりなんかしちゃって、どの面さげて、うぷぷ、わがはいはおぬしのことなどこの十年、まったく微塵も、一瞬たりとも忘れたことはなかったし、ずっとずっとさびしかったぁ~」
 うわーんおかえりー、と抱きつくと、
「やめろ、やめろ。汗臭い。おまえちゃんと風呂入ってんのか。相変わらず成長が見られんな」
「旧友よ。お言葉だが、かってに成長して、色気づいたのはおまえだぞ。何ちょっとカッコよくなってんだ。ずるいぞ。卑怯だ。嫉妬してやる」
「嫉妬ばかりうまくなったって、仕方ないだろ。それにお帰りも何も、立ち寄っただけだ。もはやオレにとっちゃ旅が故郷みたいなもんだからな」
「なんだそれ、めっちゃかっこいい」旅人は言うことが違う。「いいな、いいな。わがはいもそんな台詞吐いてみたかった」
「言うだけならタダだろう。好きなだけ吐けばいい」
「旅してない人が言っても虚しいだけでしょ、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426007334455


3114:【2021/07/27*嘘も方便?】
過去の戦争を引き合いにだすまでもなく、漫画や映画が国家プロジェクトの広告に利用されてきたように、まっとうに広報したのでは情報が浸透しない層というのは存在する。そうした層に的確にかつ効率よく情報を行きわたらせるためには、正攻法を使うだけでは足りない。ある種のワクチンがウィルスの一部に偽装して免疫を誘導するように、一見するとセンセーショナルな見出しで読者を集め、見出しとは異なるまともな内容を読ませようとする手法は、正しい情報を大勢に行きわたらせるのに一定の効果があるように思うが、真実のところはどうなのだろう。もちろんそうした手法は邪道であることに違いはなく、商売としても人間としても誠実ではないがゆえに批判されて当然だが(どんな事象に対してであろうと批判する自由は誰にだってあるのだから、批判されて当然でない事象を探すほうが骨が折れるにしろ)、緊急事態なのだから、と言って強権を発動することをよしとするのなら、上記の邪道な手法もまた許容するのが筋ではないか、と思うが、そこのところはどうなのだろう(そうした邪道な手法を許容しましょう、と言いたいのではなく、Aが認められるならBも認められてしかるべきでは、との疑問です。Bがダメならそれよりも悪影響のつよいAだってダメだろう、との考えです。どちらも認められないならそれはそれで筋が通っておりますから、それで構いません)。(断るまでもなく、見出しも中身も間違っている情報をあたかも真実かのように偽装した記事――いわゆるデマ――は、社会的に害があることはその通りであろう)(誰もが科学的思考をもとに行動できる、という前提での社会的施策は往々にして失敗するものではないでしょうか)(すくなくともいくひしさんは、科学的思考に則っての行動をほとんどとれていません。ほぼほぼ欲求に忠実と言っていいでしょう。理性的ではないし、長期的な視野を維持した合理性も発揮できておりません)(ほとんどの事柄について考えを巡らせずに反射的な選択を積み重ねている、ということです)(そもそも正攻法の広報だけで充分ならば、SNSを利用する必要もないわけです。SNSを利用した広報を行う時点で、多かれ少なかれ邪道と言えるのではないでしょうか)(嘘も方便とはどのような場面で許容され得るのか、このテーマ一本で長編小説がつくれそうですね)


