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いくひ誌。【3131~3140】

※日々、万能からかけ離れていく、可能性を削ぎ落とし得られる結実こそが特化であり、成熟とは先細った可能性である、老いてなお未熟であれ、可能性を削ぎ落としつづける日々のために、削ぐ余白の厚みを湛え、萌やすために。


3131:【2021/08/04*感情、知識、考え方】
ね、ね、眠かったー。久々に眠すぎて寝たくないの気持ちになった。眠いのとおっぱい吸いたいの欲がぐちゃぐちゃになって泣いちゃう赤ちゃんの気持ちが分かってしまったな。いくひしさんは赤ちゃんじゃないのですこししか泣かなかったけど。おぎゃー。拙者が思うに、人間ってやつはきっと、お腹が減るくらいの頻度でつねに居場所を探していて何かを求めているようで、求められることを求めている。居場所を見つけたやつから引きこもりになり、求められることにうんざりしたやつから内なる世界に旅立ち、或いは道なき道にはみだしていく。それがよいかわるいかは分からない。主観と客観の評価はおそらく合致することはないだろう。それはどこにいようとおんなじだ。ちがうちがう、こんなこと並べたかったわけじゃない。さいきん思うのは、本を読んで何を得ようとするのか、がけっこう人によって違っているな、ということで、大別することに意味はないことを認めたうえで、敢えて並べてしまうけれども、大別すると三つあるように概観できる。感情の起伏を調整しようとする者、知識を得ようとする者、そして最後が、考え方を増やそうとする者だ。たいがいはこの三つの複合だし、上から順に主眼に置かれることが多く、最後の考え方に至っては、あまり重要視されていないように思われる。感情の起伏の調整にはいくつか種類がある。哀しい気持ちを打ち消そうと試みたり、予防接種のように敢えて本を通してちいさく傷ついておくことで慣れておいたり、過去の成功体験を反復することで自己肯定を肥大化させたり、とエンターテインメント作品や偉人の自伝などにみられる効用だ。ほかにもじぶんの考えを強化して、やっぱりそうだよな、と納得しようとする者もあるだろう。本来であれば、自説を強化したければ反論や異論にこそ目や耳を傾けるほうが合理的なのだが。二つ目の知識の収集は、それこそ化学式や歴史の出来事や年号を覚えるような作業だ。記憶することに主眼を置いた読書体験ということになる。ちなみにいくひしさんはこれがものすごく苦手なので、書かれた本の内容は覚えていても、そこにどんな単語が並んでいたかはほとんど覚えていない。名前よりもその言葉のなかにどんなシステムが築かれているのかのほうに関心が向きやすいようだ。歴史の出来事や年号よりも、なぜそうしたことが起こったのか、のほうにつよい関心が向くので、事実だけが淡々と並べてあっても、なぜそうなったのかが分からなければ、頭のなかに残らない。これは三つ目に相関しているのだろうが、考え方を増やすというのは、それこそ様々な物の見方を知ることでもある。視点を増やす、と言い換えてもよい。情報の整合性だけでなく、間違った答えに行き着いた者の考え方も敢えて含めて、増やしていけるとよい。こうした見方は失敗しやすい、と判ることは、成功例を知ることより応用の幅が広い。成功体験は基本的に点であり、その場限りのまぐれである確率が高い(条件や環境が限定されている、と言い換えてもよい)。反面、失敗には普遍性がある。汎用性がある。裏から言えば、確率高く同じ成功を繰り返せる考え方や術があるならば、それは科学的な考え方に寄っているし、科学的な手法だと言えるだろう。なぜそうなのか、と証明できれば科学と言っていい。ちがう、ちがう。こんなことを並べたかったわけじゃない。すみません。きょうはもうこれ以上ふざけたことは並べられそうにありません。真面目になるよりもふざけるほうがむつかしい日もある。赤ちゃんはいつだって真面目だ。ふざけることができるのは知恵をつけ、知識を蓄えた人間だけだ。そしてそれをやめることができるのは、考え方を増やした人間だけなのである。定かではない。


3132:【2021/08/04*スキスキだって愛してる】
(未推敲)
 何か怖い話ない、ってさっき訊いてたでしょ。家に着いてから思いだしたからご報告いたします。
 あのね、わたしむかし、ちいさいころ、公園で仲良くなった子がいてね。三歳くらい年上のお姉さんで、たぶん中学生だったのかな。わたしが四年生とかそれくらいの時期で、二人して内緒で野良猫を飼ってたりして。
 お小遣いなんてすぐになくなっちゃうから餌なんて買えないし、だから家からソーセージとか持ち寄って食べさせてたのね。
 でも野良猫だし、ときどきいなくなったりして。
 猫ちゃんたちにも友達の輪みたいなのがあるみたいで、そこが餌場って知れ渡ったのか、猫ちゃんはつぎからつぎに現れたから、わたしとお姉さんは二人で毎日のように公園で待ち合わせて、猫ちゃんたち相手にわたしたちだけの王国をつくって遊んでたのね。
 でもあるとき公園に行ったらパトカーが止まっていて、どうしたんだろう、と思って眺めていたら、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426219858381


