• 異世界ファンタジー
  • 現代ファンタジー

いくひ誌。【3121~3130】

※日々、不可視の景色の多さを知るために、視える範囲を拡げたい、と望むだけで、不可視だらけの世界で生きていて、視えぬ世界にすら気づけない。


3121:【2021/07/30*視点の是非】
人間の想像力の出力差というのは個々のあいだでそれほど大きく開いてはないと考えている。想像力は記憶力や演算能力と無関係ではないにしろ、そこまで個々によって違いはない。では何が想像力を働かせた結果の違いを生むのかと言えば、どの方向に想像力をそそぐのか、という指針にある。視線の方向というか、何を対象と見做すのか、といった視点そのものにあると言える。たとえばボールを落としたときに、多くの者は、視界に走ったボールの残像の軌跡を辿って、ボールの転がっていった方向を探す。だが死角にてボールは弾んでおり、まったく正反対の方向に転がっていることもある。仮に落としたボールを同一人物が探すとして、同じ出力で想像力を働かせたとしても、どこを探そうとするのかによって、ボールを見つけられるか否かの結果が大きく変わる。どこを見ようとするのか、が想像力だと思っているひともいるかもしれないけれど、それは想像力ではなく、それこそが独創性なのだ。個性とも言える。想像力は、個性や独創性によって、どこを見て何を探すのかを規定する。人によって想像力の幅に違いがあるように見えるのは、多くの者が同じ方向にしか想像力を働かせていないからだ。みな同一の方向を見て、同じものを探そうとする(それがいちがいにわるいわけではない。いちどに同系統の発見が多数得られるし、共有できる情報が多くなる利点もある)。想像力を働かせた結果の差を飛躍的に高めたければ、どこを見て何を探そうとするのかに自覚的であったほうがよい。漠然とした方向であれ、こっちではないな、別の場所にも目を向けてみよう、という意思がなければ、想像力を働かせたところでみなと同じ結果にしか至れない。想像力の出力に個人差はほとんどない。あってもせいぜいが視力の差程度の違いだ(それをして結構な違いだ、と感じる者もいるだろうが、記憶力や演算能力の差に比べたら微々たる違いと言える。この世には目の見えない者もいるが、そうした者は視力の代わりとなる知覚を発達させる傾向にあり、よほど例外的な疾患や症例を抜きにすれば、個々の認知能力に著しい差は生じない――ただし、現代社会が視覚に頼った社会構造である点は公平とは呼べないが)(それと同様に、想像力を発揮できる者であればみな見ている世界に大きな差はないと言える。どこを見るのか、何を探すのか、が想像力を働かせたあとに実る結果を左右すると言えよう)。個性や独創性がなぜ大事かと言えば、どこを見て何を探すのか、といった想像力を働かせる方向と照準を定める要素そのものであるからだ。想像力だけあっても仕方がない。記憶力にしろ演算能力にしろ、ただそれだけが高くとも宝の持ち腐れだ。どこに使い、何に用いるのか。どこを見て、何を探すのか。深め、高め、磨くべきはまずは視点である、と言えそうだ。(定かではない)(願望ありきの妄想ですので真に受けないでください)(いくら視点を自在に操れるからといって、記憶力や演算能力が低ければやはりそれなりの想像力しか働かせられないものではないでしょうか)(書物やインターネットといった眼鏡があると便利だ)(それですら、目に合った眼鏡かによって結果は変わりそうに思えますが)(眼鏡だと思っていたら万華鏡だったり、VRゴーグルだったりするかもしれないしね。そしたら見える景色は現実とはかけ離れた妄想の世界そのものと言えてしまいそうだ)(何事もバランスの問題と言えるのでは)(バランスを見極めるためにもやはり、支点を見繕うための視点が肝要なのかもしれませんね)(やはり定かではなさそうです)(やじろべーだけに)(バランスとかけたのかな?)(ぐらぐら)