3115:【2021/07/27*仲介者は嘯く】
(未推敲)
 報酬が通常の三倍に跳ねた。依頼を確約させた帰りはしぜんと足取りが軽やかで、スキップをしている。とはいえ、依頼をこなすのは北条(ほうじょう)竜六(りゅうろく)であり、私はただ依頼人と北条を繋ぐ仲介役にすぎない。
 その小屋は饅頭工場の裏手にひっそりと建っている。年中餡子の甘ったるい香りに包まれており、小屋の見た目は物置小屋然としているので立ち入る者はほとんどいない。ただし小屋の中は広く、快適だ。外から見えるのは入り口部分で、部屋は地下に広がっている。
 入り口をくぐり、短い階段を下りて扉を開ける。こちらが本来の玄関だ。
「竜六いるか。仕事の依頼なんだが」
「ちょうどよかった、手伝ってくれ」
 奥から声がした。
 わるい予感がしたので、嫌だが、と断るも、いいから早く、と叫ばれる。仕事を頼みに来た手前、つよく言われると断れない。
 しぶしぶ大きなソファを経由して、部屋の奥へと足を運ぶ。一段高くなっている区域がある。座敷だ。四方を障子で囲われており、一見した印象は、演劇の舞台だ。
「入ってくれ」
 中から声がしたので、開けるぞ、と一言添えて障子を左右に開け放つ。
 青い手術着に身を包んだマスク姿の人型が立っている。背格好からして北条竜六で間違いない。
「ここを押さえておいてくれ」
 学校机を三つ並べただけの土台のうえに、毛むくじゃらの獣が横たわっている。毛がむしられているのか、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426007410822


3116:【2021/07/28*堕落しておる】
文字をたくさん並べたって世の中なにも変わらんし、身体は錆びるし、魂は濁るし、性格は歪むし、なんも残らん。河原で石ころ積みあげて遊ぶのとなんも変わらん。でも楽しいからしちゃう。漫画を読むみたいな楽しさではなくって、この石こんな角度で止まんのー、みたいな楽しさだ。その発見に辿り着くまでにひと月を費やしたり、百万個の石を積みあげては、崩したりを繰り返す。なんも楽しくない。でも楽しい。矛盾があるからいくひしさんは、文字を並べるのが好きなのかな。言の葉をつむぐ、という言い方をいくひしさんは好みますけれども、それは葉っぱに糸を通すのに似ていて、干し柿をつくるときみたいに数珠つなぎで、要するにこれはビーズ遊びなのだね。積み木遊びだし、判子遊びだし、石ころ積みだし、ビーズ遊びなのですね。でも大きな絵を描こうとして、何日も何日もえっちらほっちら石ころを積みあげながら、同時に飽きないようにとちっこい絵もつくろうとして、えっちらほっちら糸にビーズをちまちま通していると、いつの間にか大きな絵のほうを放置して、ビーズ遊びに夢中になってしまう。そうしてるなかでも、ビーズ遊びのほうでも大きな絵ができはじめて、あーんこんなのいつまで経っても終わんない、になる。一歩進んで五歩下がるの気分だ。マイナスの人生なのだね。人生はマイナスなんですよ。だって死に向かっているんだもの、いつだって積みあげているようで何も変わらず、結びつけているようで解けているのだ。創っているようで、崩壊している。虚しい。でもその虚しいのなかにも、心地よい虚しさと、見たくない虚しさがあって、いくひしさんはできるだけ心地よい虚しさがいいなぁ、と思っています。それは、糸にビーズを通しているあいだのちまちまであったり、そうしたちまちまの間に夢想する完成図への愛着であったり、憧憬であったりするのだね。言の葉をちまちまつむいで、じぶんだけの首飾りをつくる時間を過ごせたら、それはまあまあ、そこそこ、いひひと楽しい日々なのでは、と思います。定かではないからこそ、定かにしていきたい、本日のいくひしまんでした。


3117:【2021/07/28*いつだってそれは藪の中】
(未推敲)
 丘の上に白い物体がくねくねと蠢いている、といった怪談は若い世代で比較的有名だが、むろんそんなのはインターネットミームの一言で片づけられる作り話に決まっている。
 僕は一人っ子だが、親戚一同の付き合いが深く、親兄妹が多いこともあり、同世代のいとこが多かった。お盆になれば長男一家の田舎に集まるのが毎年の恒例だった。
「よぉ、また今年もきたべか」祖父が出迎えた。
 先に到着していた親戚一家の子どもたちはみな川へと魚釣りに出かけたらしい。ここでは男も女もみな自然児に還る。
 三泊四日で帰郷する一家がほとんどだ。大人たちはそれぞれで何かしらの家事を分担し、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426018811327