3133:【2021/08/06*体力】
運動神経と体力の関係というものを誤解している人が多い気がする。アスリートというのはレース用のスポーツカーのようなものだ。その競技のために最適化した肉体を持つ。運動神経がいい、とは特定の動きに身体を最適化させた状態を言う。ゆえに同じ人物であっても競技によって運動神経のよさは変わる。向き不向きがあるのはそのためだ。したがって、アスリートがその他大勢に比べて日常生活のうえで優位に立てるかといえば必ずしもそうではない。どちらかと言えばアスリートは私生活を送るうえで不備をかかえている傾向にある。整備が欠かせないし、なによりどんな作業を行うにしても不要な抵抗を帯びつづける。言い方を変えるならば、つねに疲弊しつづけるのだ。憶測でしかないが、たとえば重量挙げの選手は百メートル走や持久走が苦手だろうし、水泳の選手は競歩が苦手だろう。体操選手は射撃や卓球が苦手だろうし、スケーターは柔道が苦手なはずだ。この場合、苦手というのは、通常以上に疲れる、と言い換えてもよい。なんの競技も嗜んでいない者たちと比べても、日常生活では、単なる徒歩ですらアスリートのほうが疲弊する。燃費がわるいとそれを言い直してもよい。基礎代謝そのものが並々ならぬほどに高いためだ。スポーツカーがエネルギィ消費が激しいのと似ている。タイヤの摩耗を例に挙げるまでもなく、車体そのものの疲弊もまた、一般の自動車と比べて激しいはずだ。耐久性を比べるにしても、一般の自動車のほうが頑丈だろう。レース用のスポーツカーは馬力がある分、負担が増すし、軽量化された分、余計に破損しやすい。ただし、壊れてくれたほうが衝撃を吸収するという意味では、安全でもある。これらの性質もまた、その競技に特化した車体だからだ。アスリートにも同じことが言える。アスリートだからといって一般人と比べて体力があるとは限らない(ちょっとの仕事でも力が入りすぎて、慣れるまでは簡単な作業でも楽ができないのだ)。むしろ一般人のほうが、私生活を送るうえでは体力があると言える(どうすれば力を抜いて、楽に作業ができるかを身に着けているからだ)。もちろん一般人とひとくちに言っても、年齢から体質から境遇まで千差万別ゆえにいちがいに言えることではないし、アスリートであっても楽な作業に慣れてしまえば、ほかの大多数の者よりかは出力の高い仕事ができるだろう。ただし、慣れていない作業はいかにアスリートと言えでも簡単にはできないし、どちらかと言えば、身体能力を用いない作業ほど、肉体を鍛えていない者のほうがそつなくこなせると言える。つまり、身体を鍛えていないほうが長時間作業ができ、体力がある結果となる。運動神経と体力の関係は、必ずしも正比例しない。慣れと最適化は、どんな人物であれ、作業の効率をあげるためには欠かせない。一定の出力を維持して長時間作業できることを体力というのならば、アスリートか否かよりも、その作業に慣れているか否か、最適化できているか否かのほうが、より深く体力の有無に影響すると言えそうだ。(漠然とした印象論ですので真に受けないでください)


3134:【2021/08/05*出口はいずこに】
(未推敲)
 悪霊退散、と彼女が唱える。
 鱗が剥がれ落ちるように私の身体が砕けはじめる。瘡蓋を剥がすような痛痒があり、消失の予感をつよく抱きながら、なぜこんな目に、と三か月前を思いだしている。
 その日、私はひどく疲れており、終電を待つあいだプラットホームのベンチで船を漕いでいた。ネクタイを解き、顎を撫でた。無意識からの所作だ。毎朝剃っているのにヒゲはカビのように夜には生え揃う。
 夜食にとおにぎりを買ったが口をつけずにいた。
 駅構内に電車が停まったので、寝ぼけ目をこすりながら乗り込んだが、結果から言うとそれは終電ではなかった。
 気づいたときには扉が閉まり、車両が発車していた。
 車内に人はいなかった。代わりに座席には黒い人影がまばらに腰掛けていた。モヤのように座席や窓が透けて見えており、人間でないのは一目瞭然だ。
 ほかの車両に移ろうとしたが、連結部の向こう側は暗闇で、入っていく勇気はなかった。車窓の向こうには見知らぬ田園風景が広がっており、ふしぎなことに空には無数の墓がさかさまに埋め尽くしていた。
 この世ではない。そう思った。
 数十分もすると電車は見覚えのある駅に停まった。
 私が先刻までうたた寝をしていた駅だ。ぐるっと回って戻ってきたのだろうか。
 だがおかしい。妙に明るいのだ。夜明けまではまだ時間があったはずだ。現に時計は二時を指している。街灯もともって入るようだが、辺りは昼のように眩かった。
 ベンチには未開封のおにぎりがぽつねんと置き去りにされていた。
 私は電車を降りた。
 おそらくそれがいけなかった。
 その日を境に、私は誰とも接触できなくなった。
 誰からも視認されることなく、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426231672297