3122:【2021/07/30*ジエの声ははしゃぐ】
(未推敲)
 ジエとは三年前に出会った。路上で何かを執拗に蹴っていたので、異常者かと思って警戒した。
 地面に近いところを何度も蹴っていたので、ひょっとして猫でもイジメているのではないか、と思い、声をかけた。本当なら警察に通報するほうが正しい選択だったのだろうが、ジエの背丈がちいさく、ボーイッシュな少女のように見えたので乱暴されてもどうにかできるだろう、との見立てがあった。真実のところでは、ジエは年中パーカーを頭から羽織った背の低い青年だった。
「何蹴ってんだ。あんまりイジメたら可哀そうだろ」
「あ、すみません。違うんです」
 ジエは打って変わっておとなしくなった。肩をすぼめ、ぺこりとお辞儀する。「お地蔵さまに虫がたかっていたので、追い払っていただけなので、気にしないでください。すみませんでした」
 ジエはもういちどお辞儀をすると、足早にその場を去った。
 それから一週間後に、こんどは別の場所で地面を蹴っているジエを見かけた。
 興味本位だった。
 その場凌ぎの嘘を吐かれた腹いせのつもりもあったのかもしれない。私はジエに近寄った。
「こんどはどんな虫が湧いてるんだ」
「あ」
 ジエは決まりのわるそうに頬を掻いた。イタズラの見つかった子どもじみた仕草だが、中学生ということはないだろう。理性の感じさせる眼差しからは、成熟した人間の狡猾さが窺えた。
「こんどは何を蹴ってたんだ」覗きこむと、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426083127258


3123:【2021/07/31*搾取の王は薄れる】
有名になることのメリットは、それを得るために費やした労力やデメリットに対して割に合わない、との判断は、おそらくこれからさきの二十年にわたって段階的に妥当と評価する流れが高まっていくのではないか、と以前から考えている。細々と活動しながらでも、好きなときに好きなことを好きなだけ好きなように行える環境をいかに築いていけるかが、大多数の目指す理想として再定義されていくだろう、とここに妄想しておくしだいである。ARやVRを筆頭に、複合現実としてのMRの進歩と社会的普及が、そうした理想の環境の変化を後押ししていくだろう。また仕事の価値観も変容し、社会的意義(ソーシャルグッド)だけでなく、社会的損失の多寡を評価軸にした、比較的コンパクトでエネルギィ消費を圧迫しない事業が好まれるようになる。つまり、競争や他者からの高評価を煽り、大衆を相手にしつづけなければ成立しないような事業は、却って大衆から支持されないような世の中になっていく。個々人の至福に見合った環境をいかに築き、支え、脅かさないか。動的に達観した指向性を帯びた企業理念や事業の在り方が、恒常的に支持され、信用される組織や人物として評価されていくだろう(これまでは静的に固執した指向性が社会に浸透していたと言える。固執を我執と言い換えてもよい)。情報の透明性や流動性の高い社会構造がさらに加速する。目立たずにいかに他者の生活をよくし、支え、介在を許されるか。これは企業も人も同じであり、ひるがえって、いかに他者を主人公として引き立てられるかが、ビジネスの中核として再構築されていくはずだ。人生の主役はじぶん自身であるがゆえに、他者の人生を損なわず、各々が主人公としていっそう自在に活動してもらえるように環境を整える。そしてまたじぶんも、その恩恵を受ける流れを強化していく。競う意味がない。みなじぶんの人生を、主役として生きている。比べるものではないのである。(じぶんにとって)いいものをつくりたいひとは(じぶんにとって)いいものをつくり、有名になりたい人は有名になればいい。そこに貴賤はない。優劣はない。なりたいものになり、したいことをすればいい――他者の舞台を損なわず、互いの環境を脅かさないのならばね。(スターはおそらくこのさきの未来では、減っていく方向に淘汰圧が高まっていくと予見できる)(これは差別発言になってしまうので好ましい表現ではない、とお断りしたうえで、敢えて並べておきますが、スターの立つ舞台とは、よくもわるくも見世物小屋であり動物園なのだね。人に対する扱いとはとうてい思えません)(以上、妄想ですので真に受けないでください)