3118:【2021/07/29*栗あんでごじゃる】
怠けているのは年がら年中でごじゃるけれども、さいきんの怠け具合がすごくて、いくひしさん、さすがに焦ってきたでおじゃる。小説にしろ、ほかのことにしろ、サボりまくりの生栗ちゃんで、ちゃんと焼き栗にしましょうよ、みたいな、毬栗のトゲトゲしさはどこにいっちゃったんだい、みたいな何もかもが中途半端の、ぺけぺけ豆太郎でごじゃるよ。おまんじゅうでごじゃる。栗まんじゅうはおいしいので好きです、でごじゃる。なーんかさいきん思うのは、キャラクターが全部おんなじだし、造形が浅いし、どうしたらいいんじゃろ、みたいな感じがちょっとね、でごじゃる。物語が浅いから、キャラクター描写も浅くなっちゃうのかなぁ、みたいな予感もありーの、単純に手を抜いているだけちゃうの、との予感もありーの、もうもうどうしたらええんじゃろ、まぁいっか、楽しいし、の悪循環で、とにかく疲れてからの、はぁ休憩ぇ、すこしもちちゅこ、のお餅つきの時間が長すぎて、あっという間におやすみの時間になっておる。こんなんじゃ頭のなかの物語ばっかり溜まっていって、パンクしてしまう。ぎゅっとしてぽん、って掴んで引っ張りだせたら楽なのになぁ、と思うのだよね。万年便秘さんなんでごじゃるよ(便秘で苦しんでいるお方、失礼な比喩をしてごめんなさいでごじゃる)。もっともっと見たことなくておもちろい組み合わせだの、台詞だの、掛け合いだの、描写だの、表現だの、場面だの、たくさんの工夫の余地があると思うのじゃけど、なかなかうまくいかないでごじゃる。けれども、うまくいかないのも含めて楽しいでごじゃる。楽しめちゃうでごじゃる。一つ失敗すると、また新しい、試したい、がいっぱいでてくるでごじゃる。こうしたらこう、こうしたらこう、がたくさんでごじゃるよ。脳みちょぱつんぱつんでごじゃる。能力不足でごじゃる。カツカツのぴんぴんでごじゃる。ぴんぴんってなぁに? 子猫のおっぽのことでごじゃるよ。かわいいでごじゃる。怠けてないでちゃんとしたいでごじゃるけれども、怠けるほうが好きでごじゃるから、いっぱい怠けちゃうでごじゃる。焦る理由なんかなかったでごじゃる。もうもう、つくりかけいっぱいの、したいこといっぱいでごじゃるな。疲れすぎるとおめめが充血するみたいに、怠けすぎると毎日が充実するでごじゃる。うそでごじゃる。充実はしていないでごじゃる。いつでも不足の不満足、底なしの自己満足なんでごじゃるよ。おつむぷしゅーでごじゃる。うえーん、と思いつつも、うふふ、なんでごじゃるよ。きょうは、ごじゃる、ごじゃる、急にどうしたんでごじゃるか。へっへっへ。かわいかろう、でごじゃる。いくひしさんは、ござるだけじゃなく、ごじゃるにもなれるんでごじゃるよ。万の顔をもちゅ怪人、二十面相ならぬ怪盗マンじゅう面相でごじゃる。そのおまんじゅうは栗あんでごじゃるか? 栗あんでごじゃるよ。安心して、これをお食べ、でごじゃるー。