3135:【2021/08/06*ヨダレ掛け】
ちょっと前から外に出かけるときは首にバンダナを巻いてお出かけしているのだけれど、鏡とか窓ガラスに映りこんだじぶんをちらっと見るたびに、「え、なんでこのひとヨダレ掛けしてんの」みたいに二度見したくなる衝動に駆られる。そもそもいまの時期、記録的な猛暑とか言われてるのになんで首すじを布で覆っておるの、暑いだけでしょ、の疑問に襲われなくもないけれども、でもよく考えてみて。砂漠地帯に住まう人々は肌を露出してないでしょ。なんか首筋に巻いてるでしょ。あれみたいなイメージで、いくひしさんは着古したTシャツの首筋がヨレヨレなのを隠しているってわけ(日除けではなくて!?)。あとふつうに日焼けしたくないってのもある(そうだよね、ああびっくりした)。ただやっぱりヨダレ掛けをしているふうに見えてしまうので、たぶんだけど結び方が下手なのかな、と思わないでもないので、固結びじゃないもっとふわりとした結び方を知りたいな、と思ってはいるけれど、思っているだけです。べつに知らんくても困らない。だって考えてもみて。あれだけかっこいいロロノアゾロですら腹巻をしているわけですからね。いくひしさんがヨダレ掛けをしててもいいと思います。ヨダレ掛けがかっこいいと思ってもらえるくらいに、いくひしさんがかっこうをつけて、適度にダサくありつづければ、それはそれで世界中の赤ちゃんたちに気持ちよくヨダレ掛けをつけてもらえるようになるかもしれない。赤ちゃん、気づくとヨダレ掛けを、「んーっ!」って投げ飛ばしているものなので、そのヨダレ掛けはなんとあのいくひしさんもつけていらっしゃるのよ、とひとたび知れ渡れば、きっとバブーと言ってくれるに違いありません。赤ちゃんなので何もせずとも、バブーとは言うのでしょうが。いや、言うのか。赤ちゃん、バブーって言うのか。わからん。みなさんもヨダレ掛けをしてお出かけして、赤ちゃんになろう。みんなでヨダレ掛けをすればきっと世界中の赤ちゃんたちだって、こんなんいらんわぁ、みたいにポイと床に投げ捨てずに、おとなしく身に着けてくれるようになる、といいなぁ。奮発して買った新品の赤ちゃん服がものの数秒でヨダレまみれになるのを死んだ目で微笑ましく見守るひとの気持ちを想像してなんとも言えない気持ちになった本日のいくひしまんでした。


3136:【2021/08/06*人気の部屋】
(未推敲)
 大学で仲良くなった友人が、すこし変わったやつだった。頻繁に住居を引っ越すのだ。
 彼は進学してからの三年のあいだに優に十回以上も住処を移している。ほとんど三か月に一度の周期で引っ越すので、周囲の者はふしぎがっていた。
 あるとき僕は彼の引っ越し先の共通点を見つけた。
 彼の歴代の部屋はどれも事故物件ばかりだったのだ。
 僕も卒業を期に引っ越そうと思っていたので、いまのうちからよい物件がないかな、と不動産サイトを見て回っていたときにそのことに気づいた。
 友人とは一週間にいちどは酒を飲む仲だった。だが彼はしょっちゅう引っ越すので、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426273166449