3124:【2021/07/31*真夏の屋台】
(未推敲)
 夏祭りの帰り、神社のまえを通ったら見慣れぬ露店が立っていた。台車で引いて移動するラーメン屋みたいな感じだ。提灯の明かりがあるだけの寂しい雰囲気で、覗いてみると、色とりどりのオモチャがぎっしりと屋台の内側に並んでいた。
 冬につくったカマクラを思いだす。カマクラのなかで懐中電灯をつけたら、凍った雪が反射してなのか眩しいくらいに明るかった。屋台の屋根の下に入ると同じくらいキラキラして映った。
「いらっしゃい」
 お姉さんが言った。ほかに人はいない。
「ここで何してるんですか」
「オモチャを売っているんだよ」
「夏祭りは終わっちゃいましたよ」
「いいんだよ。きみみたいなコを待っていただけだから」
「ふうん」
 話が通じないな、と思った。
 お姉さんは巫女さんみたいな格好をしていた。彼女が屋台の主なのだろう。好きに見ていいよ、と言ってくれたので、オモチャを手に取った。
 どれもビニル袋に入っておらず、剥きだしの状態だ。割った竹でできた仕切りのなかに仕舞われている。一つの仕切りのなかに一種類ずつオモチャがぎっしりと詰まっていた。
「これは何ですか」
「それは竜巻を起こせる竹とんぼ」
「じゃあこれは」
「そっちは人の感情を消しちゃうピストル。弾は別売りだよ。弾の色によって消せる感情が違うから気をつけてね」
「ふうん」
 大袈裟な売り文句だな、と思った。竜巻なんて起こせるわけないし、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426097402464


3125:【2021/08/01*みなさんよく我慢できますね】
創作界隈のいまある常識で、それってどうなの、と思うことの一つに、受注生産が基本である点が挙げられる。企業が何か新しい企画を開発するうえで、創作者への依頼から納入までの期間が半年から数年を要するケースが珍しくない業界において、その間の創作者の生活の保障もなく、ただただ成果物のやりとりだけで報酬が決まるのは不当だと感じる。そういった方式があってもいいが、別途に、既存の成果物から目当ての作品を買い取るような、ある種美術品の扱いに似た方式があってもよいのではないか(実践したところで、ネット上で評価の高い作品を商業ルートに載せるWEB小説界隈のビジネスにちかくなるだけなのだろうが)。選択肢がすくなすぎるように感じる。表現者と共に企画を作るという意識があるのならば企業は、共同制作者として創作者に、日々の労働の報酬も支払ったほうが好ましいように思うが、いかがだろう。それができないのであれば、受注生産(とは名ばかりの度重なる修正やボツといった労働搾取)を基本としたビジネス形態とはべつに、既存の作品群のなかから目当ての作品がないかを掘り当て、買い取り、得た収益を分配する事業もまた発展させていくのがよろしいのではないか、と妄想する次第である(それって新人賞では、と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、応募してきた極々一部の作品にだけに焦点が絞られる時点で、発掘というには分母がすくなすぎますし、公募数も年間数百では、発掘される作品数もせいぜいが千作いくかどうか、といった具合ではないでしょうか。これもまた刊行点数に対してすくなすぎるように思います。そもそも新人賞では、過去にふるい落とされた作品がつぎつぎに埋没し、ようやく時代のほうが追いついたような作品が取りこぼされて映ります。インターネットの普及した社会なのですから、もっと大きなスパンで、事業としても発掘しようと行動に移したほうが好ましいのではないでしょうか)。(おそらく今後はそうなっていくのだろうなぁ、と漠然とした印象を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください)(とくに何かを批判したいわけではありません。ただの妄想です。創作界隈のビジネスの手法が変わろうと、変わらなかろうと、いくひしさんは何も困りません。得もしないし、損もしません)(成果報酬ならば成果報酬で、成果とは何かをハッキリさせたほうが面倒な衝突を避けられるようになるのでは、とは思います。成果が創作者の作品そのものならば、外野は創作者にとやかく言わずに、欲しいものだけを購入すればいいのではないでしょうか)(創作者が、筆や鶏の代わりと見做されているように錯覚してしまう世の中に映りますが、これもきょうのいくひしさんにはそう見える、という以上の意味合いはありません)(思いついたので並べただけですので、これといって支持している考えではありません。そもそも芸術が魂の食べ物であるならば、無料で味わえてもいいのでは、との思いがあります。創作者が創作をするだけで生活していける世の中になればいいなぁ、と望んではおりますが、あと半世紀はそうした社会が到来することはないのだろうな、と妄想しております)