3119:【2021/07/30*【河原で応じる者】
(未推敲)
 じっさいにあった出来事なので、これといった解決もオチもないのだけれど、一年前、友人たちとキャンプに行った。女二人に男二人、総勢四名の小旅行だ。
 みな恋愛対象が二次元の、バリバリ現実逃避人間で、恋愛関係に発展するどころか、互いのすね毛を抜きあう仲だ。
 知らない方もいらっしゃるかもしれないけれども、女の子もヒゲやすね毛が生えるんです。わたしは面倒なので数年前から全身脱毛に通っている。永久脱毛とは名ばかりで、定期的に通わないといけないのがつらいが、そこは恋をしている漫画のなかのアンジェラさまを応援するにふさわしい人間であるために、同じく漫画のなかの女子どもと同じように全身をつるつるにしておこうと決意したはよいが、そもそもなにゆえ全身をつるつるにしなければならんのか、と世に蔓延る歪んだ美意識を嘆きたくもなる。
 毛の何がわるい。
 かように他愛のない会話を絶え間なく繰り広げながら、キャンプ場へと到着し、森に挟まれた河原にテントを張った。三日間を近代都市から離れて過ごす。
 大自然を満喫しよう、とのコンセプトのもと、盛大に満喫した。
 十万円くらいは食費で消えた。
 松坂牛とか食べた。魚釣りにハマって、釣り竿の奪い合いの結果、男どもから不評を買った。
 しかし一向に魚の釣れない彼らがわるい。わたしたちは二人で十匹も釣った。みなで分けたし、全部美味しくたいらげた。
 夜中は満天の星空がうつくしく、惚れ惚れした。
 あっという間の三日間だった。
 大自然からの帰宅後、一週間後にリモート飲み会を開いた。
 キャンプ場で撮った画像や、動画を共有しつつ、わいわいお酒を飲み合おうとのコンセプトだったが、さきに動画を観はじめた男の子が、急に無言になった。
 わたしたちは知らぬ間に撮られていた寝顔の写真に憤怒しつつ、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426053394088


3120:【2021/07/30*無我は美味い】
好きなひとたち(に限らないけれども、できるだけ多くのひとたち)にはしあわせになってほしいし、目標があるなら達成してほしいけれど、必ずしも有名になったり社会的に成功してほしいと願うわけじゃないのよね。有名になったり、社会的に成功することがしあわせの絶対条件ではないし、それを叶えたことで却って不幸になってしまった逸話はそれほど珍しくはないはずだ。それよりもやっぱりささやかな日々のあたたかな時間とか、穏やかな時間とか、延々夢中になれる時間をたいせつにしてほしいし、そうした自由な時間を通じてしあわせを感じてほしいのだけれど、これはあくまでいくひしさんのかってな望みであって、有名になりたい、とか、社会的に成功したい、といった夢を掲げていたなら、それはそれで目指してほしいし、応援はしたいと思ってはいるのだね。そもそも現代では、有名になったり社会的に成功しないと、そうした自由な時間すら確保しづらい環境が広く築かれてしまっている面も無視できないので(それでも、過去にあった社会よりかは平均すれば現代人の個々の自由時間は増えているはずだ)。とはいえ、目標というのは、もっと地道で、身近で、味気ないものだという実感が拭えないので、どうしてもピラミッドの頂点を目指すような夢を目指そうとしているひとに対しては、それもいいけれど、それを人生の指針にしてしまうと、いろいろとたいせつなものを見失ったり、取りこぼしてしまうんじゃないかな、とはらはらしてしまうのは、じぶんでは到底辿り着けない境地に旅立とうとしているひとたちへの嫉みが根底にあるのかな、といった疑惑もあるにはあるので、とにかくいくひしさんには、応援する以外にできることはないのだね。おのおのじぶんにしかできないこととじぶんにもできることのバランスを見極めながら、生活に取り入れつつ、じぶんなりの安寧を目指して、日々、自由な時間を濃密に、深淵に、無我の境地で味わい尽くしてほしいと思います。味わっていきましょう。ムガムガ、おいしー。


______
参照:いくひ誌。【21~30】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881262141

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