3137:【2021/08/07*対策と予防は別】
人間はいともたやすく他者の命を奪えるし、人生を損なえる。やろうと思えばいますぐにでも行動に移せることを日ごろは、抑圧し、抑制し、自制できているだけなのだ。誰もがいまこの瞬間にも、他者の人生を損ない、傷つけ、奪うことができる。いいや、ひょっとしたら自覚していないだけで、いまこの瞬間にも他者の人生を損ない、傷つけ、奪っているのかもしれない。じぶんだけは差別をしていないと思いあがったその性根がそもそも他者の人生を損ない、傷つけ、奪っているし、じぶんだけは他者を思いやり、誰も傷つけず、社会に貢献し、安全圏から他者の悪を糾弾する資格があると思いあがっているその性根がすでに、思いやりとは程遠いし、誰かを傷つけているし、社会を損ない、他者の悪に加担している。想像し、悔い改めるしかない。対策を立てるしかない。予防に尽くすしかない。無意識の所作にて地面に穴を掘り、いつかの誰かをそこに追い詰め、落とす契機をほいさほいさと何食わぬ顔でつくっているかもしれない。その可能性から逃れる術をすくなくとも私は知らない。追い詰められた者はいともたやすく自制の鎧を脱ぎ捨てて、何の枷もなく自由気ままに振舞う許しを自己にくだす。追い詰められる理由はそれこそ人によりけりだろう。追い詰められた者を加害者にしないことと、被害者をださないようにすることは必ずしも同義ではない(合致する部分もあるにせよ)。動機の解明と、事件の再発防止は必ずしも密接しない。動機がどうあれ、鎧を脱ぎ捨て武器を持った者から身を守りたくば、どんな動機からにしろ、凶行に走った者からをも身を守れる仕組みがいるはずだ。事件の発生を未然に防ぐことと、事件を起こそうとした者から人命を守ることは必ずしも同じ対策を有しない。飛行機のなかに刃物を持ちこませないような工夫がされているように、これからは公共交通機関や商業施設および公共施設の総じてにて、そういった他者の命を脅かす凶器の持ちこみを阻むようなセキュリティシステムの構築を求めていく必要があるのではないだろうか(たとえ凶器が持ち込まれても、凶器を振るう者を鎮圧したり、即座に避難し、加害者から距離を置ける仕組みがいるはずだ)。予防は欠かせないが、それと同時に対策もまた必要だ。(基本的にこれまでの社会では、対策ばかりが立てられて予防が疎かにされる傾向にあったので、どうすれば予防できるのか、と盛んに議論される昨今の風潮は好ましく思います)


3138:【2021/08/07*依頼人は語る】
(未推敲)
 兄は去年の冬に事故で亡くなりました。よくある話と言えばそうなのかもしれませんが、兄のアカウント、未だに更新されていて。
 もちろん幽霊とかではなく、誰かが兄のアカウントにログインして更新しているだけだとは思うんです。ひょっとしたら、兄が生きていたころから中のひとが変わっていて、誰かほかの仲良いひとに任せていただけかもしれませんし。
 ただ、フォローしているので内容が流れてくるんですね。で、さいきん変だな、と思ったのが、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426283820023