3126:【2021/08/01*タキザワさん】
(未推敲)
 よくある話ではあるが、夜勤の守衛をやっていると監視カメラにふしぎなものが映りこむことがある。
 ハッキリ目にするわけではなく、目を離している隙に、カメラのまえを今何か通ったな、といった具合で、ほかのカメラをチェックしても問題は見当たらない。気のせいか、或いは不可視の何かが一瞬映りこんだだけなのか、と首をひねりながら判断するしかない。
 正体不明の何かばかりではない。
 明らかに人間であっても、ふしぎな事象というのは観測される。
 秘密保護の観点から職場がどんなかについては詳しく触れないが、ことし配属されたばかりの職場では、タキザワさん、と愛称で呼ばれている人物がいる。同僚ではない。警備員ではない。
 一般利用客らしく、スーツ姿の男性だ。彼は絶対にカメラに全身を映さないのだ。
 顔はおろか、身体の三割以上を絶対に映さない。
 カメラは全部で百数台にも及ぶ。常時三人でチェックし、日替わりで担当するエリアは変わる。一人当たり三十台前後の画面を監視するが、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426125645157


3127:【2021/08/02*怖いのが怖い】
さいきんのショートショート、ホラーばっかりですけど、とくにホラーや怪談が好きなわけではなく、どちらかと言えば苦手な部類かもしれません。ホラー映画もほとんど観ませんし、観たいなぁ、となることもそんなにないです。幼いころはオバケが怖かったので、一人でおトイレに行けませんでしたし、なんだったら怖すぎてお漏らししてやる!みたいになっていた子どもだったような、そうではなかったような、あまりよく憶えていません。記憶を捏造するのは得意です。なんだかんだ言って人間のそういう思いこみみたいなのが一番のホラーかもしれません。というか、ホラーとは思いこみと同義なのでは?(という思いこみ)。いまでも夜道を歩くと怖くて、猫が草むらから飛びだしたりしたときには、心臓が止まりそうになって、「脅かすなやキミぃ!」と吠えてしまうくらいにはビビリかもです。でもオバケや心霊現象が特別に怖いわけではなく、一方的に干渉され得る、という状況が怖いので、それは人間でも同じだと思います。オバケも幽霊も妖怪も人間も動物も虫も植物も自然現象も、万物みな一方的に干渉してきて、なす術がなーい!となったときは怖いです。日々が怖いですし、生きるのが怖いです。怖くないことがないと言ってもいいかもしれません。すでにこの文章が怖くなってきました。饅頭怖いじゃないですけど、文章が怖いし、こんな文章が見知らぬ誰かに読まれているかもしれないと思うと怖いですし、見知った誰かに読まれているほうがもっと怖いです。もうもう、語り部が怖いと思って叙述したらなんでもそれはホラーだし怪談だし、怖い話だと思います。怖いと思ったら怖いし、怖くなかったら怖くないのだ。でもそれはそれとして危険はいつでも迫り得るので、いくひしさんは怖くない世の中がいいし、危なくない世の中がいいなぁ。毎日あんぽんたんにのほほんと過ごしていたいです。ばかになりたーい。とっくにおばかさんである事実を捻じ曲げて、じぶんの都合のよいように現実を捏造する恐怖の大王、本日のいくひしまんでした。


3128:【2021/08/02*手を振るひと】
(未推敲)
 居酒屋の客が怪談を話していた。座敷にて三人の男が代わる代わる、一押しの持ちネタを話していく。百物語だなんだと和気藹々としていたのは最初ばかりで、いったん語りはじめると空気が変わった。
 なかなかの語り口だ。ほかの客まで彼らの語りに耳を欹てている様子がありありと伝わった。
 僕はというと、仕事中ゆえにいちいち厨房に引っ込まなくてはならず、できればずっと聞いていたかった。
 三人がそれぞれ一話ずつ語り終え、二巡目に入ったところで、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426159806667


3129:【2021/08/03*楽をさせてくれ】
毎日なんの変わり映えもない日々なので、とくに並べることがない。とはいえ、細かな変化は日々刻々と経ているわけで、真実何にもないわけではない。変わり映えのしている日々を、そうではない、と否定している我が身があるばかりである。たとえば、できることができなくなっていたり、そのことを以前ならば悔しいと思っていたのがいまは、致し方あるまい、と受け入れていたり、バナナ一本を食べきるのにチマチマと時間がかかってしまったり、記入しなくてはならぬ書類をいつまでも先延ばしにして書かなかったり、それを提出先に送らずにいたり、そのせいで催促の書類が届いたり、それでもなかなか書類を書こうとしなかったり、うわーん、と泣き言を虚空に向かって叫んでみたり、まあまあたいがい逃げておるのだね。先延ばしの達人と呼んでいただきたい。やりたくなーい。こうやってこうやってこうすればいいんでしょ、知ってる知ってる、ってなることほどやりたくなーい。べつにじぶんしなくていくないっすか、こんなのコンピューターのほうでかってにやっておいてくれてよくないっすか、なんで未だに自己申告制なんですか、みたいにやりたくない理由だけをたくさん思いつく。それはたとえば、自動車保険に加入させたきゃ、加入したくないひとにだけ書類書かせりゃいいじゃんか、みたいな具合で、困ってる人いませんかーと挙手させたきゃ、余裕のある人たちにじぶんらいま困ってないっすって自己申告させればいいわけで、そしたら手を挙げないその他のひとらはみんなみんな困っていると見做していいわけで、給付金にしろ助成金にしろなんにしろ、基本受け取らせるようにすればいいし、不要な人たちこそ「わいいらんですけど」の申請をするようにすればいいわけで、もうもう世の中、敢えて得をさせないために仕組みを複雑にして手間をかけているとしか思えないのだわ! 無駄に内なるお嬢様をあらぶらせて、じぶんの不甲斐なさを包み隠してしまうのがたいへんお上手な本日のいくひしまんでした。


3130:【2021/08/03*路地裏の人】
(未推敲)
 ホラー作家としてデビューしたはよかったが、年がら年中、怪奇現象 をこねくり回すので、類は友を呼ぶではないが、私もそれなりに道理に合わない事象に遭遇することがある。
 古い家屋に一人で暮らしているため、じぶんの立てる物音以外がするわけがないのだが、昼夜問わず、まるで子どもの駆けずりまわるような音が響く。
 トコトコと細かく連続して鳴るため、家鳴りではない。猫でも飼っていれば説明つくが、動物の類は勝っていない。ネズミがでるということもない。
 日増しに頻繁に聞こえるようになり、さすがに気味がわるくなったので、神社にておふだを購入して、家の柱に貼るようにした。
 音はやんだが、するとこんどは庭にてせっかく育てていた草花が枯れはじめた。夜中に、明らかに犬猫よりも背丈のある何かが歩き回るような気配がある。
 狭い空間を無理くり通るからなのか、木の枝はパキポキと折れ、風もないのに葉が揺れた。
 おふだの効力がどこまで効くのかは判然としないが、植木の表面におふだを貼り、それを庭の四方に置いた。
 以降、謎の物音は聞かずにいるが、最近になって近所で不幸が相次いでいるようだ。葬式の看板を見かけるし、知らぬ間に同じ地域の家屋が解体されて更地になっていたり、土砂崩れがあったりする。土砂崩れでは数名の方が亡くなったそうだ。
 夫が入院しちゃってねぇ、などと井戸端会議で囁き合うご婦人の姿も見かけた。
 たまたまだろう、と科学的思考で判断を逞しくしているが、すこしの罪悪感が湧かないわけではない。
 夜、夏の束の間の涼しさのなか、静寂に浸ってカタカタと文字を並べる。
 日課だ。
 居間の窓が路地裏に面しており、深夜だというのに、人のささめき声が聞こえることもある。別段ふしぎなことはないのだが、どうにも一人でしゃべっているらしい。昨今、通話しながらの歩行は珍しくない。街灯も備わっておらず、一本道のうえ、薄暗いので、防犯の意味合いで誰かと通話しているのかもしれない。
 これといって気に留めることもないのだが、時間帯が時間帯なだけに、やけに響いて、意識を持っていかれるのだ。
 週に三日は耳にする。どうやら同じ人物が、同じ時刻に家の横を通り抜けていくらしい。
 声や、足音から若い女性のようだと推察される。かかとの高い靴を履いているようだ。声音も鈴の音のようで、相談事をしているのかぼそぼそとした口吻で相槌らしきものを打っている。
 すぐに遠のくので、これといって気にかけはしなかったのだが、足音と声がすると、ああまたあのひとだ、と思い、もうそんな時刻なのか、と背伸びをする習慣がついた。
 だが先日、そのことを遊びにきた友人に話したところ、
「それは妙だな」彼は言った。「そこの道は、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426187215370


______
参照:いくひ誌。【1531~1540】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886784973

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する