3139:【2021/08/08*感情と行為】
いくひしさんは差別の塊なので、誰とも関わりたくない(物理的に、直接には、との但し書きがつくにせよ)。他者と関わりたくないので、たとえば外国人のひとがいてもとくに関わろうとしないし、どちらかと言えば距離を置いてしまう。それは何も、外国人だからではなく、誰に対してもこうなのだ。しかし、その外国人のひとからすれば人一倍距離を置くいくひしさんが、差別を態度に表している人間に見えることだろう。そう見られるだろうことを予測できるので、ますます対人関係から距離を置く。悪循環のようで、そうではない。誰だって他者を差別しているし、それを自覚しないように懸命に自己弁護の論理を築きあげている。誰だっていくひしさんと似たようなものなのに、じぶんは差別をしていない、と思いこんでいる。そういった集団のなかに交じっているだけで、いくひしさんは息苦しくてたまらない。あなたがあんなに怒り心頭に発している差別行為を、あなたはべつの属性を持つ人々に対してしているじゃないですか、と思ってしまうのだ。ただ、それを指摘したところで通じない。なぜなら誰もが、差別感情に大小があると思っているからだ。そしてじぶんは差別感情を抱いていないし、あっても小さな看過されてしかるべき差別感情だと見做している。しかし差別は差別だ。そこに貴賤はない。善悪はない。差別によって生じた事象に、善悪の判断が付与されるだけなのだ。まずはそこのところを認めたほうがよろしいのではないか、と思わないわけではない。人間は差別を以って、敵と味方、部外者と身内を区分けする。人間にはそもそも差別をする性質が備わっている。そうしたなかで、集団が任意の差別感情を、なんらかの仕組みを機能させるうえで組みこむと、その差別感情は集団のなかである方向性を持ってなめらかに漂い、大きな流れを形成する。この大きな流れこそが問題なのだ。個々人にある差別感情は、ほとんどどれも似たようなものだし、失くせるものではない。個々人の差別感情が強まったから、社会に漂う差別感情に根差した不公平さが際立つわけではないのだ。社会の仕組みや構造が、個々人にある任意の差別感情を掬いとり、社会に利を生む回路を機能させる円滑材として採用している。親を敬ったり、恩人に報いたり、師を崇めたり、アイドルに酔心することとてどれも差別感情の作用によるものだ(差別感情以外にも作用している要素はあるにせよ)。そこには歴然とした、それ以外の人々への差別感情が表れている。ただし、任意の人物と、その他大勢とのあいだに不平等さが際立たなければ、それらは好意的な所作として見做される。社会的に許容される。つまり、差別を行った際に、より下等と評価された者たちへの扱いが理不尽でなければ、それは差別とは見做されないのだ。しかし、そこには歴然とした差別の感情が働いている。さきにも述べたが、差別は人間に備わった基本的な性質だ。差別をするからこそ人間は社会を築き、特定の個人を特別に愛することができる。その他大勢との差異を以って、特別視することができる。これが差別でなくてなんなのか。しかしその結果に表れる作用が、社会的に有用ならば、それは差別として糾弾されることはない。だが果たして、本当に社会の利になっているのかは、それこそ俯瞰した視点で、より詳細な因果関係を探っていかねば分からない。一つ一つの差別感情に、大きな違いはない。個々にある種々相な差別感情のうち、任意の差別感情が社会構造のなかで回路を機能させる円滑材として掬いとられたとき、それは大きな流れとして顕現し、社会構造のなかで、明文化されない身分(扱い)の差として顕在する。機会の不平等や、待遇の差、或いは常識という名の理不尽そのものとして表出するのだ。繰り返すが、誰もが差別を行い、差別感情を抱いている。その結果に生じる損益の多寡によって、社会的に許容されるか否かに結びついている。あなたも私も差別をしている。まずはそのことを自覚し、どうすればそれによって追い詰められる人々をすくなくしていけるかを(自分自身のしあわせに繋げていけるのかを)、広く、多層的に、波及的な視野を以って考え抜いていくことが求められているのではないだろうか。社会を支えるさまざまな仕組みや構造のなかで、人間の持つ本能的な差別という性質がどのように働き、どんな流れを強化し、どんな利を生み、どんな理不尽な扱いを蔓延させているのか。まずは全体像であれ、差別と流れと回路の関係を、見詰め、見抜かなければ、同じことの繰り返しが、べつの差別感情をもとに反復されるだけではないだろうか。追い詰められた弱者は、鎧を脱ぎ去り、武器を持ち、べつの弱者を狩ることで強者の証を欲する。強者であることに価値を見出すような現代の「差別感情を利用した社会構造」を、まずはどうにかしていくほうが根本的な対策という意味では妥当なのではないだろうか。定かではないがゆえに、考えていくほかないのだろう。考えるためには、何をどう考えるべきかの指針がいる。基準がいる。そのための物の見方が、新たにいる。同じ見方ばかりではなく、いろいろな見方を試していくなかで、打開策に結びつく見方を発見できたならばさいわいだ。(個々人がじぶんの考えを発信することは、個々によって異なる物の見方を取り揃え、吟味するうえで欠かせない工程の一つであろう)(必ずしも正しい考えではなくてよいので、じぶんからはどう見えるのか、どう思うのかを、考えにまとめて人々が発信することは有益だと支持するものである)(打開策に結びつく見方をあなたが見つけたならば、あなたがそれを文章に興し、いつの日にかいくひしさんの目に触れる可能性を広げてくれたならば、うれしく思います)


3140:【2021/08/08*夜遊びは弾む】
(未推敲)
 深夜零時を回って帰宅の途につくことは珍しくないが、この道を行くのは久方ぶりのことだった。
 数日前に殺傷事件があり、いつもの道が通行止めだったため、致し方なく道を変えた。物騒な世の中になったものだ。しかし却ってこちらは近道だ。
 数年ぶりに通ったが、記憶にある景観よりも華やいで映った。道路が張りかえられ、新しい民家が増えたのか、左右に見える壁や庭が新しい。ときおり古い民家の壁や垣根が混じるので、モザイクの迷宮を歩いている気分にもなる。
 一本道だ。
 電灯が距離を置いて道のうねりを描いている。
 三つ先の電灯の下に何かが動いた。
 歩を止め、目を凝らす。
 どうやら人だ、と判るが、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426296904828


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参照:いくひ誌。【1251~1260】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054885623277

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